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2011年7月

世界一恵まれたモラトリアム国家『日本』

2011073101 先週は、中国での高速鉄道の衝突・脱線事故が大きな話題となり、珍しく日本でも中国バッシングに近い内容の報道が繰り返されていた。
 中国政府の無茶苦茶な隠蔽工作ぶり(他国のテレビカメラが回っている最中に、堂々と事故車両を地中に埋める)には世界中の人々が呆気にとられたが、一党独裁の中国政府の真の姿を垣間見たという人も多かったのではないかと思う。一党独裁国家にとっては、国民の命を救うことよりも、国家の体裁を保つことの方が重要だと言わんばかりの禍々しい光景だった。
 
 こういった中国政府の隠蔽体質に比べれば、日本政府の隠蔽体質などはかわいいものかもしれない。日本では原発で事故が発生すると、その事故の詳細を隠蔽する体質は見受けられるものの、流石に事故が発生したことまで隠すことはできない。しかし、中国では、もし原発で事故が発生しても、本当に「事故は発生しなかった」で押し通す危険性があり、またそれが可能な国でもある。日本のように反原発運動などを行って政府をあからさまに批判しようものなら、国家反逆罪で逮捕されてしまいかねない。
 そんな国が日本を追い抜き、このままいくとアメリカまで抜いて世界一の経済大国になろうとしているわけだから、もう少しその危険性を考えた方がよい時期なのかもしれない。
 
 先日もパナソニックに買収された三洋電機の白物家電事業が中国のハイアールに売却されるとのニュースがあったばかりだが、依然として、中国の日本企業買いは進められているようで、「パクリ国家」と批判されつつも、『世界の工場』としての地位を確固たるものにしつつあるようにも見える。
 
 今回の中国の高速鉄道事故を受けて、いよいよ中国のバブルも崩壊に向かうとの声も多く聞かれるようになったが、どちらに転んだとしても日本経済はタダでは済まない。このまま中国バブルが続けば、いずれ日本は中国の下請け国家になるだろうし、中国バブルが崩壊すれば、これまで中国の安価な労働力に依存してきた日本のデフレ経済モデルも同時に崩壊することになる。
 
 日本の悲劇は結局のところ、全てにおいて「どっちつかず」の姿勢にあると言える。原発問題にしても、『経済』を優先するか『安全』を優先するかで揉めに揉めているが、これがアメリカや中国であればどうかというと、おそらく、どちらの国も手段は違えど『経済』を優先することになっていただろうと思う。
 アメリカの場合は、「多数の幸福は少数の幸福に優先する」というようなことを力説するだろうし、中国の場合は、先にも述べたように国家の体裁を無理矢理に維持するために、経済発展を優先するだろう。それが良いことだと言うつもりはさらさらないが、日本のように優柔不断なところが無いことだけは確かである。
 
 日本では毎年、総理が靖国神社に参拝するかどうかで揉めているが、アメリカや中国(と言うかどこの国でも)では、こんなことは有り得ないと思う。
 あるいは、年功序列制度を続けるか止めるかというような問題でも、いつまで経っても「どっちつかず」の姿勢であるために、一向に問題が解決しない。
 
 とにかく何でもかんでも「どっちつかず」のモラトリアム国家であるがために、バブル崩壊以降、「あーだ、こーだ」と揉めている間に何1つ問題が解決されずに、20数年が経過してしまった。
 しかし、そんなモラトリアム大学生のような心境でも、これまでは何とかやってこれたのだから不思議なものである。「何とかなってきた」という成功体験(?)が有るがために、「これからもなんとかなるさ…」と大部分の人達が内心思っているのだろうと思う。
 
 これだけ楽観的な国民性は世界的にも稀だと思うが、その反面、将来の不安やらでお金を使おうとしないのだから、どこまでが楽観的で、どこまでが悲観的なのかよく分からない。楽観的か悲観的かにおいてさえもモラトリアム化しているとも言える。
 それでも未だに世界第3位の経済大国をかろうじて維持しているのだから、日本はある意味で、世界一恵まれた国なのかもしれない。
 平和ボケ国家のまま時が過ぎてくれるに越したことはないが、現実的にそんなことが可能かどうかを考える時期に来ているのかもしれない。

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『市場原理』とは何か?

2011072601 前回、話の成り行きで「資本主義」について少し言及すると、案の定と言うべきか、アンチ資本主義者(?)と思しき方からの反論、批判がかなり見受けられた。中にはわざわざブログ記事まで書いて批判している人もいたようなので、少し補足しておきたいと思う。

 私は別に資本主義が万能の経済システムなどとは思っていないし、盲目的に礼賛しているわけでもない。人間の性質上、共産主義(社会主義)よりも資本主義の方がまともだと思っている程度である。人間の劣情(悪く言えば嫉妬心)に基づく共産主義よりも、人間の欲望(良く言えば向上心)に基づく資本主義を選択した方が、社会は断然良くなるという単純なことを述べたまでである。
 
 日本では「資本主義」というものが「市場原理主義」のことだと思われているフシがあるが、その市場原理というものが初めから誤解に基づいた認識から論じられているため、まともな資本主義批判などはほとんどお目にかかったことがない。
 大抵が思い込みによって組み立てられた感情論によって批判が為されているため、まともに反論すること自体に意味があるとは思えないので、敢えて反論せずに聞き流すようにしている。…と書くと、また反論・批判が殺到しそうなので、少しでも曲解を解いてもらうために、市場原理について少しだけ述べておこうと思う。市場原理については以前にも述べたことがあるので、少し重複することになるかもしれないが、思い付くままに書いてみたいと思う。

 まず、「市場原理」とは何だろうか? その言葉の真の意味をよく考えていただきたい。「市場」とはもちろん、マーケットのことだが、「原理」とは何か? どんな辞書でも引けば出てくる単語だが、一言で言うなら「根本的な原則」のことであり、もう少し分かり易く言うなら、「不変の法則」のことである。

 時代や国が変わっても変わることがないマーケットの法則を「市場原理」と呼ぶのであれば、サブプライム問題によって「市場原理が崩壊した」というのは、よく解らない理屈である。アメリカの金融バブルは人為的に発生した現象であり、当然のことながら、不変の法則とは全く無関係の代物だからだ。

 では、市場原理とは何なのか? それは、先のサブプライム問題を例にとって言うなら、アメリカの金融バブルを破綻させた法則のことである。サブプライム問題によって市場原理が破綻したのではなく、市場原理によって金融バブルが破綻した。それが答えである。

 サブプライム問題によって破綻したのは、資本主義でもなければ、市場原理でもなく、人間の果てしのない欲望原理主義(簡単に言えばバブル)が崩壊したというだけのことなのである。
 行き過ぎたバブルを破綻させることが善であると仮定するなら、市場原理とは、歪んだシステムをまともなシステムに強制する法則だとも言える。つまり、市場を本来のあるべき姿に戻す普遍的な法則のことを「市場原理」と呼ぶのである。

 ここまで言えば、少し勘の鋭い人であれば、「サブプライム問題によって市場原理が崩壊した」などというのが、いかに間違った認識であるかが解っていただけると思う。この言葉を言い換えれば、次のようになる。

 「サブプライム問題によって普遍的な法則が崩壊した

 これでは、完全に論理が逆さまになっている。普遍的な法則は、人間の欲望如何によって変化するようなものではなく、常に一定の法則のもとに存在している。その法則が有るからこそ、行き過ぎたバブルは崩壊するようにできているのである。

 大抵の人々(私も含む)はバブルの渦中に有る時、それがバブルであることを正確には認識できないが、市場には常にその状態がバブルであるかどうかを判断する法則が機能している。それが市場原理というものの正体である。

 ゆえに市場原理が崩壊するなどということは本来、有り得ない。「市場万能主義が崩壊した」と言うならまだ理解できるが、「市場原理が崩壊した」と言うのは、「地球から空気が無くなった」と言っているに等しい。あるいは、借金によって国が崩壊した時に「貸借対照表が崩壊した」と言っているようなものだ。

 「市場」というものは人間が動かしている以上、完全なものでは有り得ない。「市場は完全でなければならない」と思っているのは、資本主義を否定している社会主義者の専売特許であり、そういった屈折した思い込みが有るがゆえに、「市場原理は悪」などというトンチンカンな言葉が出てくるのである。
 
 「市場原理が崩壊した」などと言っている人達が崩壊したと思い込んでいるのは、「市場原理」の名を借りた「人間の欲望」のことであり、そういった基本的な認識を持たずに、いくら資本主義や市場原理主義を批判したところで、全てが不毛なのである。
 
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格差の否定から誕生する「貧しさの平等社会」

2011072101 先日、朝の某テレビ番組を少し観ていると、「電力会社の原発経営」というものを強引に資本主義と結び付け、危険な原発清掃などを行なわなければならない人達がいるのは、資本主義による格差のせいだとするような内容の番組が放送されていた。
 
 この番組が暗に発しているメッセージとは、《資本主義を止めれば格差は無くなり、平等な社会となって、全ての人間は自分自身が望む理想的な仕事に就くことができ、危険な仕事は誰もやらなくてもよい》ということなのかもしれないが、今時、こんなマルクスめいた思想をそれとなく刷り込もうとしているテレビ番組があることに驚きを禁じ得なかった。
 
 よく知られたように、自らが(収入)格差の頂点に君臨すると思われるマスメディアが、格差を悪と喧伝すること自体に無理があると思われるのだが、果たして“格差が有る社会”と“格差が無い社会”とでは、どちらが住み良い社会なのだろうか?
 
 こう問われると、「格差が無い社会」と答える人の方が圧倒的に多そうだが、“最大多数の最大幸福”という観点で考えれば、「格差の有る社会」の方が住み良いに決まっている。
 
 このことは、「格差」というものを「試験の点数」に置き換えて考えると分かり易いと思う。
 
 例えば、10人の人がいて、5人が70点、5人が30点だったとすると、平均点は50点になる。70点の人が30点の人に20点分を分け与えることによって平均点を50点にしているわけだが、この40点分(70点−30点)の格差を縮める方法は2つある。
 当たり前の話だが、1つは、30点の人が頑張って点数を上げること、そしてもう1つが70点の人が意図的に点数を下げることである。
 
 ところが、この国のマスメディアが喧伝しているのは、70点の人の点数を下げることばかりで、30点の人が努力しなければならないとは絶対に言わない。
 なるほど、確かに70点の人の点数を60点にすることができれば、30点の人は努力することなく格差は10点分縮まる。しかし、平均点は45点に下がってしまう
 
 30点の人が努力することなく平均点を上げるためには、70点の人に頑張ってもらうしか方法はない。もともと高得点を取れる人ほど努力を厭わない人が比率的には多いだろうから、その方が平均点を上げる近道でもある。70点の人が80点を取れるように努力してくれれば、平均点は55点となり、生活水準は底上げされる。30点の人が努力せずに0点になったとしても、70点の人が頑張って100点を取ってくれれば、平均点は50点のままで、全体としての生活水準は下がらない。
 
 上記の喩えで言えることは次の1点に尽きる。
 
 「努力するのが嫌なら、格差を認めた方が良い
 
 ここでは100点満点ということで話を進めたが、実のところは、この試験には上限というものはない。もし1000点を取れる人がいれば、一気に生活水準は底上げされることになる。しかしその場合、圧倒的な個人的格差が発生することになる。70点と30点であれば、せいぜい2倍程度の格差だが、1000点と30点となると、30倍以上の格差が開くことになる。
 ここで、「そんな格差は認められない!」と言って、その1000点が取れる人物を否定し、「あいつは格差を生み出している張本人だ!」と罵り試験を受ける権利を剥奪してしまうと、どうなるか?
 
【答え】格差は大きく縮小するが、生活水準も大きく目減りすることになる。つまり、貧しさの平等社会が生まれることになる。
 
 一応、お断りしておくと、「格差」というものは「差別」のことではない。何の根拠もない無意味な差別を助長することは悪だが、意味のある格差を助長することは悪とは言えない。人間が“努力して成長する”という性質を持っている以上、格差というものは本来、有って当たり前であり、格差を否定すればするほど、社会は困窮し、本当に救いを必要としている弱者をも救えなくなり、無意味な差別を助長することに繋がる。
 
 現在の日本で弱者を救済するシステムが少なからず機能しているのは、格差が無いからではなく、将来世代に借金のツケを先送りしているからに過ぎない。本来であれば、借金などをせずに救済するシステムが自然と機能することの方が望ましいわけだが、格差を肯定しない限り、そのシステムが機能することはまず有り得ない。
 
 資本主義は格差を生むものでもあるが、まともに機能すれば、全体としての総量、つまり、パイの大きさを変えることができるシステムでもある。たとえ、個人的な格差が発生したとしても、全体としての総量が大きくなればなるほど、全体としての生活水準は向上する。
 
 ただ、現在の日本は、資本主義とは無関係な歪な社会構造から派生した格差が拡大しているという側面がある。真っ当な格差真っ当でない格差が混然一体となっているがために、話がややこしい。意図して行っているのかどうかは定かではないが、資本主義を悪者(スケープゴート)にすることによって、歪な社会構造が隠される格好になっている。
 
 個人の努力とは無関係な歪な社会構造が生み出した格差を、「すべて資本主義から生まれた格差だ」とマスコミがアナウンスすると、多くの人々がまんまとその言葉に踊らされてしまい、まさに先のテレビ番組のように、「格差があるのは資本主義のせいだ」となってしまうわけだ。
 
 ちなみに、菅総理が理想(?)とする「最小不幸社会」というのも、格差を絶対悪とする思想であることは言うまでもない。「最小不幸社会」というのは、格差を認めない「貧しさの平等社会」の別名である。
 
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「お役所の土日営業」というカイゼン(改善)

2011071501 東京電力および東北電力等が、夏の電力消費量を15%節電するように企業に求めていたことも関係してか、現在、トヨタの工場などでは夏期限定で土・日が出勤日となり、代わりに木・金が休日になっている。しかし、一部の人気車種の生産が追い付かず、仕方なしに休日出勤(木・金出勤)を行っている所もあるらしく、実質的には労働時間が増えているという人もいるらしい。
 
 企業が安心して生産活動を行うためには潤沢な電気の供給が必要であり、少しでも使用量に制限が設けられてしまうと、即、企業経営にダメージを与えることになる。
 事務処理だけを行っているようなサービス業であればともかく、電気を大量に使用する製造業が15%もの節電を行うというのは、かなり無理があることは否めない。震災の影響で需要が増えている業界であれば尚更である。本来であれば、電気使用量が何割か上がるところを逆に85%にせよというのだから、実質的には30%程生産を控えよと言っているようなものである。

 今回の電気使用量15%節電目標というのは、鳩山元総理の二酸化炭素の25%削減目標と同じようなもので、正直、企業にとってはまともに受け入れられるような数値目標ではないのかもしれない。

 自動車会社は現在、需要が有るにも拘わらず、電気を充分に使用できるという保証が無いために生産の縮小を余儀無くされており、その悪影響は様々なところに波及していると思われる。少し前までは、派遣社員の解雇問題がクローズアップされていたことは記憶に新しいが、「派遣社員の解雇反対!」と叫んでいた人々は、この事態をどう思っているのか聞いてみたいものである。

 「即刻原発を停止せよ!」=「派遣社員は即刻解雇するべきだ!
 「企業は節電は受け入れるべきだ!」=「派遣社員は解雇を受け入れよ!

 上記の台詞は実は(不都合な)同義語であるということを知らねばならない。
 
 今回は特に電力問題についてはこれ以上言及するつもりはないので、先程のトヨタの土・日出勤の話に戻そう。

 日本自動車工業会が節電のために自主的に出勤日の変更を提案して、実際に民間の自動車会社が土・日に出勤するという柔軟な姿勢を見せているのだから、お役所も試験的に土・日に出勤するという風にしてみてはどうかと思う。無論、先にも述べた通り、事務職の節電効果などはほとんど期待できないので、節電が目的というわけではない。

 一部のお役所ではサマータイム制度を導入しているということだが、この際、土・日を出勤にするとどう変化するのかということを試してみるよい機会ではないかと思う。民主党の支持率も下げ止まらず10%に迫る勢いなのだから、支持率を回復させるためにも思い切ったことをするべきかもしれない。

 菅総理が今、「お役所も民間企業を見習って土・日に出勤するようにします」とでも言えば、国民から大いに歓迎され、支持率が下げ止まることは間違いないところだろう。まともな公務員改革ができないと思われていることも支持率を下げている一因であろうから、それぐらいの改善案を提示してもバチは当たらないだろう。言わば、お役所の「カイゼン」である。
 
 「土・日を出勤日にすると税金(人件費)が上がります」という詭弁が聞こえてきそうだが、正直、土・日も営業してくれるなら少しくらい税金が上がっても構わないという人は結構多いのではないかと思う。どのみち、現政府は震災復興を理由にあらゆる税金を上げようと画策しているわけだから、「税金を上げる代わりに役所の土・日営業を行います」とでも言っていただきたいものである。
 不況に喘ぐ民間企業であれば、土・日に出勤するだけで雇用が確保されるということなら、喜んで出勤する人はいくらでもいると思う。

 そもそも多くの国民が利用する役所が土・日を休日にしていること自体が不自然なわけで、普通のサラリーマンがわざわざ会社を休んでまで役所に行かなければならないのであれば、何のために真面目に税金を納めているのか解らない。一般の利用者が最も多いと思われる日を堂々と休日にしているわけだから、これはある意味で公務員としての職務放棄だとも言える。
 一般人相手のお客商売を行っている民間企業が土・日に休んでいれば、笑い話であり、もし、そんな会社があったとすれば、半年も経たずに市場から淘汰されてしまうだろう。

 民間企業に過剰な節電や土・日出勤を半ば強要するのであれば、国もその見本を国民に対して見せるべきだ。実際のところ、土・日よりも平日に休みたいと思っている公務員の人もいるだろうから、案外、受け入れられる可能性もあるのではないだろうか? 人員削減も給料カットも無い公務員カイゼンなら、充分に実現できる可能性はあると思う。
 役所の全日稼動が実現すれば、おそらく多くの国民から好評を博すことになるだろう。できれば、期間限定の土・日出勤ではなく、そのままフェードインしていただければ有り難いと思う。
 
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浜岡原発停止から派生した『ストレステスト』

2011070901 菅総理が突然(?)言い出した原子力発電所へのストレステストによって、危惧されていた大幅な電力不足という事態がより一層、現実味を帯びてきた。
 ストレステストを実施する理由は、「住民の安心感を得るため」ということになっているが、当の住民達は、逆に電力不足による経済的な悪影響を心配しており、実質的には「住民の不安感を煽るため」の政策になってしまっている感がある。
 
 少し前に菅総理は、最もリスクが大きいということを強弁して無理矢理に浜岡原発の停止に踏み切ったわけだが、舌の根も乾かぬうちに「全国の原発でストレステストを行う」などと述べるのであれば、浜岡原発もストレステストだけで済ませばよかったのではないか?と言いたくもなる。
 
 元々、浜岡原発だけが危険などという理屈は成り立たないとは思っていたが、そういった矛盾を孕んだ政策を疑いもせずに受け入れてしまった国民が招いた悲劇の1つが、今回の『ストレステスト実施』だとも言える。そう考えると、今回のような事態を招いたのは、政府の責任というよりも国民全体(浜岡原発停止賛成論者)の責任だとも言える。
 しかし、浜岡原発の停止を了承した時点で、このような事態を招くだろうことは大凡の予想はできたはずである。浜岡原発の稼働リスクだけに目がいって、浜岡原発の停止によって招くリスクというものを考えていなかったことが招いた人災だと言っても決して言い過ぎではないと思える。
 
 そもそも我々国民は、望む望まないに拘わらず現在でも原発で生産された電気を使用している。現在、「原発を即刻廃止せよ!」と大声で叫んでいる活動家も、電気を使用せずに生活しているわけではなく、少なからず原発に依存した生活を送っている。それは現在だけではなく、過去も同じで、これまで原発に依存してきた生活に何一つ疑問を感じることなく満ち足りた電気生活を謳歌してきたわけだ。そんな人物が、原発で事故が発生した瞬間に180度性格が反転し、私は被害者だと言わんばかりに原発を否定する人間に豹変してしまう。これはよく考えると非常に都合の良い精神構造だと言える。なぜなら、こういった人達には“自らを反省する”という姿勢が全く感じられないからだ。
 
 自らが原発の危険性に全く無頓着であったにも拘わらず、「原発が危険だということを隠してきた国が悪い!」と、何でもかんでも国が悪い、国のせいだ、そして自分自身は全くの被害者だという発想は、一般的に「左翼」と呼ばれる人達の精神構造と全く変わらない。そのように見えてしまうのは私の錯覚だろうか?
 
 原発で再び事故が発生すれば確かに危険であり、そういった事態を避けなければならないという考えは充分に理解できるが、これまで原発行政を批判することもなく、電気を使用し続けてきた人間であるならば、自己責任として、そういった事故が発生するリスクは甘んじて受け入れなければならないとは考えられないのだろうか? そして、原発に依存した生活を謳歌してきた人間であるならば、原発に依存しない生活を送れるようになるまでの間は、嫌でも原発に依存した生活を我慢するしかないという自責の念を感じないのであろうか?
 
 少なくとも私は、現在も過去も、そして未来も少なからず原発に依存した生活を送らなければならないと思うので、原発に変わる新しいエネルギーが開発されるか、代替エネルギーが確保されるまでは、「原発を即刻廃止せよ!」などという恥知らずで無責任な言動を起こそうとは思わない。実際に事故が発生するまでノホホンと過ごしてきた人間であるならば、自らの非を認めてリスクを受け入れる、それが最も現実味のある妥協案ではないかと思う。
 
 以前にも何回か述べたが、そもそも今回の原発事故が発生した根本的な原因は、原発行政と電力会社の危機管理が甘過ぎたことにあるわけで、原子力発電技術に問題があったわけではない。しかし、仮に大震災が起こる前に、国が「30mの津波が来ると危険なので、30m以上の防波堤を建造するために、税金を上げる必要があります」などとアナウンスすれば、どうなっていただろうか? 国民はそういった忠告を素直に受け入れただろうか? おそらく大部分の国民は、「そんな津波が来るわけがないだろう、税金を上げるための詭弁だ!」と言って反論していたはずである。今でこそ、30mの防波堤に疑問を抱く人はいないが、わずか半年前では10mの防波堤ですら現実味のない話だったのである。
 
 こんなことを書くと「被害者でもない人間が偉そうなことを言うな!」というような批判を頂戴することになるかもしれないが、そんなことを言ってくるような人は今回のような事態(ストレステストが実施される事態)を招く可能性があることを予測できたのだろうか? それが結果的に産業の空洞化という極めて性質(タチ)の悪い悲劇を齎すという危険性を少しでも予測し得たのだろうか? あるいは、原発さえ無くなれば、日本経済(自分自身の生活も含む)などどうなっても構わないとでも言うつもりだろうか?
 
 更に「現実が見えていない机上の空論だ!」とお叱りを受けそうだが、現実が見えていないのは、むしろ、闇雲に「原発を廃止せよ!」と叫んでいる人々の方ではないだろうか? 目先のトラブルだけに心を奪われ冷静さを失い、将来的な国の姿や国民の生活を考慮せずに政府を否定するだけという都合の良い責任転嫁思想に囚われている人々の方ではないだろうか?
 
 「被害者でもない人間が善人面するな!」と言うのであれば、“被害者でもない人間が被害者面している”ことにこそ目を向けるべきかもしれない。そういった偽善者達が間接的かつ無意識的に日本経済を破壊しているという現実をこそ直視し批判するべきなのだ。

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「オフレコ」事件にみる現代の裸の王様

2011070501 昨日、松本 龍(元)復興担当相の被災地訪問における失態(?)が全国的に物議を醸した。
 私も昨夜、帰宅後にこのニュースをテレビで偶然観ることになったが、呆れる以前に、一瞬、「冗談かヤラセではないか?」と本気で疑ってしまった。こんなヤクザドラマの1シーンのような光景を、まさかノンフィクションで観ることになるとは思わなかった。しかも重責を担っているはずの政治家がテレビカメラを前にして堂々と悪役を演じていることに驚きを禁じ得なかった。

 松本氏は今回の宮城県知事との会見の一部を「オフレコにせよ」とマスコミを恫喝したものの、情報は瞬く間に全国に拡がり、ユーチューブでも公開され、一夜にして松本氏は時の人となり、辞任までに2日とかからなかった。

 しかし、東北放送が脅しにビビって本当に「オフレコ」扱いにしていれば、この問題は世間一般には広まらずにいただろうと考えると、ある意味、恐ろしいものがある。
 一部(1人)の人間の勇気ある行動によって真相が暴かれるという構図は例の『尖閣事件』に似ていると言えなくもない。ユーチューブによって全国に拡がり、隠しようがなくなってしまったという構図も同じパターンだと言える。

 これまでにも政治家の失言問題というものは多々あったが、大抵は、いちいち騒ぎ立てるほどのことではないようなものばかりで、ネット上では批判の矛先が失言を発した政治家よりもマスコミに向かうという逆転現象が起こるのが毎度のパターンだった。しかし、今回の場合はこの逆で、批判の矛先はマスコミではなく、松本氏のみに向かった。

 毎度の単なる失言であれば、私も敢えてブログ記事にはしないところだが、今回の場合は「失言」では済まされないと思われるので、ブログネタにさせていただくことにした。

 松本氏が宮城県知事に向かって暴君の如く偉そうに叱責したことについては、「言い過ぎた」で済ませられる可能性があるかもしれないが、報道関係者に向かっての「オフレコ」発言は、失言というような次元の話ではなく、明らかに確信犯的行為である。テレビカメラがまわっている最中に堂々と権力を傘に着て、脅しをかけているわけだから、こんなものが失言だったと言い訳するのであれば、「酒を飲んで泥酔していた」とでも言うしかない。もし素面(しらふ)で言っていたのだとすれば、独裁者気取りの極めて危険な政治家であると言わざるを得ない。

 私情に流されるような人物が、最も客観的な判断を要される復興担当相という重大な責務を全うできるとは到底思えない(当の本人も元々やる気がなかったと伝えられている)ので、復興担当相を辞任したことは当然として、ついでに政治家自体を辞任した方が良いかもしれない。まともな神経をした人間であれば、これだけの醜態を晒してまで政治家を続けていこうなどとは思わないだろうし、もはや誰も付いてこないだろう。

 あのような恫喝劇は一朝一夕でできるとは思えないので、おそらく、今回たまたまキレて本音が出たのではなく、これまでにも同じようなことを何度も繰り返してきたのではないかと思える。「まさか誰も報道しないだろう」という経験則と安心感から、あのような行動に出られたのだろうと推測する。となると、マスコミはこれまで「オフレコ」を貫き通してきたのではないかと勘ぐりたくもなる。

 宮城だけでなく、岩手県庁においても、不敵な笑みを浮かべて知事に向かってサッカーボールを蹴り上げている姿は、まるでガキ大将イタリアンマフィアを彷佛とさせるものがあった。
 その横暴な姿を観て誰も注意しない光景に、ある童話の主人公が頭に浮かんだ。その主人公とは、アンデルセンの『裸の王様』である。

 今回、「王様は裸だよ!」と勇気を持って報道するテレビ局が無ければ、王様はこの先いつまでも裸のままであったのかもしれない。
 今回の事件の最も重要なポイントは、これまで「王様は裸だよ!」と言う人物が存在しなかったことにある。暴言を吐いたことが問題なのではなく、暴言を吐いても誰も注意してこなかったことこそが問題なのだ。
 まさしく我々は、現代版『裸の王様』物語を目にしたのである。

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「値切り」から発生する因果応報(合成の誤謬)

2011070201 「1円でも安くモノを買いたい」という人間の欲望は止まることを知らず、そのことを証明するかのように現在では牛丼の250円セールが催されている。私もたまに牛丼を食べに行くことがあるが、牛丼だけを注文するのは悪い(気が引ける)気がして、別の単品も必ずセットで注文している。
 牛丼に限った話ではないが、客寄せの最安値商品だけを注文して「俺はお客様だ」と言わんばかりに偉そうな態度で店員に接しているお客をよく見かけることがある。こういった人物は相当に(心が)貧しい人なのだろうな…と感心することがあるが、私もインターネットが流行る前は、電気街に出かけて商品を値切るということを当然のように行っていた時がある。

 その頃は電気店もある程度の利益を貪っていた時代であったので、店員も値切られても当たり前という感じで律儀に値段交渉に応じてくれた。当時は元々、値切られることを前提に販売価格が決められていたと思われるので、値切らずに商品を購入してくれる真面目なお客はチップを弾んでくれる有り難い上客だったのかもしれない。

 インターネットで商品が売買される時代になると、商品の販売価格の相場が全国的に可視(オープン)化されるようになったので、人々は日本で1番安いショップを探すことが可能となった。中には最安値を知った上で最寄りのショップへ値段交渉に出かけるという人もいるらしい。そこまで強欲(?)だと流石に呆れてしまうが、こういった行き過ぎた安値競争は、結局は消費者自身に跳ね返ってくることも、ぼちぼち考えた方がよい時期なのではないかと思う。

 おそらく大抵の人々は、かつての私がそうであったように、値切ることに成功すると「得をした」というプラス感情のみが芽生えるのだろうと思う。まさか、値切ることによって自分自身も間接的に損をすることになるなどとは夢想だにしていないと思う。

 このことは一般の消費活動に限った話ではなく、仕事においても言えることで、現在の日本企業ではコスト削減の一環で下請け業者に値下げ交渉を行うことなどは日常茶飯事的に行われている。別に値下げ交渉が必要無いというわけではないのだが、これも行き過ぎると、結果的には自分自身に跳ね返ってくることになる。

 例えば、これまで100万円で購入していた原材料を、値下げ交渉の結果、90万円に下げることに成功した場合、その交渉した人物は「10万円得をした」と思うだろう。確かにその会社の利益は一時的には10万円アップするので、会社単位で見れば得をしたことに違いはない。しかし、経済全体として見れば、10万円分経済が縮小したことになる。(正確に言うと10万円では済まないのだが、話がややこしくなるので、ここでは省略する)

 「景気」とはお金がどれだけ動いたかを示す指標でもあるので、100万円の商品が90万円で売買されるようになると、単純に経済規模は10%縮小したことになる。こういうことが全国的に全商品に跨がって行われるようになれば、入ってくる仕事の総量(利益)も90%に近付いていく(=ダウンする)ことになる。
 値切った時には「10万円得をした」と思っていたとしても、巡り巡って1割分の仕事が減少すれば、10万円を値引いた甲斐なく元の木阿弥になってしまうということである。全体としての会社の売上が1割減少すれば、それだけ給料も減少することに繋がるというわけだ。

 もちろん例外はある。しかし基本的には、商品を1割値切って喜んでいる姿というのは、自分自身の給料が1割下がって喜んでいる姿と表裏一体なのである。1割値切れば、巡り巡って別のところで1割値切られる羽目になる。これも因果応報とでも呼ぶべきものなのかもしれないが、一時の自分の利益しか考えない人間は、いずれその利益を気が付かない内に失うことになってしまう。
 
 「そんなことは信じられない」と言う人がいるかもしれないが、残念ながらそれがデフレ思考が蔓延した日本経済の一面であり、ありのままの姿である。本来のデフレ現象だけでなく、デフレ思考によって必要以上に経済が萎縮して、足の引っ張り合いを行わなければならなくなってしまっている。
 良いと思って行っていたことが、結果的に悪くなってしまうことは経済の世界では多々ある。震災が発生して「自粛する」ことも悪になれば、不況下において「値切る」という行為も悪になってしまうことがある。つまり、“値切る”という行為自体も“自粛”行為と同様に行き過ぎると『合成の誤謬』に陥ってしまうということである。

 ここで『デフレ』について少し補足しておこうと思う。

 少し前に、牛丼とデフレを掛け合わせて記事を書いたところ、「牛丼の値下がりはデフレ現象ではない(デフレの定義には当て嵌まらない)」というご批判(?)を頂いた。
 私は牛丼の安値競争がデフレに該当するなどとは思っていないし、一言も書いておらず、全体的な物価が下がるマクロ現象(デフレ)と、安値競争によって物価が下がるミクロ現象を意図的に結び付けて皮肉を書いたつもりなのだが、どうやらそれを曲解されたようだ。
 
 「デフレ」の定義とは、「一般的な物価水準の持続的下落」のことであり、現在、読書中の高橋洋一氏の著書『この経済政策が日本を殺す』にも解り易く書かれている。
 世の中(主にマスコミ)におけるデフレーションとデプレッション(不況)の混同を明確に指摘している書籍は初めてお目にかかった。

 「一般的な物価の値下がり」をデフレの定義とするのは、広義のデフレ論であるが、「牛丼」という個別商品の価格が値下げ競争によって下落するのは、言ってみれば、狭義のデフレ論である。
 現在では「自分をデフレ化する」という言葉もあるように、マクロ(広義)やミクロ(狭義)に関係なく、価値が下がり続けることを「デフレ」という向きもあるので、『デフレ』の定義に拘ること自体が、ある意味でナンセンスなのかもしれないが、デフレーションとデプレッションの違いだけは最低限、明確にしておく必要があると思う。

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