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2011年12月

東電と国民の『責任転嫁ごっこ』という悲劇

2011122601 案の定、東京電力が「電気代を値上げする」と発表する事態を迎えることになってしまったが、当然のように民衆の反発を招いている。
 「原発事故を起こした張本人が電気代を値上げするのは筋が通らない」という理屈は理解できるし、「値上げする前に自社内の経費削減を行え」という批判もその通りだと思う。しかし、電気代が上がることになるだろうことは、ある理由(後述する)により初めから分かり切っていたことである。
 
 確かに事故を起こした当事者である企業が、自らのミスを国民に転嫁するという行為は筋が通らない。しかし、原発事故を執拗に批判してきた人達が電気代が値上がりすることを批判することもまた筋が通らない。なぜ筋が通らないのかを以下に述べよう。
 
 東京電力という企業は基本的には電気を供給することのできる半国営の独占企業である。その独占企業が事件や事故を起こしたことを批判するのは自由だが、皮肉なことにその企業が潰れて困るのは国民自身でもある。電気を供給できる独占企業が潰れてしまうと国民の生活自体が成り立たなくなるという現実がある。全国民に電気を供給できる競合企業や、全国民に電気を供給できる代替発電技術が有るというなら話は別だが、残念ながらそういった企業も有力な代替手段も現状では存在しない。
 
 「事故を起こした企業を批判して何が悪い!」と言われそうだが、もちろん、事故を起こした企業を批判するのは当然のことだ。しかし、東電は先にも述べた通り、独占企業なのだ。
 「独占企業なら何をしてもいいのか!」と言いたい気持ちも解らないではないが、これまで電力の独占供給体制の危険性を考えずに放ったらかしにしてきた国民にも全く非がないとは言えない。そういった国民の危機感の無さが、電力会社の危機管理にも影響を及ぼし、事故に繋がった可能性も否定できないのではないか?ということである。
 
 確かに原子力を扱うような民間企業が何社も有るのは危険と言えなくもないが、1社独占の社会主義的な体制では、事故が起こった場合、今回のようなこと(=国民に責任を転嫁されること)になるのは避けられないことでもある。仮に電気代が上がらなかったとしても代わりに(完全国営化とセットで)税金が上がるだけの話である。
 そういったリスク認識が無かったのは他の誰のせいでもない、自分自身の認識力が甘かったということである。東電の危機管理能力の甘さも問題だが、国民の危機管理能力にも大いに問題があったということである。

 この事件を通して我々国民が学ばなければならないことは、「競争原理の働かない社会主義体制の危険性」だと思われるのだが、どういうわけか多くの国民は目先の電気代の値上げだけに目が行き、感情的(左翼的)な批判に明け暮れているだけで、事の本質が全く見えていないように思える。東電1社の無責任体制を今頃になって批判しても本質的な問題の解決にはならないということが解っていないようだ。
 
 お断りしておくが、私は東京電力を擁護するつもりはさらさらない。しかし、電力供給における独占体制を放置してきたことの責任を東京電力に転嫁しても何も始まらない。いや、「何も始まらない」というのは少し違う。正確に言えば、「更に事態が悪化する」ということである。今更、東電と国民が責任の転嫁ごっこを行っても、何の解決にもならず、事態は悪化する一方だ。こんな単純なことがなぜ解らないのだろうか?

 電気代の値上がりもその悪化の一環であり、感情的になればなるほど、批判すれば批判するほど、事態はスパイラル的に悪化していくことになり、電気代も必要以上に上がることになる。まさにイタチごっこである。
 現状では、電気代は2割程度上がることになっているそうだが、ヒステリックに騒げば騒ぐほど、賠償費用はどんどん上積みされていき、風評被害も手伝って電気代も3割、4割と上がっていくことになる。その上がった費用は全て国民に転嫁され、そのことに対して文句を言ってもどうすることもできない。それが社会主義を基にした独占企業というものの恐さなのだ。そのリスクを全く考えてこなかったのは誰だったのかを自問自答してみることも必要ではないかと思う。

 日本には競争原理が機能していない企業や組織が数多存在している。「電力を安定供給するためには国営が望ましい」という意見もあるが、いざ問題が発生した時にどういう事態を迎えることになるかを今回の事故によって多くの国民は実際に体験したはずだ。その実体験を通して、事の重大さに気が付くことができないのであれば、それこそが悲劇である。

 では、「事の重大さ」とは何か? 電気代が値上がりすることか? もちろん違う。電気代が上がるのは事故が起こったことによる結果に過ぎない。批判するべきは、事故の結果ではなく、事故が起こった原因なのだ。その原因を改善しない限り、また同じような事故が起こった場合、同じような結果になるだけである。結果ではなく原因にこそ目を向けなければ何の解決にもならないということを知るべきだ。

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『水戸黄門』の終わりと『検察』の綻び

2011122101 「ナショナル劇場」(現在は「パナソニック ドラマシアター」)として42年間に渡って人気を博してきた時代劇ドラマ『水戸黄門』がついに完結を迎えた。
 私も子供の頃はよく観ていた記憶があるが最近はほとんど観ていなかったので、個人的にはそれほど思い入れはないのだが、年輩の方々(私の親の世代)にとっては非常に残念な出来事であるらしく、水戸黄門復活の署名運動まで行われているらしい。

 少し前には『必殺仕事人』が新しくドラマ化されたこともあったものの、大御所の『水戸黄門』が終了したことによって、時代劇ドラマは完全に民放テレビから姿を消したことになる。昔は『遠山の金さん』『銭形平次』『大岡越前』というような人気ドラマもあったが、もはや、このての時代劇を製作しようなどという民放テレビ局は出てこないかもしれない。今後、時代劇はNHKか映画でしか観ることができない時代になっていくのかもしれない。

 かつて、日本のテレビ番組の中に大きなウエイトを占め続けてきた数々の時代劇ドラマの低迷と相継ぐ放送の打ち切りという現象は、一体何を意味しているのだろうか? それはテレビ局やスポンサーの経済的な懐事情から派生したものだろうか? それとも、単に視聴率の低下が招いた悲劇だろうか?

 時代劇というものは基本的に「お上」が主役のドラマである。『水戸黄門』などはまさにその典型であり、「正義の印籠」を眼前に掲げると、民衆はまるで神様でも見たかのように驚き、無条件にその場に平伏す。
 誤解を恐れずに言えば、その隷属的とも言える光景は、見方によっては、まるで最近話題となったどこかの国のようなものであり、意図せずとも、こういったテレビ番組は「お上は神様のような善人」というイメージを国民の潜在意識に植え付ける役目も果たしてきたものと思われる。

 確かに勧善懲悪ドラマは観ていて楽しい。善人が悪人を懲らしめるというストーリーに人々は興奮し、日頃のストレスの解消にもなり、悪が浄化されていく姿にカタルシスを覚える。
 しかし、この世の中というものはそう単純ではない。フィクションドラマのように完全に善と悪が分かれているわけではなく、善人のふりをした悪人もいれば、悪人のように見える善人もいる。

 「現代の水戸黄門」と言われてきた検察という組織も、最近では、証拠の改竄やデッチあげといった犯罪者顔負けの隠蔽行為を行っていたことが判明し、その信用を大きく失墜させた。検察の捜査手法は、マスコミと公共の電波(テレビ)を利用して巨悪を断罪するという「劇場型捕物捜査」と揶揄されることがあるが、そういった捜査自体を疑問視する声も日増しに大きくなりつつあった。

 この同時期に発生した、検察という組織の綻びと、水戸黄門の終わりという現象は、偶然の出来事にしては出来過ぎの感がある。この偶発的に起こったかに見える2つの事件を社会学的に考察すると面白いかもしれない。

 『水戸黄門』のモデルである徳川光圀が、仮にどのような人徳のある人物であったにせよ、テレビドラマはあくまでもフィクション(虚構)である。
 人が人を裁くという行為には、危険が付き物であり、100%間違いが無いなどということは有り得ない。その判断に少しでも“感情”というものが入り込むと、大きな間違いを犯す危険性が生まれる。イメージだけで他人を判断することは、冤罪を生む危険性を多分に孕んでいるということを知らねばならない。
 遠山金四郎景元が、如何に男気のある人物であったとしても、大岡忠相が如何に高潔な人物であったにせよ、所詮はただの人間であり、間違いを犯さない完璧な人間だったなどということは有り得ない。それが有り得るのはフィクションドラマの中だけである。

 当然、検察という組織にもこの理屈はそのまま当て嵌まる。もし彼らが、100%間違いを犯さないということが有り得たとすれば、それはフィクションが含まれていたということである。

 検察の信用失墜問題は、国民にこれまでのフィクションが通用しなくなってきたということの現れであり、幸か不幸か、1検察官の証拠改竄事件によって実際にその綻びが現実として表面化してしまったとも言える。
 
 仕事における信頼関係というものは信用を失ってしまえば終わりだが、検察の捜査というものも信用を失ってしまえば終わりである。しかし国民の多くは、水戸黄門と同様、“検察は間違いを犯さないもの”と固く信じてきた。それゆえに、検察も間違いを犯せないというプレッシャーが有ったのかもしれないが、自らの間違いを隠すために無実の人間を冤罪にすることによって信用を保っていたのでは本末転倒であり、そんな見せ掛けのシステムが永遠に続くはずがない。

 現在の価値観が逆転していくかのように見えている姿は、実は価値観が本来の姿に戻っていく過程なのかもしれない。これまで大きく歪められてきた価値観が矯正されていく姿を我々は時代の生き証人として見届けている最中なのかもしれない。

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理想的な『メルマガ』の考察

 光陰矢の如しで、当ブログを開設して早くも5年の歳月が経過しようとしている。昨年の12月20日からブロゴス・ファイナンス(今年の6月からはブロゴスに移行)に参加し、ちょうど1年が経過したことにもなるので、この機会に備忘録的に少し感想(雑感)を書いておきたいと思う。

 この1年間でどれだけのブログ記事を書いたのかを実際に数えてみると、計70本で、その内、ブロゴスに掲載された記事は65本だった。正確に言うと、66本なのだが、どうやら先日のBLOGOSリニューアル時に1つの記事が消えてしまったらしい。消えていたのはリニューアル前に掲載された最新の記事(タクシー関係の記事)だったので、多分、移行作業時に何かトラブル(?)でもあったのだろうと思う。

 されはさておき、1年間で70本ということは、大体5〜6日に1本のペースで記事を書いていることになる。ブログというものが「日記」だと考えると、本来であれば、ほぼ毎日更新するべきものなのかもしれないが、本業や別の趣味をこなしながら空いた時間でブログを書くとなると、この辺が妥当なところなのかもしれない。

 ところで、ブログとよく似たものに「メルマガ」というものがある。メルマガは大体、1週間に1本の記事を書くことが標準となっている。ということは、1年間に50本の記事を書くことができる人であれば、一応は発行可能なペースということになる。

 「メルマガ」と言えば、ホリエモンが有名だが、ホリエモンの場合、1ヵ月840円(1年間で1万円)のメルマガを発行し、既に購読者が1万人を超えているそうなので、メルマガだけで年間1億円以上の売上があることになる。
 彼は例外としても、無料でブログが公開されている時代に、個人のメルマガに1年間1万円も支払おうなどとは普通は思わないだろうと思う。1年間1000円程度なら継続的なビジネスとして成り立つ可能性があるかもしれないが、1年間1万円は高過ぎるような気がする。例えば、10個のメルマガを読みたいという人がいたとしても、合計で年間10万円もかかることになれば、大抵は1つか2つに絞らなければならないということになり、金額が足枷となってメルマガの流行には繋がっていかないだろうと思う。

 それと、「1週間に1本」というような縛りを設けるよりも、「年間で50本以上」というような感じにした方が良いような気がする。冠婚葬祭や体調の悪い時などには記事が書けない(または書きたくない)ということもあるだろうから、書き手にとっても融通の利くシステムにしておいた方が無難だと思う。
 「年間で50本以上」というようなアバウトな設定にすれば、おそらく結果的には記事数は多くなるのではないかと思う。それを「1週間に1本」と決めてしまうと、本当に年間50本のみということになってしまい、購読者も損をすることになる。

 メルマガの発行は、お金を出してまで読みたいという人が少なくとも1000人以上、具体的に言えば、最低でも1日に1万人以上のUU(Unique User)が必要だろうと思う。無料で1万人であれば、(金額にもよると思うが)有料でも100人位は読んでくれる可能性がある。それでも年間1000円で考えると、100人で10万円だ。そこから、メルマガ発行会社に運用手数料等を半額程度支払うと仮定すると、手元に残るのは5万円位になる。記事50本で5万円なら、1つの記事の価値が1000円ということになるので、その辺りが現実味のある最低ラインかもしれない。

 メルマガの記事はブログ以上に長文になると思われるので、記事を書くのも結構な時間を要することになる。通常、1つのブログ記事を書く場合、最低1時間はかかるだろうから、メルマガ記事なら2〜3時間はかかってもおかしくない。そう考えると時給に換算すれば内職程度の報酬しか得られないということになる。趣味の範囲ならそれでも充分かもしれないが、副業や本業となると少し厳しいものがあるかもしれない。(週1で本業ということはまず有り得ないが…)
 
 …と、ここまでは一般的な常識を基に意見を述べさせていただいたが、私が理想と思っているメルマガの基本料金はズバリ300円以下である(無論、年間300円という意味)。消費者の立場に立って考えると、1つの記事の料金は10円以下が望ましいと思う。

 「安過ぎるのでは?」と思う人がいるかもしれないが、300円でも10000人の購読者がいれば300万円になる。50本の記事で300円なら、1本の記事が6円ということになるので、それ位なら支払っても構わないという人は案外いるのではないかと思うし、複数のメルマガを購読する人も出てくるだろうと思う。
 
 A. 10000円×300人=300万円
 B. 1000円×3000人=300万円
 C. 300円×10000人=300万円 

 上記の3つのケースでは、いずれも売上は同じになる。しかし、将来的に購読者数が大幅に増加する可能性があるのは、誰が考えてもである。
 
 ちなみに当ブログの場合、UUは未だ200程度なので、10000には程遠い。
 最近、BLOGOSの方でもアクセス解析ができるようになったので、そちらも確認してみると、記事が掲載された日のPV(Page View)は1000以上あることが判った。記事の内容や掲載のされ方によってかなり違うみたいだが、ランキングで上位に入ると数千、場合によっては万単位のアクセス数になるようだ。(前回の記事の場合、初日のPVが10000を超えていた)
 この辺の詳しいことは、興味を抱いている人がいるかもしれないので、またご報告したいと思う。

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『一億総公務員』思考の厚生労働省

2011121501 年金支給開始年齢を引き上げたことで批判を集めていた厚生労働省が、今度は企業に対し、希望者全員を65歳まで再雇用するように義務付ける方針を明らかにしたらしい。
 この報道を聞いて、一瞬、唖然としてしまった。場当たり的な対症療法であることに驚いたことは言うまでもないが、それ以前に、「この国の人間は全員公務員か!」と言いたくなった。

 本来、お役人というものは、国民(納税者)にとっては家政婦のような存在である。「家政婦」と言っても、最近は不景気の関係であまり見かけないかもしれないが、『家政婦のミタ』という人気テレビドラマも放送されているので、誰でも想像は付くだろうと思う。その家政婦が、雇用主の会社の経営に対して命令している姿を思い浮かべてみれば、それが如何に可笑しな姿かがよく解ると思う。

 健全な民主主義国家では、お役人はパブリック・サーベント(公僕)という認識が強く持たれているので、通常、民間企業の経営には口出ししないものである。逆に、お役人が企業に対して命令を下す国家のことを「社会主義国家」と呼ぶが、現在の日本はまさにそのまんまと言える。
 
 厳しいグローバル経済環境下で凌ぎを削っている民間企業に対して、「再雇用しろ」とか「給料を上げろ」などと要請したところで、何でもかんでも命令通りに簡単に実現できるものではない。「はい、そうします」と簡単に言えるようなら、誰も苦労はしない。こんな小学生の思い付きのような指示をまともに受け入れてしまえば、日本の民間企業(特に中小企業)は崩壊しかねない。
 
 今回の場合、年金支給年齢の変更が発表されてから、再雇用の義務付けが発表されたわけだが、これは言わば、「定年を65歳にする」ということである。定年が60歳から65歳になるのは良いことかもしれないが、発表する順序が逆さまだ。
 本来であれば、定年を65歳にしますと発表した後に、年金支給年齢の引き上げを発表するのが筋だと思われるが、そういった常識を完全に無視しているところからも、ただの思い付きで発表しているのではないかという疑念が生じてしまう。
 
 本来、民間企業の定年などというものは個々の企業が独自で決めるものであり、日本全国の全企業が一律に何歳と決める必要性はないと思える。60歳で定年になる企業もあれば、70歳で定年になる企業があってもいい。もっと言えば、何歳まで働くかを決めるのは自分自身であり、個人の自由であるべきだ。定年制度などというものは一応の目安として存在すればいいだけの話である。

 企業側としても、勤勉で優秀な人材であれば定年を過ぎても雇用し続けたいだろうし、怠惰な給料泥棒のような人には定年前にでも辞めて欲しいというのが本音だろうと思う。定年制などというものが有ると、そのどちらの希望も叶えられないということになる。やる気の有る有能な人には辞めてもらわなければならなくなるし、仕事をやる気の無い人でも雇い続けなければならなくなる。まさに踏んだり蹴ったりであり、優秀な人材を確保したい企業としては大きなマイナスとなる。

 そんな倒錯した労働環境になると、企業は将来的に発生するマイナスな事態を避けるために、極力、正社員を雇わなくなることは自明の理である。企業側としても、入社時から有能な人物だけを選別しなければならなくなり、入社後に努力することによって花開く才能を持った人物の可能性をも摘んでしまうことになる。これは社会全体としても大きな損失だ。

 そもそも、若年者が就職できないことが大問題となっている時代に、老年者の雇用のみを無条件に引き延ばすというのは誰が考えてもおかしい。
 厚労省いわく、「定年になる年齢と年金支給開始年齢の間にブランクがあれば無収入になる期間がある」とのことらしいが、もはや、現在の日本は年金に期待できるような時代ではなく、本来であれば、年金制度自体を廃止してもおかしくないような時代だ。年金制度が破綻しかかっている時に、年金が支給されることを前提にした制度改革を行っても何の解決にもならず、ますます歪な社会になるだけである。格差を嫌うお役人が、自ら歪な格差を生み出しているようなものだ。

 現在のお役人が考えなければならないことは、年金や定年の問題ではなく、如何に需要を増加させるかという課題だ。需要が増加しない限り、新たな雇用も生まれない。その需要を増加させるために、民間企業の経済活動を補佐するというのが本来のお役所の仕事である。民間企業から新たな産業が産まれるためには、自由な経済環境と個人の才能を経済的にバックアップするようなシステムが必要不可欠だ。そしてそういったシステムを邪魔するものを排除する法律や制度も必要になる。

 ところがこの国のお役人は、民間企業が不自由になるような規制ばかりを作り、まるで新たな需要や産業が産まれることを拒否しているかのように見える。
 本来、民間企業が元気を失えば、それに比例して、お役所も同じように衰退するというのがまともな社会の姿である。
 先の家政婦の例で言えば、雇用主の仕事が順調であれば家政婦も失業することなく給料も上がるかもしれない。逆に、雇用主が失業したとか、ボーナスが出なくなったということになると、その家政婦の職も安泰ではなくなる。しかしこの国で起こっていることは、雇用主が不況で困っている状況にありながら、家政婦のボーナスが上がっているという異常事態だ。
 
 雇用主が困れば家政婦も困るという当然の社会メカニズムが機能していないがゆえに、景気が悪くなろうが、失業者が増えようが全くお構い無しに愚かな政策を実行してしまうことになるわけだ。
 もういい加減にこういった馬鹿な悪循環は止めにしないと、「官僚栄えて国滅ぶ」という言葉が現実のものになってしまいかねない。

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性悪説論者と社会主義者の類似性

2011121001 世の中には“性善説を唱える性善説論者”と“性悪説を唱える性悪説論者”の2種類の人々が存在する。性善説と性悪説については様々な諸説が有るので、どういったものが性善説であるか性悪説であるかの判断は難しいが、ここでは単純に、人間は生まれ持って性善なるものか、それとも性悪なるものかという判断に基づいて話を進めようと思う。

 まず、私自身は基本的には性善説論者だと思っている。世の中には何でもかんでも白黒をハッキリさせないと気が済まないという人もいるが、私の場合、白の中にも黒が有り、黒の中にも白が有るという考えを持っているので、「この人は善人、あの人は悪人」というように白黒を付けるのはあまり好きではない。

 一方、性悪説論者と言われる人々は、何でもかんでも白黒を付けたがるという精神的特徴を持っているように見える。「白黒を付ける」というのは、言葉を変えれば「レッテルを貼る」ということなので、性悪説論者というのは人間的に観ても好き嫌いが激しいタイプの人なのだろうと思う。

 この世に完璧な人間などいないのだから、人間的に完全に真っ白な人間などいないだろうし、その逆の完全に真っ黒な人間もいない。人間に対して明確に白黒をハッキリ付けるという行為は、人間というものの評価を“四捨五入”しているということである。それは同時に、人間というものが成長(または変化)する存在だということを無視した姿でもある。
 「50点以上は白」、「50点以下は黒」といった具合に、自らの尺度で人間をバッサリと切り分けているのが性悪説論者と言われる人々の姿だと言える。先述したように、性悪説論者というのは他人にレッテルを貼ることを好む精神を持ち合わせた人々(=レッテラー)だと言うことができると思う。

 このレッテラーというのは、実は社会主義者の精神的特徴でもある。彼らは、「人間は元々、性悪な生き物だから管理しなければ人間として正しく生きることができない」というようなメンタリティーを心の内に抱えている。その思考形態は、「お役人」と呼ばれる人々の精神構造とも軌を一にしている。

 日本では、高校を卒業するまでの間は、基本的に社会主義教育の中で生活することになる。「義務教育」と言えば聞こえは良いが、強制的にコンクリート校舎の中に閉じ込めて教育を行うという点だけ見れば、明らかに社会主義教育である。(高校は退学する自由が認められているので、正確には社会主義教育とは言えない部分があるかもしれないが…)
 そしてその後、大学や専門学校に入学することによって、ほんの少しだけ自由主義教育の空気に触れることになる。

 私も経験があるが、大学に入学して初めて教育というものに“自由”という空気を感じた。受講科目を自分の意思で選択でき、出欠も自分に任される。この当たり前の単純なことにある種のカルチャーショックを覚えたことを記憶している。

 多くの人々にとって、本当の自由を満喫できるのは、「レジャーランド」と言われて久しい大学や専門学校の中にいる時だけなのかもしれない。そういう意味では、この時期というのは貴重な時間なのだろうと思う。

 例えば、小中高大と全て国公立の学校に通い、組まれたカリキュラム通りに授業を受け、その後そのまま公務員になったというような人であれば、実体験として自由教育や市場経済というものを経験していないとも言えるので、社会主義しか知らないということも有り得るということである。

 頭脳は明晰でも、実体経済の中にその身を置いた経験のないお役人がトンチンカンな経済音痴政策ばかりを繰り出すのも、結局のところ、身も心も社会主義にドップリと漬かり過ぎている(しかも本人はそのことに気付いていない)せいだと言えるのかもしれない。
 社会主義教育しか受けてこなかった人物が、市場経済の舵取りを行うことの危険性は言うに及ばないが、当人達は自らが社会主義教育しか受けてこなかった生っ粋の社会主義者であるということなど夢想だにしていないのかもしれない。
 そんな人々が今度は教育する側に立って、無意識的に社会主義教育を行い、国民の思想を真っ赤に染めていくことになる。
 
 本当の自由教育とは、国民が主役の教育のことであり、選択する自由が与えられていない教育のことを自由教育とは呼ばないことは明白である。
 「国民達を管理せずに放っておくと、きっと悪さをするに違いない」というような性悪説的な思考に基づいた管理教育とは、実は社会主義教育のことなのである。
 
 一応お断りしておくと、私は義務教育自体を否定しているわけではない。最大の問題点は、ほとんどの国民が現在の日本の教育が社会主義教育だと認識していないと思われることにある。つまり、実質的に教育における選択の自由が与えられていないことが問題なのである。
 
 あなたがもし性悪説論者であるならば、「自らは社会主義者に近いタイプの人間であるかもしれない」という疑いを1度持ってみることをオススメする。
 
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フェイスブック上場と『第二次ITバブル』の予感

2011120401 先週、米国SNS最大手のフェイスブックが来春に株式の新規公開(IPO)を検討していることが判明した。IPO による資金調達額は100億ドル 、時価総額は1000億ドル(約8兆円)に達する見込みらしく、「トヨタ並みの上場企業が出来上がる」と伝えられている。
 言わずと知れたことだが、日本の時価総額のトップ企業はトヨタ(約9兆円)であり、2位がNTTドコモ(約6兆円)、3位がNTT(約5兆円)である。(2011.12現在)
 創業2004年のベンチャー企業が新規上場することによって、トヨタ以外の日本の全ての上場企業をごぼう抜きしてしまうことになるわけだ。

 Facebookは全世界で既に8億人のユーザーが存在する。日本は「フェイスブック後進国」とも言われているが、公表されているところでは、既に1000万人の利用者が存在するらしい。未だTwitterも行っていない私のような人間からすると、これはちょっと信じ難い数字ではある。実際、私の身の周りにもフェイスブックを利用しているという人はおらず、利用しているという人の話も聞いたことがない。フェイスブックの場合、ツイッターとは違い「実名登録制」なので、日本ではそれほど拡がらないような気もする。

 英語圏の人々の場合、他国でも言葉が通じればコミュニケーションできると思うが、日本の場合、海外の人を相手にするには“言葉の違い”という大きな壁があるので、どうしても国内のみのコミュニケーションになってしまう。このことはブログについても言えることかもしれないが、マーケット自体が国内のみに限定されてしまうというハンデを抱えている。
 英語は、世界80カ国以上で話されており、4人に1人が英語を話すことができるとも言われているが、日本語を話せるのは、せいぜい50人に1人程度であるから、その規模は圧倒的に違う。そう考えると、フェイスブックのようなソーシャル・ネットワーキング・サービスというのは、英語圏に有利なサービスだと言えるのかもしれない。

 そのフェイスブックだが、以前から上場の噂話はあったものの、なぜかこれまでは実現してこなかった。しかし今回の報道を聞いて、個人的には「ナルホドな…」と思った。というのも、2012年はアメリカの大統領選挙があるため、「第二次ITバブルの年になる」ということがまことしやかに噂されていたからだ。
 元々、世界的にもSNSブームが起こりつつあったので、今回のフェイスブックの上場発表は誰の目にもごく自然な時代の流れに映ったのかもしれないが、時期的なことを考えるとアメリカ政府が間接的に絡んでいる可能性も否定できないと思う。
 
 米国発の金融危機を予告したことでも知られるケンブリッジ・フルフォーキャスト・グループの藤井厳喜氏の書籍『超大恐慌の時代』にもそういったこと詳しく書かれていた。「第二次ITバブルの主役はフェイスブックになる」というようなことがズバリ書かれてあったので、信憑性は高いと思う。
 
 私は陰謀論の類いにはそれほど興味は無い(注意:藤井厳喜氏が陰謀論者という意味ではない) が、フェイスブックの上場に関して言えば、ただの景気刺激策(政策)とも言えるので有り得る話だと思う。
 これが真実であれば、来年は日本のIT企業もその影響を受けて、ミニバブルが起こるかもしれない。しかし、日本の場合、不景気を好む官僚がバブルを潰すことで有名なので、一時的なミニバブルで終わる可能性が高いということも付け加えておきたいと思う。
 
 クリントン時代の『ITバブル(ドットコム・バブル)』が数年で崩壊したように、今回起こるかもしれない『第二次ITバブル』もいずれは崩壊するだろうが、来年は住宅バブルになり変わって、別のバブルの発生を目にすることになるかもしれない。
 
 最後にもう一言付け加えておこう。「株式投資は自己責任で。
 
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