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2011年5月

『世代間格差』の盲点【「家族」という世代間格差是正装置】

2011052901 「世代間格差」という今更、説明を要しないほどに有名になった言葉がある。主に年金受給における老年世代と若年世代の格差を意味する言葉だが、現在のところ、周りを見渡しても、それほど「世代間格差」について問題だと述べている一般人はいないように思われる。
 日本は「格差は絶対悪」というような空気が支配している国だが、なぜかこの「世代間格差」についてはそれほど重要視されておらず、一部の有識者が述べている程度である。
 
 これだけ少子高齢化が問題視されている国で、なぜこの世代間格差問題はクローズアップされないのか? これについては様々な意見がある。老年世代が圧倒的な選挙権を行使し、政治的に老年世代中心の老人優遇国家を築いているからだとする意見が一般的だが、中には既得権を維持するために情報統制が行われているというような陰謀論めいた意見もある。しかし、私は少し違う意見を持っている。それは、“現在のところ、大部分の国民は世代間格差を問題視する必要がない”という理由である。

 「えっ?」と疑問に思われた人もいると思うので、それがどういう意味かを以下に述べてみたいと思う。
 
 いわゆる若年世代(30歳以下)の人々は、歪んだ年功序列制度の弊害や、不況の影響もあり、給料はほとんど上がらないという経済的に恵まれない立場にあると言える。しかし、親と同居している人も多く、結婚して別居している人であっても、親からいくらかの生活資金を供給されているという人は大勢いる。私の知る範囲でも、そういった人が何人もいると聞いている。
 昔のように子供が親の面倒をみる(=生活資金を提供する)のではなく、逆に親が子供(と言っても大人だが)の生活資金の一部を負担しているという家庭は思っている以上に多く、特に若くして結婚した人などは、親からの仕送り(?)に依存している場合が多い。
 
 これはどういうことかというと、『家族』という単位で“世代間格差の解消が自動的に行われている”ということである。
 
 もちろん、既に両親がいないという人もいるだろうし、微々たる国民年金では子供の援助まですることはできないという人もいる。あるいは、単純に親子の仲が悪いので親子関係が断絶しているという人もいるだろう。しかし、多くの場合、悪名高い年功序列制度の恩恵や、過剰な退職金や過保護な企業年金などによって余剰資金を抱えているのが一般的な老年者の姿である。そういった老年者が生活費として余剰資金の一部を子供に与えるというのはごく当たり前の姿である。
 
 大前研一氏なども言っているように、現代の老人は1人当たり平均3500万円の貯金を残して、あの世へ旅立つらしい。一説では、祖父と孫では1億円以上の世代間格差が生じるとも言われているので、余剰資金を抱えた老年者が多いことは疑いの余地はない。
 彼らの多くはその余剰資金の一部を子供に分け与えている。そうであるがゆえに、今のところは「世代間格差」をそれほど問題視する必要がないと考えられるわけだ。
 
 「老年世代」と「若年世代」という個人単位で現在の歪んだ年金制度を見つめると、確かにそこには如何ともし難い世代間格差が広がっている。それは、まさしく貴族と奴隷の関係に近いとも言える圧倒的な格差である。しかし、「家族」という単位で見つめると、その格差は大きく縮まる。親が過剰に支給された年金の一部を子供に分け与えることによって、世代間格差は大きく縮まることになる。
 
 親が子供にどれだけの余剰資金を分配したかというようなデータは国も把握できないので、統計的にデータ化するのは難しい。そういった目に見えないところで、所得の分配が自動的に行われていることが世代間格差が問題視されない1つの大きな理由だと思う。言わば、世代間格差の盲点が、この問題が表面化することを防いでいるわけだ。
 
 ただ、これも現在の歪んだ年金制度が維持されているがゆえに可能なことであると思われるので、これからの老年世代がまともに年金をもらえなくなる時代を迎えてしまえば、一気に世代間格差問題は表面化し、年金制度自体が瓦解することになる可能性は高いと思う。

 結論として言えることは、現在の多くの若年世代も、歪んだ年金制度の恩恵を陰ながら受けているがために、敢えて批判する立場に立つ必要性を感じていないということである。本当の世代間格差問題とは、現在の「若年世代」と「老年世代」にあるのではなく、まだ生まれていない「未誕生世代」と現在の「若年&壮年世代」との間に発生する大問題だと言えるのかしれない。
 
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『人命』という名の錦の鎧を纏った新左翼誕生仮説

2011052701 世の中には「左派」と「右派」という言葉もあるように、どのような言論も2つの方向に極端に分かれることになる。その例に漏れず、原子力発電についても、原発肯定論者と原発否定論者は恰も水と油のように真っ二つに分かれている。
 ではこの両者はどちらが正しいのか? 極論するならば、どちらも正しい。この問題の受け止め方は、その人物の視点(思想の立脚点)によって大きく違ってくるため、いつまで経っても意見が対立し平行線を辿っているというのが現状だろうと思う。

 まず、「原発は危険なものか?」と問うなら、当然、危険なものである。
 では、「安全でクリーンな発電方法か?」と言えば、エネルギーを得る工程に於いてはその通りだが、いざ問題が発生すると極めて危険なものであることも事実であり、そのことに疑問を挟み込む余地はない。そういう意味では、「原発は危険だから廃止しろ!」というのは、至極真っ当な意見であると言える。しかし「危険だから廃止しろ!」と言うだけであれば、それは小学生の論理と同じだということもまた然りである。

 人命を最優先に考えるならば、原発廃止は正しい選択だ。しかし、人命以外のものまで含めて総合的に考えると、原発廃止は正しくないという結論が導き出される場合も有り得る。原発肯定論者と原発否定論者の意見の食い違いはその認識のズレから生まれているだけであり、どちらも人命を軽視しているわけではない。

 左翼の如く、「人命」というものを錦の御旗に掲げられると、大抵の人々は思考停止に陥り、見て見ぬふりをするようになる。この世で何よりも尊い「人命」というもので自らの思想をバリゲードすれば、その鎧は誰にも傷付けることができない鋼鉄の鎧と化してしまうため、反論する意欲自体が消失してしまうことになるからだ。
 ゆえに、この原発問題というものも、一旦、その鎧(人命という名の錦の鎧)を脱いでもらわないと話が非常に偏ったものになるということである。

 日本は世界で唯一、原子力爆弾で被害を被った国でもあるので、原子力を極度に恐れるのはトラウマ的にも仕方がないとは思う。絶対的に安全だと言われてきた原発で事故が発生すれば、その事故がいかに不可抗力的に発生した事故であったとしても、トラウマが蘇ったかのように必要以上にヒステリックになるのも止むを得ないとも思う。
 もともと、リスクというものを極度に嫌う…と言うよりも、リスクというものを考えなくてもそれなりに生活することができた有り難くも珍しい国が日本という国である。そんな平和な国にあって、これ以上ないという位に目に見える形で現れた巨大な国民的リスクに対して拒絶反応を起こしてしまうのは至極当然の帰結だったとも言える。

 多くの国民は自らが“ノーリスク教の信者”になっていたことに気付かずに人生を謳歌してきた。善いか悪いかに拘らず、アメリカの庇護の下、国際情勢や外交問題などを考える必要もなく、ただ経済成長のみを追求することに専念してきた。
 しかし、現代は国際警察(?)としてのアメリカのパワーも減退し、日本という国を近隣のテロ国家から守るという安全保障条約も希薄になりつつある。そんな国際情勢下において、日本は経済成長を放っぽり出し、外交を無視し続けたまま、増税のみによって国家の衰退に歯止めをかけようとしている。

 これは何を意味するのかと言えば、日本はアメリカにとって、もはや“守るメリットの無い国”に自ら成り下がろうとしているということである。喩えて言うなら、老年になった親が、収入のない引き蘢りの子供の面倒をいつまでもみることはできないという理屈と同じようなものである。

 自然エネルギーでもなく、原子力エネルギーでもない第3の新エネルギーを研究開発すると言うならともかく、今更、自然エネルギーに回帰(先祖返り)することによって、日本経済に本当に悪影響は及ばないのか? 自然エネルギーに依存することによって、国家の衰退へまっしぐらということにならないか? もしそうなってしまうのであれば、これは極めて危険な左翼思想と成り得るのだということも併せて考える必要があると思う。

 人命は何よりも大切だというのは確かにその通りではあるが、日本経済が衰退することによって、自殺者が3万人から4万人に増加してしまっては、元も子もなくなってしまう。
 人命を最優先する政策によって、将来、間接的に多くの人命を失ってしまっても、その原因が経済成長を無視した『人命至上主義』にあったということには、ほとんどの人は気が付かないだろう。

 日本が本当にそんな悲劇的な社会にならないことを祈りたいところだが、そうなる可能性は無いとは言えない。現在の日本は地震の二次被害としての原発問題だけでなく、原発問題から生まれるだろう三次被害というものも考えなければならない状況に陥っている可能性があるということである。
 
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『上場維持(利益追求)』と『債権放棄(借金チャラ)』の矛盾

2011052001 民主党の枝野官房長官の「債権放棄発言」【東京電力の債権放棄を金融機関に求めた発言】が物議を醸し、経済界を中心に様々な識者から批判を浴びている。
 東証の社長から「統制国家ではない」というような痛烈な社会主義批判(?)が出たのは意外だったが、日本航空(JAL)の稲盛会長からも次のような苦言が呈された。
 
 「倒産して会社更生法が適用された場合には、法律でもって債権放棄ということはあるが、何にもない中で債権放棄というのは問題
 
 今回の東電問題は非常にレアなケースだとはいえ、稲盛氏の意見は正論だろうと思う。
 
 現在の東京電力が経営上、窮地に立たされていることは間違いなく疑いを入れる余地はない。しかし、倒産したわけではなく、まだ生きている企業である。生きている企業であるということは、今後(数年か数十年後)、支払い能力が復活する可能性が有るということである。その可能性がまだ有る段階で「債権放棄しろ」というのは、明らかに常軌を逸した発言だと言える。
 
 東京電力が完全に支払い能力を無くしたということであれば、国からの命令で「債権放棄」ということも有り得るだろうが、そうでない限り、「債権放棄」を素直に受け入れろと言う方がどうかしていると思う。一方では東京電力の上場を維持し、株主を保護するという立場を採っている政府が、もう一方では金融機関に対して「借金をチャラにしろ」では筋が通らない。こんなことは、少し考えれば中学生でも解る理屈である。
 
 そもそも、政府が(実質的に)東京電力の上場維持を保証しているということは、営利企業として存続することを認めているということである。つまり、その企業は支払い能力を有しているということである。それにも拘らず、もはや支払い能力が無いかのように「債権放棄しろ」では、明らかに矛盾しており、独裁政治と批判されても仕方がないと言える。
 「借金を返すのは少し待ってくれ」と言うならまだ理解できるが、「借金はチャラにしてくれ」と言うのであれば、東京電力を非営利企業にしなければ筋が通らないということである。

 人間に喩えて言うなら、「重病で病院に入院した患者は借金を返す能力が無いので、借金はチャラにしなければならない」と言っているようなものだ。しかし、その重病患者も病が治癒し無事に退院できれば借金を返す能力が復活する。退院することを前提に治療している患者の借金をチャラにするなどということは常識的には有り得ないと考えるべきだ。

 今回の枝野氏の発言は、資本主義国家はどうあるべきかというような思想信条的な問題ではなく、単に“筋が通らない”ということが問題になっているわけだ。
 
 こういった経済界からの(筋の通った)批判に対して枝野氏はこう反論している。
 
 「国としても一定の支援を行う限りにおいては、東京電力が普通の民間企業と違うのは当然だ。国民的な理解が得られなければ東京電力を支援することはできない
 
 本人が意識しているのかどうかは定かではないが、これでは完全に社会主義者の意見になってしまっている。
 東京電力を救済するのは国民であって、政府ではない。政府は単なる仲介役であって、自ら自腹を切って東電を救済する能力があるわけではない。国民に対して納得のできる東電救済案を提示し、了承を得た上で政策を実行するのが政治家の仕事であり、まともな民主主義国家の有り様だ。どのような救済案が浮上したとしても、救済を行う主役はあくまでも国民だという認識が欠落してしまっている。
 仮にも「民主」を名乗る政党が、民主主義の基本も理解していないということであれば、それこそ大きな問題だ。

 「民主」や「民意」と言っても、衆愚政治に陥ってしまうと意味が無いので、時には強権的に政策を実行する必要もあるかもしれないが、元々、衆愚政に陥っている民主党が強権を行使すれば、ただの独裁政治になってしまいかねない。実際に最近の民主党の動きを観ていると、ポピュリズムを通し越して、(左寄りの)ファシズムに傾倒しているように思われる。

 ところで、最近、「東電の株主責任」という言葉をよく耳にするが、既に東京電力の株主はほぼ100%の人が大損している。東日本大震災が発生する前は2000円以上だった株価が現在400円以下(額面割れ)まで暴落しているわけだから、株券の価値は5分の1になっている。株主数もおそらく5分の1以下になっているだろうから、既に多くの株主が株主責任を果たした状態だとも言える。
 そんな状態にありながら、「株主保護」というのはよく解らない。現在の株価で満足しているような株主はいない(震災後にマネーゲームで売買している投機家は別)だろうし、少なくとも今後数年間は値上がりも配当も期待できないのだから、今更、保護されたところで「助かった」ということにはならないのではないかと思う。
 今現在の東電株主というのは、余程の楽観家か余剰資金を抱えた長期投資家か、あるいは何らかの理由で損切りできずにいる人ぐらいだろうと思う。
 と考えると、「株主保護」というのはブラフで、保護したいものは別にあるのではないかと勘ぐりたくもなる。
 
 現在の状況下で政府が東電の上場廃止を臭わすような発言を行えば、株価は2桁か、場合によっては1桁まで急落する可能性が有る。しかし元々、国策銘柄であることに助けられて、上場を維持するという雰囲気が漂っているために、かろうじて3桁株価を維持できているわけだ。
 予期せぬリスクが顕在化したとはいえ、倒産リスクや上場廃止リスクだけは、ほぼゼロという電力会社の常識だけは未だ維持されている。
 その“常識”が維持されているがゆえに、「債権放棄しろ」は有り得ないし、筋が通らないのである。
 
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「がんばろう!日本」から「がまんしよう!日本」へ。

2011051101 東北大震災によって「がんばろう!日本」という前向きなスローガンが生まれたが、どうやらこのままいくと、この言葉は少し変更を余儀無くされる可能性が高くなってきた。どう変更されるのかというと、次の通りだ。
 
 「がまんしよう!日本

 言葉は今迄通り「がんばろう」のままだろうが、実質は「がまんしよう」ということになる予感がする。と言うか、現実を直視すれば、そうならざるを得ないと言った方が正解かもしれない。
 
 大方の予想通り、浜岡原発の停止は受託されたが、起こるか起こらないか判らない微かなリスク(仮に起こったとしても問題が発生する可能性は限りなくゼロに近い)のために、経済成長という可能性を捨ててしまった感が強い。残念ながらそれが率直な感想である。
 近い将来に東海地方でマグニチュード10クラスの世界史上最大の未曾有の直下型大地震でも発生すれば菅総理の判断は正しかったということになるかもしれないが、それ以前に別の所で大地震が発生する可能性の方が高いのではないかと思う。

 少し前に「節電」という言葉が話題となり、その後、もしかして節電する必要がないのではないか?という安堵の空気が広まりつつあった。しかし、浜岡原発の停止によって再度、西日本まで巻き込んで「節電」という言葉がブームになろうとしている。

 福島原発の事故発生後、“電気が足りなくなる”ということで「節電を促すために電気代を上げればいい」というような自由主義者とも社会主義者とも受け取れる発言が巷で話題となった。その効果の程はさておき、この場合はあくまでも「節電するため」というのが電気代を上げる目的だった。
 しかしつい最近は、「東電の賠償費用を捻出するため」に電気代を上げるという風に変わってしまっていた。さすがにこれには多くの国民が反発した。「なぜ東電の尻拭いを国民がしなければならないのか!」と憤っていた人も多かった。
 ところが今回、浜岡原発の停止によって再度、目的が「節電」にスイッチングされたと考えられなくもない。となると、国民は電気代のアップに文句を言いづらくなってしまったということである。「節電するため」という名目で電気代を上げ、気が付かないうちに「東電の賠償費用」まで支払わさせられる可能性が出てきたということだ。

 危険だと言われてきた浜岡原発を停止することに世間の注目を集めることによって、国民からの反発を恐れずに電気代を上げることを狙ったのだとすれば、相当にズル賢い人間だと言えそうだが、菅総理を観る限り、そんな考えは毛頭なく、無意識のうちに悪い方向に舵を切ってしまったように感じられる。
 今回の菅総理の要請は、勇気ある行動というような評価をする向きもあるが、私には、そうは見えなかった。自信に満ちあふれたリーダーの勇気ある行動というより、どこか後ろめたさを内に抱えているような、危なげな空気が感じられた。

 現在の日本経済は安定した電気供給によって成り立っているとも言えるわけで、電気使用料に制限を設けられてしまえば、即座に経済に悪影響を及ぼすことになる。『節電すれば不況になる』というのは経済の基本公式のようなもので、節電して好況になるというようなことは現代では有り得ないと考えた方がいい。
 『節電=不況』、この逃れようのない単純な公式が理解できるのであれば、日本経済の近未来予測をすることは至って簡単だ。

 菅総理の判断の善悪に拘わらず、日本経済は悪化することになるだろう。原発推進論者であろうと原発反対論者であろうと、それだけは避けて通れないということを認識しておく必要がある。当然、電気代の値上げだけでなく便乗的に増税も容認したということになるだろうから、その覚悟もしておかなければならない。
 この状況下で景気を改善するというようなウルトラC的な景気改善策が有るとすれば、原子力に代わる新たなエネルギーを発見することぐらいかもしれない。
 
 「1人の命は地球よりも重いか?」というサンデル教授のような哲学的な命題があるとすれば、迷うことなく「重い」と答えるのが菅総理の考え方なのかもしれない。それが善いことなのか悪いことなのかは、ここでは述べない。しかし、今回の決断が日本の向かうべき方向性を決定づけるに足る事件であったのだと仮定すれば、日本経済に大きな悔恨を残すことになる確率は極めて高いと言わざるを得ない。その確率は東海大地震が発生する確率よりも高いことは言うまでもない。
 
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大震災に屈した菅内閣の危険性

2011050801 菅総理が首相官邸で緊急記者会見を行い、「中部電力管轄下の浜岡原発の原子炉を全て停止する」と発表したことは既に周知の通りだが、これに対する国民の反応は真っ二つに分かれている。どちらかというと「支持する」という声の方が多いようにも見受けられる。
 しかし、「支持する」という声が多いというのは当たり前の話で、「支持しない」という声が圧倒的に多いだろうと予想される場合、おそらくこんな発表はしていなかっただろうと思われる。なぜなら、それがポピュリズム政治を地でいく民主党の特徴であるからだ。
 多くの国民の要請があれば、それが正しいものであろうと間違ったものであろうとお構いなしに取り入れて実施してしまう。それがポピュリズム政治の特徴である。
 しかし、今回の場合、多くの国民からそのような要請が現実にあったわけではない(一部にはあったかもしれないが)ので、菅総理が勝手に暴走した格好だ。このような重大な決定を総理の一存で勝手に決めてしまおうという姿勢は、もはやポピュリズムさえも通り越しているように思われる。
 
 今回の菅総理の判断の是非はひとまず置いておくとして、浜岡原発を停止しなければならない理由というのが「極めて起こる可能性の高い東海地震に備えるため」ということになっている。確かに以前から東海地震が発生する可能性が高かったことは事実ではある。今回の地震も本来であれば東海地震となってもおかしくないところだったが、先に三陸沖地震が起こってしまったとも伝えられている。しかし、「日本は地震大国」と言われている通り、大地震は東海地方だけでなく、あらゆる地域で起こる可能性がある。過去の地震頻度を考慮した場合、確率的に東海で起こる可能性が高いというだけであって、次に起こる大地震が東海であるという保証はどこにもないし誰にも分からない。そのことは今回の地震によっても証明されたはずである。
 
 「テロに屈する」という言葉があるが、私が観るに現在の民主党は完全に「震災に屈した」という風に見える。
 菅総理が一国のリーダーとして言うべきことは、次の2つに分かれるはずだった。
 
1、「地震は危険なので、原発を停止して安全を確保する」
2、「地震は危険なので、どんな地震にも耐えれるように原発を徹底的に改善する」

 この2つは似ているようで全く違う。菅総理は今回、前者を選択した。なぜなら、1を選択する方が民衆にウケが良いからだ。しかし、本当の政治的リーダーシップを持った人物であれば、おそらく2を選択しただろうと思う。それは短期的に観れば、民衆からも反発を食らう茨の道かもしれないが、長期的なビジョンで考えれば、本物の政治家として支持されるべき道であると思う。
 地震は全国津々浦々で発生する可能性があるのだから、議論すべきは、「浜岡原発」というミクロ論ではなく、「原発廃止」か「原発維持」かというマクロ論でなければおかしい。と考えると、実は菅総理が述べていることは1でもなく2でもないのである。
 
 これまでにも何回か述べたが、福島原発は地震で壊れたわけではなく、津波で壊れたのでもない。原発の外にあった無防備な安全装置が津波によって破壊されたために、間接的に原発事故が発生してしまったというのが真相だ。
 私は原発推進論者でもなければ、東電関係者でもなく、歪んだ原発行政を擁護しようなどという気持ちはさらさらない。しかし、余計なパニックが発生することによって、日本全体が衰退することを危惧している1個人に過ぎない。
 
 先程、「テロに屈する」という言葉を使用したが、今回の「大震災」を「戦争」に置き換えて考えると、まさしく菅総理の思考は“敗者の論理”だということがよく解ると思う。
 今回の津波を、守りの城壁が弱かった(または低かった)ために、敵軍に城壁をよじ登られ、多くの被害者を出してしまったと考えれば、どうだろう?
 その際、城壁を強く(または高く)すると考えるのが“勝者の論理”であり、城壁から撤退しようというのは、どう考えても“敗者の論理”である。要するに、菅総理には「逃げる」という発想だけで「攻める」という発想が無いわけだ。このことは経済政策についても同じことが言える。経済成長政策が全くなく、ジリ貧の増税政策しか出てこないところを観れば一目瞭然だ。
 
 大震災で多くの国民が気力を失っている時に、一国のリーダーに必要なことは、“震災に立ち向かう”という前向きな態度であって、“震災から逃げる”というような後ろ向きな態度であってはならないはずだ。
 現在の日本経済に本当に必要なことは、震災をバネにして発展を目指すという復興政策であり、震災に身も心も萎えて衰退国家を目指すというような安全政策ではない。
 
 「大震災」を「戦争」に置き換えたついでに、「原発事故」を「北朝鮮からのミサイル」に置き換えて考えてみると、菅総理の思考がいかに危険なものかが解ると思う。
 
 「北朝鮮からミサイル攻撃されたので、これ以上被害を増やさないために、抵抗するのは止めます
 
 一国の総理から、こんな後ろ向きな言葉を聞いたとすれば、あなたはどう思うだろうか? その言葉はまさしく「テロに屈した」ことを意味する。
 「テロに立ち向かう総理」と「テロに屈する総理」がいたとすれば、あなたはどちらを支持するだろうか?
 
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ユッケリスクから考える原発リスク

2011050401 5月に突入しても依然として原発問題に揺れている日本社会だが、このゴールデンウィーク中にも既に大きなニュースが2つ発生した。1つは海外メディアが伝えたアルカイーダのビンラディンの死亡(殺害)ニュース、そしてもう1つが、国内のユッケ集団食中毒ニュースである。
 スケールとしては大きく異なるニュースだが、多くの国民にとって関心があるのはユッケ問題の方だろうと思う。私自身はユッケ(と言うより生肉)は食べる気もしないので、今後、ユッケの扱いがどうなろうと特に問題はないのだが、政治も絡んで必要以上に大きな問題と成りかけているようなので少しだけこの問題に触れておきたいと思う。
 
 まず、今回の事件で明らかになったことは、『焼肉酒家えびす』社長の熱弁(?)の通り、“生食用の牛肉は流通していない”ということである。この記者会見は「開き直り会見」と揶揄されたが、もし記者会見上でこのことを述べていなかったとすれば、その事実が世間に正しく伝わらない可能性があると危惧したのだろうと思う。自分達の会社だけが悪いという風にスケープゴートにされるという恐れから口を滑らせてしまったような印象を受けた。
 
 私が思うに、今回の集団食中毒事故は、生食用の牛肉の流通がどうたらというような問題ではなく、単に生肉の管理に問題があったというだけの話だろうと思う。これまで何十年間も日本中の多くの焼き肉店で通常のメニューとして出されてきたユッケが特に問題なく流通してきたということは、ほぼ100%に近い安全性が保たれてきたことを意味している。今回の場合、流通経路のどこかで生肉の管理が行き届いていなかったために問題が発生してしまったというのが実際のところだろうと思う。
 現時点で最も疑われるのは、事故が発生した焼き肉店(卸売り業者も含む)での管理体制であろうから、その疑いが晴れない限り、いくら生肉流通における問題点を指摘したところで批判の誹りを免れることは相当難しいと言わざるを得ない。
 
 普段はなんでもかんでも規制の対象とすることに努めてきた厚生労働省も、諸々の事情からさすがに生肉の規制までは考えていなかったのだろうと思われるが、果たして今回の問題からどういう転回を見せるかは見物ではある。規制仕分けに勤しむ民主党からは既に規制の声が挙がっているそうなので、「生肉禁止令」なるものが発令される可能性も無いとは言えない。
 
 しかし、今回の問題で明らかになった重要なポイントは、『生の牛肉は危険』だということである。これまでこの事実自体を国民が正しく認識してこなかったことによって今回の事故は発生したとも言える。元々、牛肉には人体に危険な“腸管出血性大腸菌”が潜んでいる可能性が有るので、細菌に対する抵抗力の低い幼児や老人はなるべく生肉は食べない方がよいという認識さえ世間一般に浸透していれば、小さな子供が生肉を食べるというようなことも起こらなかった可能性が高い。いつからか、「ユッケは美味い」という情報だけが独り歩きし、「生肉は危険」というもう1つの情報が忘れ去られていたことが問題なわけだ。
 
 この構図はよく考えると原発の安全神話の崩壊と似ていると言えなくもない。元々危険なものであることが判明しているにも拘らず、長い間、何の問題も発生していなかったために、安全管理が御座なりになり、思いもよらぬ悲劇を招いてしまったという構図はほとんど同じだとも言える。要するに、原発の安全神話同様、“ユッケの安全神話が崩壊してしまった”というのがこの事件の本質なのである。
 
 原発の安全性問題を考える上で、このユッケ問題は恰好の教材を我々国民に与えてくれているように見える。リスクというものを正しく認識しない限り、万全の管理を行うことは難しいという当たり前の教訓を我々に投げかけているように思える。
 
 ユッケ自体にはリスクが付き物だが、リスク管理が万全であれば特に問題は発生しない。同じように原発にもリスクは付き物だが、リスク管理が万全であれば特に問題は発生しないし、実際に発生していなかったはずだ。
 どちらの事故も、“管理体制が甘かった”ということが問題の本質なのであって、闇雲にこの世の中から無くしてしまえばよいというのでは、あまりにも感情的で短絡的な発想と言わざるを得ないということである。
 
 原子力エネルギーを核兵器と共に世界中が完全放棄するというのなら良い話かもしれないが、日本だけが完全放棄したところで絶対的に安全な社会になるというわけではない。例えば中国の原発で大事故が発生すれば日本も少なからず大きなダメージを負うことになる。このことは核兵器の所持問題と同じで、たとえ日本が核兵器を持たずとも、諸外国で核兵器が使用されれば日本も安全というわけにはいかない。
 それに自然エネルギーに完全依存することによって生まれる新たなリスクというものも考える必要がある。日本だけが自然エネルギーに依存することによって様々なリスクが雲散霧消するわけではなく、返って大きなリスクが生まれる可能性があるということも併せて考えなければならない。
 
 大事なことはリスク認識能力リスク管理能力であって、事故が発生した時だけ騒ぐというような都合の良い批判能力ではない。事故が発生する以前から正しくリスクを認識し管理してこなかったことが根本的な問題なのであって、原発やユッケが諸悪の根源というわけではないのである。
 仮に「原発やユッケが諸悪の根源だ」と言うのであれば、そのことを事故前に認識しようとしてこなかった“無知”も同じく諸悪の根源なのである。
 
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