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2011年6月

ホリエモンの“モヒカン刈り”が意味するもの

2011062301 6月20日、ついにホリエモンが本当に刑務所に収監される日を迎えた。当日は、意外にもネットだけでなく、民放テレビでもホリエモン収監記念集会(?)が報道されていた。
 『粉飾Tシャツ』には苦笑を禁じ得なかったが、イベントを観る限り、これから刑務所に入るという悲愴感は感じられず、どちらかと言えば、明るく前向きなイメージが伝わってきた。

 ネット上では、ホリエモンが収監されたことが大きな話題となり、ホリエモン関連記事も数多く見られる。中には擁護論もあるようだが、否定論や功罪論(これが1番多いかも)も多く見かける。
 最近、「ホリエモン」「収監」というキーワードから当ブログに訪問される方も多く、ホリエモンの刑務所収監に興味を持っている人も多いようなので、この問題について少し述べておきたいと思う。
 
 まず、今回の収監記念集会については賛否両論があるらしく、テレビのニュースキャスター等も苦言を呈していた。先にも述べた通り、私は個人的には今回の集会を良いイメージとして受け取ったが、逆に悪いイメージを抱いた人も大勢いるらしく、彼らが口を揃えて言う台詞は、次のようなものだ。

 「反省の色が見えない

 しかし、これはよくよく考えると非常に可笑しな理屈である。なぜなら、ホリエモンは未だ罪を認めていないし、刑務所に入らなければならないような罪を犯したとも思っていないからだ。司法が有罪という判決を下しただけで、当の本人は有罪とは認めていないのだから、反省の色が見えないのは当たり前の話である。

 もっと具体的な例を述べて言おう。仮に、冤罪逮捕で逆転無罪となった菅家さんが、収監される前に、無罪を訴えるために今回のような集会を催したとすればどうだろう。その時に、菅家さんに向かって、「収監されるというのに、あいつには反省の色が見えない」と言うことの意味を考えたことがあるだろうか?
 自ら無罪を訴えて罪を認めていない人物に対して「反省の色が見えない」などという言葉を投げかけることが、どれだけ無神経なことかが理解できるだろうか? それは憎むべき冤罪を生むことに自らが加担している可能性があることを意味している。その危険性を十分に認識している人であれば、こんな無神経な言葉は出てこないはずだ。

 もし、ホリエモンが自ら罪を認めて収監されるのであれば、あのようなモヒカン刈り集会を行うことに対しては批判されても仕方がないと思う。もし自他共に認める犯罪者があのような集会を開けば、確かに大きな問題だろう。しかし、罪を認めていない人間であれば話は別だ。

 罪を認めていない人間が、なぜ何の反抗もせずに悲愴感を抱いて刑務所に収監されなければならないのだろうか? そもそもホリエモンが嘘でも罪を認めていたとすれば、執行猶予が付いて刑務所に収監されることもなかったかもしれない。
 本当に罪を犯したという自覚がある人間であるなら、さっさと罪を認めて執行猶予になることを選択したはずだ。しかし、敢えてそうしなかったということは、ホリエモン自身には本当に罪を犯した自覚はなく、自らは潔白だと信じているということだろう。どう考えてもそうとしか考えられない。
 本当に罪を犯した認識が無いがゆえに、彼は“刑務所に入る”という選択をせざるを得なかったと考えるのが、まともな人間の感覚ではないかと思う。
 
 ホリエモンも刑務所の中からでは反論したくてもできないだろうから、ホリエモンが言いたいであろう反論も交えて少し書かせていただいた。
 しかし、法律や理屈以前に、少しは他人(ひと)を見る目のある人間であれば、ホリエモンが悪人でないことぐらいは解りそうなものだが…。

 さて、最後に本題に入ろう。今回のホリエモンのモヒカン刈りは何を意味するか?
 
 一言で言えば、それは『自由の象徴』である。
 
 義務教育である小学校や中学校では、丸坊主にしなければならないとか、髪型や髪の長さや髪色は厳しく管理されている。学生達はそういった決まり事を金科玉条のように永遠不変の決まり事だと思い込みがちだが、社会に出れば、それが不変の価値ではないことを知るようになる。
 髪型を自由にできるということは、何者にも管理されない自由な権利を有しているということであり、その最後の権利を精一杯主張した姿が、今回のモヒカン刈りであったのかもしれない。
 収監と同時にモヒカンを捨てて丸刈りになるということは、自由を失うことを意味する。

 私が思うに、これはホリエモン流の個人的なパフォーマンスというより、国民への暗喩的なメッセージになっているような気がする。意識して行ったわけではないにしても、彼が刑務所に収監されるという出来事が意味するものとは、この国が『自由』という価値を失ないつつあることを意味する隠れたメッセージ(=警鐘)になっているような気がする。
 
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“ヤブ医者の論理”から生まれる増税政策のオンパレード

2011061901 東日本大震災が発生した当初から予想されていたことだが、政府は『震災からの復興』という、およそ誰も逆らうことができないクリーンな目的を前面に押し出し、あらゆる税金を押し上げようと画策しているように見える。昨日開かれた政府の「復興構想会議」では、所得税の増税まで行う方針を明らかにしたようで、この先、増税政策のオンパレードとなりそうな雲行きだ。
 
 しかし、増税に“絶好のタイミング”というものがあるとすれば、それは不況の時ではなく、好況の時である。例えば、バブル経済の真っただ中にあるような時には多少の増税を行ったとしても、それほど悪影響は発生しない。そういう時であれば、増税しても、税収は予想以上に伸びる可能性がある。好況時の増税は、過剰なバブルの引き締め信号とも成り得るので、バブルをソフトランディング化させるという意味でもプラスに働き、まさに絶好のタイミングだとも言える。
 
 これとは逆に、不況時に増税を行うというのは、禁じ手であり、税収は思った以上に増えずに、全てが悪循環に陥ることに繋がる。不況時に増税を行うと“増税スパイラル”という新たな大不況の到来を呼び込むことになる可能性が高いが、現在の日本はその大不況の扉の入口に立っており、民主党がその扉をこじ開けようとしているように見える。
 
 よく言われるように経済における「お金」とは人間の身体に喩えると「血液」のようなものである。そして「景気」とは「血液の流れ」に喩えることができる。
 
 人間の身体は血液が正常に流れていることによって健康が保たれているということは誰もが認知している常識だ。身体の内部に血液の流れを妨げるものが存在すると、人間の身体は直ぐさま不健康(=病気)に陥る。血管の外にある腫瘍等が血管を圧迫したとしても、血管の中にあるコレステロール等が血流を塞いだとしても、健康は損なわれることになる。
 
 今回の東日本大震災を人間の身体に喩えるとすれば、両手両足のいずれかが骨折し、その部分に血液がほとんど流れていないようなものである。
 元々、様々な規制や不況の煽りを受けて正常に血液が流れていなかった不健康な人物が、交通事故に遭い、右足を骨折して入院しているというのが現在の日本経済の姿であると言える。その場合に必要なことは、骨折した部分に正常に血液が流れるようにすることだ。そのためには、他の健康体である部分が活発に経済活動を行い、血液の量を増やし、血液の流れをスムーズにすることが必要になってくる。
 
 しかしこの国で真っ先に行われたことは「自粛」だった。経済活動を低下させることが善であるかのように実行されたわけだ。そして代替手段が無いにも拘わらず、原発は危険だという理由だけで、電気の供給量を下げる原発停止をあっさりと受け入れてしまった。電気の供給量が低下すれば、経済活動も低下する。つまり、血液の量が減少し、血液の流れが悪くなる。
 
 そして、血液の流れが悪くなったという理由で、増税を正当化しようというのが、現在の政府の発想だ。これでは、ただの“ヤブ医者の論理”である。

 大怪我をして血液が足りない患者に真っ先に行われることとは何だろうか?
よくテレビの医療ドラマでも、そういった急を要する患者が病院に運ばれてくるシーンを観たことがある人は多いと思うが、そこで医者が言う台詞は大抵、次のようなものであるはずだ。

 「輸血する必要があります

 そう、つまり、“外部から血液を入れる”という応急手段である。
 
 増税というものは、外部から血液を入れる手段ではなく、身体の内部の血液を無理矢理に持ってくるという手段である。正常に血液が流れている健康体であれば、そういった手段も成り立つだろうが、先にも言ったように、現在の日本は血液の流れが悪い不健康体なのだ。そんな状態で身体の内部にある血液を分け合っていたのでは、ますます不健康になるだけであり、健康体に回復する可能性すら奪われることになってしまう。これぞまさしく“ヤブ医者の論理”である。
 
 現在の日本に…と言うより、不況に陥った国で必要なことは、血液の量を増やし、血流をスムーズにすることである。血液の量を増やすためには経済活動が盛んに行われなければならず、血流をスムーズにするためには、血液の流れを遮断している障害物を取り除かなければならない。それが直ぐにできないのであれば、大量の輸血を行って応急的に血液を増加させる必要がある。
 その両方を可能にする政策とは、経済成長政策に他ならない。この際、復興を目的とした公共投資も並行して大々的に行うべきである。
 
 公共投資に関しては多くの批判もあるかもしれないので一応、先に述べておくと、公共投資と言われるものには『公共バラマキ』と『公共投資』の2つが存在する。日本で批判の対象となっているのは前者の『公共バラマキ』という偽りの公共投資であり、本来の公共投資とは、その名が示す通り「投資」である。
 穴を掘ってまた埋めるというようなケインズ的な公共投資ではなく、将来的に富を生む投資であれば批判の対象とはならないはずだ。
 将来的に富を生む公共投資であれば、増税するよりは余程まともな経済政策であると言える。そして、それが行えるのは政府だけだ。
 しかし、民主党には与党になった当初から増税ありきで経済成長政策が全く無いことはよく知られた話である。
 
 これまでの日本経済は供給過剰の状態であり需要が足りないという理由から不況に陥っていたが、大震災を契機として、供給不足という状態が発生した。つまり、突発的に需要が有る状態にスイッチングされたのである。しかし、運の悪いことに、電気が満足に使用できなければ需要を満たすことができない。
 景気を改善軌道に乗せるまたとないチャンスが訪れているにも拘わらず、そのチャンスを活かすことができないという二進も三進もいかない悪循環に陥っているのが現在の日本経済の有様だと言える。それは、出血多量の患者を前にして、血液のストックが充分に有るにも拘わらず、輸血ができずに右往左往している医者のようなイメージを彷彿とさせる。
 
 現在の日本で増税論などを唱えている人物は、紛れもなく“ヤブ医者”である。
 “ヤブ医者に命を預けることほど危険なことはない”という当たり前の経済認識が常識として定着しなければ日本経済は衰退する一方である。
 
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『共貧主義社会』へ到る道

2011061101 地上デジタル放送の完全移行化を目前に控えて、デジタルハイビジョン対応の薄型液晶テレビの売れ行きが好調らしい。数年前には「1インチ1万円」と言われていた液晶の価格も現在では「1インチ1000円」近くまで値下がりしてしまった。現在では、32インチの液晶テレビが3万円台で購入することができる。

 かくゆう私も1年程前に40インチの液晶テレビを購入した。販売価格は10万円台だったが、当時の家電エコポイント制度(24000円)を利用して実質8万円程度で購入することができた。しかし、1年後の現在ではエコポイント制度を利用しなくても、同一の液晶テレビが8万円以下で買えるようになってしまったので、損をした計算になる。
 テレビをあまり観ない私が、焦ってハイビジョンテレビを購入する必要もなかったのかもしれないが、それでも購入したことを後悔はしていない。(DVDで映画を観る分には結構重宝している)

 昨年にエコポイントに釣られて液晶テレビやプラズマテレビを購入した人は多くいると思われるが、「エコポイント制度に騙された、金返せ!」などと言っている人は極めて少数だろうと思う。損をしたと言っても、1インチ1万円もした物が、これだけ安価で手に入るようになったのだから、どちらかというと買って満足した人の方が多いのではないかと思う。

 地上デジタル放送移行における様々な社会的な問題点は有るものの、「経済政策」という1点だけでとらえれば、『家電エコポイント制度』は景気刺激策としての機能を果たしたと言えるのではないかと思う。多くの国民に“お金を使わせること”に成功したのであれば、立派な経済政策だったと言える。

 現在の日本の不況の1番の原因は、お金が正常に動いていない(=消費不足)ことであるので、多少強引な政策であったとしても、上手く国民をその気にさせて、お金を消費させることができれば、結果的にはプラスに繋がる。
 「それでは詐欺ではないか!」などという貧しい苦情を言っていたのでは、景気は悪くなる一方なので、この際、目を瞑って受け入れた方が得策だと思う。時には気前よく「騙された」と言えるぐらいの器量も併せ持たないと、経済だけでなく人生までも萎縮してしまうかもしれない。

 しかし、理想としては、エコポイント制度のようなややこしい政策を実施するまでもなく、消費者に本当に買いたいと思わせるような魅力的な商品が自然に登場してくれる方が良いに決まっている。
 最近で言えば、アップルの製品などがその良い例かもしれないが、私も10年程前に現在のiPadのような製品(電子書籍媒体)があればいいなと思っていた。デジタル媒体で本や漫画や雑誌を読めるようにすることは技術的には可能だということは誰もが解っていたと思う。しかし、様々な社会的な障壁(業界事情や著作権など)が邪魔をして商品としては成り立たないだろうなとも思っていた。
 ところが、アマゾンやアップル等の新興先進企業はその障壁をいとも容易く(?)乗り越えてしまった。アメリカという自由な経済市場で活動できたことも、それを可能ならしめた大きな理由であったのかもしれないが、そういった企業が世界の消費活動の牽引役を演じていることは確かである。

 人々が本当に買いたいと思うような商品は、天才の閃きと行動力から生まれる場合が多々ある。そういった才能を開花させ、育むという文化があってこそ、経済は発展し、多くの人々がその発展から生まれた果実を享受することができるようになる。
 しかし逆に、天才を嫉妬し、才能を抑え込むというような嫉妬文化が花開くと、経済は萎縮し、多くの人々が等しく貧乏になってしまう。
 つまり、この世では実現不可能だとされている共産主義社会のようなものは、嫉妬文化が根付いた社会からは、なおさら誕生しないということである。ところが、「共産主義者」と名乗る人物に限って、金持ち批判が得意であることはよく知られたことである。それが如何に矛盾した言動であるかは、敢えて述べるまでもないだろう。
 
 サッチャーが言ったように、「金持ちを否定しても貧乏人が金持ちになるわけではない」というのは、まさしく社会学的な真理であり、嫉妬文化が根付いた社会から生まれる社会とは、共に貧しくなる共貧主義社会でしか有り得ないということである。
 
 先日、DVDで『ソーシャル・ネットワーク』を観てみたが、その映画の主人公マーク・ザッカーバーグのような人物が日本にいたとしても、おそらく成功者としての人生は歩めないのではないか?というのが率直な感想だった。
 多少の曲者であっても才能有る人物にはどんどんお金儲けに精を出してもらった方が世のため人のためになる。日本もいい加減に共に貧しくなるような嫉妬文化から脱皮してもらいたいものだ。
 
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「目処が立つまで」という菅総理の自己矛盾

2011060401 震災復興の最中、民主党の体たらくぶりを見るに見かねた野党は、菅内閣に対して内閣不信任決議案を提出した。しかし、結果の方は茶番に終わったことは周知の通りである。
 
 「この時期に不信任決議を行うことは時間の無駄だ」という批判もあったものの、もし可決されれば、民主党の迷走にストップをかけることができ、急がば回れ的な意味合いでプラスになるという意見もあった。しかして結果の方は、まさかの“不信任決議案を否決”だった。皮肉にも、最初から何も行わない方が良かった(=時間の無駄)という結果になってしまったということである。

 菅総理がうつむいて原稿を読まずに前を向いて話す姿は久しぶりに見たような気がしたが、その姿は“保身には前向き”という姿勢を表しているような気がした。
 「目処が立つまで」というような玉虫色の答弁を行うようなところはいかにも菅総理らしい。震災問題だけでなく、これまでにもあらゆる問題を先送りしてしてきた経緯を見れば、菅総理の口から出た「目処」という言葉は「半永久的」と同義語と受け取れなくもない。

 こういった茶番を観るにつけ、この国の政治にある種の絶望感を抱いている人は多いと思うが、率直に言うなら、“政治家には政治改革を行うことはできない”というのが結論だろうと思う。

 仮に今回、内閣不信任決議が可決されたとして、一体誰が次の総理になるのか?という疑問を抱いている人は多くいたようだが、実際のところ、誰が総理になっても、近い将来、テレビを通して同じような茶番を観ることになる可能性は高いと思う。

 「政治家とマスコミは国民を映す鏡」という言葉もあるように、政治家は常に国民と同レベルを演じなければならないという悲しい性を抱えている。マスコミも同様に、多くの国民が欲している情報を提供することがその使命となっているがゆえに、国民の多くがゴシップ記事を好めば、その通りの記事を嫌でも提供しなければならないという悲しい宿命を背負っている。
 しかし、庶民の意見に迎合することによってしか政治家としての地位を保つことができないような社会では、誰にも政治改革などできるはずがない。いくら正論を述べたところで庶民に嫌われてしまっては選挙に落ちてしまうのだから、まともな政治家の出現を期待する方がどうかしているとも言える。
 
 要するに、まともなことを言う(実行する)人間であればあるほど政治家にはなれない社会になっていることが、日本の政治がいつまで経っても良くならない原因なのである。もっと言うなら、何がまともなことなのかという善悪の共通認識が確立されていないことが根本的な問題なのである。

 公務員としてしか生きていけない人が公務員改革に反対するのと同じように、政治家としてしか生きていけない人が、自らの安住の住処を滅ぼすような政治改革などを行えるわけがない。政治家が政治改革を行うということ自体が、ある意味で自己矛盾なのである。もちろん、中には清廉潔白な政治家も隠れているとは思うが、そういった政治家が表舞台に出てこれないのであれば、いないと思われても仕方がない。

 正直、現在の日本で本当に政治改革が行えるのは、政治家を辞めても他の道で生きていける人でしか有り得ないと思う。しかし、そういった有能な人が政治家になろうとしても、あまりにもリスクが大きい。政治家になって本気で政治改革を行おうなどという人間(例えばホリエモンなど)が現れても、悪役に仕立て上げられ、中世の魔女狩りの犠牲者のようになってしまうような社会では、よほど腹の座った維新の志士のような人物でないと政治家になりたいなどとは思わないと思う。
 
 現在の日本の有名実業家がこぞって政治家となって日本経済を運営してくれれば、日本の政治問題などは一気に解決に向かい、日本経済の先行きも明るくなるのかもしれないが、市場も経済もチンプンカンプンというような経済オンチの政治家達が国会を私物化していたのでは、先行きは暗いと言わざるを得ない。
 
 今回、政治家にとっては「伝家の宝刀」とも言われる『内閣不信任決議案』が提出されても、残念ながら菅総理には通用しなかった。野党自民党は次なる策として、『首相問責決議案』を提出すると述べているが、また同じような茶番が繰り返されないとも限らない。
 
 先程、政治家の自己矛盾について言及したが、今回の菅総理の「目処が立つまで」という発言にも大きな自己矛盾が含まれている。震災復興が早まれば早まるだけ、自らの退陣時期も早まるというジレンマが内包されている。
 口では「震災復興が第一」などと述べていても、その目的が同時に自らが嫌う「退陣」とイコールの関係にあるということは重大なチェック項目である。まかり間違っても、政治家としての自己保存欲を優先して震災復興を遅らせるというようなことにはならないように、しっかりとチェックしなければならない。
 
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