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『一億総公務員』思考の厚生労働省

2011121501 年金支給開始年齢を引き上げたことで批判を集めていた厚生労働省が、今度は企業に対し、希望者全員を65歳まで再雇用するように義務付ける方針を明らかにしたらしい。
 この報道を聞いて、一瞬、唖然としてしまった。場当たり的な対症療法であることに驚いたことは言うまでもないが、それ以前に、「この国の人間は全員公務員か!」と言いたくなった。

 本来、お役人というものは、国民(納税者)にとっては家政婦のような存在である。「家政婦」と言っても、最近は不景気の関係であまり見かけないかもしれないが、『家政婦のミタ』という人気テレビドラマも放送されているので、誰でも想像は付くだろうと思う。その家政婦が、雇用主の会社の経営に対して命令している姿を思い浮かべてみれば、それが如何に可笑しな姿かがよく解ると思う。

 健全な民主主義国家では、お役人はパブリック・サーベント(公僕)という認識が強く持たれているので、通常、民間企業の経営には口出ししないものである。逆に、お役人が企業に対して命令を下す国家のことを「社会主義国家」と呼ぶが、現在の日本はまさにそのまんまと言える。
 
 厳しいグローバル経済環境下で凌ぎを削っている民間企業に対して、「再雇用しろ」とか「給料を上げろ」などと要請したところで、何でもかんでも命令通りに簡単に実現できるものではない。「はい、そうします」と簡単に言えるようなら、誰も苦労はしない。こんな小学生の思い付きのような指示をまともに受け入れてしまえば、日本の民間企業(特に中小企業)は崩壊しかねない。
 
 今回の場合、年金支給年齢の変更が発表されてから、再雇用の義務付けが発表されたわけだが、これは言わば、「定年を65歳にする」ということである。定年が60歳から65歳になるのは良いことかもしれないが、発表する順序が逆さまだ。
 本来であれば、定年を65歳にしますと発表した後に、年金支給年齢の引き上げを発表するのが筋だと思われるが、そういった常識を完全に無視しているところからも、ただの思い付きで発表しているのではないかという疑念が生じてしまう。
 
 本来、民間企業の定年などというものは個々の企業が独自で決めるものであり、日本全国の全企業が一律に何歳と決める必要性はないと思える。60歳で定年になる企業もあれば、70歳で定年になる企業があってもいい。もっと言えば、何歳まで働くかを決めるのは自分自身であり、個人の自由であるべきだ。定年制度などというものは一応の目安として存在すればいいだけの話である。

 企業側としても、勤勉で優秀な人材であれば定年を過ぎても雇用し続けたいだろうし、怠惰な給料泥棒のような人には定年前にでも辞めて欲しいというのが本音だろうと思う。定年制などというものが有ると、そのどちらの希望も叶えられないということになる。やる気の有る有能な人には辞めてもらわなければならなくなるし、仕事をやる気の無い人でも雇い続けなければならなくなる。まさに踏んだり蹴ったりであり、優秀な人材を確保したい企業としては大きなマイナスとなる。

 そんな倒錯した労働環境になると、企業は将来的に発生するマイナスな事態を避けるために、極力、正社員を雇わなくなることは自明の理である。企業側としても、入社時から有能な人物だけを選別しなければならなくなり、入社後に努力することによって花開く才能を持った人物の可能性をも摘んでしまうことになる。これは社会全体としても大きな損失だ。

 そもそも、若年者が就職できないことが大問題となっている時代に、老年者の雇用のみを無条件に引き延ばすというのは誰が考えてもおかしい。
 厚労省いわく、「定年になる年齢と年金支給開始年齢の間にブランクがあれば無収入になる期間がある」とのことらしいが、もはや、現在の日本は年金に期待できるような時代ではなく、本来であれば、年金制度自体を廃止してもおかしくないような時代だ。年金制度が破綻しかかっている時に、年金が支給されることを前提にした制度改革を行っても何の解決にもならず、ますます歪な社会になるだけである。格差を嫌うお役人が、自ら歪な格差を生み出しているようなものだ。

 現在のお役人が考えなければならないことは、年金や定年の問題ではなく、如何に需要を増加させるかという課題だ。需要が増加しない限り、新たな雇用も生まれない。その需要を増加させるために、民間企業の経済活動を補佐するというのが本来のお役所の仕事である。民間企業から新たな産業が産まれるためには、自由な経済環境と個人の才能を経済的にバックアップするようなシステムが必要不可欠だ。そしてそういったシステムを邪魔するものを排除する法律や制度も必要になる。

 ところがこの国のお役人は、民間企業が不自由になるような規制ばかりを作り、まるで新たな需要や産業が産まれることを拒否しているかのように見える。
 本来、民間企業が元気を失えば、それに比例して、お役所も同じように衰退するというのがまともな社会の姿である。
 先の家政婦の例で言えば、雇用主の仕事が順調であれば家政婦も失業することなく給料も上がるかもしれない。逆に、雇用主が失業したとか、ボーナスが出なくなったということになると、その家政婦の職も安泰ではなくなる。しかしこの国で起こっていることは、雇用主が不況で困っている状況にありながら、家政婦のボーナスが上がっているという異常事態だ。
 
 雇用主が困れば家政婦も困るという当然の社会メカニズムが機能していないがゆえに、景気が悪くなろうが、失業者が増えようが全くお構い無しに愚かな政策を実行してしまうことになるわけだ。
 もういい加減にこういった馬鹿な悪循環は止めにしないと、「官僚栄えて国滅ぶ」という言葉が現実のものになってしまいかねない。

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コメント

>この報道を聞いて、一瞬、唖然としてしまった。

日本は資本主義国家であるけれども、一方で民主主義国家です。
日本でもアメリカでも民主主義の政府というのは、失業率の上昇は批判されるんですよ。
極端に言えば、

民 主 主 義 国 家 は 失 業 率 0 を 目 指 す 。

雇用主の苦しみというのも、人件費削減にともなって、社会における消費の原資が減少したからなんです。
お金を企業内に留めようとすればするほど、企業内の生産物は消費されないということです。
企業の外側、消費者である労働者にお金を渡さず、なぜ在庫が売れていくと思えるのか不思議でなりません。

投稿: クロコダイルPOP@民主主義は失業率ゼロを志向する | 2011年12月23日 (金) 04時26分

失業率ゼロは社会主義ですよ。
民主主義は自由を守る手段なのだから、本来、政府による失業率ゼロなんか目指してはいけないのです。失業率がどうなるかは、市場が決めることです。

給料が減ったのは厚労省が時短政策を進めたからですよ。労働時間が減れば給料が下がるのは当たり前で、物が売れなくなったのは、時短による給料の減少が原因です。

投稿: new-wind | 2012年1月30日 (月) 22時44分

いえ、ごく常識的に、アメリカでも日本でも失業率の低下は政治の義務ですやん(苦笑)。
民主主義は最大多数の最大幸福を指向するのであって、自由とはたとえば日本の戦国時代のようなもので、競争の結果を尊重すれば、江戸時代のような幕藩体制に行き着くのではないですか?
再分配を無くすと、自由な競争の終結とともに、勝った者は殿様として身分が固定されていくというか。
永遠に競争を続けるには、たとえばトランプのゲームのように、ラウンド毎にシャッフルしていく必要があります。
それが民主主義の再分配になるということです。

投稿: クロコダイルPOP | 2012年2月16日 (木) 06時08分

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