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2012年2月

ショック療法としての『資産課税』

2012022501 昨年から今年にかけて、「反原発」という言葉が流行したが、今年は、「反橋下」という言葉も流行し始めているようだ。
 「反原発」と「反橋下」というのは、必ずしも一致するものではないが、一部の左寄りの思想を持った人々には共通するものであるらしい。このどちらにも該当するという人は、一度、「自分は左寄りの思想の持ち主かもしれない」と疑ってみた方がよいかもしれない。

 こう言うと、「えっ?」と疑問に思った人がいるかもしれない。

 「反原発」と聞くと、イメージ的には東京電力という既得権益に塗れた企業を攻撃しているという感じがするので、「既得権益を破壊する側の人間」だと思われがちだ。しかし、それは考えがあまりにも浅過ぎるというものだ。もし、原発を無くすことによって国家を衰退・崩壊に導くということが有り得ると仮定すれば、その立場は全く違ったものになるということも考える必要がある。

 「反橋下」というのは、平たく言えば、「既得権益擁護論者」の別名でもある。彼らは一見、保守を装っているかに見えるが、理性的な判断能力よりも“橋下憎し”という感情的な思い込みが先にあり、その精神構造(メンタリティー)は「反原発」論者とほとんど同じように見える。

 私は基本的には橋下氏を応援しているが、100%完全な「親橋下」というわけでもない。
 大阪維新の会のマニフェストでもある「船中八策」を見てみると、9割方は支持できる内容だと思われるが、残りの1割程度は少し疑わしい不透明な部分が有ることは否めないと思う。

 その中でも、今回は『資産課税』というものを少し取り上げてみたいと思う。
 「資産課税」のことは、別名で「ストック課税」とも言われている。消費税のように動いている(フロー)お金に対して課税するのではなく、動かない(ストック)お金に課税するというのがこの資産課税の要点である。

 現在の日本経済は消費不況の真っただ中にあり、世界一とも言われる国民の金融資産(ストック)が有りながら、そのお金が動かないために、不況から抜け出すことができずにいる。
 この状態は人間の病気に喩えられる。輸血する血液は有り余るほどストックしているのに、その血液を輸血することができないがために不健康な状態から脱することができない。
 本物の血液ではなく、一時的に人工血液を輸血するという手段もあるのだが、政府が極度の輸血反対論者(インフレ恐怖症)であるので、これもできない。結果、血液が足りていない不健康な病状が一向に改善せず、仮死状態のまま20年間も放置されたまんまというのが、日本経済の病状でもある。
 そんな患者が増税(献血)などを行えば、本当に死んでしまいかねないということが、この国の為政者には解らないらしい。

 この国民の動かないお金を強制的に動かすことができれば景気は良くなるというのが、資産課税導入の目的だと思われるが、これを導入するとなると、様々な問題が生じることになる。
 まず、こういったストックされている資産の状態を把握するとなると、国が国民の資産を逐一管理するというシステムが絶対的に必要になってしまう。具体的に言うと、個人がどこでどういう買い物をしたかというようなことが全て国に管理されることになるわけだ。これには抵抗感があるという人は多いと思う。
 政府は何年か前から「個人情報の保護」を唱っているが、国が個人情報を管理するという意味では、全く逆さまになるとも言える。
 
 最近、国民総背番号(マイナンバー)制という言葉をよく耳にするが、資産課税を導入する場合、セットで、その国民総背番号制も導入しなければならなくなる。
 偶然かどうかは知らないが、既に民主党が「個人識別番号法案」を閣議決定しているらしいので、このまま行くと本当に実現してしまう可能性が出てきた。しかし、これは一歩間違えると完全な社会主義国家になってしまう危険性がある。
 
 本来、国民の資産を守ることが国家の役割の1つだが、この目的が「守る」から「管理する」になってしまうと、結果的に「奪う」という状態に転化してしまう危険性がある。
 国民の資産が滞り無く動くような環境を整備するために様々な政策を講じるのが本来の政府の在り方である。そう考えると、無理矢理にお金を使わせる政策というのは、どこか不自然であり、反市場的でもある。
 
 日本人は1人当たり3000万円以上の預貯金を残して、あの世に旅立つというのは有名な話だが、資産課税を導入すれば、その金額は低下し、一部の資産が市場に出回ることにはなるだろう。しかし、それは極めて人為的な市場操作であり、どこか私有財産の否定に繋がる思想が垣間見える。
 確かに資産課税制度を導入すれば、消費活動は上向くことになると思うが、おそらくそれは一時的なことで、結果的には資産を隠すという違法行為や、実際に日本から脱出する資産家も大勢現れることになる可能性が高いと思う。
 
 もちろん、国民総背番号制には良い面もあり、完全に否定することはできないが、社会主義化することの危険性を多くの国民が認識した上で実行に移さないと、諸刃の剣になる危険性が極めて高いということも知る必要がある。
 もし本当に資産課税を導入するのであれば、期間限定(数年間という条件付き)で行うべきかもしれない。資産課税などというものは、あくまでも一時的なショック療法だと考えるべきである。

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『年金』という名の既得権益と『年金真理教』

2012021801 つい何年か前までは、年金の「賦課制」や「積立制」という違いをハッキリと理解している人は少なかったと思われるが、最近になって、ようやく、そういった違いが認識されるようになってきたように感じられる。
 元改革派官僚の古賀茂明氏や大阪市長の橋下 徹氏なども、最近テレビで年金のことをよく口にしているが、彼らは口を揃えて次のような台詞を述べている。

 「年金制度は既に破綻している

 これは言わずと知れたことで、現在の賦課制の年金制度が破綻することは、前世紀から既に判明していたことである。しかし、一度始めてしまったものは途中で止めることができないという、お役所的な都合と、途中で止めてしまうと、これまで支払われてきた年金を返還しなければならなくなるという理由により、ズルズルと問題が先送りされてきた。
 これが民間であれば、ねずみ講犯罪で御用となるところだが、国が運用しているために続けるしかないという袋小路に嵌まってしまったわけだ。「国家公認のねずみ講」とはよく言ったものである。
 「年金未納問題」という別の問題をスケープゴートにすることによって延命を果たしてきた年金制度も、さすがにもう限界ということなのかもしれない。大幅に支給額を減額すれば維持可能かもしれないが、支払った分以上の年金が返ってこないことが初めから判っている制度に参加しようなどというお人好しはいない。

 もし仮に、支払った年金を国民に返還しなければならないということになったとしても満額返還は到底不可能だろうと思う。となると、「借金チャラ」という言葉の如く、「年金チャラ」になる可能性は否定できない。橋下氏の言葉ではないが、このままいくと結局、年金というものは「掛け捨て」の保険だったということになる可能性がある。政治家は誰も口にしようとしないが、政府の本音は「年金チャラ」であることは間違いないと思う。

 テレビのインタビューで民主党の小宮山厚労相は、「国民皆年金というのは日本の社会保障制度の中で、先進国の中でも誇れる仕組みだと思っています」と述べていたが、もはや誇れるような制度でないことは誰もが気付いているのではないかと思う。
「誇れる」という言葉を以下のように変えた方が正解かもしれない。

「国民皆年金というのは日本の社会保障制度の中で、先進国の中でも恥ずべき仕組みだと思っています」

 破綻した制度が国の誇りになるなら、どこの国でも誇りを作ることが可能になってしまう。
 これは一般の家庭に喩えて言うなら、1億円の借金を抱えて豪邸を購入した無職の人間が、「他人に誇れるマイホームです」と自慢しているようなものである。マイホームであろうとマイカーであろうと、借金を返済しないことには自分の所有物にはならないし、借金を返済する能力の無い人間が所有するべきものではない。

 「他国に誇れる制度」であるためには、「運用可能な制度」という条件が必要である。現在の年金制度を少しでも長く運用したいのであれば、「経済成長」というものが絶対条件であるが、その条件を端から無視している民主党に、年金制度を他国に誇る資格が有るとは思えない。

 「既得権益」という言葉があるが、現在、高額な年金を受給している人々というのは、まさにその既得権益者であることを知らねばならない。本来、年金というものは、“もしもの時の老後の保険”という意味合いが強かったにも拘わらず、国が本当のことを隠している間に、“無条件に老後の面倒をみてくれる福祉制度”と曲解されるようになってしまった。

 しかしながら、今頃になって「年金制度は実はねずみ講でした」などと言われても、《老後の面倒は国がみてくれる》と固く信じ込んできた人々には、なかなか受け入れられそうもない。悲しいことに日本では、もはや『年金』というものが信仰の対象になってしまっており、生半可なことでは、その洗脳は解けそうにない。

 年金真理教の信者と化した人々は、自らの楽園を守るためには手段を選ばず抵抗することになるだろう。たとえ、それが他人(主に若者)の不幸の上に築かれた砂上の楼閣であったとしても、その楽園に住み続けることを決して諦めはしないだろう。それが、「既得権益」という理想郷(ユートピア)を手に入れた人々の恐ろしさでもある。そういった勢力に対抗できるのは、独裁者のような人物でしかないのかもしれない。

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円売り介入の是非(ハードランディングとソフトランディング)

2012021401 政府・日銀が、円売り介入を公表しない「覆面介入」(約1兆円)を行っていたことが発覚したことで、為替介入の是非が問われている。
 財務省の統計では、2011年度だけで約14兆5000億円の為替介入が行われたが、円高に歯止めをかけるどころか、1年間で5円程の円高になっていることは周知の通りである。
 では、為替介入を行わなかった場合、現在よりも円高になっていたのか?というと、これはハッキリとは判らない。為替介入をしなければ1ドル70円になっていたかもしれないし、あるいは全く効果が無かったという可能性も考えられなくもない。

 では、政府・日銀による為替介入は必要なことなのか?ということだが、私は、「場合によっては必要」だと思う。
 それが、どういう場合かというと、「あまりにも急激な円高が進んだ場合」である。ごく当たり前の意見に聞こえるかもしれないが、「ハードランディング的な円高」が発生した場合は、「ソフトランディング的な円高」になるように調整することは必要だという意味である。

 ここで誤解してはならないことは、政府の役割は“円高を止めること”ではなく、あくまでも“急激な円高にならないように調整する”ということである。

 市場が円高を望んでいるのなら、為替が円高の方向に進むことは止むを得ないし、人為的に為替介入を行ったところで、いつまでも止めることは不可能だ。
 円高という現象自体は、別に悪いことではない。問題は、その円高があまりにも急激に進むことによって発生する悪影響をどれだけ緩和することができるかということである。

 日本の輸出企業の割合は、どう贔屓目に見積もっても、せいぜい20%以下であるので、円高になったところで、日本経済に致命的な打撃を与えることはないと思う。
 そもそも輸出企業の多くは、製品を作る原材料を諸外国から輸入しているのだから、円高による輸出デメリットはある程度は相殺されることになる。ただ、あまりにも急激な円高になった場合、円高差損が相殺されるまでの期間が不透明になってしまうため、そのショックで突然死する企業が出てくる可能性がある。そういった危険性を避けるために、為替介入を行うことは、場合によっては必要であると思う。

 もう1度繰り返し言うと、政府の役割は、“円高を止めること”ではなく、あくまでも“急激な円高にならないように調整すること”である。

 では、安住財務相の意見を見てみよう。彼は記者会見で以下のように述べている。

 「投機的な動きがはっきりし、実体経済とかけ離れて投機筋が自己利益を得るため
  に市場を歪めることがあれば、国益を守るために必要ならいかなる措置も取ると
  申し上げている。それを行動に移しただけだ」

 この言葉からは安住氏が円高についてどういう認識を持っているのか正確には判らないが、投機的な動きが円高に繋がっているというのは本当のことなのだろうか?
 また、安住氏は、「75円63銭で介入を指示し、78円20銭でやめた」ことも明らかにしているが、こういう具体的な数字が出てくるということは、投機云々よりも単に円高を是正したかっただけとも受け取れる。75円台になったからといって、それが投機が原因であるかどうかは判らないはずだ。
 もし、円売り介入が、《円高は絶対的な悪》という認識のみで行われているのであれば、お門違いである。

 よく、「グローバル化やIT化は悪だ」という人がいるが、グローバル化にせよIT化にせよ、その現象だけで見るなら、特に問題はない。これらが問題となるのは、あまりにも急激な変化に耐えられなくなる企業や人間がいるということである。ソフトランディング的に進むグローバル化やIT化であれば、その変化に柔軟に対応していくことができるが、その変化があまりにも急激に進んだ場合、その変化に追い付かずに突然死する企業や職を失う人が必要以上に発生してしまう。そういったハードランディング的な変化を、人為的な政策によって少しでも緩和(ソフトランディング化)させることが可能であるなら、それは否定されるべきものではないと思う。円高もこれと同じである。

 しかし、「グローバル化やIT化や円高は絶対的な悪なので阻止する」と言うのであれば、それはただの鎖国論である。政府の役割は、時代の変化を受け入れた上で、その変化に国民が柔軟に対応していけるようにすることであり、時代に逆行することではない

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発展途上原発と、技術革新を無視する人々

2012021201 東日本大震災による原発事故によって、日本の原子力発電所が世界中から非難され、脱原発運動が世界中に飛び火したことは周知の通りだが、ここにきて、アメリカが沈黙を破り、スリーマイル島原発事故以来、実に34年ぶりに原発の建設を認可したらしい。
 
 世界中が反原発ムードに傾きつつあった最中、随分と思い切った判断をしたものだが、このニュースを聞いて私はこう思った。
 
 「さすがにアメリカの識者達は冷静に物事を観察しているな」
 
 アメリカは日本ほどの地震大国ではなく、日本のように危機管理も杜撰ではないので、たとえ日本と同じような規模の地震が発生したとしても、原発事故には至らない。おそらく、単純にそう判断したのだろう。彼らは今回の日本の原発事故を恰好のテストケースとして冷静に分析したのだろうと思う。
 
 今回の日本の出来事を冷静に観ることのできる人であれば、原発事故の原因は地震ではなく、津波が原因であったとしても、管理体制さえしっかりしていれば問題が起こる確率は極めて低く、原発の更なる安全性対策を講じれば、リスクを限りなく0に近づけることが可能であることが解ると思う。アメリカはその当たり前の判断を行ったということなのだろう。
 
 現在の原子力発電技術も管理技術も、もうこれ以上の技術革新が望めないという代物であるならば、「原発は危険だ」と言うのはその通りであり、「脱原発運動」というのも、それなりに合理的な行動だと言えるかもしれない。しかし、現在の原子力発電技術も管理技術も発展途上のものであったならば、採るべき手段はもう1つある。発展途上であるならば、その技術を向上させることができれば安全性を高めることは可能であるということである。
 現在、我々の目に映っている原発問題というものが、理想的な状態とは程遠い「発展途上」という技術的背景の上に成り立っているものだとすれば、認識を改める必要があるかもしれない。
 
 例えば、飛行機が墜落事故を起こした場合も、採るべき手段は次の2つになる。
 
 A、「飛行機の製造も飛行も止める」(脱飛行機)
 B、「飛行機の飛行技術を向上させる」
 
 こういった2つの選択肢があることは子供にでも解る理屈だと思われるのだが、とにかく感情的にリスクを0にしたいという人々には、選択するべき手段は常に1つ(A)しかないらしく、「脱飛行機!」と叫ぶことが絶対的な善であると思い込んでいるように見える。
 「飛行機が無くなっても船があるではないか」「危険な飛行機旅行を止めて安全な船旅行に切り替えよう」というのが彼らの言い分になっているが、船旅行も絶対的に安全というわけではなく、その非効率性によって招く様々なマイナス点を完全に無視してしまっていることは否めない。
 将来的に事故とは無縁の(UFOのような)安全な飛行機が開発されるとすれば、現在、「脱飛行機!」と叫んで本当に飛行機自体を無くしてしまうことは愚かな行為とは言えないだろうか?
 
 今回、アメリカで新たに建設される原子炉には東芝の子会社が開発した新型の原子炉が採用されるとのことで、この原子炉は従来の原子炉よりも安全性が高いらしく、万が一のテロにも対応できる設計が為されているらしい。「現在の老朽化した原子炉よりも100倍は安全である」とも伝えられている。
 アメリカ経済も大統領選を控えてか、徐々に回復の兆しが見えてきつつあるが、おそらく何年かすればアメリカは正しい選択をしたということが認識されるようになるのだろうと思う。
 
 こういうことを書くと、「命よりもお金の方が大事なのか!」というお決まりの批判を頂戴することになるかもしれないので、予めお断りしておこう。もちろん、お金よりも命の方が大事だ。しかし、技術革新というものは、金儲けのためだけにあるのではなく、他ならぬ、その命の安全性を高める(=リスクを最小化する)という目的のためにも為されているということを忘れてはいけない。そういった技術革新による未来の可能性を放棄することが大多数の人間にとって本当にプラスなことであるのかどうかを、もう一度、冷静になって考えてみることをオススメしておきたい。

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BOOK『大マスコミ 疑惑の報道』を読んで。

2012020401 NHKは2月2日、アナログ放送終了に端を発する解約者数が154000件に達し、その理由により30億円の減収になると発表した。
 
 NHKの受信料収入は年間6500億円と言われているので、30億円ということは、約0.46%(217世帯に1件)の世帯が解約した計算になる。
 デジタル放送移行を機に、テレビを観なくなった世帯が少しだけ増えたということなのだろうが、0.5%程度の減収であれば想定の範囲内であり、NHKの経営自体には大した影響もないのではないかと思う。平均年収1700万円とも言われるNHK従業員の年収を1690万円にすれば済むだけの話である。

 ところで最近、NHKのことが詳しく書かれた『大マスコミ 疑惑の報道』(三橋貴明著)という本を読み終えた。
 以前にも三橋氏の『マスゴミ崩壊』という本の感想をブログ記事として書いたことがあるが、本書はその続編に当たり、インタビュー形式でのマスコミの内情暴露本という趣きの本だった。

 ちなみに、三橋貴明氏の本を読んだのはこれが2冊目となる。三橋氏は経済関係の書籍も矢継ぎ早に出版されているが、それらは立ち読み程度でほとんど読んでいない。
 経済関係の本というのは、どうしても著者と意見が合わない部分が出てくるので、余程の興味を引かない限り、なかなか“購入”という行為にまでは結び付かない。しかし、マスコミ論となると話は別で、前作『マスゴミ崩壊』と同様、本書も非常に興味深く読むことができた。ここまでマスコミの実態に踏み込んだ本はかつて無かったのではないかと思うほどに赤裸々に内情が暴露されており、これぞジャーナリズムと言える内容の本だった。
 こういった本を読むと、テレビと新聞でしか情報を入手していない人々が如何に真実の情報から隔離遮断されているかがよく解る。

 デジタル放送でテレビを観る場合、「B-CASカード」と呼ばれるカードをテレビの背面(または側面)に挿入しなければならないことは周知の通りだが、この本にも、「B-CASカード」を利用することによって技術的にはスクランブルをかけることが可能であるらしいことが書かれていた。つまり、視聴者はNHK放送を受信するか否かという選択が既にできる環境が整っているということになるわけだが、NHK側が、なぜそんな危険な橋(?)を渡るような選択をする羽目になったのかということも、それとなく触れられていた。

 個人的には是非、NHKにはスクランブル化を導入してもらいたいと思う。私のようにテレビをあまり観ないタイプの人間は、せめて観た分だけ支払う従量制にでもしてもらわないと全く割が合わない。
 そもそも、「公共放送」と言うからには、本来は無料でなければおかしいわけで、有料にするなら民営化するべきだし、あくまでも公共放送にこだわるというのなら国営にするのが筋だと思う。
 しかし、(この本にも書かれていたが)「国営にすれば公共放送にはならない」。これは確かにその通りだ。しかし、そうであるならば、NHKは権力に阿(おもね)ることなく、国民目線で権力というものを監視する放送局に徹する必要がある。

 日本のマスコミというものは、国家権力の監視機関であるというマスコミ本来の姿から大きく乖離し、権力と阿るだけでは飽き足らず、自らが権力そのものになってしまっているということはよく知られている。
 中でもNHKは管轄省庁である総務省からも実質的には半分独立したような組織であるらしく、公共放送にあるまじき権力機関に成り上がって(下がって?)いるとも言える。
 NHKと検察がタッグを組めば、それに逆らえる政治家は誰もいない。その権力が良い方向(国家権力を監視する方向)に行使されれば良いのだが、悪い方向(国家権力を操る方向)に行使されると北朝鮮も真っ青な独裁国家になってしまう危険性が有る。

 以前に読んだ長谷川幸洋氏の『日本国の正体』という本のサブタイトルにこういう文言があった。
 
 「政治家・官僚・メディア−本当の権力者は誰か
 
 本書『大マスコミ 疑惑の報道』を読んで、その答えが朧げながらに見えた気がした。
 “政治家と癒着し、マスメディアの頂点に君臨する、日本最大の官僚組織”、それがNHKの正体だとすれば、この国の最大の権力者とは実はNHKのことなのかもしれない。
 
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