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2011年4月

社会主義は恐ろしい【ホリエモン収監編】

2011042701 昨日、昼休みにテレビを観ていると、“ホリエモン収監”との緊急速報がテロップとして流れ、ついにこの日を迎えてしまったか…と暗澹たる気分になってしまった。
 東京地検によるライブドア強制捜査事件から早5年が経過するが、その間、検察に対して徹底抗戦を続けてきたホリエモンの努力の甲斐なく、上告はあっさりと棄却され、敢え無く収監決定という運びになってしまった。

 最近では、検察の捕物帳を疑問視する声も多く、厚生労働省の村木さんに対する検察のデッチ上げ事件などでも、その闇(病み)は徐々に白日の下に晒されつつあったが、残念ながらホリエモンの収監までには間に合わなかったようだ。
 その検察のデッチ上げ事件の前田被告が懲役1年6ヶ月で、ホリエモンが懲役2年6ヶ月というもの納得がいかない。

 ホリエモンはブログからメルマガに移行し、定期購読者を1万人以上獲得したことでも話題を集めていた。こういった行動も刑務所に入ることを阻止するための1つの戦法(獄中ではメルマガを発信できないという理由で執行猶予となる)であると思っていたが、残念ながらこの国の裁判官達には通用しなかったようである。

 田原総一朗氏の本などにも書かれていたが、財界では「ホリエモンを逮捕したことで景気が悪くなった」ということは、もはや既成事実として認識されており、ホリエモンが粉飾決算を意図的に行ったなどという妄想を未だに信じているのは、余程の情報弱者(新聞記事とテレビ報道を鵜呑みにしているような人々)ぐらいのものだと思われる。
 この記事を読んで批判してくるような人がいたとすれば、その人物は紛れもなく情報弱者だと思われるので、批判する前に自らが情報弱者になっていないかどうかを一度、疑ってみることをオススメする。

 司法の世界では古くから言い伝えられている鉄則がある。その鉄則とは『十人の真犯人を逃すとも一人の無辜(むこ)を罰してはならない』というもので、その言葉の通り、どれだけの罪人を見逃したとしても、無実の人間を罰すること以上の罪はないという意味である。

 ここでは敢えて細かな事件説明はしないが、ライブドア事件の場合、ホリエモンはどう考えても無罪が妥当だと思う。法的にも、論理的にも、常識的にも、理性を主体として理詰めで思考すれば、そういう結論にならざるを得ない。
 逆に、理性ではなく感情で判断すれば、今回のような判断になってしまうのかもしれない。しかし、理性よりも感情を優先する司法というのは、独裁国家の司法であり、民主主義国家の司法では有り得ない

 今回の最高裁の一方的な上告棄却にしても被告の言い分に耳を傾けようともしない姿勢が感じられ、検察の面子を守ることの方がホリエモン個人の人権よりも重大だと言わんばかりの判決だと思える。
 “個人の人権”よりも“国家の体裁”に重きを置く社会のことを「社会主義国家」と呼ぶのであれば、日本の司法は紛れもなく社会主義司法だと言える。
 
 ホリエモンを有罪で収監するのであれば、現在、槍玉に挙げられている東京電力の社長も有罪として収監されなければ辻褄が合わない。無論、東京電力の社長がそこまでの重罪を犯したとは思わないが、それぐらい理不尽で一方的な判決だということである。
 ホリエモンが社会に対して詫びる罪があるとすれば、上場企業の経営者でありながら、日本社会の真の姿(権力者達の本性)を理解していなかったということぐらいだろうと思う。そんな理由で結果論的にホリエモンが悪いということにするのは少々無理があるが、純粋で無鉄砲であったがために、多くの株主を巻き込んで被害を拡大してしまったと言うのであれば、まだ少しは理解する余地はある。しかしながら、当然そんな理由で有罪になったわけではなく、あくまでも粉飾を意図的に行ったということにしたいらしい。

 歴史上の多くの改革者達は、純粋であり無鉄砲な行動力が有ったからこそ社会を改革するという偉業を為し遂げることができたわけで、そう考えれば、やはりホリエモンに非があったとは思えない。
 そもそも改革が必要だと思われる歪んだ社会になっていること自体が問題なのであって、その社会を是正しようとする人間を「悪」と判断する社会の方がおかしいと思う。

 昔から大人物は、次の3つを経験すると言われている。

 1、大病経験
 2、離婚経験
 3、入牢経験

 ホリエモンの場合は、早くも2つを経験したことになる。
 楽観主義者のホリエモンのことだから、今回の収監も刑期が終了して出てくれば、笑い話として語ってくれると思われるが、冤罪で刑務所を経験した希有な人物として、出所後の更なる活躍を期待したいと思う。

 しかし、無辜の民を罰し、その罪を恥じない日本社会には天罰が下されるのではないかと心配になる。石原都知事の言ではないが、本当の天罰が下されないことを祈るばかりだ。
 
【関連記事】
 絶対的に腐敗した権力者達
 『若者不幸社会』と『ライブドア事件』
 社会主義は恐ろしい【病編】

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震災復興税は『災いに乗じて悪をなす』政策

2011042401_2 東日本大震災での死亡者数は、アメリカ同時多発テロ事件の死者数2973人、阪神淡路大震災の死者数6434人をはるかに上回り、このままいくと3万人を超えそうな雲行きだ。
 
 今回の地震による大津波の跡地は、まるでどこかの国からミサイル攻撃でもされたかのような戦地さながらの光景がテレビ画面に映されている。テロ事件による死亡者が最大のものでも数千人だと考えると、3万人もの死亡者が出る事件というのは、テロを超えた戦争が起こったようなものだとも言える。
 
 「1000年に1度」とも言われている大地震による死亡者数が3万人に達することは大きな問題に違いないが、日本では大震災とは別に毎年3万人もの人が自殺している。
 死亡者数だけで考えれば、日本は毎年、大震災に見舞われているのと同じだけの人命が(自殺により)失われていることになるわけだが、この大問題はあまりクローズアップされない。1000年に1度の珍しい事件にはニュースとしての報道価値があり、毎年の出来事にはニュースにする報道価値がないというのもおかしな話である。
 
 世界に目を向ければ、毎年100万人以上の人が自殺している。そのうちの3万人ということは約3%が日本人ということになる。世界の総人口が約70億人、日本が1億2000万人と考えると、日本の人口パーセンテージは、1.7%程であるので、日本の自殺者数は異常に多いことになる。
 世界第3位の経済大国の自殺者率が世界第5位というのは日本の七不思議の1つ(?)であるとも言えるが、この謎を解明することは日本社会のタブーとでも言わんばかりに、マスコミではほとんど取り上げられない。

 日本は世界一の少子高齢化先進国である。人口減少社会が経済に悪影響を与えることが懸念されている国で、毎年3万人もの人が自殺しているということは実に大きな問題であり、まさしく大震災並みの出来事だとも言える。
 
 自殺の話はひとまず於いておくとして、現在、震災復興を目的とした震災復興税として、消費税の増税が取り沙汰されている。これまで世論の反発を恐れて消費税の増税に躊躇してきた民主党も、この機に乗じて、念願の消費税増税を一時的にでも行おうと考えているようだ。官僚からの入れ知恵かどうかは定かではないが、国民の同情心を利用して増税に踏み切ろうという姿勢(下心)が見え見えだ。
 
 確かに震災で被害を被った人には何らかの補助が為されるべきだが、その資金を増税で賄うというのは筋違いである。増税で賄うぐらいなら、お金を刷ってバラまいた方がよっほどマシだ。
 「そんなことをすればインフレになる」というような言葉が返ってきそうだが、お金がまともに動いていない国で多少のお金をバラまいてもインフレにはならない。お金がバラまかれることによって眠っていたお金が市場に大量に出てくればインフレになるかもしれないが…。
 
 そもそも税収などというものは、働く人や高給な人が増えれば自然に上がるものである。そういった社会にするにはどうすればいのかということを考えて実行するのが政治家の役割だ。今回の震災を例にとれば、破壊された町を地震にビクともしない未来都市として根本的に創り変えるというぐらいのビジョンが必要だ。そういった都市を創るために、大々的な投資を行い雇用を創出すれば、増税することなく震災復興が行えるかもしれない。被災地にそんなことはできないというのであれば、場所はどこでもいい。あるいは大津波に耐えれる大防波堤込みで全国の湾岸都市を再開発すればいい。
 
 震災前に民主党が消費税の増税を行えなかったのは、ポピュリズム政治であるがゆえに国民の反発を恐れたからだ。増税を行う前に政治家が本来行わなければならない政治的社会改革を行わずに税金に頼るという姿勢が容認されずに支持率が激減したはずだ。それが震災が発生したからといって、簡単に容認されるようになるものなのだろうか?
 政治改革も公務員改革もろくに行わずに、「震災が発生したので復興のために消費税を上げなければならない」というような主張が通るのであれば、震災が発生していなければ消費税を上げる必要性はなかったということになってしまう。
 
 「他の税金はともかく消費税だけは上げる必要がある」と述べているエコノミストは数多いが、残念ながら、消費税を上げても何の解決にもならないどころか、返って消費は落ち込み、思ったほど税収も増えず、当然、震災の復興費も満足に捻出できずに、日本経済は更なる奈落の闇に足を踏み入れることになってしまうだろう。
 
 震災復興で大事なことは、「災いを転じて福となす」政策であり、復興活動自体が経済を活性化させる手段でなければならない。まともな思考ができる人間であれば、消費税を上げて景気が良くなるなどということは有り得ない妄想だということが解るはずだ。
 例えば、消費税を1%上げたとして、消費税による税収が1%以上上がらなければ、それは経済が縮小したことを意味する。1%分以上の増収となるのであれば行う価値があるが、そうなる確率は0%だと断言できる。上げた税率分の増収が期待できないのであれば、それは経済縮小政策でしかないということである。
 大地震の影響で経済自体が縮小を余儀無くされている現在の状況下で消費税の増税などを行えば、ますます日本経済が悪化することは間違いない。これでは「災いに乗じて悪をなす」になってしまう。
 
 繰り返すが、震災の復興は、まともな経済活動によって為されるべきであり、増税によって賄われるべきではない。それは投資の発想と同じであり、富を生む震災復興政策を実施する必要があるということである。増税というジリ貧の震災復興政策では、日本全体が経済被災地になってしまうという危険性にこそ目を向けなければならない。
 もし本当にそんなこと(増税によって経済被災地)になれば、日本の自殺者率は世界一になってしまいかねない。

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『事勿れ自粛』という名の『合成の誤謬』

2011041701 悪夢の大震災から早1ヶ月が経過してしまったが、未だに被害の全体像が見えず、被災地では芸能人等の炊き出しボランティアが行われている。一方、震災とは無関係の地域では“自粛ムード”に覆われており、春の恒例行事たる飲み会や花見等は激減しているらしく、このままいくとゴールデンウィークの旅行客も大幅に減少するものと予想されている。
 
 現在の日本経済は、大地震が発生したことによる物理的な被害だけでなく、心理的な被害が日本全体を覆ってしまおうとしている。その目に見えない被害は、今回の地震を何が何でも日本全体の問題としなければならないという全体主義的な思考と、日本のお家芸(?)でもある事勿れ主義から派生している。
 
 最近、「被災地の人のことを思えば、贅沢はできない」という言葉をよく耳にする。この意見は普通に聞けば耳障りが良いのだが、よく考えて聞けば、偽善者の意見であることは否めない。なぜなら、被災地の人で「自粛してください」などと言ってる人も思っている人も誰一人いないと思われるからだ。

 もし、あなたが被災者であった場合、「被災しなかった人は我々のことを思い自粛してほしい」と思うだろうか? もし私が今回の地震の被災者であれば、「自粛してください」ではなく、以下のように思っていたと思う。
 
 「被災しなかった人はどんどんお金を遣ってください。自粛などをされても何の助けにもならないどころか、返って復興が遅れます
 
 彼ら被災者が本当に願っていることは、「1日でも早く復興してほしい」ということであり、「被災しなかった人は自粛してほしい」ということではないはずだ。
 現在、日本で行われている自粛は、被災者のことを考えているようで考えていない、言わば、『事勿れ自粛』でしかないということである。
 
 「被災地の人のことを思えば、贅沢はできない」と勝手に思い込み、その結果、経済を縮小させ、被災地の復興を遅らせる。これはまさしく、経済用語でいうところの“合成の誤謬(ごうせいのごびゅう)”現象であり、事勿れ主義が招いた悲劇とも言える。
 
 『不況期に個人がお金を使わないことは善だが、それが全体に波及すると悪になる(=不況になる)』というのが、代表的な合成の誤謬だが、この論理を今回の震災に当て嵌めてみれば、全く同じ現象であることがよく分かる。
 
 『一部の地域が自粛することは善だが、それが全国に波及すると悪になる(=復興が遅れる)
 
 結局のところ、自粛という行為を犯し難い真理だと曲解して、国を更なる国難に追い込むという悲劇を演じているのが、現在の日本の有り様だと言える。被災者の真の心意を汲み取らず、勝手に被災者になったような気分で偽善をバラまき、国難に喘ぐ国を更なる衰退の渦に引き摺り込もうとしている。
 
 物事の現象を俯瞰的に観れない人間が無意識の内に招く悲劇は数限りないが、今回の震災でも、無意識の内に自らが合成の誤謬を演じていることに気が付かず、被災者のことを理解していると思い込んでいる人のいかに多いことか…。
 
 「被災者のことを考えて、国民全員が慎ましい生活を送らなければならない」
 「被災者のことを考えて、国民全員が真面目な生活を送らなければならない」
 
 上記はどちらも全体主義であることに変わりはないが、大きな違いがある。それは、前者を選択すれば合成の誤謬が生じるが、後者であれば、経済は活性化するということだ。
 私は基本的に全体主義には反対の立場だが、後者であれば賛成だ。
 
 今回の震災で被災しなかった人が行わなければならないことは、“自粛する”ことではなく“感謝する”ことだと思う。運良く震災の被害を受けずに普通に生活していることに感謝して日々の生活を真面目に生きることを考える方がよっぽど理に適っている。そして震災の復興を1日でも早くするためには、日本経済を活性化させることが一助になることを理解し、そのためにはどうすればいいのかを考えることだ。
 
 日本全体が自粛を行ったところで、誰の助けにもならず、返って復興の邪魔をしているという事実にこそ目を向けなければならない。被災者から見れば、事勿れ自粛などは名実ともに独りよがりの偽善行為でしかないということを知らなければならない。それができないと言うのであれば、その人物は紛れも無い偽善者である。

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気象庁の『余震予報』は必要か?

2011040801 今回の東日本大震災が起こってから、東北を中心に何度も余震が続いていることは周知の通りだが、気象庁は余震の度に「今後、震度5程度の余震が起こる可能性がありますので注意してください」と呼び掛けてきた。しかし、昨日、震度6強の余震が発生したというニュースがあり、大きな騒ぎとなった。ちなみにこの地震の後、気象庁の予報はこう変化している。
 
 「今後、震度6強程度の余震が起こる可能性がありますので注意してください」

 私はテレビのニュースで気象庁からの発表があるたびに疑問に思ってしまうことがある。それは、「地震の予報まで気象庁が行う必要が有るのか?」という疑問だ。と言うよりも、「気象庁に地震の予報を行うだけの能力が有るのか?」という素朴な疑問である。

 今回の大地震にしても、気象庁は全く予想すらもしていなかったわけだし、全ては結果に対しての予報でしかなかった。地震が発生してから津波警報を発令するのは気象庁の大事な仕事なのかもしれないが、これとて、毎度、地震がくる度に発令しているものの、本当に津波の危険性が有るのか無いのかは少し時間が経過してからしか判明せず、どれぐらいの規模の津波になるのかも予測できない。
 
 津波警報のおかげで津波から逃れることができた人も大勢いると思われるので、気象庁の存在を否定しようというつもりはないのだが、津波到着まで数十分しかない津波警報では、逃げることもできずに助からなかった人の方が多かったかもしれない。
 今回の地震の場合、津波が陸に到着するまでに20分程度しかなかったと伝えられているが、津波は海岸線から内陸部に向って数キロメートルに渡って押し寄せた。これでは警報を聞いて即座に逃げたとしても数キロ先までは避難できなかっただろうし、数キロ先まで逃げる必要性を感じなかった人も大勢いたと思う。

 津波の話は於いておくとして、いくら気象予報士とはいえ、天気予報と同じような感覚で地震予報などを行ってもあまり意味がないと思う。分かりもしないのに、わざわざ「震度5」などという具体的な数字を出す必要はないと思う。実際、「震度5の余震なら安心だ」と思っていた人もいただろうから、予報を信じたことによって逆に被害を被った人もいたかもしれない。

 余震に注意が必要だということを伝えたいのであれば、単純に(素直に)以下のように言えばいいのではないだろうか。

 「今後、大きな余震が起こる可能性がありますので注意してください

 これで充分ではないだろうか? わざわざ細かい震度にまでこだわると、気象庁の信用が損なわれることになりますよと言うのは余計なお節介だろうか? それとも天気予報と同様に、予報がハズレても誰も文句を言わないので惰性的に行っているのだろうか?

 実際のところ、上記のような予報であれば小学生にでもできるので、プロの予報士として敢えて震度にまで言及しているのかもしれないが、アテにならない予報であれば全く無意味になってしまう。
 先程も言ったように、地震の予知などはごく稀な予言者を除いて誰にもできない。いや、仮に本物の予言者がいたとしても正確な時間や震度までは分からないはずである。
 結局、正確な余震予報などは誰にもできないのだから、行う必要性は無いのではないかと思う。先程も述べたように「余震に注意してください」と言えばそれで充分だと思うのだが、何か間違っているだろうか?

 もし「気象予報士」にできる地震予知というものがあるとすれば、地震が起こる前に出現するという『地震雲』によって行う程度のものだろうと思う。実際にこれができれば大したものだと思うが、当面は無理だろう。
 
 昔から、「お上は国民に箸の上げ下げまで指示しないと気が済まない」と言われるが、現在の余震予報を聞いていると、まさしくそんなイメージが浮かんでしまう。地震が有るたびに、「気象庁は今後、震度○の余震が起こる可能性があるため、国民に注意を呼びかけています」というアナウンスが聞こえてくるが、そんな当たり前のことを言われても困ってしまう。
 それに、地震には余震は付き物なのだから、わざわざ「余震に注意しなさい」などと言われるまでもなく誰もが余震には警戒しているのではないかと思う。地震を経験したことのない子供に言うならともかく、大の大人が今更そんな言葉を聞いても、ほとんど有り難みを感じないと思う。

 こんなことを書くとまた誤解を招く恐れがあるので、念のためにお断りしておくと、私は“地震予報を流して注意を促すことがいけない”と言っているわけではない。気象庁が“予言者ぶった予報までする必要はない”ということを言いたいだけなので誤解のないように。

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原子力エネルギー依存社会の“原発アレルギー”

2011040501 毎年この時期になると、花粉症対策のためにマスクを付けた人をよく見かけるようになるが、今年はこの“花粉アレルギー”にプラスして、“原発アレルギー”というものが日本中、いや、世界中に拡がってしまったようだ。
 これまで、原発反対論者の決め台詞でもあった「原発反対」という言葉は、左翼の言うところの「戦争反対」という言葉と同列に扱われてきたが、今回の事件によって、その言葉が正統性を帯びたかのような勢いが観てとれる。その証拠に、よその国でも『原発反対デモ』が堂々と行われるに至っており、原発アレルギーは止まることなく広がっているように見える。
 
 しかし、現代の世界経済も日本経済も悲しいかな原子力発電無しでは成り立たないという現実がある。仮に成り立ったとしても、生活の利便性や経済性と引き換えにしなければならない。原子力に代わる有力な代替エネルギーが存在しない限り、今、原子力を簡単に放棄してしまえば、世界経済は縮小を余儀無くされることになり、別の意味でのクライシスを迎えることになりかねない。
 
 「とにかく安全が第一だ、生活水準なんてどうでもいい」と思っている人であれば、「原発反対」と言うのも理解できなくはないが、現代社会において本気で生活水準が落ちても構わないと思っている人が果たしてどれぐらいいるのだろうか?
 今まで原子力発電によって作られた電気をリスクを意識せずに享受してきた人間が、事故が発生すればコロッと立場を変えてしまう。これはよくよく考えると、あまりにも都合のよい話だとは言えないだろうか? 事故が発生する前から「原発反対」と言い続け、自力(自家発電)で電気を賄ってきたような人であれば話は別だが、そうでないなら、筋が通らない。

 納得できないという人のために喩えを用いて説明すると、例えば『違法コピーソフト』をいうものがある。違法コピーソフトを販売している人が逮捕された場合、その違法コピーソフトを使用していたユーザーまでは逮捕されない。しかし、違法コピーソフトを使用していた人間が違法コピー業者を批判するのはお門違いだ。
 あるいは、目の前でイジメが行われ、そのイジメられていた人物が後に自殺したとしよう。その場合、イジメを端で観ていた人はイジメっ子を批判できるだろうか? 批判はできるかもしれないが、それは卑怯な行為であることに違いはない。イジメが行われていた時にその場で注意することができる勇気を持った人間だけがイジメっ子を批判する権利がある。こんなことは、説明するまでもなく当たり前のことである。
 
 上記の理屈を今回の原発問題に当て嵌めてみれば、「東京電力を解体せよ!」とか「原発は廃棄せよ!」などと批判している人も、ある意味で筋が通らない批判を行っているとも言えるわけだ。
 「東京電力を改善せよ!」「原発は改革せよ!」なら理解できるが、「直ぐさま潰せ!」ではあまりにも無責任な発言であり、その先の社会がどうなるのかという視点が完全に抜け落ちてしまっている。
 
 原発事故が発生したとはいえ、現文明が原子力に依存している以上、そう簡単には原子力を放棄するわけにはいかないというのが世界の本音だろうと思う。その証拠にアメリカや中国などは、原発に注意を払うように要請してはいるものの、明確に否定する立場は取っていない。世界経済の現実が見えているリアリストであればあるほど、原子力エネルギーの重要さを理解しているのだろうと思う。
 
 原発の推進は環境政策の一環であり、二酸化炭素の削減効果が見込まれていたが、今回の事故で原発の推進が見込まれなくなった。そのため、さすがに日本でも二酸化炭素の排出量25%減の目標は見直されることになったみたいだが、こんな無茶な目標の実現を本気で実践していた国は日本だけである。
 そもそも二酸化炭素の排出量を下げれば本当に地球温暖化が止まるのかどうかも科学的に証明されていない段階で、そのようなポピュリズム丸出しの政策目標を打ち立てること自体がどうかしている。建前として“エコ”を利用して景気の拡大を計るということであれば理解できるが、本気で経済を縮小するようなことを目標に掲げていたのでは、世界の笑い者になるだけだ。

 しかし、皮肉なことに計画停電が大々的かつ長期的に行われるようになれば、二酸化炭素の排出量25%減が一時的には達成される可能性がある。心理学的に言うなら、民主党が潜在意識下で描いた理想的(?)な世界が実現してしまうというわけだ。

 民主党ついでにマスコミに話を移そう。日本のマスコミの過剰報道は今に始まったことではないが、テレビに映った福島原発の異様な航空映像などを観ていると、どこかオウムのサティアン(サリンを製造していた工場)を彷佛とさせるものがあり、東京電力がまるで毒ガスを製造していた悪徳企業のような報道になってしまっている。
 かつてのオウム事件時は、「第1サティアン、第2サティアン…」という名称が耳にタコが出来るくらいに何度も聞かされたが、今回の東京電力問題でも「1号機、2号機…」と偶然にも似たような名称が繰り返し報道されており、かつての先入観も手伝って否が応にも悪いイメージを抱かせてしまう。

 それにプラスして、専門家の原発論議も二転三転しており、「人体にはほとんど影響がない」と言う専門家もいれば、「チェルノブイリ以上の大惨事だ」と述べている専門家もおり、未だにハッキリとした全体像が見えてこない。こんな状態では、外国人が母国に一時(永久?)帰国するのは止むを得ないとも言える。

 なんにせよ、東京電力は完全な悪者として扱われており、仮に原発問題がクリアされたとしても、原発アレルギーの特効薬でも出てこない限り、企業イメージの回復はもはや絶望的な状態だと言える。

 翻って、もし現在、今回の大地震でも福島原発は全く異常なしで正常に稼動しているということであれば、「日本の原発は世界最大級の地震でもトラブルが発生しなかった」ということで原発の安全性が再認識され、世界中から原発製造の特需が舞い込み、その莫大な利益だけで震災復興費も賄えたかもしれない。そう考えると、東京電力、ひいては日本経済にとっては、まさに天と地ほどの開きが発生してしまったとも言える。
 これが、もし天災ではなく人災であったのだとすれば、トンデモない責任問題に進展する可能性も否定できない。実際のところ、一般人が原発の危険性や電力会社の閉鎖性を訴えたところで東京電力側がまともに耳を貸したとも思えないので、東京電力が批判的に報道されるのは、ある意味で仕方のない部分はあるのかもしれない。

 いずれにせよ、東京電力及び原子力行政関係者達は、自然が与えた『原発安全性試験』にパスすることができなかったという意味で猛省する必要があるだろう。これまでの常識の範囲内での安全性の基準はかなぐり捨てて、全く新しい視点での原発の安全性を改めて追求していかない限り、日本の原子力技術に未来はないと言っても過言ではないだろう。

 現在のところ、原発アレルギーで世界中がパニック状態に陥っているが、おそらく、近い将来、今回の日本の事故をベースとして、より安全な原発の開発が進められるはずである。現在は日本とフランスしか原発を製造する技術を持っていないと言われているが、ひょっとすると東京電力と日立の大株主となった中国あたりが、この機に乗じて、原発の開発に乗り出してくる可能性もないとは言えない。現在、東京電力の筆頭株主に躍り出るのは少々無理があるかもしれないが、したたかな中国のことだがら、今回の事故のマイナスをプラスに転じるような策を練っている可能性も否定できない。
 とにかく今は事態が収束することを祈るしかないが、この問題が解決した暁には、日本の原子力行政は抜本的な改革を余儀無くされるということだけは肝に命じておいた方がよさそうである。

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