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2011年8月

3分間のお辞儀が行われる社会の是非

 民主党新内閣と世界陸上の2大報道がなされている最中、アイドルグループTOKIOの山口達也氏が無免許運転を半年間行っていたことが判明し、謝罪会見が行われた。
 伝えられているところによると、山口氏は「山口達也を信頼、信用して下さった皆さま、大変申し訳ありません」と述べ、深々と3分間にも及ぶお辞儀を行ったらしい。

 しかし、これは少し謝罪が過ぎるのではないかと思う。彼の場合、確かに結果的には法律を犯したことに違いはないが、故意に違反していたわけではなく、単に運転免許の更新手続きを忘れていただけのことである。無免許運転がバレると、今回のような過剰な謝罪を要求されることが解っている芸能人が、意図的に運転免許の更新を行わなかった理由などないわけだから、本当に忘れていたというのが真相だろうと思う。

 かくゆう私も以前に車検の更新を忘れ、更新日を2週間ほど過ぎてから気が付いたことがある。しかしこんなことは多くの人が経験していること(?)であり、運悪くその忘れている期間中に交通事故や交通違反でも起こさない限り、特に問題とならない場合がほとんどである。

 交通事故を起こして当て逃げを行ったとか、飲酒運転を行い暴力事件を起こしたというなら「信用して下さった皆さま、大変申し訳ありません」と言うのは当然の謝罪行為だろうが、単に忘れていたことに対して「信用」や「信頼」という言葉を述べるのは少し違和感がある。
 国民やファンは芸能人アイドルに対して、物忘れをしないことを期待しているわけではないのだから、別にファンの期待を裏切ったわけでもない。TOKIOのメンバーが運転免許の更新を忘れたからといって、それで憤りを感じるようなファンは誰もいないと思う。いるとすれば、せいぜいイメージダウンを嫌う芸能プロダクションの人間ぐらいだろう。

 日本では、芸能人は公人に近い立場にある人間だと思われているせいか、ちょっとしたミスでもマスコミが騒ぐという慣習がある。そのため、とにかく謝罪会見を行い反省している姿をアピールすれば事無きを得るというような、防衛手段的な意味合いでの過剰な謝罪会見を行わざるを得なくなっているのかもしれない。

 警察官などの社会的責任のある公務員が今回のようなミスを起こせば、謝罪する必要が有るのかもしれないが、芸能人というのは、国民の税金で生活しているわけではなく、自らの才能や実力でお金を稼いでいる立場の人間である。「アイドル」という言葉が示す通り、アイドルは国民の「偶像」であって、国民の「模範」ではない。芸能人というのは、名の知れた有名人という、ただそれだけのことであり、一般国民に対して模範を示さなければならない義務などはない。そんな義務が有ると思っているのだとすれば、それはただの思い込みである。

 百歩譲って、仮にアイドルが国民に模範を示さなければならないとしよう。
 その場合、アイドルがタバコを格好良く吸えば、それを真似る子供が出てくるかもしれないので問題視するのは理解できる。しかし、アイドルが運転免許の更新を忘れたからといって、それを格好良いと真似るような人は誰もいないだろう。

 「謝罪するという行為自体が模範行為だ」と言う人もいるかもしれないが、先にも述べた通り、物忘れは誰でもすることであり、直接的な関係者でもない限り、模範や謝罪とは本来、無縁の代物である。物忘れしないことが模範にはならないし、物忘れしたからといって必ずしも謝罪が必要というわけではない。

 芸能人という立場にありながらお騒がせしたという意味での謝罪ならまだ理解できるが、これとて、マスコミが報道しなければ全く世間をお騒がせすることもない。芸能人が物忘れしたことを御丁寧に報道しているマスコミが世間を騒がせているだけだとも言える。

 今回の騒動を観て、運転免許の更新期限を確認し、実際に期限が過ぎていたことに気が付いた一般人も少なからずいるのではないかと思う。そう考えれば、山口達也氏は多くの国民に気付きのキッカケを与えてくれたとも言えるわけで、赤の他人が「ケシカラン!」などと言うのはどこか認識がズレていると思う。
 「私は運転免許の更新を忘れるというドジなことを行ってしまいました。皆さんも気を付けましょう。」というような山口達也コマーシャルでも作る方がよっぽどまともだと思う。それぐらいの遊び心があってもよいのではないかと思う。
 
 ところで彼は3分もの間、頭を下げつつ何を考えていたのだろうか? 「こんな些細なミスで芸能界を追放になるのではないか?」とか、「当分の間、芸能活動停止に追い込まれるのではないか?」と考えていたのだろうか? もし、そういった考えが“3分間もお辞儀をする”という行為に結び付いているのだとすれば、おかしいのは山口氏ではなく、そのような行動を取ることを余儀無くしている社会の方である。

 運転免許の更新を忘れたことによって法的な違反を行った山口氏本人が個人的に反省すればいいだけのことを、全国民的な問題とする必要性は全く無い。そんなことよりもむしろ、運転免許の更新を忘れた程度で、このような過剰な謝罪会見を行わなければならなくなっている融通の利かない建前社会を見直すことをこそ、全国民的な問題とするべきである。
 
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「ネットの世紀」とパフォーマンス政治の終わり

2011082401 かつて自民党の麻生元総理が2兆円のバラマキ(定額給付金)を行い、世間からは「世紀の愚策」と批判されていたことがあったが、現在の民主党の体たらくぶりを観ていると、まだ麻生氏の方が幾分かはまともだったのかもしれないなと思うことがある。
 「漢字の読めない馬鹿総理」と揶揄されたものの、一応は経済刺激策(エコカー減税等)を実行し、一時的にではあったとしても少しは景気を良くすることができた。また、『アニメの殿堂』を創ろうと、文化的な意味での経済刺激策にも取り組もうとしていた。当の本人は単に自らの趣味の延長線上で考えていただけなのかもしれないが、個人的には、別に創っても良かったのではないかと思う。

 しかし民主党は、イメージ的に無駄に見えるものを事業仕分けにて悉く削っていった。こういった削減政策は、自民党時代の放漫財政を見直すという、どこか良いイメージを国民に抱かせたため、拍手を送る国民も少なからず存在した。しかし結果的に現れたものは、更なる不況のみで、ほとんど何のプラスにもならなかった。
 無から有を創造するという投資的な発想が全く存在せず、単に無駄を削減するだけというジリ貧の清貧思想に被れた民主党が行ってきた政策は、発足当初から多くの有識者が危惧していた通り、経済発展というものとは、およそ無縁の政策ばかりだった。

 その民主党の菅総理もようやく退陣することになったそうだが、現在、民主党代表を決定するべく後継者争いのパフォーマンス劇が繰り広げられている。中でも急遽、前原誠司氏が立候補したということで大きな騒ぎになっているようだ。

 前原氏と言えば、かつてのライブドア事件時に、偽メール事件でまんまと踊らされ、国会で「粉飾決算」という的外れな言葉を大声で叫んでいたことでも有名な人物である。当時、こんなもの(偽メール)に騙されるような政治家がいるのか…と幻滅したことを覚えている。
 この件については、民主党は既にホリエモンに謝罪している。当の前原氏は個人的に謝罪したのかどうかは知らないが、イメージだけで簡単に騙されてしまうような人物が一国の代表である総理大臣になる可能性が有るというのは、ある意味で恐ろしいものがある。
 このことは、前原氏や民主党だけに限った話ではないが、イメージだけで物事を判断するような人物が、根も葉もない陰謀論のようなものにコロッと騙されて、全くお門違いな政策を実行されると考えるだけで恐ろしくなる。

 物事の本質を見ようとせずに感情だけで動く政治家ほど危険なものはない。なぜ危険なのかというと、そういった人々は推定有罪論者(魔女狩り論者)と同じ精神構造を有していると思われるからだ。早い話、民主主義を理解していないということである。

 日本では有権者である国民自体も感情で揺れ動く人が多いせいか、理性的に語る政治家よりも感情的に語る政治家の方が人気が出る傾向が強いため、敢えて感情的な政治家を演じている政治役者(?)も多いのかもしれない。原発問題でヒステリックに騒ぐことで人気が出るなら、本心とは裏腹に目先の人気取りのために「脱原発」と声高に叫んでいる政治家も多いことだろう。

 しかし、現在は「ネットの世紀」である。ネットの世紀であるということは、紛い物は、いずれ判明するということである。現在、世界各国の独裁国家で相次いで暴動が発生しているのも、政府が紛い物であるという情報が国民に伝播し、その情報が正しいと判定されている証拠でもある。

 先程、偽メール騒動のことを述べたが、当時は前原氏の発言が間違っていることに気が付いている人は少なかったが、現在では既に間違いであったことが判明している。ネットによって偽メールだと発覚したわけではないが、時の経過とともに、正しいものは正しい、間違ったものは間違っていると正確に判断されるようになっていくのがネットの世紀の特徴である。その場凌ぎのデマカセが通用しない時代にあって、目先の票欲しさに偽善者を演じていると、いずれ、手痛いしっぺ返しを食らうことになる。

 これからの政治家は、そういった危険性を充分に認識した上で言動しないと、いつ足元を掬われてもおかしくない時代だということを肝に銘じておく必要があると思う。このままネット文化が開けていくと仮定すれば、建前優先のパフォーマンス能力にだけ長けた政治家の時代は早晩、終わりを迎えることになるだろう。

 たとえ短期的には批判されたとしても、正論を述べることのできる政治家が評価されるという当たり前の時代になることは国民にとっては喜ばしいことであり、他ならぬ政治家にとっても喜ばしいことであると思う。偽善者を演じなければ票が取れないというような無意味な政治には、もうウンザリである。
 
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『川下り安全庁』はいらない。

2011081901_2 静岡県の天竜川で川下り船が転覆し、2名の死亡者が出たことにより、またもや、「安全神話が崩れた」と言わんばかりに、事後の安全対策案が練られているようだ。

 聞いたところでは、ここ20年間に天竜川で川下り船が転覆したことは無かったらしく、今回が初めてのケースであるらしい。20年間で1度の発生頻度であるなら非常にレアなケースであると言える。しかし、今回の安全対策は天竜川だけでなく全国に跨がって行われている。
 死亡事故が発生した天竜川で安全対策が取られることは人道上、仕方がないとしても、全国の別の川下り船まで全て対象にする必要が有るのだろうか?

 これまで全く問題が無かったにも拘わらず、1度こういった痛ましい事故が起きてしまうと、ここぞとばかりに、お役人が登場し、安全管理チェックを行い、規制を強化してしまう。毎度、事故が起こった時に、安全確認のためと称して大勢の人員が狩り出されるが、こういった人々は普段、事故の無い時は何をしているのだろうか?

 今回の事故により、既に救命胴衣を着用することを決める方向で話が進んでいるみたいだが、天竜川以外で川下り船の営業を行っている人々にとっては正直、有り難迷惑な話だろうと思う。
 乗船客もこのクソ暑い中、いくら安全のためとはいえ、救命胴衣を着用しなければならないとなると、乗船意欲を削がれてしまうこと請け合いだ。救命胴衣を着用することによって、川下りの風情が損なわれるというのも大きなマイナスポイントである。
 天竜川で事故が発生したことによって、別の川で行われている川下り船の利用客まで激減するのであれば、なんのための規制強化か解らない。過剰な規制を行うことによって不景気を齎すという毎度のパターンである。

 ここで着目すべき点は、「川下りは危険だから止めておこう」ではなく、「川下りは暑いから止めておこう」というような本末転倒な理由になってしまっていることである。“事故が発生したので危険だ”という真っ当な理由で乗船を遠慮するのではなく、規制によって間接的に発生した“暑い”という関係のない理由で乗船を遠慮することになる。
 これでは全国の川下り船事業者は商売上がったりであり、ヘタをすると、売上が激減し、『川下り』という夏の風物詩が消えてしまう可能性も否定できない。数年前にも遊園地で死亡事故が発生したことがあったが、当の遊園地はその後、客足が激減して閉園になってしまったことは記憶に新しいところだ。

 商売上がったりになる理由が“川下り船は危険”なら諦めもつくだろうが、“救命胴衣は暑い”とか“救命胴衣は格好悪い”というような理由では納得できないだろう。

 ご存知のように、原発事故では『原子力安全庁』なるものが新たに創設された。まさかと思うが、川下り船事故をきっかけに『川下り安全庁』を創設ということにはならないと思うが、事故や事件が発生するたびに、規制を管理し取り締まる省庁を作っていたのでは、財政を圧迫する一方である。

 多くの人は気が付いていると思うが、お役人というものは基本的に、不幸な事件や事故を糧として膨張していく存在でもある。彼らは民間の一般庶民とは全く正反対の行動原理を有しているということを知る必要がある。
 一般庶民は景気が良くなれば仕事が増えて喜びを感じるものだが、お役人はこの逆で、景気が悪くなればなるほど仕事が増える。事件や犯罪が増加すれば警察は忙しくなるし、天災が起これば、政治家は忙しくなる。この行動原理はマスコミにもそのまま当て嵌まる。

 誤解を恐れずに言えば、彼らにとっては、事件や事故は、自らが肥え太るチャンスであり、言葉とは裏腹に心のどこかで平和を願っていない部分があったとしても不思議ではないということである。社会が安定して平和であればあるほど、彼らは自らの存在価値を失ってしまうことになるからだ。無論、お役人は悪人だと決め付けているわけではないのだが、実質的にそういう側面があることは否定できない。このことは、日本だけの問題ではなく、『国家』が生まれた時からの万国共通のテーマでもある。

 事件や事故が多い時、政府は必ず『大きな政府』状態になる。これとは逆に事件や事故が少ない平和な時には、政府は必然的に『小さな政府』状態へと向かう。
 『大きな政府』と『小さな政府』のどちらが良いか?というような質問があるとすれば、答えは考えるまでもなく『小さな政府』に決まっている。平和を望まない庶民がいないのと同様、『大きな政府』を庶民が喜ぶ道理はないからだ。

 事件や事故が発生する度に、規制を強化するというようなことを無条件に受け入れていると、その先に待っているのは自由のない『大きな政府』である。
 大震災によって一時的に大きな政府が出現することは仕方がないにしても、川下り船が事故を起こした程度で大きな政府の出現を許していると、最終的に、そのしっぺ返しを喰らうのは一般庶民であることを忘れてはならない。
 
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『月給制』の崩壊を齎す民主党

2011081201 この記事を読んでおられる人の中にも、震災(及び節電)の影響で仕事が減少したことを肌で感じておられる人が結構おられるのではないかと思う。
 また、仕事が減少することによって、「日本のサラリーマンの月給制というものが時代にそぐわなくなっている」ということに改めて気が付いた人も少なからずいるのではないかと思う。

 日本の多くの企業で採用されている月給制というものは、一般的に「固定給」と呼ばれるもので、1日にどれだけの仕事をしなければならないというノルマは無いものの、1ヶ月当たりのノルマというものは一応、存在する。1ヶ月の内に20日間働いたとして、その平均値でノルマを達成すればよいというリスクヘッジ型の給料制度でもある。

 しかし、リスクヘッジと言うからには、仕事を平均以上(=給料以上)こなさなければならない日が何日かは存在しなければならない。もし全ての日がノルマ未達成であれば、月給制度というもの自体が成り立たなくなる。

 そのため、日本の企業ではより大きな枠組みでのリスクヘッジが採られている。それが、部署間のリスクヘッジであったり、人事間でのリスクヘッジであったりする。
 前者の場合、ある部署が赤字でも、別の部署が黒字であれば、リスクヘッジとなり、後者の場合は、ある人物が万年赤字でも、ある人物が万年黒字であれば、リスクヘッジとなる。

 ちなみに、人事部などの事務部門は基本的に利益を生む部署ではないため、他の部署でそれだけの余剰利益を稼がなければならない。それができないとなると、真っ先に人員整理されるのが事務部門であったことはバブル崩壊時に多くの企業が実体験したことでもある。

 企業全体の平均でノルマを達成し採算を取ることができれば、その企業はなんとか経営していくことができる。そのような互助的な組織が日本企業の良いところでもあり悪いところでもあったが、不況の色が濃くなるにつれて、そういったリスクヘッジ型経営というもの自体が、根本的に成り立たなくなってしまったという企業は増加しているものと思われる。

 話を20数年前まで遡ると、バブル期までの日本の企業は、どこもかしこも仕事が有り余っている状態であり、リスクヘッジの月給制度というものは名ばかりで、過剰な利益が企業に転がり込み、多くのサラリーマンは本来得られるべき利益を享受することができないという、言わば搾取の対象だった。
 「年功序列」や「終身雇用」や「退職金」「企業年金」などという甘い言葉が存在したがために、搾取されていることを気にすることなく過ごすことができた時代だった。この時代では、企業的な“アメ”と“ムチ”が上手く機能していたとも言える。
 しかし、経済がグローバル化し、なおかつ日本のバブル経済が崩壊した時点で、そういった時代は取り敢えず終焉を迎えた。

 その時代の名残りか、今現在でも「企業悪玉論」や「企業内部留保論」というものが聞かれるが、こういったことを述べている人々の大部分は20年前から思考が停止してしまっている状態だと言えるのかもしれない。

 さて、もう一度、話を月給制に戻そう。
 現在の震災節電不況(民主党不況と言った方が正解かもしれないが…)で、仕事が必要以上に減少し、個人的なノルマも部署間のノルマも人事間でのノルマも達成できなくなってしまえば、企業が採るべき手段は基本的に次の2つしかない。

 1、経営破綻を待つ。
 2、リスクヘッジ経営を止める。(リストラも含む)

 1か2を選べと言われれば、通常は2を選択し、それが不可能となれば、1の選択を余儀無くされるというのが一般的であるが、日本の場合、2を選択することが極めて困難というお国柄(?)であるために、敢え無く1を選択せざるを得ないという企業も有るかもしれない。
 “リスクヘッジ経営を止める”ということは“出来高制に移行する”ということでもあるので、年功序列制度の根付いた日本の企業では、おいそれとは実現できない。
 
 しかし、よくよく考えると『月給制』というものは、計画経済寄りの社会主義的な制度である。仕事量の多寡に関係なく毎月決まった給料を支払うという制度は、計画することが可能な経済状況でしか成り立たない。では、計画することが可能な経済とはどんな経済状況か? それは、“成長または安定した経済状況”に他ならない。具体的に言えば、仕事が途切れることなく有る状態の経済状況である。

 となると、経済成長路線を端から諦め、経済停滞を前提に組み立てられた経済衰退政策を連発している民主党政権下では、現在の月給制を維持していくことは非常に困難だということになる。現在の民主党が経済成長政策へと180°舵を切らない限り、どう足掻いたところで計画経済的な制度は維持できなくなっていくと考えなければならないということである。
 
 ここで「えっ!?」と思った人がいるかもしれない。労働組合等の既得権益護持組織がバックに付いていると思われている民主党が、既得権を失うような政策をなぜ採っているのか?と思われた人もいるかもしれない。

 既得権というものも経済成長があってこそ維持が可能となるものであるが、それを維持できない政策を行っていながら既得権を維持するという全く正反対のことを行っているため、雇用における社会的な歪み(歪な格差)は更に拡大している。ここが、民主党の政策が不況を呼び込むことになると思われる1つのポイントである。

 既得権を1日でも長く維持したいのであれば、本来であれば経済成長政策を実行しなければならないにも拘わらず、それを全く無視し続けている。民主党が「経済音痴政党」と言われる所以がここにもある。

 菅総理が辞めたところで、このまま民主党が経済成長政策を無視し続けたまま暴走すると、日本の多くの企業で月給制というものは消滅することになる可能性がある。

 お断りしておくと、私は計画経済や月給制が良いと言っているわけではない。本来であれば、同一労働同一賃金をベースに個人の能力や努力の違いで、ある程度は出来高制を導入した方が良いと思っている。しかし、現在の民主党によって齎される出来高制というものは、全員が貧しくなる出来高制になる可能性が極めて高いため、賛同するわけにはいかない。
 理想は、経済が成長した上での出来高制であって、経済が衰退する前提での出来高制ではない。そんな出来高制を喜ぶサラリーマンは誰もいないはずである。
 
 ちなみに計画経済というものは、経済成長が前提のシステムだと述べたが、実はもう1つ重要な前提条件がある。それは合理化の精神(資本主義の精神)の確立である。いくら計画したところで、従業員が合理的に考えて働かない限り、計画通りにはいかないということである。

 ソ連の計画経済が失敗した原因も資本主義の精神を理解していなかったために、全ての計画が計画倒れ(=絵に描いた餅)に終わったことにある。
 皮肉なことに、社会主義者達は“資本主義の精神なき計画経済は有り得ない”ということに気が付かなかったことによって国を崩壊に導くことになったが、それは必然的に招いた結果に過ぎなかった。

 おそらく民主党の中にも資本主義の精神を理解している人はほとんど(誰も?)いないのだろうと思われる。
 現在の日本はかつてのソ連と同じような状況に陥っていると言えるのかもしれないが、日本はソ連と違って、かつては合理化の精神を体現した国でもある。まともな政策さえ採ることができれば、ソ連とは全く違った結果になる可能性も高い。しかしそのためには、絶対的に経済成長政策が必要である。
(念のためお断りしていくと、ここで話していることは精神論の類いではない)

 繰り返すが、現在の日本に必要なのは経済成長政策であり、間違っても増税政策などを選択してはいけない。増税というものは経済成長とセットで行わない限り、必ず失敗する。不況の時に行うべきは増税ではなく減税である。

 「1に雇用、2に雇用…」と言っていた菅総理を思い出すが、その雇用を創出するためにこそ、経済成長政策が必要なのである。雇用あっての経済成長ではなく、経済成長あっての雇用なのだ。

 最後に、「経済成長政策を行えばバラ色の未来が待っているのか?」という疑問(ツッコミ)があるかもしれないので、「可能性が有る」とだけ述べておきたいと思う。
 現在の経済衰退政策では、可能性どころか夢も希望も全く無いので、可能性が生まれるだけでも大きな違いだと思う。国の将来に希望が持てるか持てないかという、ほんの小さな違いで経済は如何様にも変化する可能性が有るという意味である。
 
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『原子力発電』と『原子力爆弾』を混同する菅総理

2011080701 8月6日、民主党の菅総理は広島で行われた平和記念式典に参加し、「原発に依存しない社会を目指す」と改めて表明した。
 
 この平和記念式典での菅総理の発言には、多くの疑問の声があがっている。その理由とは、「なぜ原発と原爆を同一線上で扱わなければならないのか?」というもので、簡単に言えば、「原発問題と原爆問題は違うのではないか?」という素朴な疑問である。
 
 原子力爆弾というものは、最初から人命を奪う目的で開発された殺傷兵器であるが、原子力発電所は人を殺すために作られたものではない。事故が発生すれば、最悪、同じような結果を招きかねないことは事実だが、作られた目的は全く違う。
 目的性においては、原発というものは、自動車や飛行機と同じようなものである。自動車も事故が起これば人を殺してしまう危険性があるが、本来は人々の生活の利便性を目的として開発されたものであり、決して交通事故を起こすことを目的に製造されているわけではない。
 
 そもそも原爆問題の場合、加害者はアメリカであって日本ではない。ゆえに平和記念式典の目的は被爆者への追悼であって、反省ではない。菅総理の発言を聞いていると、まるで原爆を落としたのが日本人で、二度と同じ過ちは犯してはならないというようなメッセージに聞こえてしまい、諸外国に対して変な誤解を与えてしまいかねない。
 原爆を落とした加害者が「二度と同じ過ちは犯しません」と懺悔するならともかく、被害者である日本の総理がなぜ加害者のような発言をしなければいけないのか理解に苦しんでしまう。
 
 例えば、アメリカの同時多発テロ事件でテロに利用された飛行機によって多くの犠牲者が出たが、その飛行機会社が数年後に悪天候が原因でフライト事故を起こしたとしよう。その場合、大統領がテロ犠牲者の慰霊式典に参加して、「飛行機に依存しない社会を目指す」と表明するだろうか?
 これはどう考えても場違いな発言であり、被爆者への冒涜と言っても過言ではないと思う。原発に依存しない社会を目指すのは結構だが、発言する場所を間違えている。追悼の場で反省を行うこと自体がそもそもの間違いなのである。

 平和記念式典にまでポピュリズムを持ち込めば、国民の反感を買うのは当然であり、見え透いたパフォーマンスに騙されるほど国民も馬鹿ではない。実際、この表明を聞いた参加者の拍手もまばらだったらしく、拍手をしていたのはサクラか左翼だけだったという笑えない噂話も飛び交っている。

 他の国でも、「脱原発」を表明している国(例えばドイツ)はあるものの、流石に「脱核兵器」をセットで表明している国は存在しない。なぜなら、核兵器とは、戦争抑止力を持つ唯一の護衛兵器であることが理解されているからだ。世界では、戦争を回避する唯一絶対的な手段として核を所有している国がほとんどで、戦争を起こすことを目的にしているのは一部の独裁国家だけである。そういった独裁国家の暴走を事前に阻止するための切り札として核兵器を持たざるを得ないという現実がある。言わば、必要悪として核を保有しているわけだ。
 
 そういった理由から、原発問題を原爆問題と同列に扱っている菅総理の姿は、諸外国の笑い者になっているというのが実際のところだろうと思う。日本はアメリカに庇護されているがゆえに核兵器を持たずに済んでいるという現実がまるで見えていないと思われているのである。

 “原子力発電”と“原子力爆弾”を同一視するような発言を公式の場で行うようなリーダーがいる国は、世界広しと言えども、おそらく日本だけだろうと思う。
 これは笑い話で済めばいいのだが、実は外交上、非常に危険な言動だということを知らねばならない。

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震災スパイラル脱出のための『究極の選択』

2011080401 政府の原発停止要請による節電や停電懸念の影響もあってか、世間一般ではジワリジワリと不景気の波が押し寄せてきているように感じられ、実際に多くの企業が悲鳴を上げている。
 本来、潰れる必要の無かった会社が、政府の愚策によって倒産したケースも多々有るのではないかと思う。天災が原因で倒産するのも悲劇には違いないが、政治的な人災で倒産してしまった場合、それは悲劇というよりも喜劇である。
 その平成の新喜劇を演じているのが現在の政府与党であり、その笑うに笑えない喜劇によって不幸にも失業してしまった人には同情を禁じ得ない。本来、失業すべきは喜劇を演じている役者の方であるべきだが、観客の方が尻拭いしているという有り様だ。

 東日本大震災が発生してから早5ヶ月が経過しようとしているが、この間、政府が行ってきた対応は、明らかに震災復興を遅らせるようなものも含まれており、到底、まともな対策が採られてきたとは言い難い。
 本来であれば、震災の復興だけでなく、復興活動を基にして不況の改善策も同時に行うことが政治家に求められている仕事であるはずが、震災の復興を遅らせるばかりか、同時に景気まで冷やしてしまっている。
 これではデフレスパイラルならぬ『震災スパイラル』である。天災によって景気が悪くなるなら、まだ諦めもつくだろうが、二次的な人災によって景気が悪くなることを容認するわけにはいかない。

 一昔前に「究極の選択」という言葉が流行ったことがあるが、今回の原発事故により日夜交わされている原発是非論とは、日本の労働者にとっては、まさに『究極の選択』に成り得るものだ。その『究極の選択』とは簡単に言えば次のようなものである。

 A.原発を停止することによって安全は得られるが、失業する可能性がある。
 B.原発を維持することによって僅かな危険が伴うが、職は失わずに済む。

 上記のどちらかを選べと言われた場合、あなたはどちらを選択するだろうか? 私なら迷わず「B」を選択すると思う。

 「命あっての物種(ものだね)」を選択するか、「お金あっての物種(ものだね)」を選択するかと問われれば、一見、「命」を選択した方がまともに見えるかもしれない。
 「命よりもお金を選ぶとはなんて奴だ!」と誤解されるかもしれないが、本来、道徳論というものは「お金あっての物種」だということを考える必要があると思う。

 その国の文化というものは、国民に経済的な余裕があればこそ生まれるものであり、遊興費等を使う余裕のある富んだ人々が数多く存在してこそ、芸術家のようなパトロンを必要とする職業も隆盛して、文化が花開く。そして、そういった富んだ社会であってこそ、道徳や倫理というものを考える余裕も生まれる
 逆に国民の大部分が自分の生活にアップアップしているような国であれば、文化は廃れていき、他人のことなど考える余裕が無いのと同様に、道徳や倫理などを考えている暇が無くなっていくことになる。

 今現在の日本は、まさにそういった社会に向かうかどうかの岐路に立たされていると言える。道徳論を語れる現在の日本は富んでいる証拠である。

 「命とお金のどちらが大事か?」と言えば、当然、「」である。そんなことは当たり前の話だ。しかし悲しいかな、人間はお金が無ければ生きていけないため、お金を抜きにした道徳論などは成り立たないのである。

 例えば、明日の食事代も持たない飢え死に寸前の人間に「あなたは命とお金のどちらが大事ですか?」と問えば、どういう返事が返ってくるだろうか?
 あるいは、一生働かなくても生きていけるだけの蓄えがある人間に同じ質問をすれば、どういう返事が返ってくるだろうか?
 おそらく両者の意見は分かれるはずである。明日の命も心配な人間は「お金」と答え、生活や命の心配が無い人間は「」と答えるだろう。
 それは、どちらが正しいというような道徳論や正義論ではなく、置かれた環境の違いによる相対的な比較論でしかないのである。

 「原発を停止し、節電を余儀無くされることにより、仕事が激減し職を失っても構いませんか?」と問われた時に、「俺は安全さえ確保できれば、会社が倒産しようが自分がクビになろうが構わない」と本気で言える人がどれだけいるのだろうか? 本当に節電が原因で会社を解雇されて失業の憂き目に遭ったとしても、「安全が確保できて良かった」と思えるのだろうか? 本当にそう思えると言うなら、あなたは立派な方である。しかし、大抵の人はそういうわけにはいかないと思う。

 大事なことは、『職を失うことなく、安全を確保すること』である。
 そうするためには、エネルギー問題にはどこまでも冷静な判断が要求される。原発を利用せずとも電力を確保できるという確かな保証が達成されるまでの間は、必要以上に騒がない方が多くの国民のためであり、最も利口な方法だと思っている人は大勢いるのではないかと思う。不必要な倒産や失業という悲劇に歯止めをかけるためにも、これ以上、パニックを誘発するような愚策はご遠慮願いたい。

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