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東電と国民の『責任転嫁ごっこ』という悲劇

2011122601 案の定、東京電力が「電気代を値上げする」と発表する事態を迎えることになってしまったが、当然のように民衆の反発を招いている。
 「原発事故を起こした張本人が電気代を値上げするのは筋が通らない」という理屈は理解できるし、「値上げする前に自社内の経費削減を行え」という批判もその通りだと思う。しかし、電気代が上がることになるだろうことは、ある理由(後述する)により初めから分かり切っていたことである。
 
 確かに事故を起こした当事者である企業が、自らのミスを国民に転嫁するという行為は筋が通らない。しかし、原発事故を執拗に批判してきた人達が電気代が値上がりすることを批判することもまた筋が通らない。なぜ筋が通らないのかを以下に述べよう。
 
 東京電力という企業は基本的には電気を供給することのできる半国営の独占企業である。その独占企業が事件や事故を起こしたことを批判するのは自由だが、皮肉なことにその企業が潰れて困るのは国民自身でもある。電気を供給できる独占企業が潰れてしまうと国民の生活自体が成り立たなくなるという現実がある。全国民に電気を供給できる競合企業や、全国民に電気を供給できる代替発電技術が有るというなら話は別だが、残念ながらそういった企業も有力な代替手段も現状では存在しない。
 
 「事故を起こした企業を批判して何が悪い!」と言われそうだが、もちろん、事故を起こした企業を批判するのは当然のことだ。しかし、東電は先にも述べた通り、独占企業なのだ。
 「独占企業なら何をしてもいいのか!」と言いたい気持ちも解らないではないが、これまで電力の独占供給体制の危険性を考えずに放ったらかしにしてきた国民にも全く非がないとは言えない。そういった国民の危機感の無さが、電力会社の危機管理にも影響を及ぼし、事故に繋がった可能性も否定できないのではないか?ということである。
 
 確かに原子力を扱うような民間企業が何社も有るのは危険と言えなくもないが、1社独占の社会主義的な体制では、事故が起こった場合、今回のようなこと(=国民に責任を転嫁されること)になるのは避けられないことでもある。仮に電気代が上がらなかったとしても代わりに(完全国営化とセットで)税金が上がるだけの話である。
 そういったリスク認識が無かったのは他の誰のせいでもない、自分自身の認識力が甘かったということである。東電の危機管理能力の甘さも問題だが、国民の危機管理能力にも大いに問題があったということである。

 この事件を通して我々国民が学ばなければならないことは、「競争原理の働かない社会主義体制の危険性」だと思われるのだが、どういうわけか多くの国民は目先の電気代の値上げだけに目が行き、感情的(左翼的)な批判に明け暮れているだけで、事の本質が全く見えていないように思える。東電1社の無責任体制を今頃になって批判しても本質的な問題の解決にはならないということが解っていないようだ。
 
 お断りしておくが、私は東京電力を擁護するつもりはさらさらない。しかし、電力供給における独占体制を放置してきたことの責任を東京電力に転嫁しても何も始まらない。いや、「何も始まらない」というのは少し違う。正確に言えば、「更に事態が悪化する」ということである。今更、東電と国民が責任の転嫁ごっこを行っても、何の解決にもならず、事態は悪化する一方だ。こんな単純なことがなぜ解らないのだろうか?

 電気代の値上がりもその悪化の一環であり、感情的になればなるほど、批判すれば批判するほど、事態はスパイラル的に悪化していくことになり、電気代も必要以上に上がることになる。まさにイタチごっこである。
 現状では、電気代は2割程度上がることになっているそうだが、ヒステリックに騒げば騒ぐほど、賠償費用はどんどん上積みされていき、風評被害も手伝って電気代も3割、4割と上がっていくことになる。その上がった費用は全て国民に転嫁され、そのことに対して文句を言ってもどうすることもできない。それが社会主義を基にした独占企業というものの恐さなのだ。そのリスクを全く考えてこなかったのは誰だったのかを自問自答してみることも必要ではないかと思う。

 日本には競争原理が機能していない企業や組織が数多存在している。「電力を安定供給するためには国営が望ましい」という意見もあるが、いざ問題が発生した時にどういう事態を迎えることになるかを今回の事故によって多くの国民は実際に体験したはずだ。その実体験を通して、事の重大さに気が付くことができないのであれば、それこそが悲劇である。

 では、「事の重大さ」とは何か? 電気代が値上がりすることか? もちろん違う。電気代が上がるのは事故が起こったことによる結果に過ぎない。批判するべきは、事故の結果ではなく、事故が起こった原因なのだ。その原因を改善しない限り、また同じような事故が起こった場合、同じような結果になるだけである。結果ではなく原因にこそ目を向けなければ何の解決にもならないということを知るべきだ。

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