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2011年9月

新ことわざ「民主党の耳に経済政策」

2011092901 インターネット上の復興増税アンケート等でも、「増税には反対」という人が圧倒的に多数を占めているようだが、どういうわけか民主党内では「初めから増税しか選択肢は無い」という感じで話が進められている。
 民主党の中にも増税に反対している人はいるそうだが、主だったメンバーはこぞって増税教の信者であるらしく、完全に「官主党」になってしまっているように見える。

 現在のような不安定な経済状況下で増税などを行えば更なる不況を呼び込むことになるということは、既に多くの識者達が述べており、少しでも経済に理解のある人々にとっては常識となっているが、経済音痴を地でいく民主党首脳陣にとっては馬耳東風であるらしい。「馬の耳に念仏」とはよく言ったものだが、「民主党の耳に(まともな)経済政策」は響かないようだ。

 前回、日銀がお金を刷っても(バラまいても)インフレにならないと述べたが、この際、その理由をもう少し簡単に説明しておきたいと思う。お金というものを考える場合、日本全体として考えると話がややこしくなるので、日本というものを1つの家庭に置き換えて考えてみると分かり易いかもしれない。

 もし、あなたが自宅に100万円の現金を持っていたとして、ある日、そのお金を小火(ぼや)で消失してしまったとしよう。その場合、焼け跡からお金の一部でも見つかれば、銀行で新しいお金に交換してくれるかもしれないが、全く灰燼と化してしまった場合、途方に暮れるしかない。
 今回の東日本大震災というものも、これと同じようなもので、お金が一瞬にして消失してしまったような災害事件であり、その失われたお金をどうするのか?ということが問題になっているわけだ。(注意:この場合の「お金」とは字義通りの「お金」だけを意味するのではなく、「失われた資産全て」を意味する)

 あなたは100万円を小火で消失してしまったが、どうしても諦めがつかず、そのお金を取り戻すために銀行に駆け寄って、「お金が燃えてしまったので、再発行してもらえませんか?」と尋ねたとしよう。
 すると、どういう返事が返ってくるだろうか?

 おそらく「それはできません」と一蹴されるだろう。

 個人の場合であれば、これは止むを得ない。本当に小火が起こったのかどうか判らないし、お金も本当に失ったのかどうか判らない。法的にも問題があるだろうし、詐欺である場合も考えられるので、銀行もそう簡単にお金を工面するわけにはいかない。
 しかし、これが国家的な大事件であった場合はどうだろう? 明らかに大地震や大津波によって、多くの人々のお金(資産)が一瞬にして失なわれたということが誰の目にも明らかな場合はどうだろう?

 集団の場合であろうと個人の場合であろうと、一瞬にして消失してしまったお金を再発行しても、世間に出回っているお金の総量は変化しない。消えてしまったお金を再発行するという銀行の善意ある行動(?)によって、その損失を無かったことにすることは理屈の上では可能である。超法規的にそういった処置を施せば、少なくとも経済的な損失だけは最小限に抑えることができるというわけだ。
 
 洗濯機で財布の入った服を洗ってしまうと、お札がボロボロになってしまうことがあるが、そのお札の何%かが原型をとどめていれば、その残った比率によって新しいお札と交換してもらえる(参考サイト→ 紙幣が破損した場合の交換基準)。なぜ交換できるのかと言うと、旧札と新札を交換する場合と理屈は同じで、交換するだけなら、お金の総量は変化しないからだ。
 
 この理屈を今回の震災に当て嵌めてみれば、どうだろう? 交換するだけなら問題ないのであれば、失われたお金を刷り直しても問題ないということになる。
 要するに、今回の震災復興資金問題とは、極論するならば、消失してしまったお金を元に戻すかどうかという、ただそれだけの問題であり、インフレなどとは全く次元の違う話なのである。

 あなたが100万円を本当に小火で失った場合、そのお金を銀行が刷った(実際に印刷する必要はない)としても誰も損はしないし得もしない。少しだけ銀行の手間がかかるだけだ。
 元々、存在したお金を発行するだけなのだから、経済に与える影響は全くない。逆に言うなら、発行しなければ、みすみす100万円の国富を失うことになってしまう。100万円を失った消費者は100万円分の消費を控えなければならないのだから、これは当然の帰結だ。

 「お金を刷ればインフレになるので増税するしかない」と言っているような人々は、先程の小火で100万円を失った人に対して、「お金がジャブジャブになるので100万円は近所の人々から集めるしかない」と言っているようなものである。しかし、お金の失い方には様々な違いがあることを知らねばならない。

 1、100万円を盗まれた。
 2、100万円をギャンブルでスってしまった。
 3、100万円を無駄遣いしてしまった。
 4、100万円を火事で消失してしまった。

 上記の4つのケースは、同じように見えて実は違う。1から3の場合は、経済活動を通してお金を失ったわけだから、結果的には所得の移転が行われている。(窃盗行為は経済活動ではないかもしれないが、所得の移転が行われていることに違いはない)
 しかし、4の場合は、文字通り、お金が消えてしまったわけだから、そのお金を追加刷りしても何の影響も及ぼさない。つまり、わざわざ他人から100万円を掻き集める(=増税する)必要は無いということである。

 まだ解らないという人がいるかもしれないので、物凄く極端な例で話をしよう。
 ある日、日本中のお金が忽然と全て消え失せてしまったとすれば、人々はどうするだろうか? 物質としてのお金という紙切れが無くなることで、はたして日本の富自体が全て失われたことになるだろうか?
 答えはノーだ。この場合、お金が元通りの量になるまで、せっせと刷ればよいだけの話(あくまでも理屈の上の話)である。なぜなら、お金は盗まれたわけではなく、使用したわけでもないからだ。自然災害によって消え失せたお金と、経済活動によって失われたお金は根本的に違うものであり、本来ならば、同じ基準を適用する必要もなければ、適用する意味も無いのである。

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お金を刷ってもインフレにならない日本の事情

2011092401 民主党税制調査会は、東日本大震災の復興財源の確保のために、新たに相続税の増税案を検討しているらしい。
 所得税、法人税、たばこ税に続き、今度は相続税と、とにかくなんでもかんでも増税する姿勢は全く変わっておらず、“民主党=増税政党”という負のイメージは完全に定着してしまった感がある。
 
 かつて日本の相続税の最高税率は70%と高額だったが、現在では50%まで下がっていた。しかしこのままいくと、また70%の鞘に戻ってしまう可能性も否定できない。
 私は個人的には相続税などという(資産家が対象の)税金には縁がないので、別に相続税が上がったところで困らないのだが、間接的に日本経済に与える影響は無視できないので、素直に認めるわけにはいかない。
 
 現在のところ、震災復興に必要な資金は13兆円ということになっている。この13兆円を日本の総人口1億3000万人で割ると、単純に国民1人当たり10万円という計算になる。4人家族であれば、40万円を震災復興のために寄付しなければならないということになる。

 日本中の全世帯から一律に震災復興費を徴収するということになれば、相当数の人々が反対するはずであるが、その徴収形態を「増税」という形にすれば、あまり反発されない。なぜなら、税金であれば富裕層が中心に支払うことになり、一律に徴収されるということにはならないからだ。最も一律に徴収されるべき消費税が入っていないというところもミソである。
 所得税や法人税、相続税などから徴収するとなると、復興財源も累進課税的に徴収されることになるため、元々、あの手この手を使って税金を納めていない人々は震災復興費もほとんど納める必要がないというわけだ。まさしく、国民の嫉妬心を利用した狡猾な増税案だとも言える。
 
 震災復興財源を集める方法は、増税の他にもあり、主だったところでは、日銀が復興債を全額買い切りオペレーションで購入するという方法がある。これは有志国会議員が「増税によらない復興財源を求める声明」で発表していたことでも有名だ。

 安易な国債発行には私も反対の立場だが、今回の震災復興財源の調達に限って言えば、まだこの方法(買い切りオペ)を選択する方が増税よりもベターだと思う。
 
 「お金を刷ってバラまけば、インフレになる」という意見がよく聞かれるが、震災によって失われた損失は純然たる経済活動を通して消失したわけではないので、この意見はある意味で筋違いである。お金が日本国中を正常に巡っている状態で極端なバラマキを行えば、インフレになる可能性もあるだろうが、お金の巡りが悪くなっているところにお金を供給してもインフレになる心配はほとんどない。
 
 日本の個人金融資産は数年前には1400兆円とも言われていたが、現在では1100兆円程度まで引き下げられている。300兆円もの金融資産が減少しても物価には何の影響もないのは、そのお金が流動していないからだとも言える。このことから言えることは、「いくら巨額の資金があったとしても、そのお金が動かない限り、インフレにはならない」ということである。
 
 現在の震災復興費のバラマキというのは、一瞬にして失われたお金の穴埋めであって、流通している資金を増加させるというものではない。人間の身体に喩えて言うなら、失われた血液を補充するという、言わば「輸血」行為であって、血液の量を増加させるという手段ではないからだ。正常に血液が巡っている身体に余分な血液を入れると、肉体は異常をきたす(つまりインフレになる)が、血液が足りていない身体に血液を注入しても、正常な血液量に達するだけである。無論、正常な血液量をオーバーすればインフレになる可能性はある。
 逆説的に言えば、現在のお金が足りていない状態を放置すれば、さらなるデフレ{(正確に言えばデプレッション(=不況))}を進めるだけである。
 付け加えると、増税による資金調達は、さらにタチが悪い。なぜならば、お金が足りている部分の血液量をも減少させることに繋がるからだ。
 
 本来であれば、復興債などを発行せずに、民間主導の経済成長によって復興するというのがベストだが、それができないとなると、復興債の発行も止むを得ないと思う。増税による復興などというジリ貧の夢物語に酔うよりは、復興債を発行するという現実的な賭けに乗る方がベターであることに変わりはない。
 国債の発行は問題の先送りであるのかもしれないが、増税というものは、その問題を解決する手段さえも失ってしまう。比較論として考えれば、『増税 < 復興債』ということだけは間違いない。そしてそれ(復興債の発行)を許す前提として、将来的な経済成長政策が必要であることは言うまでもない。

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『1クラス35人制』で教育効果は上がるか?

2011091901 先週、文科省から新たな教育方針が発表された。その教育方針とは、昨年に小学1年生のみに導入された『1クラス35人制』を今年度から小学2年生にも適用するというもので、文科省いわく「少人数学級の実施状況を検証してきたが、学力向上や不登校などの課題に対応する教育効果を得られる」というのが判断理由であるらしい。
 
 しかしこの文面からは、検証における結果というものが本当に得られたのかどうか判らない。1クラス35人制にして不登校やイジメが減少したという確かなデータが有れば納得もできるが、本当にそういった結果が得られたのだろうか?
 
 以前にも『35人学級制』の導入については少し(反論を)述べたことがあるが、今回も率直な感想を述べさせてもらうと、これは非常に怪しいと思う。なぜなら、小学1年生の段階では不登校やイジメなどはまだあまり無いのではないかと思われるからだ。
 いくら現代っ子がマセているとはいえ、小学1年生では、まだ他人と自分を比較するというようなさもしい心(嫉妬心)はあまり持ち併せていないだろうし、学校に行くのが嫌だというような悩み事を抱えた生徒もほとんどいない(いたとしても登校拒否までは考えない)のではないかと思う。
 まだ純真な心を持った小学1年生に35人制を導入したとしても、不登校が減少したというような結果が得られるとは思えないし、そもそも、1年前まで幼稚園児だった生徒が小学1年生になった途端に35人制を導入されても、その違いなど分かるはずがない。
 
 例えば、小学1年から3年まで40人学級だとして、4年から35人学級になるというなら、その違いをデータ化することは可能(実際は高学年の方がイジメは多いのであまり意味がないが)だろうが、幼稚園と小学校を比較しても、まともな結果など得られるはずがないと思う。
 
 少人数制によって生徒が得られるメリットとは、教師が1人当たりの生徒に割く時間が増えるので教育効果が上がるというものだが、これとて、教師も同じ個性を持ったロボットではないのだから一概には言えないものがある。優秀な教師であれば40人学級であっても教育効果は上がるだろうし、ダメ教師であれば、いくら生徒数を減らしても教育効果の向上などは望めないだろう。
 
 結局、何が言いたいのかというと、少人数クラス制の是非論というものには、教師の能力や努力というものをどうするのかという教育する側の視点というものが完全に欠けているということである。40人制を35人制に変えるだけで単純に教育効果が上がると考えるよりも、教師自身が1人当たりの教育生産性を上げるという発想が全く無いように感じられる。
 
 こういった制度の導入は、単純に「税率を上げれば税収が上がる」という現在の政府の安易な姿勢とダブって見える。税金を上げる前にすべきことを行わずに増税を考える政府と、教師が本来行わなければならない努力をせずに、生徒数を減少させればいいという考えには相通じるものがあると思えるのは私だけではないだろう。
 
 私事で恐縮だが、私の中学生時代には男性と女性の2人の社会教師がいた。1人では全クラスを担当できないので、2人の教師で分担していたわけだが、男性の教師よりも女性の教師の方が教えるのが上手かったので、それぞれが受け持ったクラスのテスト成績には大きな差があった。しかし、その教育効果における差に対しての評価があったのか?というと、おそらく無かったのではないかと思う。と言うより、男性の教師の方が女性の教師よりも年上であったので、おそらく給料は男性の教師の方が高かったのではないかと思う。
 常識的に考えると、これは非常におかしなことである。教師の教える能力によって収入に差が生まれるのではなく、単に年上であるというだけで収入が決まってしまうというのは、年功序列制度の悪弊そのまんまだが、こんな教育環境で教師に対して努力しろという方がどうかしているとも言える。どんな非効率な教え方をしても、どれだけ効率的な教え方をしても、その教え方に対して何の評価も為されないのであれば、余程優秀な教師でない限り生産性向上などは望めるはずもない。
 
 これは、イジメ問題においても言えることで、イジメが有ることを発見し、イジメを無くすことに貢献した教師は評価されるという制度があれば、イジメ問題も少しは改善されるはずである。逆に、イジメが無いことが良しとされる事勿れ主義が根付いた教育環境では、イジメが有っても隠すことが評価されることになってしまい、教師がイジメを見て見ぬふりをするという悪循環に陥ることになる。
 
 聞いたところによると、現代の公立小中学校の退廃ぶりは凄まじいらしく、経済的に余裕のある親は、公立の小中学校には子供を通わせないという人も多いらしい。
 そういった退廃が生まれた原因には、少子化という表向きの理由だけでなく、教師の教育という行為に対する正当な評価が無いという理由も隠れているはずである。

 一頃、生徒に対する悪平等教育が問題視されたことがあるが、実は教師に対しても悪平等評価が為されているがゆえに、公立の小中学校の退廃に歯止めがかからなくなってしまっていると言えるのではないだろうか。
 そのような悪循環を抱えた教育環境にいくら少人数制を導入したとしても、ほとんど教育効果が上がらないのは至極当然の帰結であり、単なる税金の無駄遣いに堕するのは目に見えている。
 教育効果を上げるために必要なことは、1クラスの生徒数を減少させることではなく、教師の教育における生産性を向上させ、その能力を正当に評価するという当たり前のシステムを導入した方が良い結果が齎されるのではないかと思う。政治にしても教育にしても、なぜそういった当たり前の改善案が出てこないのだろうか?
 
【関連記事】「1クラス35人制」というレトリック
 
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「社内失業者」という名の600万人の貴族

2011091401 現在のアメリカの失業率が9%台という高い位置にあることはよく知られた話だが、日本の完全失業率は4%台で推移している。
 「失業率」というのは、元から働く意思の無い人間まで含めた比率のことであり、「完全失業率」というのは働く意思を持った人間のみの比率であるので、通常は「完全失業率」よりも「失業率」の方が悪く(高く)なる。失業率で言えば、日本も5%をゆうに超えているはずである。
 一説ではアメリカの完全失業率は実質15%以上とも言われているので、どこまでが真実なのか判らないが、公式な発表である数字を信じて話を進めよう。
 
 日本の場合、失業率ではなく、完全失業率が4%台なのだが、数字の上ではアメリカよりもかなり低い位置にあると言える。実際に、日本の完全失業率は先進国の中でも低い位置にある(ことになっている)。

 日本の労働者人口は6200万人(そのうち400万人が公務員)と言われており、失業者は300万人程度なので、300÷6200で4%台という数字が出てくるわけだが、日本には失業者の他に「社内失業者」と言われる人が推定で600万人もいると言われている。
 ということは、300万人+600万人で、単純に見積もっても900万人の労働者が仕事をしていないということになる。社内失業者の中に公務員の一部がカウントされているのかどうか定かではないが、もしカウントされていないとなると、900万人どころか、1100万人程度にまで膨れ上がるのではないかと思われる。

 仮にその中間をとって1000万人だとしても、6200万人中、1000万人が働いていないということは、実質的な完全失業率は16%を超えていることになる。

 この「社内失業者」と言われる人々は、収入が無いわけではなく、まともに(?)給料をもらっている人々である。このことから何が言えるのかというと、トータルで考えれば、労働者5人で1人の失業者(失業者と社内失業者)の面倒をみているということである。換言すれば、実際に労働している人間は2割分の労働価値(=給料)を気が付かないうちに天引きされているということになるわけだ。

 既に定年で引退した人間を現役の労働者達で面倒をみる制度が賦課制の年金制度だが、これとは別に現役の労働者内でも賦課制の年金制度が別に存在しているというのが日本の労働市場の隠れた実態である。

 こんな身も蓋もないことを書くと、「仕事が無いのだから仕方がないではないか!」というような人が出てくるかもしれない。しかし、この場合、「弱者がどうのこうの…」と言うのは少し筋違いであると思う。
 会社内で自分の仕事が無くて、その会社をクビになるか自己退職して仕事を探しているという人であれば、確かに弱者だと言えるだろうが、仕事をほとんどせずに会社に居座って給料をもらっているというのは、どう考えても弱者とは言えない。仕事をせずに収入を得ている人間のことを、一般的には「貴族」と呼ぶ。「貴族」の立場にある人間が「弱者」を名乗るのは明らかに矛盾している。

 少し前に話題になった派遣切り問題や、大学生の内定率の低下問題のバックグラウンドには、600万人にも及ぶ社内失業者の存在があることは間違いないと思われる。
 社内失業者にも言い分があるかもしれないが、いかなる事情があるにせよ、働かずに高給を得ている労働者が数多く存在することは問題である。
 このような大きな問題を取り上げずに、表面的な失業率や就職率をいくら報道したところで、虚しいだけである。この問題を放ったらかしにしているせいで、新卒者が本来就くべき仕事に就けないというケースも多々あるのではないかと思う。
 
 「社内失業者」が増加する背景には、根本的に仕事が足りないという表向きの理由と、様々な事情で会社を辞めることができない(または辞めさせることができない)という後ろめたい日本のお家事情も関係している。一度上がった給料は維持したいという欲とプライドを併せ持ち、仕事が無くても会社にしがみついて生きるしかないという悲しい性を抱えた「貴族」は大勢いると思われる。
 
 こういった貴族(社内失業者)を減少させる(クビにするという意味ではない)ためには、高度成長時代に築いた経済成長が前提の社会システムを全て見直し、絶対的な仕事量を増加させるべく、新たな産業を創出していくという姿勢が重要であり、そのためには現在の義務教育体制自体も根本的に改めなければならない。

 教育というのは、ある意味で子供という人材に対する投資であり、将来的に自立し富を生み出すことのできる人間を育てるための先行投資でもある。将来的に、「国に面倒をみてもらえばいい」というような人間を育てるのが目的であるなら、国民の税金を利用した義務教育などは必要ないということになってしまう。

 「集団生活に慣れるために義務教育がある」という向きもあるが、今現在の日本社会をつぶさに観察すれば、そういった集団主義というものが時代遅れになってきつつあることは誰の目にも明白であると思う。それが良いことなのか悪いことなのかは別にして、時代が求めているのは“個性の無い大集団”ではなく“個性を持った個人”である。

 「社内失業者」というものも、元をただせば“個性の無い大集団”を良しとする社会から生まれたものであると言える。集団の中で生きることに慣れ、そこから抜け出すことを悪とする社会風土が招いた悲劇こそが「社内失業者」の増加だと言えるのかもしれない。
 
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『相違収入同一税率』で税収は上がる

2011090901 このところ、「復興増税」という言葉を毎日耳にする。政府は東日本大震災の復興財源を確保するために増税の必要性を世に問うており、野田総理いわく「現役世代で負担を分かち合う」という目標を掲げている。
 
 確かに大震災の復興を現役世代で助け合うという方向性は正しい。と言うか、復興を目指すのであれば、そうするしか方法が無い。政府が復興財源を錬金術的に創り出すことはできないのだから、どのみち、国民が負担しなければならなくなる。
 経済成長によって復興を為すか、増税によって復興を為すかという大きな違いがあるが、どちらを選択するにせよ、国民が負担することに変わりはない。
 
 では、私は増税による復興に賛成か?というと、もちろん「反対」である。なぜなら、現在の政府が目指している増税とは、震災に便乗した無期限大増税への皮切りでしかないと思われるからだ。増税期間は20年間にするというようなことが検討されているらしいが、20年間も増税路線が継続すると、国民の感情も麻痺して、増税することが当たり前というような未来になる可能性がある。
 「復興増税」と言うからには、震災の復興が終われば、増税した税率を元に戻すという確かな約束が必要である。現在行われている復興増税論議が、「臨時増税論議」ではなく、震災を隠れ蓑にした「永久増税論議」になっていないかどうかを疑ってみる必要がある。

 衆愚政治の良いところが1つだけ有るとすれば、多くの国民は基本的に「増税に反対」ということである。バラマキには賛成の国民も増税には反対する。これは明らかに矛盾しているのだが、それが衆愚政治の特徴である。
 衆愚政治下においては、「増税」という言葉を口にすると選挙に当選できなくなるため、大抵のポピュリスト政治家は増税には触れたくないというのが本音で、増税政策には常に及び腰である。
 しかし、増税を訴えても反発されない事件が起こった場合、彼らはここぞとばかりに「増税」を口にすることになる。「増税」という言葉に「復興」という言葉をプラスすることによって、国民の情に訴えかけることで「増税止む無し」という空気を巧みに創り出し、増税肯定世論を形成するべく奔走することになる。

 半年前に発生した東日本大震災は「千年の一度の大地震」と言われたが、増税を目論む勢力にとっては、まさしく千載一遇のチャンスだったというわけである。

 本当に1日でも早い復興を目指す気概があるのであれば、そのエネルギーを経済成長政策活動へと転化してくれれば良いと思われるのだが、そう思わないところが、図らずも彼らの本性を現しているかのようである。「復興 < 増税」という本性を。

 増税して得られた税金が本当に震災の復興のためだけに使用されるのであれば、復興増税も止む無しと言えるのかもしれないが、実際のところは、どうだか判らない。そんな使用目的がいい加減な詐欺紛いの増税には簡単に賛成するわけにはいかない。そのような増税を一度でも認めてしまうと、大増税国家へまっしぐらということになってしまう危険性がある。
 
 増税論議が出てくる背景には、“税収が上がらない”という如何ともしがたい現実があるわけだが、そもそも、なぜ税収は上がらないのか?ということをもっと深く多角的に考えなければならない。
 税収が上がらないのは、景気が悪いことも1つの大きな原因だが、税金を納めたくないと思っている人が殊の外、多い(実際に納めていない人も多い)という別の理由も考える必要がある。現在の日本のような、働けば働くだけ(稼げば稼ぐだけ)税率が上がっていくというような不条理な税制も、税収が上がらない大きな理由の1つになっている。
 それに企業の節税行為は合法的にも国が認めているわけだから、法人税収に限って言えば、下がって当たり前であり、「上がらない」と嘆いても仕方がないように思う。この件については、以前に書いた記事を参考にしていただければと思う。

【関連記事】『節税対策』という見えない景気刺激策

 「同一労働同一賃金」的に、税金にも「相違収入同一税率」が適用されていれば、「働き損」という不条理が緩和されるので、脱税や節税行為も減少に向かい、税収は上がるはずである。
 
 かつて松下幸之助氏は、給料の90%を税金として納めていたという逸話が残っているが、汗水たらして働いたお金を9割も税金として国に持っていかれたのでは、誰もが働く意欲を失ってしまい、働かない(=税金を納めない)方が楽だというような感情を抱いてしまうことになる。
 額は違えど、現在の日本の悪平等税制もこれと同じようなもので、大金を稼ぐ(=税金を多く納める)能力を持った人物が、「適度に働いて適度に税金を払えばいい」というような後ろ向きな姿勢を当然とするようになってしまえば、必然的に税収は下がっていくということである。
 
 稼げる人間にはどんどん稼いでもらって、どんどん税金を納めてもらった方が税収も上がり、増税などする必要も無くなるかもしれない。そういった融通の利いた自由度の高い政策を実行してくれるまともな政治家が出てくることを期待したい。
 
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法律の存在理由と法律万能教の信者の誕生

 前回、TOKIOの山口達也氏を擁護する形でブログ記事を書くと、意外にも多く人からコメント(BLOGOSのコメントも含む)を頂いた(当者比)。中には参考になるご意見もあったので、この場でお礼申し上げるとともに、少し言葉足らずだった部分を補足しておきたいと思う。
 
 私の場合、ブログ記事を書く時、テキストエディタで50行から100行程度に収めるようにしている。文字数で言えば、平均3000文字程度であり、原稿用紙で言えば、大体、7枚程度になる場合が多い。
 この程度の短い文章では、自分が言いたいことを全て纏めるのは難しく、どうしても言葉足らずになってしまう…と言うよりも、そんな事細かなことまでいちいち書いていては、誰も読んでくれなくなると思われるので、敢えて省いていると言った方が正しい表現かもしれない。
 個人的にも3000文字程度に収めるのが楽なので、この程度が妥当だと思っている。別に誰かからお金をもらって書いているわけでもないので、文字数を気にする必要もないと思われるのだが、たまに「長い」と言ってくる人もおられるので、この場で弁解の意味も込めて書き留めておきたいと思う。
 
 ブログ記事が言葉足らずであることは、多くのブロガーにとっては暗黙の了承事項であると思う。論理的に間違ったことを書いているならともかく、書かれていないことを勝手に想像(拡大解釈)されて批判してくるような人もたまに見かけるが、そういった人は一度、自分自身でブログを立ち上げて記事を公開してみればよく解ると思う。

 前回の記事では、少し法律を軽んずるような書き方をした部分があったせいか、まるで私が法律を無視することを勧めている無法者であるかのように誤解されている人もいた。
 しかし、私は法律を無視しろと言っているわけではなく、謝罪をしなくてもよいと言っているわけでもない。スポンサーのように明らかに迷惑を被った人々には謝罪するのは当然のことだ。しかし、全国民に対して謝罪するのは行き過ぎだと述べたまでのことであり、実際に、「謝罪が過ぎる」と書いたはずである。
 こんなことは敢えて書かなくても、大部分の人々は理解してくれていると思うが、明らかに誤解されている人もいたようなので、一応、お断りしておきたいと思う。
 
 ただ、交通ルールにおける法律遵守については、あまりにも杓子定規に考えている人がいるようなので、今回はその件について少し述べておきたいと思う。
 
 まず、運転免許を持っている人で、かつペーパードライバーでない人であれば、誰しもが交通違反は経験している。例えば、法定制限速度というものがあるが、その制限速度を1キロも超えたことがないという人がいるかというと、誰もいないと思う。このことに対して反論してこれるような人はさすがに誰もいないはずである。
 
 「法律は絶対だ」と言うのであれば、法定制限速度違反を行った人間は全員、自首しなければいけないことになる。しかし、そんな人が世の中にいるだろうか?
 「私は○月○日に法定制限速度を5キロオーバーしましたので逮捕してください」と言って警察に自首などすれば、さすがの警官も困り果てて、「帰ってください」と注意されるかもしれない。これではまるで吉本新喜劇の世界である。
 
 あるいは逆に、法定制限速度を1キロでもオーバーした車を片っ端から検挙していく法律絶対主義者の警察官がいたらどうだろう? そんな警官が日本国中にいれば、日本経済は無茶苦茶になってしまう。
 ビジネスにおける輸送スケジュールは狂い、輸送料金や宅配料金も跳ね上がり、車の燃費も悪くなり、減点や罰金が相継いで車を買う人も乗る人も激減し、日本経済は完全に麻痺してしまうことになってしまうだろう。もし、そんな警官がいたとすれば、それは「法の番人」と言うよりは、「経済の破壊者」である。

 しかし、「法律は絶対だ」だと言うのであれば、そういった警官に捕まったとしても、文句を言わずに受け入れなければならない。そんな窮屈な社会が理想だと本気で思っているのだとすれば、それこそ自らが思考停止状態に陥っていないかどうかを疑うべきである。
 
 そもそも法律とは、誰のためにあるのか? そして、何のためにあるのか? その根本理由を見失うと、どんな法律も変更できない不磨の大典だというような錯覚に陥ることになり、ただの法律万能教の信者(=法律バカ)に成り果ててしまう。
 
 法律とは、人間の生活をより良く円滑にするために存在しているものであり、人間が法律の奴隷になるために作られたものではないはずだ。法律を守るという姿勢は法治国家の常識であっても、法律の存在意義を忘れてしまうと、誰のための法律かが分からなくなってしまう。
 法定制限速度を1キロオーバーしたとしても、それは立派な交通違反である。しかし、その1キロに拘るがために、人間社会が殺伐とし、住みにくい社会となってしまっては本末転倒になってしまう。
 
 制限速度も運転免許の更新期間も、現在のものが唯一絶対的なものではなく、いつ変更になってもおかしくないような(日本でしか通用しない)アバウトな取り決めである。それは日本社会の一応の決まり事なので守らなければならないことは言うまでもないが、殺人や暴行や窃盗のような二元論的に動かない価値を含んだ法律とは言えない。
 
 例えば、運転免許の更新日が過ぎたとしても、その運転手は運転する能力を失うわけではないし、ドライビングテクニックが下がるわけでもない。逆に、普段は車の運転をしないペーパードライバーであっても、定期的な運転免許の更新を義務付けられているが、こういった人々は、運転免許の更新を行ったところで運転が上手になるわけではない。つまり、運転免許の更新というものは、“運転できる”という本来の運転免許の存在理由とはほとんど無関係な制度なのである。
 だからといって、その法律を守らなくてもいいと言っているわけではないのだが、あまりにも杓子定規に考え過ぎると、人権よりも法律の方が大事だという、どこぞの独裁国家で見られるような悪法に縛られた自由の無い息苦しい社会になってしまう。

 法律の中に人間社会が存在しているのではなく、人間社会をより良くするための制度として設けられているのが法律だ。その法律を主役と考え、人間を脇役と考えると、先程述べたように、法律を神であるかのように錯覚する法律万能教の信者が生まれることになる。それは法律を神と崇める奴隷の誕生の瞬間でもあると言えるのかもしれない。
 
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