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2011年11月

人生で必要なものは、すべて「アマゾン」で買える。

2011112901 一般的に「読書家」と言われる人達は、1年間に300冊以上、つまり1日1冊のペースで本を読んでいると言われている。
 私も読書をするのは好きな方だが、毎日、朝から晩まで忙しく働いている身でもあるので、現状では年間の読書量はせいぜい50冊程度かもしれない。
 
 私の場合、複数の本を平行して(1章ずつ)読む癖があるので(おまけに数十冊の本が積読状態)、1冊の本を読み終えるまでに時間がかかってしまうのだが、最近、『人生で大切なことは、すべて「書店」で買える。』という本を読み終えた。
 著者の千田琢哉氏は大学時代に10000冊の本を読まれたらしく、金額にして1000万円の費用をつぎ込んだのだそうだが、これには驚いた。
 4年間で1万冊も読むとなると、10000冊 ÷(365日×4年)=約6.85となるので、1日に7冊のペースで読まなければ達成できないことになる。これは俄には信じ難い読書量である。常人であれば、仮に朝から晩までぶっ通しで読書したとしても、7冊も読めないだろうし、気力も体力も集中力も続かないだろうと思う。
 
 私も学生時代は、本を買うためにアルバイトをしていたことがあるが、それでも4年間でせいぜい300冊程度の本(漫画は除く)しか読め(ま)なかった。金額にすると、30〜40万円に過ぎない。
 
 千田氏の本は一見すると成功哲学っぽいイメージがするが、読書家としての意見は参考になることが多い。
 例えば、
 「残業より読書をした方が給料は増える」
 「本を借りて読む人は、自分も一生使われて終わる
 「本にかけたお金とその人の年収は比例する」
 「本の買い過ぎで貧乏になった人はいない」
 「読書をしないと外見が劣化する
 
 なるほどな…と思う。給料と年収は読む本にもよると思うが、身銭を切って読書しないといけないというのは、なんとなく実感として解るような気がする。
 本の価値を無料で手に入れた人間は、結果として、その本と同じような運命を辿るというのは、なかなか面白い洞察だと思う。昨今のように、無料でゲームソフトや映画ソフトなどをコピーして楽しんでいるような人々も、あるいは同じような運命を辿るということなのかもしれない。

 コピー天国の中国ではないが、現代のようにあらゆるモノがデータ化された時代では、そのデータをコピーすることができれば、ほとんど無料で商品を手に入れることができる場合がある。しかし、生み出された付加価値に対する対価を支払わずにいるということは、全体としての経済は縮小していることを意味し、巡り巡って、自らの収入にも影響を与えることに繋がる。
 「そんな馬鹿な…」と言う人がいるかもしれないが、経済をマクロ的に観た場合、この因果応報は正しく成立する。個人としては「得をした」と思っていても、実は社会全体としては大損していることになる。具体的に言うなら、“就職するのが難しくなる”というような負の現象として現れることも十二分に有り得るということである。そういう意味でいうと、まさしく現代は「合成の誤謬経済」である。

 私の場合、年間50冊程度の読書量なので、図書館を利用せずに済んでいるだけかもしれないが、真の読書家というのは借金してでも本を買うことの価値が解る人なのかもしれない。

 「読書をしないと外見が劣化する」というのも、よく耳にすることで、読書家として有名な鷲田小彌太氏やハイブロー武蔵氏の本にも書かれていたような気がする。
 「本を読む」という行為自体が能動的な行為であるので、読書を続けることによって表情や目が生き生きと輝いてくるということは有り得るだろうし、確かに読書家には素直な澄んだ目をした人が多いような気がする。読書という行為自体が、人生経験と同じようなものであるならば、読書量の多い人ほど人生経験が豊富だと言うこともでき、その経験が風貌として自然と現れてくるのかもしれない。
 
 「人生で大切なものは、すべて「書店」で買える。」というタイトルは、真の読書家ならではの自信に満ち溢れたたナイスなネーミングで、ある意味ではその通りなのかもしれない。しかし、現在では目に見える「書店」自体が激減してしまっているので、近い将来、「人生で大切なものは、すべて「アマゾン」で買える。」…どころか、「人生で必要なものは、すべて「アマゾン」で買える。」となってしまうのかもしれない。
 
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『真・株式取引時間延長』のススメ

2011112701 日本の株式市場が冴えない。今に始まったことではないが、いい加減、株価をチェックするのもウンザリする程の体たらくぶりだ。
 「投資家が株価を見るのが嫌になると底値に近い」とよく言われるが、日本の株式市場だけは例外のようで、そういった当たり前(?)の常識が通用しなくなっているような気がする。自国の大地震や原発事故だけでなく、他国の洪水や財政危機による円高でも影響を受け、その上、オリンパス事件も加わり、株価が騰がる要素が内部にも外部にも全く見えないような状況に陥っている。
 
 オリンパスの株価は、マイケル・ウッドフォード元社長の解任前の2500円程度から424円まで暴落し、その後、1100円程度まで戻している。しかし、未だ上場廃止リスクが払拭されないため、マネーゲーム化している感は否めない。(ちなみに私はオリンパスの株主ではない)
 
 「オリンパスを上場廃止にするべきか?」という議論があるが、個人的には「上場廃止にするべきではない」と思う。不正を行っていた人物達は厳しく糾弾するべきだが、一般の従業員や株主にはほとんど罪は無いのだから、企業の存続はあくまでも市場の判断に委ねるべきである。「不正を行った企業には価値が無い」と投資家や消費者が判断すれば、その企業の株式は低迷し、商品も売れなくなり、放っておいても市場から追放されることになる。
 一部の人間が不正を働いたからといって、その企業の価値を直ぐさま人為的に潰してしまうと、市場にいらぬ混乱を招き、全く無関係の企業にまで悪影響を及ぼしてしまうことになる。況して、これだけ日本の株式市場が低迷している時に、オリンパスの上場廃止などを行うことになれば、「泣きっ面に蜂」になってしまいかねない。
 
 ライブドア事件の時にも、検察(東京地検)の見込み捜査で株式市場を破壊してしまったという苦い経験が有る。特に不正と言われるような事件ではなかったにも拘わらず、東証の恣意的な判断で上場廃止にしてしまったことで、多くの株主が大損し、新興市場は暴落してしまい、未だに回復せずに低迷を続けている。
 そもそも当の企業が不正を行ったという罪を認めておらず、被害を訴えている者が誰もいない段階で、強制捜査を行うということ自体が無茶苦茶だった。「推定有罪」という言葉があるが、ライブドアへの強制捜査はまさしく「推定有罪捜査」だったと言える。

 北朝鮮では、「資本主義に染まった罪」というものがあるらしく、その罪を犯した者は公開処刑されるらしいが、日本もあまり変わらない国ではないか?ということが世界中の投資家に向けて発信されてしまった事件がライブドア事件だった。「日本の常識は世界の非常識」という言葉の通り、日本の株式市場も世界の常識が通用しないことが証明された事件でもあった。
 
 日本の株式市場が低迷しているためか、東証等は取引時間を延長し、今月21日から、前場の9:00から11:00までの取引時間を9:00から11:30までに変更(延長)した。
 しかし、その効果は限定的でほとんど取引量は増加しなかった。元々、4時間30分だった取引時間が5時間に増加したわけだが、単に昼休みが短くなっただけで、時間帯としては全く変更されていない(9:00から15:00のまま)のだから、これは当然の結果だろうと思う。
 
 本気で取引を増加させようと思っているのであれば、普段、リアルタイムで株式売買ができない客層を市場に引っ張ることができるようにしなければ意味がない。つまり、取引時間帯自体を変えなければいけないということである。
 具体的に言えば、現在の『前場・後場』を、『前場・中場・後場』の3つに分割(下記参照)でもして、取引できる時間帯を増加させる必要がある。言わば、取引時間の分割延長である。
 
 【前場】  9:00から11:00
 【中場】 12:30から15:00
 【後場】 16:30から19:00

 
 最低でもこれぐらいの抜本的な変更を行わない限り、取引量が大きく伸びることは有り得ないと思う。普段、仕事を行っている人々が仕事が終わった後や、帰宅後にリアルタイムで株式売買ができるようになれば、必ず取引量は増加し効果が出るはずである。家電量販店やスーパーマーケットが営業時間帯を延長しているのと同じ理屈を株式市場にも適用すればいいのである。
 
 しかし、こういった変更は金融機関などの既存システムにも大きな影響を及ぼすので「できない」ということらしい。結局、ここでも投資家不在の経営が問題となっているわけだ。消費者不在ならぬ、投資家不在の取引時間延長では、良い効果が出ないのは当然の帰結である。前場の取引時間を30分延長するぐらいなら、せめて後場の取引時間を30分延長するべきだったのではないかと思うのだが、日本の金融機関の営業時間は15時までという暗黙の了解事項があるため、無理だったのかもしれない。
 
 株式取引時間の分割延長によって、“株式取引時間分割バブル相場”を誘発するぐらいの思い切った株価政策(金融改革)を実行できる政治家はいないものだろうか…。
 
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消費者心理から乖離したタクシー料金

2011112101_2 世間ではもうすぐ忘年会のシーズンを迎える。この時期に「忘年会特需」という稼ぎ時を迎える業界と言えば、飲食店(居酒屋)業界が有名だが、おこぼれ的に特需が舞い込む業界がある。それは、タクシー業界である。
 
 最近は、安価な居酒屋も多くなり、忘年会自体も明朗会計で済む場合が多いと思われるが、その反面、タクシーでの利用料金は全く変わっていない…と言うより、逆に値上がりしているとも言える。
 現在のタクシーの初乗り料金は地域によって少し異なるが、東京の場合は710円、大阪の場合は660円である。詳細を述べると以下のようになっている。
 
 (東京)2000mまで710円
     以後288mごとに90円加算

 (大阪)2000mまで660円
     以後273mごとに80円加算

 私の場合、普段はマイカー通勤をしているが、飲んで帰る日は、往きはバスと電車、帰りは電車とタクシーを利用することにしている。最寄りの駅から自宅までの距離が3km以上あるので、夜間割り増し料金も追加され、タクシー代は1000円以上必要になる。
 
 一頃(2002年頃)、タクシー業界にも規制緩和の波が押し寄せ、タクシー乗務員から悲鳴の声が上がったことがある。規制緩和によってタクシーが増え過ぎたせいで、「儲けにならない」という悲鳴がよく聞かれた。
 しかし、その後(2008年)、再度、規制を行うことで少し落ち着きを取り戻した(悲鳴が聞こえなくなった)ことは周知の通りである。
 
 規制緩和によって、タクシー新規参入者が激増してタクシー台数が需要を大きく上回れば、当然、タクシー1台当たりのお客数が減少し、結果的にはタクシー乗務員の収入減に繋がる。これは子供でも解る理屈である。その理屈は理解できるのだが、はたして当時、タクシー運賃はどれだけ下がったのだろうか? 初乗り運賃が現在の半額程度(300円台)まで下がったというような話は聞いたことがない。
 
 料金がそのままでタクシー台数が増えれば、タクシー乗務員1人当たりの取り分が減少する(タクシー会社は、基本的には歩合給)のは当たり前の話だ。
 しかし、それはあくまでも利用者(=需要)の増減を考えない場合の話である。

 この問題の本質は、タクシー乗務員が増えたことだけにあるのではなく、タクシー利用客が増えなかったことにもあると考えられる。ではなぜタクシー利用客は増えなかったのか? それはサービス(利用料金)が変化しなかったからだ。つまり、『料金を下げれば、利用客が増える』という市場のメカニズムを活かすことができなかったところにもタクシー規制緩和問題の本質が隠されているということである。
 
 タクシーの利用料金が下がれば、当然、利用客は増加する。初乗り運賃が半額にでもなれば、それまでバスを利用していた人がタクシーを利用するということも十二分に有り得る。駅から自宅まで2km以内でバスを利用している人であれば、バス代が250円、タクシー代が350円と考えると、差額は100円程度なので、帰りはタクシーを利用しようと考える人は結構いるのではないかと思う。
 
 現在の牛丼店の安値競争の如く、適正料金というものを超えて、料金が際限無く下がり続けるというのは問題だと思うが、ある一定までは料金を下げないことには、利用客の増加には結び付かない。料金を下げずにタクシー台数だけが増加すれば、どう転んでも「規制緩和は悪」というロジックに成らざるを得ない。なぜなら、そこには端から市場を形成する“消費者心理”という重大な要素が抜け落ちているからだ。
 
 規制緩和が経済政策となるためには、参入障壁を下げるだけでなく、セットで利用料金も下げなければ意味がない。規制を緩めるだけでは不充分で、サービスの向上も併せて行わない限り良い結果には繋がらない。片方だけ下げて、片方はそのままでは、市場原理が全く機能しない(=消費者心理が変化しない)ので、不完全な規制緩和になるのは当然の帰結である。

 仕組みだけを変えて、サービスはそのまんまというような中途半端な規制緩和なら初めからやらない方がましだったというのが、一連のタクシー規制緩和問題の顛末だったと言える。先程述べた通り、規制緩和が経済政策になっていなかった、つまり、絵に描いた餅でしかなかったというわけだ。

 当時、「規制緩和したからタクシー業界が不況になった」というようなことを吹聴している評論家が大勢いたと思うが、こんなのは的外れもいいところで、正しくは、「規制緩和したが、サービスがほとんど変化しなかったので業界が不況になってしまった」とするべきであり、決して、規制緩和が失敗したというような単純の話ではなかったのである。
 
 現在のタクシー利用料金は、どう考えても高いというのが一般消費者の実感であり、お世辞にも、消費者が求めているサービスになっているとは言い難い。これは誰もが認めるところだろうと思う。
 規制に頼ってタクシー台数を減らす努力をする以前に、利用客を増やす努力が足りていなかったのではないか?というのが率直な感想である。
 『タクシーが増えれば、収入が減る』という後ろ向きな発想を、『料金を下げれば、利用客が増える』という前向きな思考に切り替える必要もあったのではないかと思う。
 無論、料金を下げたからといって、必ず良い結果が出るというわけではないが、チャレンジする価値は有ったはずである。

 なぜか、少し前に書いた映画館の話と同じような結論になってしまったが、結局のところ双方に共通するのは「消費者の方を向いてこなかった」ということなのかもしれない。

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「実名ブロガー」と「匿名ブロガー」の相違点

2011111701 先日、私も参加させていただいているBLOGOSのトップページを覗いてみると、『BLOGOS AWARD2011』というバナー広告が目に映った。内容を確認してみると、どうやら授賞式らしきものが行われるということらしいのだが、正直なところ、「えっ?」というのが第一印象だった。

 BLOGOSには、著名人から一般人まで幅広いメンバーが参加されているが、大きな違いが1つ有る。それは、「実名ブロガー」か「匿名ブロガー」かという違いである。もっと細かく言えば、実名であっても、顔写真を公開している人としていない人がいる。
 ブログの世界では、「実名」と「匿名」というものが明確に分かれており、有名ブログになれば、匿名が実名に変化するというわけでもない。

 授賞式を生中継で行うということは、もし匿名ブロガーが受賞した場合はどうなるのだろう?というのが、真っ先に抱いた素朴な疑問だった。

 匿名でブログを書いている人は、その方が良いという合理的な個人的理由があって「匿名」を選択しているものと思われるが、その匿名ブロガーが授賞式に参加するとなると、中継された時点で既に匿名ブロガーではなくなってしまうことになる。実際に匿名ブロガーの人々はどのような感想を持っているのか一度、聞いてみたい気もする。

 著名人や、職業上、実名を明かした方がプラスになる(=宣伝になる)ブロガーの場合、合理的な理由があって顔写真も本名も明かしているのだろうと思う。そういった人々がこういった催しに参加することは、またとないチャンスだと思われるが、果たして匿名のブロガーの場合はどうなのだろう?

 実際、BLOGOSに参加させていただくことは、ブロガーとしては名誉なことだと思うのだが、多くの匿名ブロガーにとってそれはあくまでも「自らが書いた記事が多くの人に読まれることに価値がある」という意味においてのことだろうと思う。
 顔や名前を明かして有名人になりたいという人であれば、始めから匿名などにせずに、顔写真も本名も明らかにしているのではないかと思う。それを敢えてしていないということは、匿名で記事を書くことに、別の価値を見い出しているからではないだろうか?

 今後、ブログという新しいメディアが発展していくカギを握っているのは、人口比率的に考えても、まだ現れていない多くの匿名ブロガーの存在だろうと思う。そういった人々は、顔や名前の知れた芸能人の如く有名人になりたいという理由でブログを書き始めるのだろうか?
 中にはそういった人もいるのかもしれないが、私はそうは思わない。かつて、著名人というものは、テレビに出るということに価値があったと思う。マスメディア社会ではそれが当然の目指すべき目的だったのかもしれないが、一般人でも参加できうる新たなパーソナルメディアとして誕生したブログメディアが旧メディアと同じ目的を目指す必要性はあまり感じられない。
 私の考え過ぎかもしれないが、むしろ、そういった目的に主眼を置いてしまうと、あるいはブログメディアの衰退に繋がるのではないかと危惧している。ブログを書く最終的な目的が“芸能人”となると「気が引ける」という人は案外多いのではないかと思う。

 ネット社会ならではの匿名性というものを問題視する向きもあり、そういったことを扱った記事もたまに見かけるが、匿名であるがゆえに書けることもあるだろうし、匿名であるがゆえにブログメディアがここまで発展(悪く言えば増殖?)してきたことも事実だろうと思う。モノ書きを生業にしていない人であっても、趣味の範囲で文章をオープンにできるということは、一般人にとっては大きな魅力であったに違いない。

 ブログ社会でメインとなるのは“人”ではなく“記事”であると思う。そうであるがゆえに、著名人であれ一般人であれ、垣根を気にすることなく同じ土俵の上で論じることができるのではないだろうか? そういう既存の社会にはなかった公平で自由な開かれたメディア空間こそが、ブログというものの魅力であり可能性でもあると思う。

 “ブログが有名になること” と “人として有名になること

 多くの匿名ブロガーが目的としているのは、そのどちらなのだろうか?

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年功序列制度の盲点【意識されない被害者と加害者】

2011111301 『年功序列制度』については当ブログでも何度か述べてきた。その甲斐(?)あってか、主なポータルサイト(グーグル、ヤフー、ライブドア、インフォシーク)で「年功序列制度」と検索すると、トップページに当ブログ記事が表示されるようになった(2011.11現在)。
 
 『年功序列制度』で問題視されることは、「若年世代が老年世代に不当に富を奪われている」という年齢による搾取問題が一般的だが、実は年功序列制度には、年齢差に無関係な被害者と加害者が存在している。
 
 「若年者が老年者に富を奪われている」というのは、あくまでもその若年者と老年者の仕事量が同程度であることを前提にした場合の話であり、通常は“ほとんど仕事をしない老年者”と“バリバリ仕事をしている若年者”という構図で語られている。
 実際に多くの(年功序列制度が維持されている)企業ではその通りの構図になっていると思われるので、「若年者が老年者に富を奪われている」というのは、マクロ的には正しい認識だろうと思う。しかし、どんな企業であろうと、年齢に関係なくバリバリ仕事を行っている人もいれば、その逆に、年齢に関係なくほとんど仕事をしていない(または仕事ができない)人は存在する。
 
 年功序列制度の問題点は、“年齢が上がる度に仕事量が減少するのに、逆に給料は上がり続ける”という歪な制度が最大の争点であることに違いはないが、実はこの制度に収まらない人々が一定の割合(パレートの法則流に言えば2割程度?)で存在している。早い話、年齢給の上昇分では到底割が合わないほどの仕事量をこなしている人々が(年齢に関係なく)存在するということである。(無論、この逆も存在する)
 
 例えば、初任給が20万円の人が、年々1万円ずつ昇給する会社があるとしよう。その場合、1年間で12万円の年齢給上昇となるわけだが、その上昇分以上の仕事をこなせる人にとっては、割が合わないことになる。
 「毎年1万円も給料が上がる」と聞けば、「今時なんて羨ましい会社だろう」と思う人が大半かもしれないが、毎年1万円の昇給分以上(2万円、3万円…)のペースで仕事量を増加していけるだけの能力を有した人にとっては、年功序列制度は有り難迷惑な制度でしかないということである。
 
 現在の日本企業の年功序列制度が述べられる時、話題となるのは“金銭面での高低”だけで、もう1つの尺度である本人の能力(=“仕事量の高低”)は完全に盲点になってしまっている。
 
 若年者にも老年者にも仕事のできる人とできない人がいるわけで、搾取されているのは必ずしも若年者だけではなく、搾取しているのも必ずしも老年者だけではない。若年者であっても、昇給分以上の仕事をこなせない人は搾取している側の人間であるかもしれないし、老年者であっても、昇給分以上の仕事をこなしている人は搾取されている側の人間かもしれないのである。
 
 つまり、年功序列制度の真の問題点は、必ずしも世代間格差にあるのではなく、労働における評価基準というものを同一労働同一賃金をベースにしていないことにあるわけだ。年齢給を廃止することよりも、むしろ職能給になっていないことの方がより重要な問題だということである。
 収入における世代間格差というのは結果であって原因ではない。世代間格差というものは、職能給という当たり前の制度を無視するがゆえに生まれた結果でしかない。
 年長者が一方的に搾取しているとは言えないし、若年者が一方的に搾取されていることにもならないということは、よく考えれば誰にでも分かるはずだし、実際に民間企業に勤めている人であれば、実感として理解しているはずである。
 
 ということで、現在、巷で話題となっている年功序列制度論はあくまでもマクロ的な一般論であり、必ずしも全ての労働者を包括できる非の打ち所の無い絶対論ではないということである。
 
 ちなみに、私は大企業に勤めているわけではないので、年功序列制度とは無関係の立場にある。ここで述べたことは個人的な怨み節でも感情論でもないことを予めお断りしておきたいと思う。

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ギリシャ版シエスタの謎(空白の2時間)

2011110501 ギリシャ危機が騒がれて久しいが、テレビでは毎日のようにギリシャの政治情勢が報道されている。5日にはギリシャ議会でパパンドレウ内閣の信任投票が行われたが、賛成多数(僅差)で信任されたらしい。このことによって、「当面のギリシャ破綻は避けられた」と伝えられている。
 
 ギリシャは観光で有名な国だが、ギリシャ危機が騒がれるまでは、どういう国であるのかということはあまり知られていなかった。「エーゲ海をのぞむ美しい観光名所」という抽象的で表面的なイメージだけが喧伝され、政治的な内情というものは具体的にはほとんど公には報道されてこなかった。
 実際にギリシャ旅行をしたという人のブログ記事などを読んでみると、多くの人が共通して抱くイメージというものがあるらしく、そのイメージを一言で言えば、「怠惰な国」ということらしい。
 
 ギリシャは人口1100万人程の小国だが、就労者の4人に1人が公務員という国でもある。官庁の勤務時間は、早朝の7時に始まり、14時から15時で終了するというのが一般的であるらしいが、普通の企業でもこれに近いと言われている。そして、ギリシャには「シエスタ」という生活習慣がある。「シエスタ」というのは、スペイン語で「昼寝」を意味するが、元々はスペイン人の日差しを嫌う文化から始まったものとされている。
 
 朝早く起きて、夜遅くまで遊ぶことが習慣になっているギリシャではシエスタはなくてはならないものになっており、13時から16時までの3時間程度がシエスタ時間に割り当てられている。ギリシャではその時間帯に電話をすることは公私共に失礼に当たるらしい。
 13時から16時までということは、先に述べた午後からの仕事時間と重なることになるので、実質、まともに仕事をするのは昼までであり、午後からは昼寝と遊びというのが、ギリシャ人の一般的な生活習慣だと言える。
 
 「エコノミックアニマル」とか「ワーカホリック」と揶揄される日本のサラリーマンから見れば、ギリシャというのは「国民全員が公務員のような国」とも言えそうだ。日本では電車が数分でも遅れると大騒ぎになるが、ギリシャのような国では、おそらく全く正反対で、時間通りに電車が到着すれば驚くような国であるのかもしれない。
 
 こういったギリシャのノンビリムードというものは、ある意味で日本も少し見習うべきなのかもしれないが、反面、そんな国では経済的に財政破綻するのは仕方がないという気もする。

 個人的には、1時間程度の「シエスタ」的な休憩時間は日本でも導入した方が仕事能率は上がるのではないかと思う(その代わりに終業時間は1時間遅くなる)。
 実際、シエスタは健康にも良いらしいので、導入する価値はあると思う。しかし、気を遣って有給休暇も満足に取得できない日本のような国ではシエスタの導入は極めて難しいと言わざるを得ない。元々国の文化や国民の気質の違いもあるため、全国民的にシエスタを導入するなどということは不可能に近い。
 
 それにしても就労者の4人に1人(つまり25%)が公務員というのは無茶苦茶である。日本の場合、公務員比率は6.5%程度なので、25%のギリシャは日本の4倍近い比率ということになる。現在の日本で公務員数が4倍に膨れあがればどうなるかを考えれば、その異常ぶりがよく分かる。しかもギリシャ国民は日本国民と違い、勤労の精神というものをほとんど持ち併せておらず、資本主義の精神も全く根付いていないように見える。
 
 先程、4人に1人が公務員と述べたが、現在の日本の年金制度も実はこれに近いシステムになっている。年金制度が出来た当初は、10人の労働者で1人の退職者を養うというシステムだったが、現在では3人で1人を養うというシステムに変化していることはよく知られている。
 給料が30万円の3人の労働者がそれぞれ5万円ずつ出し合って、1人の退職者を15万円で支えるというシステムならまだなんとかなるかもしれないが、2050年には1人の労働者で1人の退職者を支えなければならなくなる。給料30万円の人が、給料の半分に当たる15万円を支払うというようなシステムがまともに機能するとは思えないので、年金システム自体が破綻することは目に見えている。どんなにデタラメな予言者であろうとエコノミストであろうと、このこと(年金制度の崩壊)を予言するのは、さほど難しいことではない。それは予言と言うよりも、近い将来に起こる必然でしかない。
 
 日本の年金問題については別の機会に譲るとして、ギリシャ問題に話を戻そう。
 ギリシャのGDPはユーロ圏の3%に過ぎない。その3%に過ぎない国が、EU諸国の経済だけでなく、全世界の経済にマイナスの影響を与えている。これは普通に考えると非常におかしな話だと言える。
 
 俗な話だが、少し前までギリシャでのポルシェ購入台数は世界一だったらしく、怠惰な国民性の割りには、消費国家という一面も持ち併せている。しかし、その消費は借金(ローン)によって成り立っているもので、国の放漫財政の原因は、実は国民の借金体質にもあることを如実に物語っている。借金に次ぐ借金体質というのは、まるでサブプライムローン問題で揺れたアメリカの住宅バブルのようだが、結局のところ、身の丈を大幅に超えた生活を送っていたことが財政破綻を招いた原因だったということなのだろう。
 
 まともに働きもせずに、消費欲は人一倍強く、過剰な社会保障を求めるという、まるでどこかの国(?)のような国民性こそがギリシャ問題の本質であり、それは世界中の福祉国家にもそのまま当て嵌まることでもある。それが、ギリシャ問題が全世界的な問題にまで拡大している本当の理由なのかもしれない。それは一言で言うなら、「福祉国家という幻想の破綻」である。
 彼らに対する処方箋は「借金の棒引き」という甘い薬ではなく、「合理化の精神の導入」という苦い薬であるべきなのかもしれない。「良薬は口に苦し」である。

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