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2011年10月

「映画館のQBハウス化」のススメ

2011102801 TOHOシネマズが、春から試験的に導入していた『映画料金1500円』を早期終了するという発表を行った。
 TOHOシネマズいわく、「一般1800円の鑑賞料金を1500円に値下げしても、ほとんど効果は見られなかった」ということらしいのだが、これは当たり前の結果だろうと思う。
 元々高い料金設定である1800円が1500円になった程度では、消費者としての“お得感”はあまり感じられないので、劇的な集客アップに繋がらないだろうことは素人目にも明らかだ。
 その証拠に、皮肉にも、もう1つの高校生料金(1500円が1000円)は好評だったらしく、予定通り1年間継続されるらしい。
 
 単純に『一般』の割引率と『高校生』の割引率を比較すると、以下のようになる。
 
 一 般(1500÷1800=)約0.83倍

 高校生(1000÷1500=)約0.67倍
 
 普通、料金の高い方(一般)の割引率を高くするのが一般的だと思われるのだが、どういうわけか低い方(高校生)の割引率の方が高くなっている。これでは尚更、『一般』の割安感はなく、初めから結果は出ているようなものである。
 そもそも映画の前売券が1300円で販売されているのに、それよりも200円も高い料金設定で集客効果を望む方がどうかしていると言える。
 
 しかし、こんな素人でもできそうな予測ができなかったというのは少々疑問が残る。これでは、元々、本気で鑑賞料金を下げる気は無かったのではないか?と勘ぐる人も出てくるかもしれない。
 「皆さんが高いと言うので料金を下げましたが、効果が出なかったので、料金を1800円に固定します」と言うのは、もう少し料金を下げてから言う台詞だろうと思う。
 
 以前から私は「映画料金を1000円以下にすれば集客効果が上がる」と言ってきたが、高校生料金に限って言えば、実際にそうなったことが証明されたことになる。
 
 ちなみに私も映画はよく観る方なので、ムービックスの会員になっている。ムービックスの会員の場合、映画を5本観ると次の1本が無料となるシステムになっているので、6本で9000円だから、9000円÷6本=1500円になる。なんのことはない、今回のTOHOシネマズが行ったテスト料金と同じ値段である。
 
 調べたところ、TOHOシネマズでも会員になれば『6回観れば1回無料』というサービスがあるらしい。ということは、結局のところ、未会員が会員になった場合と同じサービスを試験的に行っていたというだけの話のようだ。
 元々、映画館では、会員になれば鑑賞料金が割引されるというサービスがあるわけだから、その同じ市場に同じ割引率を適用した別の値引きサービスを試験的に導入したところで、ほとんど意味がなかったということである。
 
 TOHOシネマズ内では、1800円を1500円にしても効果が無かったので既に諦めムード(?)が漂っているのかもしれないが、ここは逆転の発想で、「1500円で効果がなかったのだから、もう少し下げてみよう」と考えることをオススメしたい。
 何度も言うが、一般の料金も高校生と同じ1000円まで下げれば、ほぼ100%に近い確率で効果は出ると思われるので、諦めずにチャレンジしていただきたいと思う。それが1映画ファンとしての素直な実感であり、理想でもある。
 できれば TOHOシネマズだけでなく、日本中の全ての映画館で『映画鑑賞料金一律1000円』を導入することを改めて進言したいと思う。言わば、「映画館のQBハウス化」のススメである。

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公務員限定のメンタルヘルス対策

2011102601 少し前に「たばこ一箱700円台までは上げたい」と言って物議を醸した民主党の小宮山洋子厚生労働相が、今度は労働安全衛生法の改正案『メンタルヘルス対策の義務化』を労働政策審議会に諮問したらしく、このままいくと来年の秋には施行される見通しだ。
 
 改正案の内容は、『事業者に対し医師などによる従業員のメンタルヘルス(心の健康)チェックを義務付ける』というもので、具体的には、全従業員の精神状態を事業者が把握することが義務付けられる。詳細は以下のようなものであるらしい。
 
 1、従業員は希望すれば医師の面接指導を受けられる。
 2、事業者は面接指導を申し出た従業員に対し不利益な扱いをしてはならない。
 3、医師の意見を聞いた上で、必要であれば勤務時間の短縮や職場の配置転換
   などの改善策を取ることが求められる。
 4、職場の全面禁煙か空間分煙を事業者に義務付ける。

 
 これらを見る限りでは、過剰なまでの労働者寄りの改正案だと言える。正直、ブラック企業が対象の法案かと思ってしまった。
 
 いくら、ストレスによる精神病(うつ病など)が増加しているとはいえ、現在のような厳しい経済環境下で、このような過保護なストレス対策を実際に行えるような企業がはたしてどれだけ有るのかは甚だ疑問である。理想的な職場環境を求めるのは結構なことだが、普通の民間企業に勤めている人の感覚では、「有り得ない」というのが正直なところだろうと思う。
 
 例えば、1の場合、医師に対する診察費は誰が支払うのだろうか? もし事業者が全額支払わなければならないということであれば、その従業員はリストラの対象になってしまうかもしれない。
 
 2の場合も、従業員に不利益な扱いはしないとしても、事業者は明らかに不利益を被ることになる。もし、仮病の疑いがあるような従業員が、何度も面接に行くようなことになっても何も文句を言えないということであれば、それこそ、事業者はその人物の解雇を考えるだろう。
 
 3も同様で、勤務時間の短縮や配置転換ができなければ、即、解雇になってしまう可能性は極めて高いと思う。
 「勤務時間の短縮」というのが、「残業時間の短縮」を意味しているならまだ理解できるが、これが通常の勤務時間(例:8時間勤務)を意味しているのであれば、あまりにも非現実的だと思える。「配置転換」というのも、余剰人員を抱えた大企業ならともかく、元々、少数精鋭の中小企業では簡単にできるものではなく、実際の労働環境を無視した理想論としか思えない。

 4は小宮山氏なりのご愛嬌といったところだろうか。
 
 そもそも企業というのは介護施設ではなく慈善事業を行っているわけでもない。仮にその職場にいることが鬱病の原因であるのであれば、病気の治療をするよりも会社を辞めた方がよい場合もある。鬱病のまま働くことを前提にした法改正よりも、辞職後の治療を前提とした法改正を行った方がよいかもしれない。
 
 この改正案には、「従業員に対して不利益な扱いはしてはならない」という約束ごとが明記されているので、「それなら安心だ」と思う人がいるかもしれないが、それは考えが甘過ぎるというものだ。従業員に対して不利益な扱いをしてはならないのであれば、事業者は初めから不健康そうな人や、やる気の無さそうな人は雇わないような防衛策を講じるだけの話である。
 労働者に対して大甘な法律ができればできるほど、“労働者を保護する”という目的に反して、正規雇用者の比率はどんどん減少していくことになり、彼らが望むところの理想的な労働環境はますます悪くなっていく。「地獄への道は善意で舗装されている」とはよく言ったものだ。
 
 ハッキリ言ってしまうと、今回の法改正が実施された場合、労働安全衛生法がまともに機能するのは公務員の世界だけだろうと思う。公務員だけがストレスを理由に休日が増加し、民間のサラリーマンは更にストレスが溜まることになる。これではまさに、「公務員の公務員による公務員のための法改正」である。先程の言葉を裏返して言えば、「公務員天国への道は善意で舗装されている」と言ったところだろうか。
 
 小宮山氏の改正案に対して厚生労働省は「東日本大震災を契機にメンタルヘルスが不調に陥る人の増加が懸念され、予防対策を充実させる必要がある」と述べているそうだが、被災者のストレスと労働者のストレスを同列に考える必要があるのだろうか? 被災者のストレス軽減に努めるのは理解できるが、なぜ都合よく労働者にまで適用の範囲を拡大しなければならないのだろうか?
 
 「ストレス社会であるから、医師によるメンタルサービスが必要だ」というのは、ただの結果論対策(対症療法)である。ストレス社会であるなら、そのストレスの原因を追究し、ストレスが元から軽減される社会を目指すことの方が重要であるはずだ。
 多くの労働者が抱えるストレスの原因は、“現在のままだと将来が不安”というものであり、政府の政策も少なからず関与しているものと思われる。
 景気が悪くなるような政策ばかりを行っているように見える民主党政治自体が、多くの労働者のストレスの原因になっているかもしれないということも併せて考えるべきだろう。
 
 「政策が失敗して不況を招けば、医師によるメンタルサービスが必要だ」と言うのでは本末転倒であり、不況であるなら、その不況の原因を追究し、不況にならない社会を目指すこと(=まともな経済政策を実行すること)こそが、実は労働者のストレスを軽減すること(=メンタルヘルス)になるのである。

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「国民に3770万円の支払いを命じる」判決の是非

2011101901 郵便不正事件で無罪が確定した厚生労働省の村木厚子元局長に対して、国が3770万円の賠償金を支払うことが決定した。
 無実の人間の疑惑が晴れ、損害賠償金が支払われることは、本来であれば喜ばしいことではあるはずだが、何か釈然としない。無論、村木さんが賠償金を受け取ることが釈然としないわけではない。問題は、その賠償金を誰が支払うのか?ということである。

 あなたは以下の2つの判決文を聞いてどう思うだろうか?

 「に3770万円の支払いを命じる」

 「国民に3770万円の支払いを命じる」

 上記は同じ意味だが、全く違ったイメージを抱かなかっただろうか?
 
 「前代未聞」と騒がれた検察のデッチあげ事件の裁判は、村木さんの無罪が確定したことで一応の終結を迎えたが、現在も検察の身内同士での骨肉の裁判争いが繰り広げられている。検察(司法関係者)が犯した犯罪を同じ司法関係者が裁くというのは、喩えて言うなら、他人を傷付けたイジメっ子をイジメっ子の親が裁いているようなものである。そういう意味では、まさに前代未聞の裁判だと言えるのかもしれない。
 
 常識的に考えれば、村木さんに対して賠償金を支払わなければならないのは、罪を犯した当人(検察の人間)でなければおかしい。ところが、デッチあげ実行犯の前田受刑者はともかくとして、大坪特捜部長等2人は未だ罪を否定している。ということは、その賠償金は彼らが支払うわけではないということになる。しかし、未だ彼らの罪状が判明していない段階で3770万円という賠償額が決定されたということは、彼らの有罪、無罪に関係なく、賠償金は支払われるということだ。では誰が支払うのか? もちろん、我々国民である。
 
 それにしても、公務員が職務上で罪を犯した場合、被害者に対する損害賠償金を国民の税金から捻出するというロジックは、どこかおかしくないだろうか? 公務におけるミスならともかく、公務における犯罪になぜ国民の税金が使用されなければならないのだろうか? これはよくよく考えるとトンデモない話である。
 
 例えば、医者が医療ミスで患者を死なせてしまった場合、その賠償を病院が行うというなら納得もいくが、国民が賠償する必要性はないだろう。
 では、医者が故意に患者を死なせてしまった場合はどうだろう? その賠償を病院が行う必要があるのだろうか? もちろん、病院としても、そんな殺人医者を雇っていたという責任はある。しかしこの場合も国民が賠償する必要性は全くない。
 この喩えに用いた「病院」を「検察」に置き換えて考えれば、その異常さがよく解ると思う。
 
 無実の人間を陥れようとするような偽証行為を行うことが検察の「公務」というのなら話は別だが、そうでない限り、元大阪地検の前田受刑者が行ったことはミスではなく、犯罪である。公務ではなく犯罪を犯した人間は、もはや公務員とは呼べず、ただの犯罪者である。分りやすく言えば、警察官が婦女暴行罪を犯したようなものである。そんな犯罪者に税金を投入するということが、はたして、まともな社会の姿なのだろうか?
 
 そのような犯罪者が生まれる背景には、《公務員であれば自腹を切らずに済む》というような甘えた考えがどこかにあったはずである。もし、偽証行為などを行ってバレた場合、《全財産を没収されかねない》というような危機感があれば、あのような馬鹿な行為には及ばなかったはずである。加えて、検察というのはよく知られたように絶対権力機関である。そういった誰からも注意されることのなかった権力に甘えた職務構造が、軽はずみなデッチあげ行為に結び付いた可能性があることを誰が否定できるだろうか?

 検察が“公務員に優しく民間企業に厳しい”こともよく知られたことだが、その民間企業は、どんなミスを行っても国民の税金などはアテにできないという厳しいビジネス環境の中で生きている。

 今年の8月に異例の早期退職をした東京地検元特捜部長の大鶴基成氏が、かつてライブドア事件の時に「額に汗して働く人、リストラされ働けない人、違反すれば儲かると分かっていても法律を遵守している企業の人たちが憤慨するような事案を万難を排しても摘発したい」と発言したことは今となっては(悪い意味での)語りぐさとなっているが、同じ検察の人間が、甘えた環境の元でデッチあげ事件を行ったことに対しては何と言うのだろうか?

 「額に汗して働かず、リストラされる心配もなく、違反をしなくても儲かる人々が起こしたデッチあげ事件を万難を排しても摘発したい」とでも言うのだろうか?

 3770万円ということは、国民1人当たり30銭程度の支払いとなる。微々たる金額ではあるが、本来は納税者が支払う必要の無いお金である。その賠償金を支払う責任を有しているのは他ならぬ検察関係者であり、公務員としての筋を通すという意味でも彼らが責任を取るのは当然のことであると思われる。
 「我々の給料から天引きしてもらって賠償金を支払おう」と言うような正義感のある人間は検察の中には誰もいないのだろうか?
  
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『反原発デモ』から『反格差デモ』へ

2011101601 ニューヨークのウォール街に端を発した若者の『反格差デモ』は世界中に飛び火し、ついには日本(六本木)でもデモが行われたらしく、なにやら妖しい(?)ムードが漂っている。
 
 東日本大震災による原発事故が発生してから『反原発デモ』が世界中で行われたかと思っていると、今度は『反格差デモ』が流行り出し始めたようだ。この2つのデモは一見、関連性が無いように見えるが、バックグラウンドには同じような思想が蔓延っているような気がする。その思想についての言及は今回は置いておくとして、日本の格差問題について少し述べておきたいと思う。
 
 「格差を是正せよ!」というデモが行われる背景には、単純に「富んだ者と貧しい者の差をなんとかせよ」という思いがあるわけだが、今回のデモ発祥の地であるアメリカなどの企業の場合、社長(取締役も含む)と社員では100倍以上の収入格差があることはよく知られている。常に大きな経営リスクと隣り合わせの経営者が平社員と同じ給料ではやっていられないというのはその通りだと思うが、日本などに比べると100倍以上というのは少々行き過ぎの感はある。
 そういった過剰な格差を少し緩和せよというデモであればまだ理解できるのだが、日本の場合、社長と社員の収入格差はせいぜい数倍程度であり、その格差を同程度にせよというのは無茶な話であると思う。
 アメリカから見れば、日本の格差などは無いに等しく、デモが成功したとしても日本のように数倍まで収入格差が縮小するなどということはまず有り得ないと思う。
 
 日本の場合、格差の元凶となっているのは、経営者と従業員間の格差ではなく、むしろ企業間や従業員内での格差である。欧米では当たり前となっている同一労働同一賃金が無視され、学歴や企業の規模などによって労働における待遇が大きく違うことが日本の格差問題の本質である。ということは、日本で行われるべき反格差デモは、欧米とは違い、「学歴社会や年功序列を廃止せよ!」というような日本独自のものでなければならないということになる。

 日本の歪な労働格差を是正するためには、皮肉にも日本人が嫌う「実力主義」や「能率主義」を導入しなければ何の解決にもならないということである。
 しかし、仮にそういった能力給制度を導入すると、今度は、「能力の違いによって格差が発生するのは問題だ」ということになるのが日本という国である。結局、どっちに転んでも、結果の平等を求めた格差是正論が出てくるので、一向に問題が解決されることがないわけだ。
 
 ちなみに、年功序列制度が未だにまともに維持されているのは、公務員と大企業だけである。それゆえに、「年功序列制度は格差問題の本質ではない」という意見をしばしば耳にするが、これはある意味で間違いである。その論理が成り立つのは、その中小企業がどこからも下請けとして使われていない場合だけである。 
 多くの中小企業では既に年功序列制度は崩壊してはいるが、その多くの中小企業は大企業の下請けをしているわけだから、マクロ的には年功序列制度下にあると言える。
 中小企業内では年功序列制度は機能していないが、大企業内では機能している。しかし、その両者に股がって仕事は行われている。つまり、見えない年功序列制度内にジョイントされているのが日本の中小企業の姿なのだ。実はこれこそが、格差問題の本質であり、同一労働同一賃金が実現できない理由なのである。
 
 「では、公務員は関係ないのか?」と思った人もいるかもしれないが、もちろん関係がある。公務員の年功序列制度を維持するために、民間のサラリーマン(大企業も含む)は、税金としてその費用を支払わされている。
 要するに、年功序列制度を維持するために、大企業に対しては下請けの中小企業が同一労働同一賃金でない部分を奪われていることになり、公務員に対しては民間の全企業が税金として奪われていることになる。つまり、日本の年功序列制度は見えない形で未だに維持されているのである。
 
 日本で反格差デモに参加している人々が、そういった日本の労働問題のことを理解した上で参加しているのかというと、極めてあやしいと思う。その証拠に、デモで見られるプラカードに「格差」や「貧困」という言葉を見ることはあっても、「年功序列」とか「学歴社会」という言葉は見られない。
 
 「格差」という極めて抽象的なイメージに感応してデモ行為を行っているだけだとすれば、残念ながら何の解決にもならない。その問題を解決するための具体的な考えが基になった行動でない限り、デモ行為自体に真実味がなく、単なるムードだけで動かされたデモごっこにしか映らない。厳しい言い方かもしれないが、方法論なき理想論や結果論をいくら叫んだところで無意味だということである。
 
 最後に一言述べさせてもらうと、先述した『学歴社会』や『年功序列』というものは、穿った見方をすれば日本の官僚組織を維持するためのシステムだとも言える。「大企業の官僚化」という言葉もある通り、こういった社会的な問題の根底には、常に官僚組織というものが頑として横たわっている。
 本来、反格差デモのプラカードに書かれるべき言葉は「格差」でも「貧困」でもなく、「官僚」という言葉なのかもしれない。
 
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タバコ増税で判明したタバコ1箱の妥当価格

2011101201 昨年の10月にタバコの値段が大幅に引き上げられたことは記憶に新しいが、早くも1年が経過した段階での税収結果(10ヵ月間の結果)が発表された。税収は前年同期比で5.5%増加したらしく、当初、危惧されていた税収減という事態は避けられたらしい。

 以前(2006年)に行われたタバコの値上げでは税収は減少したが、今回は税収が増加した。なぜか? 答えは至って簡単で、前回とは違い大幅な値上げを行ったので、タバコ消費の減少率よりも値上げ率が上回った。ただそれだけのことである。

 マイルドセブンを例に取れば、300円から410円に値上げされたが、単純に計算すると、410÷300=約1.37倍になる。ということは、タバコの値上げによって、禁煙する人や吸う本数を減らす人がいない場合は、税収は1.37倍になるということである。(注意:実質の税率のみで考えれば違うかもしれないが、話の都合上、ここでは全体的な価格で考える)。それが、1.055倍になったということだから、タバコの消費量は30%近く減少していることになる。
 今回は中途半端な値上げでなかったことが功を奏したというだけで、決して値上げしたことがストレートに税収増に繋がったわけではない。このことは消費税の増税を考える上でも参考になるかもしれない。
 
 今回発表された数字から推測すると、もしタバコの値段を2倍(600円)程度にまで引き上げていれば、おそらく税収は減少していたものと思われる。日本禁煙学会はタバコ1箱1000円(つまり3倍以上)を求めているらしいが、そこまで値上げすれば、税収は間違いなく減収となるはずだ。
 
 今回の結果から言えることは、税収を上げるという目的を達成するためには、タバコ1箱の値段は、500円程度までが限界だろうということである。ここを学び取る必要がある。

 政府は東日本大震災の復興財源として、更にタバコ1本につき2円の増税を考えているそうだが、1箱で40円追加値上げとなれば、先の例のマイルドセブンなら1箱450円ということになる。その程度の値上げで済めば、かろうじて増収が見込めるかもしれないが、それ以上、スケベ根性を出して便乗値上げを行うと、結果的には減収となり、増税する意味が無くなってしまう可能性がある。

 日本禁煙学会は「たばこが原因で毎年約20万人が死亡しており、1箱400円は安すぎる」と述べているそうだが、「危険だから値段を上げなければならない」という理屈もどうかと思う。
 今どき、タバコが健康に悪いということを知らない大人など誰もいないわけだし、本当に健康に気を遣っている人であれば、仮にタバコが無料であったとしても吸わないだろう。

 「値段を上げれば吸う人が少なくなる」というのは、「罰金を上げれば飲酒運転が減少する」というのと同じ理屈である。これは要するに、性善な人間を抜きにした性悪説的な政策である。つまりは社会主義政策だ。国がなんでもかんでもルールを決めて指図しないと、国民は自分自身の健康も管理できないというようなお節介な思想が入り込んだ悪法だとも言える。

 私はタバコを数年前から吸っていないので、個人的な感情論を述べているわけではないことを予めお断りしておくが、タバコが健康に悪かろうと病気になる確率が高かろうと吸う人は吸う。世の中には、肺ガンを患ってもタバコを吸っている人もいるぐらいで、中には「タバコを止めるぐらいなら死んだ方がマシだ」というような人も存在する。
 タバコを吸ったからといって肺ガンになるとは限らないが、危険を承知の上でタバコを吸っている人には何を言っても無駄であり、タバコの値段を上げたところで、止めれないという人は相当数いるのではないかと思う。

 私の周りでも昨年のタバコ値上げで、数人の人が一時的にタバコを止めたものの、現在は全員が喫煙者に戻っており、本当に止めたという人はいない。皆、口を揃えて「1箱500円以上になれば止める」と言っているが、本当に止めれるのかどうかは疑わしいと思う。

 結局のところ、タバコを止める止めないは、タバコの値段の高低ではなく、本人の意志の強弱の問題だろうと思う。人間の意志をタバコの値段で操ろうとしても無理がある。
 自分自身の心をコントロールできるのは自分だけであり、他人がお節介を焼いたところで無駄に終わるのは世の常である。タバコの値段を弄ることで経済をコントロールしようなどという社会主義的な政策は、あまり深入りし過ぎると手痛いしっぺ返しを食らうことになる。

 タバコの値段を大幅に上げたことによって、予想外の税収増を齎したことに気を良くし、「消費税率も大幅に上げよう」などと言い出す馬鹿な政治家やトンデモ評論家が出てくるかもしれないので注意しよう。
 
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キューバ改革と「自由と公平と博愛の精神」

2011100501 社会主義国家であるキューバが自国経済を再建するために「市場原理を導入する」と言い始めたことは周知の通りで、先日も「キューバ国内での自動車売買を自由化する」との報道があったばかりだ。そのニュースを聞いていると、次のような言葉が耳に入ってきた。

市場原理を導入すると格差が大きくなる可能性があるので問題視されています

 ウッカリしていると聞き流してしまいそうだが、これはトンデモないジョークである。
 格差というものは、むしろ市場原理が正しく機能していない場合にこそ大きく拡大するものである。市場原理とは言わば、一物一価の法則のことであり、その原理を導入することで格差が拡大したとして、はたしてそれが悪いことなのだろうか?

 「一物一価」とは、分かり易く言うなら、「同一労働同一賃金」と同じようなものであり、同一労働同一賃金で格差が拡がるのなら、特に問題視する必要はない。他人の2倍の仕事を行って2倍の収入になるのであれば、それは喜ぶべき社会の姿であり、決して批判されるべき社会の状態ではない。

 格差問題の本質とは、他人の2倍以上の仕事をしても半人分の収入しか得られないとか、他人の半分しか仕事をしていないのに2倍の収入を得ているというような不公平な差別社会(つまり同一労働相違賃金)にあるわけで、決して“結果の不平等さ”にあるわけではない。

 「公平」と「平等」という概念は似ているようで全くの別物であり、どちらかを優先できるというような代物ではなく、どちらかを実現しようとすれば、どちらかを捨てるしかない。
(注意:ここで述べている平等とは「機会の平等」ではなく「結果の平等」を意味する)

 フランス革命で有名な「自由と平等と博愛の精神」という言葉も、「自由と公平と博愛の精神」とした方がスッキリすると思う。なぜなら、「自由」と「平等」という概念もまた、現実的には同時に実現することは不可能だからである。

 「公平」と「平等」…両立不可能(「機会の平等」であれば可能)
 「自由」と「平等」…両立不可能(「機会の平等」であれば可能)
 「自由」と「公平」…両立可能

 「市場原理」という言葉を使うとややこしくなるので、「自由競争」という言葉に置き換えよう。
 「自由競争」を行えば、企業であろうと個人であろうと、結果的には必ず差が生まれる。自由に競争させて結果が平等になるなどということは通常では有り得ない。受験競争であっても実際にそうなっている。
 「自由と公平」なら両立するが、「自由と平等」は本来、両立しない。こんなことはわざわざ書かなくても誰もが理解していることだと思う。ついでに言えば、「不自由と平等」なら両立する。それがキューバを含む共産主義国家の姿である。

 「機会の平等」→「自由競争」→「公平な結果」なら有り得るが、
 「機会の平等」→「自由競争」→「平等な結果」は有り得ない。

 経済を発展させるためには、自由という概念は絶対条件であり、その自由を活かすためには公平性というものが必要条件になる。公平性が保証されてこその自由競争であって、結果の平等を必要条件にしてしまうと、自由競争では無くなってしまう。

 具体的に言うなら「談合」などというものも、自由競争下において結果の平等を追求したものである。それゆえに市場経済では「談合」は悪と見なされる。
 正直なところ、個人的には「談合」が全て悪だとは思わないが、全体的に見れば自由競争の掟に反していることは明白である。

 キューバが部分的に自由競争を取り入れたとしても、「平等」という概念を「公平」に置き換えるつもりがないのであれば、改革は失敗に終わるだろうと思う。共産主義国家に「平等」は付き物だが、自由主義国家に必要なものは「平等」ではなく「公平」である。つまり、公平な競争による格差は容認しなければならないということである。

 「自由」の名のもとに「結果の平等」を追い求めると、いずれ、その矛盾が露呈して、不公平な悪平等社会が誕生する姿を見ることになる。「不公平な悪平等社会」のことを別名「格差社会」と言う。現在の日本で問題となっている格差社会もこの状態であることは言うまでもないが、オバマに率いられたアメリカも、あるいはこの状態に突き進んでいるのかもしれない。
 
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「決断できない日本」の政治家達

2011100201 先週に録画していた『朝まで生テレビ』(決断できない?!日本外交)を観てみた。ケビン・メア氏がどういう人物であるのか興味があったので観てみたのだが、なるほど確かに現実が見えている冷静沈着な正論者だった。
 
 元外務省の孫崎 享氏が1番目立っていた(?)が、ネットでは意外にも孫崎氏の人気が高かったらしい。おそらく極端な反米感情を抱いた左右翼の人々の目には孫崎氏のような人物の言動が格好良く映ったのだろうと思うが、私にはそうは見えなかった。
 こういった(ある程度)本音を語れるテレビ番組を観ていると、そこに登場するパネリストが本物(正論者)であるのかどうかがよく分かる。
 
 メア氏の言うところの「決断できない」とは、かつて、ウォルフレン氏が述べた「誰も責任を取らない」と同じ意味合いで使用されているものだろうと思う。日本の政治家は選挙に当選することが第一目的なので、批判を恐れて、表立って正論を述べることができない。そういった国を端的に表した言葉が「決断できない日本」ということなのだろう。
 早い話、日本には本物の政治家(リーダー)がいないのである。もちろん水面下には本物の政治家が隠れていると思うが、正論を述べると政治家になれないので、結局、二枚舌を使い分ける世渡り上手な人物しか責任ある政治要職には就けない社会になってしまっているということである。そういった社会になっているのは言葉狩りを生業にしているマスコミにも大きな責任がある。
 
 日米の安保条約が重要であることに疑いを入れる余地はなく、中国や北朝鮮という危険な軍事国家に囲まれている日本には絶対的に必要なものである。決して、アメリカ贔屓するつもりはないのだが、このことは現実(世界の外交問題)が見えている人々にとっては至極当然のことだろうと思う。

 仮に今、アメリカとの安保条約を破棄すれば、日本はどうなるか? 言葉は悪いかもしれないが、その状態を喩えて言うなら「番犬を失った子豚」である。中国は「」で北朝鮮は「」みたいなものである。ちなみに日本の自衛隊は「室内ペット犬」(あくまでも喩え)みたいなものなので、室外で飼われている子豚を守ることはできない。
 
 自国を守る現実的な手段を持たない(と言うより持てなくしてしまっている)国が、現実的な防衛手段(戦争抑止手段)である安保条約を失ってしまうことは、物凄く危険なことである。そういったリアルな現実が見えていない平和ボケした人々が、日本を「決断できない国」にしてしまっている可能性があるということも考える必要がある。

 付け加えると、日本が自主防衛しては困るという後ろめたい思想を持つ勢力があることも忘れてはいけない。彼らがどういう勢力であるのかは想像に任せるとして、彼らは日本が核武装すると困るので、反原発運動に混じって「原発反対!」と声高らかに絶叫しているという現実がある。彼らの本音は「反原発」ではなく、実は「反核武装」なのである。「平和」を追い求める左翼的な行為が、実は反平和に繋がっているというリアルな側面があることも知らねばならない。
 
 「決断できない」とは、言葉を変えれば「事勿れ主義」と同義語であり、現在の日本の問題は全てこの「事勿れ主義」から派生していると言っても過言ではないと思える。誰も責任を取ろうとせず、決断しようともしない事勿れ主義が、この国を疲弊させ、発展することを阻害しているという現実をこそ直視しなければならない。
 
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