« 2012年2月 | トップページ | 2012年4月 »

2012年3月

BOOK『「空腹」が人を健康にする』を読んで。

2012032501 先日、新聞を読んでいると、『「空腹」が人を健康にする』という本の宣伝広告が目に入った。タイトルの言葉に興味を抱いたので早速購入して読んでみた。

 著者の南雲吉則氏はナグモクリニックを経営されているお医者さんで、実年齢よりも20歳若く見える健康法を提唱しており、実際に自らも実年齢より20歳若く見えることで話題の人物であるらしい。 南雲氏は56歳でありながら、脳年齢38歳、骨年齢28歳、血管年齢26歳という驚異的なデータの持ち主としても知られている。

 この本に書かれてあることは、ズバリ「一日一食」のススメである。「三食昼寝付き」という言葉が流行ったこともある飽食国家日本にとっては、ある意味で「絶食のススメ」とも受け取れる内容だが、書かれてあることの8割方は納得のいく内容だった。(少々、唯脳論的な偏りが感じられたのはマイナス点だった)。
 
 近年、動物実験によって「延命遺伝子」なるものが発見されたそうで、食事量を4割減らすと、寿命は1.5倍に延びることが証明されたらしく、「食事量を減らすことで健康になる」という言葉には科学的な裏付けがある。
 そして、人間は空腹状態に置かれた時に、生命力が活性化するという遺伝子を持っており、その生命力遺伝子が活性化することによって、傷付いた細胞が修復されるらしい。つまり、健康や若さを保つ秘訣は、空腹状態を作ることにあるというわけだ。一見、乱暴な説にも聞こえるが、もし、そういった遺伝子(と言うより本能的な生命維持装置)が本当に人間の身体に備わっているのであれば、充分に有り得る仮説だと思う。
 
 この本でも指摘されていたが、確かにお腹が空いてもいない(=食欲もない)のに、毎度毎度決まった時間に3度の食事を取る必要性はあまり感じられない。特に休日などは朝遅くまで寝ている人も多いだろうから、そんな日に無理して朝食を食べることが健康に良いとは思えない。例えば、10時に朝食をとって、またすぐに12時に昼食を食べるのでは、どう考えても健康な生活習慣とは思えない。
 
 私も、朝起きてすぐに朝食をとると、会社に到着するまでの間に胃腸の調子が悪くなる(早い話、下痢する)ことがたまにあったので、数年前からは会社に到着してから、少しだけ朝食をとるようにしている。寝起きで慌てて食事するよりも、胃腸が落ち着いてから食事した方が健康に良いことは実体験としてもよく解る。食べたい時(食欲のある時)に食べるというのが、人間の本来の姿であり、食欲も無いのに決められた時間に食事をしてお腹を壊していたのでは本末転倒であり、栄養も身に付かず意味がないと思う。
 
 「毎日、決まった時間に食事をすることが健康の秘訣」という長らく信じ込まれてきた日本の常識は、よく考えると常識でもなんでもなく、満腹になるまで食べることのできる恵まれた国で生まれた食習慣に過ぎないということがストレートに指摘されており、「食べ過ぎこそ病気の始まり」という言葉にナルホドなと納得した。昔から「腹八分目」という戒めの言葉もあるように、食べ過ぎによって病気を引き起こしているケースは意外に多いのかもしれない。
 一般的には「一日一食」を実践するのは難しいとしても、「一日二食」なら、試してみる価値は有るかもしれない。ただ、「一日一食」とは言っても、貧しさのススメというわけではない。
  
 よく、「辛いものを食べると病気になる」とか「甘いものを食べると病気になる」というような言葉を耳にするが、実はこれは少し間違っている。正確には「辛いものを食べ過ぎると病気になる」または「甘いものを食べ過ぎると病気になる」が正しい。要するに、健康に良いか悪いかを決定づけるものとは、食物の“”ではなく“”なのである。
 激辛の食べ物を食べて、「辛い」と感じるのは舌であり、それは単なる味の強弱に過ぎない。人間の健康に影響を与えるのは、舌で感じた味ではなく、胃に入った量で決まる
 上記は私の意見だが、この本にもアルコールを例にあげて同じようなことが書かれていた。曰く「休肝日は必要ない」と。アルコールは水銀と同様、蓄積毒であるため、一生の間にどれだけの分量を摂取したかが問題となる。ゆえに、毎日、少量のアルコールを飲むだけなら特に問題はなく、1週間に1度だけアルコールを抜いたところでほとんど健康には影響しないというわけだ。
 
 南雲氏オリジナルの持論かどうかは定かではないが、この本の中で特に興味を惹いたのが、糖尿病についての考察だった。簡単に言うと「糖尿病とはいくら食べても太らない体をつくるための人類の適応反応」とのことらしいのだが、こういう考え方もあるのかと感心した。ここで内容を書いてしまうとネタバレになってしまうので詳細は本書に譲りたいと思う。食事と健康の関係について興味のある方には一読をオススメしたい。
 
にほんブログ村 経済ブログへ

| | コメント (0) | トラックバック (1)

ルネサンス(再生)を放棄した『相続税100%』という愚策

2012031701 少し前に、「維新八策」の『資産課税』についての批判記事を書いたところ、その後、何日かすると偶然にも『資産課税』の取り止めニュースが流れた。『資産課税』の反対を訴えかけていたブロガーは数多くいたので、あくまでも偶然に過ぎないが、2度目の偶然(2匹目のドジョウ)を狙って、今回は維新八策の『相続税』について書いてみたいと思う。

 率直なところ、私はてっきり、『資産課税』を取り止めたのであれば、そのうち、『相続税の強化』の方も取り止めるのではないかと思っていた。しかしながら、その楽観的な推測とは裏腹に、先日(3月9日)、大阪維新の会が「不動産を含む遺産の全額徴収」を検討しているという報道があった。
 
 大阪府の松井知事は、『資産課税』を取り止めた理由を、「富裕層が(国外に)逃げる可能性がある」と述べていたが、『相続税を強化』することによっても同じような現象が起こる可能性が有ることには気付かれなかったのだろうか?
 
 富裕層の国外逃避を避けるために資産課税を取り止め、その代わりに相続税を強化すると言うのであれば、論理的にも筋が通っておらず、矛盾を抱えたチグハグな政策だと言わざるを得ないと思う。それに不動産にまで課税強化が為されるとなると、合法的に課税を免れる手段が極めて少なくなってしまうため、資産を失いたくないという富裕層は、より一層、国外へ逃げ出す可能性が高くなる。

 簡単に言うと、現在、生きている人間の資産(預貯金)に課税するのが『資産税』であり、死亡した人間の資産(遺産)に課税するのが『相続税』である。つまり、これらは本来、2つで1セットの『資産没収税』という側面を持っており、どちらか一方を否定し、どちらか一方を肯定するような代物ではないということである。
 
 資産課税の場合、消費活動を行うことによって課税を免れることができるが、相続税の場合、その課税を免れた資産にまで課税されることになる。この2つの税金がタッグを組むと、個人が財産を持つ(残す)ことを否定した完全な社会主義国家が出来上がることになる。幸い、資産課税は取り止めになったものの、相続税が100%になっただけでも日本経済に与える悪影響(ダメージ)は測り知れないものがある。

 維新の会が提唱する「一生涯使い切り型人生モデル」などというものは、裏を返せば、「資産を生きている間に使い切ってしまった人々の面倒をみる福祉社会」のことを意味する。それは国が国民の資産を完全管理するという共産主義国家の人生モデルとほとんど変わらないということである。

 個人が財産を持つ(残す)ことを否定するような思想が蔓延すると、個人が自己の能力を磨き、お金儲けに精を出すというインセンティブが消失してしまうことになる。努力した成果が全て国家に没収され、その富を平等に分け合うなどというのは、どこぞの崩壊しかかった共産主義国家の体制そのまんまである。

 14世紀のルネサンスの時代には、多くの芸術家が生まれ、多くの文化が花開いたが、その文化の誕生の背景には、多くの「パトロン」と言われる裕福な人々が存在した。個人の才能に対して投資するという人々がいたお蔭で多くの才能が花開いたということである。
 相続税を100%にするということは、そういったパトロンのような人々を世の中から無くすということでもある。当然、起業家が生まれる余地も大幅に狭められることになる。そんな社会で新しい文化が生まれるかどうかは、敢えて問うまでもないだろう。
 
 突き詰めて言うなら、現代の政府の役割とは、実はパトロンに成ることにある。才能ある個人、言い換えれば、富を生み出す能力に秀でた人間を経済的にも環境的にもサポートし、その個人が生み出した富の一部を投資家として間接的に社会に再分配するのが本来の政府の役割だとも言える。
 その政府が、個人をサポートするどころか、個人の才能を閉ざすような政策を実施し、個人のやる気を削ぐようなことを行っていたのでは、経済成長など夢のまた夢になってしまう。

 維新の会のメンバーも悪気があってやっているのではないと信じたいが、相続税100%などというのは、あまりにも無茶苦茶な政策であり支離滅裂もいいところである。個人が汗水たらして(又はリスクを背負って)働いて貯めた資産を最終的に1%も自由に扱うことができないなどという政策は、維新の会が標榜する“自立”とは真逆の政策だとも言える。

 「生きている間にお金を使わなければ損だ」というようなインセンティブを人為的にこしらえたところで、景気が良くなるのは、せいぜい数年間だけであり、そこから先は坂道を転げ落ちるように衰退の渦の中に巻き込まれて行くことになるだろう。なぜなら、そういった政策は人間の自由意志を無視した計画経済政策でしかないからだ。
 実に皮肉なことではあるが、計画経済などというものは、基本的には資本主義の精神が根付いた国でしか機能しない(仮に機能したとしても一過性のものでしかない)。
 国民の自由意志を奪う相続税100%政策などが実施されれば、その資本主義の精神自体も失われることになるため、必ず失敗することになる。

 維新の会は、国民の資産を人為的にどうこうするというような発想は捨てて、国民の自由意志に委ねる政策に切り替えた方が良いと思う。どうせなら、「相続税0%」に切り替えることをオススメしておきたい。

 近い内に『相続税の強化』が取り止めになることを期待して筆をおきたいと思う。

にほんブログ村 経済ブログへ

| | コメント (14) | トラックバック (0)

ブラック企業誕生の遠因(同一労働相違賃金)

2012031001 民主党は、3月の初め頃に「国家公務員の新規採用を4割削減する」と述べていたが、9日になると「7割(8割)削減する」ということになり大きく変更された。
 実現するかどうかはともかくとして、国民に消費税増税の理解を得るために、身を切る姿勢をアピールした恰好だ。
 4割削減で「若者いじめ」という声が上がっていたが、7割ともなると「若者殺し」とでも形容されるのかもしれない。
 
 最近は橋下大阪市長の影響も手伝って、公務員バッシングというものがこれまでになく異常な盛り上がりを見せている。先日も、大阪市バス運転手の年収問題やスポーツジム紛いの職場(経費の無駄遣い)を問題視する批判があったばかりだ。
 
 橋下氏は「大阪市は赤字経営なので、赤字ではない民間のバス会社の運転手の2倍近い高給は有り得ず、本来なら給料が出るだけマシだと思ってもらわなければならない」というようなことを述べていた。
 これに対して、市バス側は、「公共バスの運営に利益追求を持ち込むのは間違いだ」と返していた。
 
 確かに公共バスの運営に絶対的な利益を求めるのは無理がある。しかし、その理由により「民間の2倍の給料が許される」ということにはならない。多少の赤字経営は仕方が無いとしても、元々、民間企業よりもはるかにリスクが少ない市バスの運転手に、民間のバス会社以上の給料が支給されていることは不自然であり筋が通らない。
 
 「給料がいきなり下がると現在の生活が成り立たなくなる」という声も聞かれたが、それは現在の生活が、あまりにもバブリーだったということである。民間のバス運転手は黒字経営であっても、リスクを背負いながらその半分の収入で生活を切り盛りしているということを忘れてはならない。
 
 仕事における収入の高低を決定するリスクとリターンの関係は、大きく分けて以下の6つのケースがある。
 
 1、ハイリスク・ハイリターン
 2、ハイリスク・ローリタン
 3、ローリスク・ハイリターン
 4、ローリスク・ローリターン
 5、ゼロリスク・ハイリターン
 6、ゼロリスク・ローリターン

 一般的な公務員はクビになるリスクが無いため「5」に該当する。では、市バスの運転手の場合はどうかというと、交通事故を起こして職を失う(自発的に辞職するという意味)可能性は有るので「3」になるかもしれない。
 
 収入の多寡というものは、リスクの多寡に比例する。命賭けの仕事を行っている人の給料は高く、安全で簡単な仕事を行っている人の給料は低いというのが、まともな社会の姿である。生死を賭けたスタントマン仕事が薄給であれば、誰もそんな危険な仕事は行わないだろう。睡眠時間もロクに取れないハードな仕事を行っている人が薄給では、誰もそんな仕事は行わないだろう…と言っても、ブラック企業の場合は話は別である。
 
 そのブラック企業が生まれる1つの原因は、同一労働同一賃金が機能していないことにある。本来、100の仕事を行った人が100の収入を得て、200の仕事を行った人が200の収入を得るという当たり前の労働システムが機能していれば、ブラック企業というものはかなり減少する。ブラック企業ができる遠因は、100の仕事を行った人が200の収入を得たり、仕事をせずに100の収入を得たりしている人がいることにある。もちろん、それだけが原因ではないが、それが一因になっていることは間違いない。つまり、同一労働相違賃金では、割りを食う人が発生してしまうということである。
 
 先に述べた、市バスの運転手と民間バスの運転手が行っている仕事は、ほぼ同一であるはずだ。同一の仕事であっても、これまでは収入に2倍近い開きがあった。これこそまさに、同一労働相違賃金である。その割増し分の給料は大阪市の赤字として計上されているが、このままの状態で、その赤字を解消するとなると、その割りを食う人々が多数出てくることになる。それは、必ずしもバス会社に限らないが、ブラック企業が誕生する原因になっているということである。
 
 民間企業(特に中小企業)に勤めたことのない公務員や政治家の人々には、映画『ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない』でも観て、少しは不条理な厳しい現実を学ぶことをオススメしておきたいと思う。

にほんブログ村 経済ブログへ

| | コメント (4) | トラックバック (0)

『自分自身が可愛くて可愛くて仕方がない人々』の考察

2012030101 ブログ記事で、たまに「右翼」や「左翼」という言葉を使用すると、「時代遅れ」というような反論(というより批判?)を頂戴することがある。こういった言葉ができたのは随分と昔(フランス革命の時代)のことなので、現代的ではないということなのかもしれない。

 私自身は右翼でも左翼でもないが、「右翼」や「左翼」という言葉が古い過去のものだとは思っていない。両極端な思想というものは、いつの時代にも存在し、東日本大震災が発生してからは、むしろ、最も新しい言葉(概念)の1つであるとも思っている。
 以前の記事で、「原発事故によって新左翼が誕生する」という仮説を述べたことがあるが、現在は仮説ではなく、実際にその通りだったという思いが日に日に強くなっており、図らずも「左翼」というものの精神構造がこれまで以上によく解るようになった。

 結論から先に言うと、左翼と呼ばれる人々というのは、“自分自身が可愛くて可愛くて仕方がない人々”のことだということが、なんとなく感覚的に解るようになってきた。これはあくまでも私見なので、誰かに無理矢理納得してもらおうという気はさらさらないが、誰か同じような考えを抱いている人がいるかもしれないので、誤解を恐れずに書き留めておきたいと思う。

 右翼と左翼の内面的な違いというものは、一言で言うなら“精神的支柱”とも言うべきものを、心の内に持っているか否かという違いである。自分自身を捨ててでも守るべきものを持っているかどうか、つまり、自分の存在以上の価値を心の内に見い出しているか否かという違いである。

 右翼と呼ばれる人々が、天皇や皇室を敬っているというのも、結局のところ、自分を超えた存在(または価値)というものに帰依しているということである。現代の右翼が全てそのような人々かどうかは定かではないが、潮 匡人氏の著書『日本を惑わすリベラル教徒たち』に出てくる言葉を借りれば、保守と同じく「垂直軸」を持った人々のことを基本的には右翼と呼ぶ。つまり、天を仰ぎ見るという謙虚な姿勢が有ることを意味する。

 ところが、左翼という人々は、この逆で、これといった精神的支柱というものを持っておらず、自分自身を捨ててでも守りたいもの(肉親は除く)も持っていないため、必然的に自己中心的になる。
 自己保存欲から派生した口先だけの綺麗事を並べることには長けてはいるが、自分(人間)以上の存在(概念)や価値を心の内に見い出していないため、現在ただいまの自分自身の生活を脅かすものや、自分自身に危害が及ぶものなどには過剰なまでに拒否反応を示すことになる。
 彼らにとって大事なことは、現在の私生活の安寧を守ることであるため、将来の日本がどうなろうが、子孫の未来がどうなろうが関係なく、あくまでも自分自身の生活が最優先されることになる。

 左翼思想とは要するに、『自分教』のことであり、人間より偉いものは無いという「人間が神様」という思想なのである。

 こういった人々は、現在の原発を廃止することによって、将来的に日本がどうなるかなどは全く考えようとはしない。「子供達の命の安全が大事」などと言っても、将来的に日本経済が衰退することによって、その子供達の生活が困窮するかもしれないということには考えが及ばない。ただ、現在の自分達の生活(または命)さえ守ることができればそれでよいという、ある意味で極めて自分勝手な思想なのである。

 このことは原発問題だけでなく、年金問題や福祉問題に置き換えても同じことが言える。
 将来的に子孫達がどれだけ膨大な借金を抱え込むことになろうが、現在の自分達が生きている間さえ安定していればそれで良いというのが、この思想の悪しき特徴である。
 彼らの言うところの「人間の命が大事」という言葉は、正確に翻訳すると、「現在の自分自身が大事」という意味になる。
 崇高な理想のために自分自身を犠牲にして、子孫達の将来を守るというのではなく、ただ現在、目の前に現れた危険を取り除くことができれば、それが正義となる。

 彼らは一見、保守的なことを述べているように見えるが、その実、国の将来を憂いることなく、国の繁栄を願う心も無く、ただ“自分自身”という御本尊を守るために、自らの眼前に現れたリスクを100%排除しなければ気が済まない。まさしく、自分自身が可愛くて可愛くて仕方がないというわけだ。

 この過保護な思想こそが、左翼思想というものの本質的特徴であり、この1年間、原発事故の成り行きを第三者の立場で観察することによって改めて感じたことでもある。

にほんブログ村 経済ブログへ

| | コメント (7) | トラックバック (0)

« 2012年2月 | トップページ | 2012年4月 »