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『水戸黄門』の終わりと『検察』の綻び

2011122101 「ナショナル劇場」(現在は「パナソニック ドラマシアター」)として42年間に渡って人気を博してきた時代劇ドラマ『水戸黄門』がついに完結を迎えた。
 私も子供の頃はよく観ていた記憶があるが最近はほとんど観ていなかったので、個人的にはそれほど思い入れはないのだが、年輩の方々(私の親の世代)にとっては非常に残念な出来事であるらしく、水戸黄門復活の署名運動まで行われているらしい。

 少し前には『必殺仕事人』が新しくドラマ化されたこともあったものの、大御所の『水戸黄門』が終了したことによって、時代劇ドラマは完全に民放テレビから姿を消したことになる。昔は『遠山の金さん』『銭形平次』『大岡越前』というような人気ドラマもあったが、もはや、このての時代劇を製作しようなどという民放テレビ局は出てこないかもしれない。今後、時代劇はNHKか映画でしか観ることができない時代になっていくのかもしれない。

 かつて、日本のテレビ番組の中に大きなウエイトを占め続けてきた数々の時代劇ドラマの低迷と相継ぐ放送の打ち切りという現象は、一体何を意味しているのだろうか? それはテレビ局やスポンサーの経済的な懐事情から派生したものだろうか? それとも、単に視聴率の低下が招いた悲劇だろうか?

 時代劇というものは基本的に「お上」が主役のドラマである。『水戸黄門』などはまさにその典型であり、「正義の印籠」を眼前に掲げると、民衆はまるで神様でも見たかのように驚き、無条件にその場に平伏す。
 誤解を恐れずに言えば、その隷属的とも言える光景は、見方によっては、まるで最近話題となったどこかの国のようなものであり、意図せずとも、こういったテレビ番組は「お上は神様のような善人」というイメージを国民の潜在意識に植え付ける役目も果たしてきたものと思われる。

 確かに勧善懲悪ドラマは観ていて楽しい。善人が悪人を懲らしめるというストーリーに人々は興奮し、日頃のストレスの解消にもなり、悪が浄化されていく姿にカタルシスを覚える。
 しかし、この世の中というものはそう単純ではない。フィクションドラマのように完全に善と悪が分かれているわけではなく、善人のふりをした悪人もいれば、悪人のように見える善人もいる。

 「現代の水戸黄門」と言われてきた検察という組織も、最近では、証拠の改竄やデッチあげといった犯罪者顔負けの隠蔽行為を行っていたことが判明し、その信用を大きく失墜させた。検察の捜査手法は、マスコミと公共の電波(テレビ)を利用して巨悪を断罪するという「劇場型捕物捜査」と揶揄されることがあるが、そういった捜査自体を疑問視する声も日増しに大きくなりつつあった。

 この同時期に発生した、検察という組織の綻びと、水戸黄門の終わりという現象は、偶然の出来事にしては出来過ぎの感がある。この偶発的に起こったかに見える2つの事件を社会学的に考察すると面白いかもしれない。

 『水戸黄門』のモデルである徳川光圀が、仮にどのような人徳のある人物であったにせよ、テレビドラマはあくまでもフィクション(虚構)である。
 人が人を裁くという行為には、危険が付き物であり、100%間違いが無いなどということは有り得ない。その判断に少しでも“感情”というものが入り込むと、大きな間違いを犯す危険性が生まれる。イメージだけで他人を判断することは、冤罪を生む危険性を多分に孕んでいるということを知らねばならない。
 遠山金四郎景元が、如何に男気のある人物であったとしても、大岡忠相が如何に高潔な人物であったにせよ、所詮はただの人間であり、間違いを犯さない完璧な人間だったなどということは有り得ない。それが有り得るのはフィクションドラマの中だけである。

 当然、検察という組織にもこの理屈はそのまま当て嵌まる。もし彼らが、100%間違いを犯さないということが有り得たとすれば、それはフィクションが含まれていたということである。

 検察の信用失墜問題は、国民にこれまでのフィクションが通用しなくなってきたということの現れであり、幸か不幸か、1検察官の証拠改竄事件によって実際にその綻びが現実として表面化してしまったとも言える。
 
 仕事における信頼関係というものは信用を失ってしまえば終わりだが、検察の捜査というものも信用を失ってしまえば終わりである。しかし国民の多くは、水戸黄門と同様、“検察は間違いを犯さないもの”と固く信じてきた。それゆえに、検察も間違いを犯せないというプレッシャーが有ったのかもしれないが、自らの間違いを隠すために無実の人間を冤罪にすることによって信用を保っていたのでは本末転倒であり、そんな見せ掛けのシステムが永遠に続くはずがない。

 現在の価値観が逆転していくかのように見えている姿は、実は価値観が本来の姿に戻っていく過程なのかもしれない。これまで大きく歪められてきた価値観が矯正されていく姿を我々は時代の生き証人として見届けている最中なのかもしれない。

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