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2011年3月

『3.11』 価値観の変化と常識のご破算

2011033001 かつてのアメリカ同時多発テロ事件によって「9.11」という言葉が生まれたように、今回の日本の大地震によっても「3.11」という言葉が生まれた。そのようなこともあってか、最近では「価値観が変化した」または「価値観が変化する」という言葉がよく聞かれるようになってきた。
 これまで固く信じられたきた常識が、ある事件によって一瞬にして崩壊するということはよくあることだが、日本の場合、ここ数年来、常識を覆すような事件が相次いでいる。

 例えば、潰れる心配が無いと思われてきたJALの経営破綻、正義の象徴(省庁)だと思われてきた検察という組織の信用失墜、伝統的な国技だと思われてきた大相撲界の八百長発覚など、細かく数え上げればキリがないほどだ。
 そして今回は、絶対に安全だと思われてきた原子力発電所の安全神話が一夜にして崩壊し、逆に危険な物の代名詞であるかのように取り扱われている。これまでは宇宙からの隕石北朝鮮からのミサイルでも直撃しない限り大丈夫だと思われていた原発が、まさか地震による津波で事故に発展するとは誰も予想だにしていなかったと思う。

 この影響から株式市場でも、最もリスクの少ない安定企業の1つと目されていた東京電力が、日本一の“ハイリスク銘柄”に突然変異してしまった。電力企業の株式は低リスクで安定的な配当が得られることで長期投資家には人気の銘柄だったが、もはや「電力株は資産株」という株式市場の常識すら崩壊してしまった感がある。
 
 今回の大地震によって、検察の隠蔽問題や大相撲の八百長問題がすっかり陰に隠れてしまった気もするが、こういった一連の事件の根元には同じ問題が隠れているように思えるのは私だけだろうか?

 「価値観が変化した」というのは一般的な意見だが、私の場合、個人的には「価値観が固定した」と思えたものがあった。それは、良くも悪くも「日本は社会主義国家だった」という認識である。今回の地震報道や事後対応策等を観るにつけ完全にそのことが証明されてしまったと言っても過言では無いと思う。

 地震が発生した後のテレビ番組といえば、民放は全チャンネルともに24時間体制で地震のニュースのみを伝えていた。別にそれが悪いことだとは思わないが、日本列島が地震報道1色に包まれた。それが意図的なものであったのかどうかは定かではないが、こういった戦時中のような報道体制からは、「日本国の一大事は全てお役人が統制し、国民を導かなければならない」というような、どこか威圧的な空気を感じたのは私だけではないと思う。

 しかし、お役人や政府がそのような手段を講じるまでもなく、大部分の国民は今回の地震について我が事のように感心を持った。たとえ、テレビで地震報道以外の番組が放送されていたとしても、多くの国民は自主的に地震の情報を入手することに努めたはずである。
 政府が国民を情報統制するまでもなく、国民の自由意志によって義援活動は進められたはずであり、実際にそうなっている。わざわざ政府が音頭を取るよりも、国民の自由意志に任せておいた方が事が早く進むのではないかとさえ思えた。
 
 普段、左翼等から目の敵とされているアメリカ軍も「トモダチ作戦」と称して大々的な支援活動を行っている。曲がりなりにも民主主義が根付いたアメリカの方が緊急時の対応は迅速で、いざという時には頼りになると思えたのは私だけだろうか?
 もし今回の地震がアメリカで発生していた場合、日本は現在のアメリカのような迅速な対応ができたかどうかは疑わしいと言わざるを得ない。おそらく経済的な援助をするのみで、対岸の火事として長い間動かずに放置することになっていたのではないかと思う。

 誰かに指示される(または問題が発覚する)まで動かない国と、国民の自由意志を尊重する国とでは、危機管理における対応速度にも大きな違いがあるということをまざまざと見せ付けられたような気がした。
 建前や形式だけを重んじ、いざという時にはほとんど役に立たないどころか、返って事態が悪化してしまうという危険性を常に内包している社会、それが日本が抱えた最大のリスクであるということが朧げながらに見えたような気がした。その危険性の正体こそが、社会主義の危険性であることは言うまでもない。

 「3.11」という言葉はアメリカ同時多発テロ事件に続く時代の転換点を示すキーワードとして今後も様々なところで使用されるのだろうと思う。
 日本は現在、大きな岐路に立たされており、単に「価値観が変化した」と言うだけでなく、実際に価値観を変化させなければいけない立場にあるのかもしれない。しかし、「3.11」が日本にとって良い方向に向かうターニングポイントであったと言われるようになるためには、是正しなければならない問題が山積み状態である。及ばずながら私も当ブログを通じて、その問題点を追及していきたいと思っている。

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ACジャパンの悲劇から考える震災復興策

2011032401 旧公共広告機構として知られるACジャパンのテレビCMが話題になっている。と言っても、良い意味で話題になっているのではなく、悪い意味で批判の対象になってしまっているようだ。
 今回の震災によって民間企業が営利目的のテレビコマーシャルを自粛していることによって、ここのところ、毎日のように「AC(エーシー)」「AC(エーシー) 」とCMが流れていたことは誰もがご承知の通りである。
 さすがに私も、この言葉の連発には何か洗脳されているような気分がして少し嫌気がさしていたのだが、震災の影響だから仕方がないと我慢していた。
 
 しかし世の中には正直(?)な人も多いらしく、「しつこい」「耳障りだ」という批判が相次いでいるらしい。あまりにも批判が多いためか、「AC(エーシー) 」という音声だけ省いた形でCMが流されるようになったみたいだが、音声のみのラジオはそういうわけにもいかないので、車の運転中にも何度もこの言葉を聞くことになる。
 
 ACジャパン側にとっても視聴者からのお門違いの批判はいい迷惑だろうと思う。しかし、いくら公共CMだとはいえ、同じCMばかり流されると、どこかサブリミナル的な意味で無意識のうちに嫌悪感を催す人は多いのではないかと思う。

 モラルの向上を目的とした公共CMというものは、たまに観るから心に響くのであって、こう何度も同じCMを半強制的に観せられたのでは、逆効果だと思う。実際に心が荒立って批判している人が大勢いることがそのことを如実に物語っている。中にはACジャパンに脅迫電話をかけている人もいるらしいので、その悪影響は無視できないものがある。
 海外から日本に初めて旅行に来ている人(あまり多くはないと思うが…)であれば、「日本のテレビ放送は全て国営だったのか…?」と不思議に思っているかもしれない。
 
 震災の影響で企業がCMを自粛するという気持ちは理解できるし、テレビ局も気を遣って公共CMを流しているのだと思うが、何事も行き過ぎると反感を買ってしまうという良い例かもしれない。テレビ局側も徐々に普段のCMに切り替えていくつもりなのだろうと思われるが、視聴者からの苦情も続出しているのだから、この際、現在のCM体制を大きく見直してみるのも1つの手かもしれない。
 
 現在のように震災の影響でテレビを観る人が大幅に増加している時には、テレビCM料金を大幅に上げて、そのCM枠をスポンサー企業に買ってもらい、CM料金(の何割か)を震災の復興費として寄付すればいいのではないかと思う。そうすれば、営利目的のCMであろうがギャンブル系のCMであろうが誰も文句は言わないだろう。企業側にとっても、多くの人に宣伝できるし、企業のイメージアップにも繋がるので一挙両得だ。CMの最後に『このCM料金の一部は被災地への義援金として使用されます』と入れれば特に問題は発生しないと思う。
 
 こういったことを書いても批判する人が出てくるのかもしれないが、震災の復興を1日でも早めるためには、何もかもを自粛するよりも、大々的にお金やモノが動くように切り換えた方が良いこともある。感情的には受け入れられなくても、それぐらいの融通性も持たないと、経済も萎縮し、肝心の震災復興も遅れることになる。
 被災地や被災者を救うためにこそ、自粛していてはいけない部分があることにも気を向けなければいけない。被災地で必要な物(水や食料など)については極力買い溜めなどをせずに被災地に優先的に回すべきだが、被災地に必要のない物は、どんどん買って萎縮ムードを解放した方が良いと思う。

 企業の営利目的であれイメージアップ目的であれ、その費用の一部が正しく被災地に向かうのであれば、この際、目を瞑って受け入れるべきだ。良いと思って行っていること(CMの自粛)が、逆に社会を悪くしてしまっている(震災復興が遅れる)ということも充分に有り得るのである。

 今回の震災によって、当分の間、日本の景気は悪くなるというようなニュースがあちこちで流されているが、実際にこの自粛ムードが必要以上に長引くと、それだけ日本経済のダメージも大きくなる。しかし、こういう時にこそ、普段絞まっている財布の紐を緩めて消費活動を行い、震災によってマイナスとなってしまった分を補うように努めるべきかもしれない。おそらくそういった行動こそが本当の意味での国民全員参加型の震災復興支援策になるはずであり、それができれば日本は、世界からお世辞ではなく本当に賞賛されることになるはずである。そして、日本には幸いにもそれを可能にできるだけの余剰資金が存在している。

 空気に支配された“自粛”を選ぶか、間接的な“支援”を選ぶかによって、結果は大きく変わってしまう。寄付や義援金だけでなく“消費すること”もまた、間接的な復興支援に繋がるのだということを頭の片隅にでも置いておくことをオススメする。

 一応、お断りしておくと、私は震災時に「浮かれて騒げ」と言っているわけではない。震災時であるからこそ普段以上に冷静に物事に対処することが必要だと述べている。「何事も自粛しなければいけない」と思い込むことは、既に“冷静さを失った状態”であるかもしれないという疑問をこそ抱くべきだと述べている。冷静に物事を考えることができる人であれば、理解していただけると思う。

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『節電』or『計画停電』or『料金値上げ』?

2011032101_2 東京電力の『計画停電』が日本経済に打撃を与えるということで問題視されている。本来、充分な電気を使用できなければ企業活動は成り立たないので、これは当たり前の話であるのだが、では他にどういう手段があるのかというと、『節電』という声が圧倒的に多いようだ。そしてこの節電行為を促すために『電気料金を値上げ』すればよいという意見も見受けられる。
 
 まず『節電』の方は、政府が節電の呼びかけを行うことによって、どれだけの効果があるのかということを考える必要がある。一般家庭であれば節電に励む良心的な人も出てくるだろうが、意識的に節電できるものはたかがしれている。現在は「オール電化」というものが流行りでもあるので、空調や調理、給湯なども全て電気だけで賄っている家庭も多いだろうから、余計に節電するのは難しいという側面がある。
 節電するものと言えば、テレビを観ないとか、音楽は聴かないとか、パソコンは使わないとか、電話をしないとか、それほど電気代を必要としないものばかりになってしまう。
 「節電」「節電」と言っても、洗濯機を使用せずに手洗いで洗濯している人が何人いるだろうか? 電気シェーバーやヘアードライヤーを使用せずに会社に出勤している人がどれだけいるだろうか? 自発的な節電といっても、せいぜい、部屋の電気を暗くするとか、夜は早く寝るというだけの節電しか行っていない人が大半だろうと思う。
 それに、今回の地震のニュース速報などが気になって1日中テレビは付けっぱなしという家庭も多いはずだから、節電するどころか逆に電気使用料は上がっているような状態だ。それにテレビを観ていなければ「節電してください」というメッセージすらダイレクトに届かない(新聞では届くが…)。
 世間には緊急の情報を必要とする巨大な情報需要が発生しているわけだが、皮肉なことにその情報を得るためにはどうしても電気が必要になる。ラジオであれば電池で動くが、テレビやパソコンは電気無しでは動かない。
 
 現在はエコ家電ブームでもあり、元々電気使用量も昔に比べて大幅に下がっていると思われるので、一般家庭の自発的な節電行為というものがどれだけの役に立つかは疑わしいと言わざるを得ない。太陽光発電や自家発電のできる家庭ならいざしらず、一般家庭では節電するにも限りがあるのではないかと思う。
 
 では企業の方はどうかというと、企業が行える節電も直接に業務とは関係のないものに限られてしまう。パソコンやコピー機やプリンターなどを極力使用せずに仕事を行えと言っても無理がある。企業側もせいぜい照明を節電するぐらいしか期待できないかもしれない。
 
 『電気料金の値上げ』にしても上記と同じ理由で、それほど効果が上がるとは思えない。電気料金は基本的に“後払い”であるので、「電気料金が上がります」と言われても、すぐにはピンとこない人は多いと思う。実際、電気を使用している最中に電気料金を気にしている人はそれほどいないと思われるので、請求書が届いて初めて「高い…」ということになってしまうはずだ。これは携帯電話の利用料金と同じようなもので、よほど高い料金設定にしない限り、節電効果はあまり見込めない。
 
 そういった理由から、電気料金の値上げによる節電効果は、少なくとも電気料金を数倍以上にしないと難しいだろうと思う。しかし絶対的に節電できない電気製品(例えば冷蔵庫)も有るため、いくら緊急時とはいえ、5倍も10倍も電気料金を上げると苦情が殺到することになる可能性も否定できない。
 
 そもそも不運な事故とはいえ、事故の原因を作った当事者である企業が「電気代を上げます」などと言えば、日本社会では“盗人猛々しい”ということになり、「事故を起こした張本人が料金を上げるとは何事だ!」とか、「なんて太々しい企業だ!」ということになってしまい、違う意味でのパニックを誘発してしまいかねない。
 
 電気料金を上げるというのは経済合理的な1つの手段のように見えるが、常識的にはこんな手段は有り得ないと考えた方がいいかもしれない。
 1つ付け加えておくと、人為的に料金を上げるというのは市場原理的な手段というより、社会主義的な手段である。独占企業が強制的に料金を固定するという行為は、市場原理主義者が嫌う計画経済寄りの手段である。需要の高いものは自然的に料金が上がるというのが市場原理であり、無理矢理に料金を上げるのは市場原理を無視した社会主義政策である。競争原理も機能していない電力業界では元々、市場原理は正しく機能していないので、人為的に料金を上げたところで市場原理が機能したということにはならず、実際に機能しないと思う。
 例えば、私の住んでいる地域でも現在は水などのペットボトルは売り切れ状態(流通していない)になっている。こういった需給が逼迫した物の値段が業者を通じて上がるのは市場原理だと言えるが、業者が存在しない電気という物には、市場法則は適用できないということだ。
 
 そうなってくると、最終的には『計画停電』という手段を取らざるを得ないのかもしれない。と言っても、『計画停電』を行うことが良いと言っているわけではない。『計画停電』というのも、その名が示す通り、完全な計画経済政策(社会主義政策)である。人為的に電気使用量をコントロールすれば、必ずどこかで大きな歪みが発生することになる。
 
 ではどうすればいいのかというと、残念ながら現状では絶対的に正しい答えなどはないと思う。今回の事故の場合、試行錯誤を繰り返しながら、対応していくしか方法はないと思える。なぜなら、直さなければならない問題は、事故が発生する以前の問題であるからだ。その問題点とは、“電気を供給する企業が独占企業であった”ということに尽きると思う。
 その地域を管轄する電力会社1社に依存してきた競争のない社会主義的な電力供給システム自体に問題があったわけで、その問題点を改善しない限り、また災害時には同じようなトラブルが発生するのではないかと思う。東京電力がまともに電気を供給することができないのであれば、他の会社が代わりに電力を供給すればいいだけのことだ。しかし、そういった企業が無いということが根本的な問題なのだ。結果論的に事後の対策を練る以前に、事前にそういったリスク回避の根回しを行ってこなかったということが最大の問題なのである。
 
 「原発のような危険物を取り扱える民間企業はない」というような反論が返ってきそうだが、東京電力自体も60万人以上の株主を抱える民間の上場企業である。
 かつての国鉄や電電公社と同じように、競争のない(半官半民の)独占企業だったことが災いしたというのが、今回の問題の本質だろうと思う。現状のままでは、どう転んでも社会主義的な手段で対処するしかないため、何のトラブルもなくスムーズに問題が解決することは難しいと言わざるを得ないと思う。これもまた事故が発生して初めて表面化した日本社会の反省点だと言えるのかもしれない。

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「天罰のような地震」と原子力発電の今後

2011031701 東北関東大震災の被害状況の方は未だほとんど把握できておらず、収束する兆しも全く見えないが、原発騒ぎの方だけはようやく落ち着きを取り戻しそう(最悪の事態は避けられそう)な雲行きだ。地震の後、テレビ出演の評論家はもとより、ネット上でも様々なブロガーが今回の地震問題を取り上げていたようで、未だに地震関連の記事を書いていないブロガーは私ぐらいのものかもしれない。

 私自身は特に地震で被災したわけでもなかったのだが、仕事が多忙なことと、騒ぎの最中に被災者の助けにもならない記事を書いてもあまり意味が無いとの判断で敢えて自粛(静観)していた。

 そんな中、石原都知事が今回の大震災を「天罰」だと述べて注目を集めていた。震源が霞ヶ関や永田町であれば「天罰」と言えなくもないだろうが、東北の人に対して「天罰」は少し言い過ぎではないかと思う。
 “人智を超えた地震”という意味では、まさしく「天罰のような地震」だったと言えるのかもしれないが、公人が公衆の面前で「天罰」と言い切ってしまうのはどうかと思う。たとえそれが真実であったのだとしても、都知事選を控えた身には明らかなマイナス発言であったことは否めない。
 
 その想定外の大地震によって、『絶対に安全』と半ば神話化されていた日本の原子力発電所の常識も粉々に破壊されてしまった。想定外の巨大津波が招いた悲劇とはいえ、杜撰な管理体制と後手に回った役人のような対応ぶりには幻滅してしまった人も多いかもしれない。
 元々、7m以上の津波は想定していなかった(防波堤も7m)ということらしいが、放射能という危険物を取り扱っている世界的な大企業であるなら、本当に「絶対に安全」と言えるだけの過剰なまでの二重三重の防御策を用意しておくべきだったのかもしれない。
 この世の中に「絶対に安全」というようなものは有り得ないが、原子力発電所ほど想定外の事態に対応することが求められる場所はないわけだから、「想定外だった」というような言い訳は通用しない。

 『絶対に安全』だとされていた日本の原子力発電所が『絶対に安全ではない』というメッセージを世界に発してしまった事実は殊の外大きい。原子炉を設計製造できる企業は世界にも数社しかないということで、今後、日本を代表する花形技術になると目されていた矢先の出来事であっただけに、その落胆ぶりは想像を絶するものがある。

 東京電力の株価も増資前の3分の1まで下落してしまったが、このままいくと日本国はその株価下落以上の将来的損失を被ることになるかもしれない。世界的な原子力需要から注目されていた日立、東芝、三菱も原子炉製造から撤退を余儀無くされるというような厳しい意見も出ている。実際に日立製作所で原子炉設計を行っていたという大前研一氏もそのような悲観的な推測を述べているようだ。

 しかし今回の地震で表面化した問題点は、原子炉 の“設計技術”自体に問題があったというより、原子炉 の“防御技術”が甘かったという問題であるので、その点を大幅に改善することが可能であるなら、まだ可能性が無くなったとは言えないのではないかと思う。私のような原子力には門外漢の人間が言うことではないのかもしれないが、今回の惨事によって大地震を教訓とするチャンスまで剥ぎ取られ、日本の技術力が地に堕とされてしまうのはあまりにも惜しいと思う。

 原子力発電に対するマスコミの非難が現状のまま続くと仮定すれば、「地震を起こしたのは東京電力だ」というような毎度の魔女狩り世論が形成される可能性があるが、地震を起こしたのは東京電力ではない。こんな当たり前のことを言うのも気恥ずかしいが、その当たり前のことが時に見失われてしまうのが日本社会の悪いところでもある。
 もちろん、東京電力にも大きな責任があることは言うまでもないが、行き過ぎた企業批判によって国益が損なわれるようなことがあっては本末転倒であり、自分で自分の首を絞める結果になってしまいかねないということも併せて考える必要がある。
 多くの被災者は地震と津波によって被災したのであって、放射能によって被災したのではないという基本的事実を忘れてはいけない。放射能が人災で漏れた(と思えるフシもあるが)のであれば、東京電力の責任だが、天災によって漏れたのであれば、東京電力だけの責任ではない。
 
 しかし今回の東京電力問題は、政治家問題と実によく似ている。多くの国民は自分達の生活に影響を与える政治を自ら深く考えずに政治家に丸投げしてきた。同じように、多くの国民の生活に直結している原子力というものについても深く考えずに電力会社に丸投げしてきた。その証拠に今回の事件で初めて原子炉の構造を知ったという人も多いはずだ。恥ずかしながら私もその1人だが、そういった国民の丸投げ体質が電力会社の危機管理能力の低下を招いたと言っても決して言い過ぎではないだろう。
 悲劇的な大震災から学ぶべき反省点は多く、天罰で有る無いに拘らず自省の念ぐらいは持ちたいものである。

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『節税対策』という見えない景気刺激策

2011031001 世間では毎年この時期(3月)は、師走に次いで慌ただしい雰囲気に包まれる。3月は多くの企業の決算期と重なるため、企業の節税対策もちょうどこの時期(?)にピークを迎える。

 国税庁の発表によれば、日本では7割以上の企業が赤字と報告されており、それが17年間も続いているということになっているが、実質は黒字でも節税対策で赤字にしている企業はかなりの数に上ると思われる。
 法人の場合、税引前の利益に対してのみ課税されるため、多くの企業は税金の支払いを軽減する手段を講じており、またその権限を与えられている。それが言わずと知れた「節税」というものである。
 
 この時期、多くの企業はなるべく税金を支払わないようにするために設備投資などを行って、せっせと税引前利益を下げる(または赤字にする)努力をしており、今頃は最後の詰めに入っている企業も多いと思う。「無駄に税金を支払うぐらいなら、別のことにお金を使用した方がましだ」というわけだ。
 私のような真面目に税金を納めているサラリーマンには節税も脱税も無縁の話だが、今回はこの節税について少し述べてみようと思う。

 企業が脱税行為を行うことは禁止されており法的にも処罰の対象となるが、節税対策を行うことは、もはや日本の常識であり、法的にも問題とされない。脱税は違法だが、節税は合法であるので、誰も節税行為を責めることはできない。…と言っても別に節税行為を取り立てて責めようとは思わない。多くの企業が節税行為を行うことによって日本の法人税収が大幅に落ちているだろうことは想像に難くないが、複眼的な視点で観ると、節税行為が経済に対して全てマイナスに働くというわけではないからだ。

 まず、脱税と節税の大きな違いは、利益が出たお金を“使う”か“使わない”かという違いがある。無論、使わない方が脱税である。脱税の場合は利益が出たことを隠す(誤魔化す)わけだから、基本的に表立ったお金は動かない。しかし、節税の場合は、何にお金を使用したのかということを証明する証拠(領収証など)が必要となるため、少なくとも実際に表立ったお金を使わなければならない。

 例えば、ある企業で1億円の税引前利益が出た場合、そこから単純に40%の法人税(4000万円)が課されると、税引後の純利益は6000万円ということになる。(ここでは話の都合上、各種の優遇税制は考えないものとする)
 しかし税金を課される前に半分の5000万円を使用してしまえば、税金は(5000万円×40%=)2000万円となり、純利益は3000万円ということになる。
 
 上場企業であれば、利益の多寡が株価にも影響する可能性が有るため、姑息な節税を行って利益を下げてしまうと逆に企業価値が下がるリスクがあるが、非上場企業であれば、税引後の純利益が半分になったとしても、既に従業員に対する給料や様々な経費等は支払った後のことなので、それほど問題にならない。来期の経営見通しが悪くないとの予測が立てば、お金を借りている取引銀行に対する信用問題さえクリアできれば利益が出なかった(=お金を使用してしまった)ということにしてしまっても特に問題はない。と言うより、節税しなければ損ということになってしまう。

 しかし、企業が投資するべきものがあれば、節税対策として物品等を購入するのは極めて合理的な手段であると言える。あるいは、下請け会社に対して実際に仕事を発注するという節税対策もある。この場合は、「無駄に税金を支払うぐらいなら、仕事を発注した方がましだ」というわけだが、下請け会社にとっては「節税さまさま」で、『節税特需』というのは喜ばしいことである。本来、法人税として国に召し上げられていたはずのお金の一部が下請け会社に回ってくるわけだから、法人税収として無駄なことに使用されるよりもよっぽど意味のある利益の再分配だと言えるかもしれない。

 下請け会社でなくとも、企業が設備投資という名目で大きな買い物をすれば、その分は市場にお金が供給されることになるので、消費不況に喘いでいる様々な業界が潤うことにも繋がる。皮肉なことに“税金を支払いたくない”というマイナス感情が消費意欲を促し、“市場にお金を供給する”というプラス行動に転じているわけだ。
 そういったプラス面を考慮すれば、実は企業の節税対策というものは、形を変えた景気刺激策でもあるということが分かる。
 法人税としてそのまま召し上げられるのが良いのか、それとも、法人税としてではなく、様々な業界に利益の再分配を行うのが良いのか?と問えば、おそらく後者の方が景気刺激策としては有効であるはずだ。

 法人税収が激減していることを絶対的に悲観視するエコノミストもいるが、実際は企業の節税対策によって、その減少分が水面下で再分配されているとすれば、また違った見方もできると思う。“法人税収の減少”=「絶対的な不況」とは単純には言い切れない側面があるということも併せて考える必要がある。7割もの企業が正真正銘の赤字企業であるなら、日本経済はもっと深刻な不況に陥っているはずである。

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『クイズ$ミリオネア』的カンニングと学歴社会の未来

2011030301 京都大学を初め4つの大学の入試問題が試験中にインターネットの質問サイト(ヤフー知恵袋)に書き込まれてしまったということで、世間では「前代未聞の事態だ」と騒がれている。犯人の予備校生は逮捕されたらしいが、今回の事件をインターネットによるネット犯罪だとする論調も見受けられる。

 確かに今まで起こったことがない事件という意味では、前代未聞の事件だと言えるのかもしれないが、冷静に考えるとこれは単なる新手のカンニング事件であり、インターネットがどうのこうのというような問題ではないのではないかと思える。俗な例えで言うなら、他人の知恵を拝借してクイズに答える『クイズ$ミリオネア』のライフライン手段(テレフォン)をカンニングに利用したというだけのことかもしれない。
 大学側にとっては明らかな業務妨害と言えるのかもしれないが、ネット犯罪とまで言うのは少しオーバーな気がする。一般人が行えば犯罪になるのかもしれないが、受験生が個人的な理由(入試に合格すること)で行ったのであればカンニングである。

 昔、『ザ・カンニング』という映画がフランスで製作され、カンニングというものが日本でも話題になったことがある。その映画で描かれている通り、これまでの「カンニング」といえば、暗記するべき言葉や数式を紙などに書いて、服やズボンや筆記用具などにそのカンニングペーパーを忍ばせておくというようなものだった。そういったこれまでのアナログ的なカンニング手法が、デジタル社会風に置き換わったというのが今回の事件の本質だろうと思う。

 現代の入学試験というものは、試験の答えを頭に記憶することが前提であり、どれだけの試験問題とその解答を暗記しているかということが競われる。無論、思考しなければ解けない問題もあるとはいえ、基本的には記憶する(または試験パターンを覚える)という能力が第一に求められる。
 しかし、インターネット社会の発展とともに、“記憶する”という能力自体を疑問視する声も高まってきた。これまでのアナログ社会では、仕事をしていくにしても、自分自身がある程度の知識(一般知識と専門知識)を有していないと迅速な判断ができず非効率であるという理由もあって、どれだけの知識を蓄えているかということが求められたわけだが、現代ではインターネットから生まれた集合知を上手く利用すれば即座に解答が導き出せるようになってしまった。

 例えば、コンピューターがトラブった時などは、自分が覚えた少しばかりの専門知識では解決できなくても、インターネットの集合知を利用すれば、すぐさま解決する時がある。私も実際に何度も経験したが、これは非常な時間の節約になる。

 現代のような高度情報化社会では、毎日、洪水のような様々な情報が飛び交い、新たな用語も引っ切り無しに創り出されている。その膨大な知識を余すことなく1人の人間が吸収し続けていくことは残念ながら不可能である。
 ゆえに、生活していく上で直接関係のない雑多な知識等の記憶は、今後、インターネットの集合知に依存していく社会になるだろうことは容易に想像がつく。
 実際、現代人の多くは、分からないことがあれば、グーグル等の検索サイトを利用して調べることが日常茶飯事になっており、わざわざ自らの記憶力に頼らなくても、検索すれば1秒で答えが見つかるような便利な社会に生きている。

 そのような便利になった社会で、なんでもかんでもネットで検索して知ろうとする若者の行動をとらえて、「最近の若者は物事を考えないようになった」という意見をよく耳にするが、こういった意見も1度、疑ってみた方がよいかもしれない。

 “ネット検索する”という行為は“覚えること”を放棄した姿で有り得たとしても、“考えること”を放棄した姿とは言えない。ネットで検索して知り得る情報は、基本的には“記憶できる情報”だけであり、考えなければ解答を導き出せない情報まで即座に出てくるわけではない。答えの無い問題のヒントは得ることができるかもしれないが、ズバリ解答を得られるというわけでもない。
 そう考えると、先述の言葉はこう言うのが正しいかもしれない。
 
 「最近の若者は物事を覚えないようになった
 
 “考えないようになった”のではなく、“覚えないようになった”と言った方がピッタリとくる。それはちょうど、算盤や電卓が出れば暗算というものがあまり行われなくなったというのと同じようなものである。計算することを電卓に依存している社会では暗算が行われなくなったとしても何の不思議もない。人間の頭で暗算するよりも電卓で計算した方が正確であり効率的であるのだから仕方がない。
 日々、電卓をたたいている営業マンに対して「現代の営業マンは暗算を行わなくなった」と嘆いたところで意味がないというわけだ。
 
 同じように、記憶することにおいて人間よりもコンピューターの方が正確であり効率的であるからこそ人々は記憶するという能力をコンピューターに依存している。それは合理的な判断を伴った行動であり、別に覚えることを放棄したわけでもなければ、考えることを放棄したわけでもない。

 確かに自分の頭で覚えるに越したことはないのだが、先にも述べた通り、それには限界があるということである。
 一応お断りしておくと、ここで言う「限界」というのは、記憶容量のことだけではなく、時間も含まれている。これからの世の中は、情報を上手く取捨選択していかないと膨大な時間の無駄になってしまうという意味での「限界」だ。無駄な知識を覚えることが悪いと言っているのではなく、無駄な時間を過ごすことがマイナスになるという意味なので誤解のないように。

 今までのアナログ社会では、「生き字引」と形容される博識の人が重宝されたが、これからの高度情報化社会では「生き字引」という言葉は徐々にコンピューター(インターネット)にお株を奪われることになるはずである。専門分野における博学と言われる人はこれからも出てくるだろうが、雑多な情報を蓄えることにおいては、集合知であるインターネットの独擅場となるはずである。
 
 結論として言えることは、これからの情報化社会は、覚える(記憶する)能力よりも、考える(思考する)能力が重宝される時代になるということである。なぜなら、記憶する能力において、人間はコンピューターには敵わないからだ。しかし思考する能力でなら(今のところ)コンピューターは人間に敵わない。コンピューターにできる能力を磨くよりも、コンピューターにできない能力を磨くことの方が重要になるというのは至極当然の話である。

 『クイズ$ミリオネア』的カンニングが行われた背景には、質問すれば必ず答えが返ってくるという集合知社会のプロトタイプの進歩がある。インターネット以前のパソコン通信の時代から、こういったシステムは既に存在していたが、限られた入学試験の時間内にこのような芸当が行えるようになったということ自体が、集合知社会がまた1歩、完成の域に近付いたことを意味しており、同時に、答えのある問題を解くことの価値が低くなってきていることを示している。
 現代の暗記重視の学歴社会というものも、遠からず変更を余儀無くされるに違いない。(希望的観測)

 (注意)カンニングを勧めているわけではないので誤解のないように。

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