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「オフレコ」事件にみる現代の裸の王様

2011070501 昨日、松本 龍(元)復興担当相の被災地訪問における失態(?)が全国的に物議を醸した。
 私も昨夜、帰宅後にこのニュースをテレビで偶然観ることになったが、呆れる以前に、一瞬、「冗談かヤラセではないか?」と本気で疑ってしまった。こんなヤクザドラマの1シーンのような光景を、まさかノンフィクションで観ることになるとは思わなかった。しかも重責を担っているはずの政治家がテレビカメラを前にして堂々と悪役を演じていることに驚きを禁じ得なかった。

 松本氏は今回の宮城県知事との会見の一部を「オフレコにせよ」とマスコミを恫喝したものの、情報は瞬く間に全国に拡がり、ユーチューブでも公開され、一夜にして松本氏は時の人となり、辞任までに2日とかからなかった。

 しかし、東北放送が脅しにビビって本当に「オフレコ」扱いにしていれば、この問題は世間一般には広まらずにいただろうと考えると、ある意味、恐ろしいものがある。
 一部(1人)の人間の勇気ある行動によって真相が暴かれるという構図は例の『尖閣事件』に似ていると言えなくもない。ユーチューブによって全国に拡がり、隠しようがなくなってしまったという構図も同じパターンだと言える。

 これまでにも政治家の失言問題というものは多々あったが、大抵は、いちいち騒ぎ立てるほどのことではないようなものばかりで、ネット上では批判の矛先が失言を発した政治家よりもマスコミに向かうという逆転現象が起こるのが毎度のパターンだった。しかし、今回の場合はこの逆で、批判の矛先はマスコミではなく、松本氏のみに向かった。

 毎度の単なる失言であれば、私も敢えてブログ記事にはしないところだが、今回の場合は「失言」では済まされないと思われるので、ブログネタにさせていただくことにした。

 松本氏が宮城県知事に向かって暴君の如く偉そうに叱責したことについては、「言い過ぎた」で済ませられる可能性があるかもしれないが、報道関係者に向かっての「オフレコ」発言は、失言というような次元の話ではなく、明らかに確信犯的行為である。テレビカメラがまわっている最中に堂々と権力を傘に着て、脅しをかけているわけだから、こんなものが失言だったと言い訳するのであれば、「酒を飲んで泥酔していた」とでも言うしかない。もし素面(しらふ)で言っていたのだとすれば、独裁者気取りの極めて危険な政治家であると言わざるを得ない。

 私情に流されるような人物が、最も客観的な判断を要される復興担当相という重大な責務を全うできるとは到底思えない(当の本人も元々やる気がなかったと伝えられている)ので、復興担当相を辞任したことは当然として、ついでに政治家自体を辞任した方が良いかもしれない。まともな神経をした人間であれば、これだけの醜態を晒してまで政治家を続けていこうなどとは思わないだろうし、もはや誰も付いてこないだろう。

 あのような恫喝劇は一朝一夕でできるとは思えないので、おそらく、今回たまたまキレて本音が出たのではなく、これまでにも同じようなことを何度も繰り返してきたのではないかと思える。「まさか誰も報道しないだろう」という経験則と安心感から、あのような行動に出られたのだろうと推測する。となると、マスコミはこれまで「オフレコ」を貫き通してきたのではないかと勘ぐりたくもなる。

 宮城だけでなく、岩手県庁においても、不敵な笑みを浮かべて知事に向かってサッカーボールを蹴り上げている姿は、まるでガキ大将イタリアンマフィアを彷佛とさせるものがあった。
 その横暴な姿を観て誰も注意しない光景に、ある童話の主人公が頭に浮かんだ。その主人公とは、アンデルセンの『裸の王様』である。

 今回、「王様は裸だよ!」と勇気を持って報道するテレビ局が無ければ、王様はこの先いつまでも裸のままであったのかもしれない。
 今回の事件の最も重要なポイントは、これまで「王様は裸だよ!」と言う人物が存在しなかったことにある。暴言を吐いたことが問題なのではなく、暴言を吐いても誰も注意してこなかったことこそが問題なのだ。
 まさしく我々は、現代版『裸の王様』物語を目にしたのである。

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コメント

失礼ながら、松本元大臣と知事は過去に仕事をした旧知の間柄であると聞きました。
動画は内容的に恫喝のように聞こえましたが、発言の趣旨は知事の遅延(と判断した入室)に対し「礼儀がなっていない。そんなんじゃダメだ。」であったかと。
つまりあれは、口うるさい近所のジジイが、若者に礼儀作法についてぐだぐだ文句垂れてただけではないでしょうか。

またその観点で見ると、あの問題となったオフレコ発言も「知事の失態を報道するな。俺は気にしてないからな。」になります。
またその後の不意を突かれたとおぼしき釈明会見もそれを裏付けるかと。知事をかばう意味でオフレコと言った当人が、その後に暴露はできませんからね。
会見の開始部分だけをセンセーショナルに報道し、肝心の中間部分と別れ際を報道しない東北テレビのひとり勝ちではないかと思われます。
生贄にされ、ひょっとして復興が遅延するかもしれない宮城にはよい面の皮かも知れませんが。

投稿: Tirthika | 2011年7月16日 (土) 04時56分

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