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建前社会から生まれた八百長問題

2011020901 国技である大相撲の八百長問題が大きな波紋となり、春場所も60数年ぶりに中止になるらしくマスコミでも大きく取り上げられている。

 これまで何度も八百長の噂が絶えなかった相撲界だが、ついに来たるべき時が訪れたというところだろうか。どこか検察の事件と似ているような気もするが、結局のところ、相撲もプロレスと同様、『ショービジネス』だったということが証明されたということなのだろう。
 もっとも、全てが八百長だとは思わないが、純粋な実力を競うのではなく“お客を楽しませる”とか“お金儲け”という目的を優先すれば八百長ビジネスが花開く可能性は常に存在していたということだろう。
 私は相撲には興味がないので、相撲が真剣勝負であろうとショービジネスであろうと個人的には全く困らないのだが、熱烈な相撲ファンにとっては裏切られた気持ちで一杯なのかもしれない。

 プロレスにしても相撲にしても、鍛え上げられた人間が本気で殴り合いなどを行えば、怪我人が続出し、時には死人も出るかもしれない。しかし毎度毎度、怪我人が出ていたのでは商売自体が成り立たなくなってしまう。そう考えれば、相撲もプロレスと同様、半分は見せ物としてのエンターテインメントビジネスであることはむしろ当然のことであると思われるし、そんな環境では八百長があったとしても何ら不思議ではないように思える。

 今回の八百長問題でもマスコミは「膿(うみ)を出さなければならない」とか「大相撲崩壊の危機」などと言って相撲界の改革をほのめかしてはいるが、政治と同様、その言葉自体がどこまで本気なのか疑った方がよいかもしれない。本気で膿を出すのであれば、相撲は怪我人続出の危険なスポーツになってしまい、国技館が古代ローマのコロッセオのような野蛮な闘技場と化してしまうかもしれない。力士が本気で張り手を決める度に客席に血の雨が降ることになってしまえば、もはや「国技」などとは言っていられなくなる。

 今朝のテレビで伝えられていたところによると、元々、相撲は野蛮なスポーツだと思われていたらしく、明治時代には一時、禁止されかけたこともあったらしい。当時の相撲取りはイメージアップのためにボランティアのようなことを行い、廃業の難を逃れたそうだが、現代の相撲取り達は一体どうやって失った信用を取り戻すつもりなのだろうか?

 4年前にも見習い力士へのリンチ問題(致死事件)が取り沙汰されたことがあるが、ああいった問題が起こるところを見ても、相撲界というものが厳格な徒弟社会であることは容易に想像がついてしまう。上下関係に厳格な融通の利かない閉ざされた社会であるがゆえに、あのような陰湿なリンチ問題が発生するわけだ。

 少し経済的な面も指摘しておくと、収入の面でも幕下は年収100万円以下で、別のアルバイトでもしないと生活できないような状態であるらしい。そんな経済状態であれば、別の副業(=八百長相撲)で収入を得ようと考える力士が出てくるのも、ある意味で止むを得ないのかもしれない。
 「それが実力社会だ」と言ってしまえばそれまでだが、本当に実力社会なのであれば、なぜ徒弟制度などという実力と関係のない時代遅れなシステムが頑に維持されているのかが解らない。

 相撲界で八百長が存在するのは、先に述べたような経済的な事情もあるだろうが、根本的な問題点はまた別にあるのではないかと思われる。相撲界で不祥事が相次ぐのは、力士の実力以外の価値に重きを置き、またそういったことが通用する社会であるところにこそ問題があると思える。その社会とはズバリ、建前に重きを置いた『建前社会』である。

 『建前社会』というのは、別に相撲界だけでなく、日本の官庁から大企業、はては家庭に至るまで、あらゆる所に根を張っている融通の利かない不自由な閉ざされた社会のことであり、またの名を『事勿れ主義社会』とも言う。

 物事の本質を考えようともせず、見せ掛けの体裁を取り繕うだけで済んでしまう歪んだ社会が齎す弊害は殊の外、大きい。
 例えば、かつての秋葉原無差別殺傷事件にしても、つい最近、事件の発生したホコテンの通行が解禁されたが、犯人が逮捕されているにも拘わらず、未だに《秋葉原は危険だ》と言ってパトロールを行っている。同じようなことを真似る愉快犯が出現する可能性は有るのかもしれないが、秋葉原の歩行者天国だけが危険というのはどう考えてもおかしい。危険なのは“犯罪者”であって“秋葉原”ではない。そして犯罪者が秋葉原で事件を起こさなければならない合理的な理由などはない。そんなことは誰にでも分かると思うのだが、建前のみを重んじる社会では、事件を起こした犯人(内面)だけはなく、事件が発生した場所(表面)も問題視される。しかし、こういったロジックは、犯人が捕まっていない場合であれば成り立つだろうが、犯人が逮捕されているのであれば本来は成り立たないはずである。

 心理的に犯罪現場を歩くのは恐いというのは理解できるし、犠牲者の慰霊の意味も込めて立ち入り禁止にするのも理解できる。しかし《秋葉原は危険だ》という表面的な誤った認識が罷り通ってしまう世の中というのはどこかおかしい。そのおかしい部分に目を向けずに思考を停止し、ただひたすら《秋葉原は危険だ》とするのが建前社会の姿である。

 少し話が相撲界から脱線してしまったが、今回の大相撲の八百長問題も最終的には事件の謝罪と一定期間の活動停止という体裁だけ取り繕って有耶無耶となってしまうような気がする。実際、名のある相撲取りにとっては春場所が中止になっても痛くも痒くもないらしい(固定の給料が支払われるため)。

 建前社会の象徴たる日本の年金制度や年功序列制度などのねずみ講制度と同様、今回の八百長事件も物事の本質は追求せずに「人の噂も七十五日」という諺通りに、ほとぼりが冷めればまた元通りの建前社会に戻ってしまうのかもしれない。
 「相撲を応援していたのに騙された。金輪際、相撲なんか観ないぞ!」と息巻いている人がいたとしても、半年もすればケロッと忘れてしまい、またテレビにかじり付いて八百長相撲を観戦しているのではないかと思う。
 それが建前を重んじる建前社会主義国家日本の良いところ(?)でもあり、悪いところでもあるが、建前社会を良しとしている国民が大多数を占めている限り、建前社会で勝ち越すのは相撲取りだということである。

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