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2012年5月

ミスチル現象から考える電子書籍の未来

2012051901 「CD不況」と叫ばれて久しいが、今月発売となったMr.Children(ミスチル)の10年ぶりのベストアルバム(MICROMACRO)は早くも累計200万枚を突破したらしく、売れ行きはなおも好調であるらしい。
 現代は、宇多田ヒカルのベストアルバムですらミリオンセラーは不可能と言われているような時代だが、ミスチルにはそういった常識が通用しなかったらしく、いくらレンタルやデジタルコピーが出回っていたとしても、費用対効果に優れた商品は売れるということが図らずも証明された格好となったようだ。

 書籍や音楽はデジタルデータ化されたことにより、紙媒体やパッケージが無くてもデータとして配付できるようになり、それまで限定されていた媒体以外でも様々な形で流通することになった。
 消費者の立場から言えば、1回だけ使用するだけのもの(雑誌や映像)であれば、デジタルデータが圧倒的に有利であることは否定の仕様がない。例えば、映画やドラマなどは余程のことがない限り、2回も3回も観ないので、パッケージとして購入するよりも、オンデマンド的な方法(レンタルも含む)で観た方が合理的でもある。

 しかしながら、音楽の場合はそうはいかない。人間は目で見て楽しむものはすぐに飽きる性質を持っているが、耳で聴くものや、舌で味わうものなど、視覚以外の感覚を使用するものは飽きずに何度も楽しむことができるという性質も併せ持っている。
 目で見て(視覚的に)楽しむものは飽きやすい。これは誰もが納得できることだろうと思う。

 「俺は同じ映画を何度も観る」とか「私は同じ本を何度も読む」という人もいるかもしれないが、それは、目で見た映像や文字ではなく、その映画や本の中から目に見えない価値を感じ取ったがゆえの行動だと思う。目から視覚的に入ってきた刹那的な情報ではなく、その情報の中に普遍的な価値が含まれていれば、飽きることがない。それだけのことである。

 何度も読む本や、何度も聴く音楽の場合、デジタルデータ時代であっても、紙やCDというオールド媒体にもまだまだ優位性が有る。
 読書家にとっても、本当に価値が有ると思った書籍は、如何に高価であろうとハードカバーの紙媒体として保存しておきたいものだろう。特に名著と言われるような本は何度も再刊されれば、常に新しい状態で保管することもできるし、逆に古い本であればあるほど価値が出る場合もある。

 以上のことを踏まえた上で、今後、電子書籍はどうなっていくかを考えてみよう。

 現在のところ、本を出版する場合、大抵はまず紙媒体で出版され、人気の出たタイトルは電子書籍化されるというケースが一般的だが、私が思うに、この順序は今後、逆転していくことになるだろうと思う。
 現在、巷では、「電子書籍ブームになると、紙媒体の本は無くなっていく」というようなことが真しやかに囁かれているが、これは少々近視眼的(ミクロ)な意見であることは否めない。より大きな視点(マクロ)で考えると、以下のようになっていくのではないかと思う。

 「電子書籍ブームになると、紙媒体の本の価値は上がっていく

 今後、電子書籍の量は増加していく。これは間違いない。しかし、そのせいで、紙媒体の書籍が陳腐化するというのは可笑しい。誰もが入手できる電子書籍よりも、入手が困難になる紙媒体の価値が下がっていくという理屈は、よくよく考えると筋が通らない。

 誰もが低コスト・低リスクで電子書籍を発行できるようになれば、高コスト・高リスクの紙媒体の書籍を発行することは難しくなる。つまり将来的には、本当に価値が有り売れる本しか、紙媒体の書籍としては発行できなくなるということである。現在のように装丁だけは立派だが中身は空っぽというようなトンデモ本の類いは紙媒体では出版されなくなっていく。
 ゆえに作家達は、紙媒体の書籍を発行することが目標となり、当然、モノとしての本の価値も値段も上がっていくことになる。この場合、現在とは違って、その本には確かな価値が有ることが証明されていることになるため、“値段が上がれば売れなくなる”という事態にはならない。

 むしろ、デジタル化によって陳腐化していくのは、電子書籍の方である。実際、著作権問題でデジタルデータの価値が問われていることからも分かる通り、複製可能な商品にはプレミアム的な価値が付けにくい。本の内容は読まないことには解らないし、本に対する価値判断は相対的なものなので、それこそ、目に見えない価値を測るような装置でも無い限り、値段の差別化を行うことは難しいと思う。
 結局のところ、本の価値を決めるのは、個々の読者だということでもある。

 現代は、電子書籍の登場によって、著作物だけでなく著作権自体も陳腐化することが大きな問題となっている。しかし、『価値の有るものは、いかなる時代であろうと売れる』。このことは冒頭で述べたミスチルが証明してくれたことでもあり、例外であるとはいえ、一種の希望を抱かせるものがある。

 近い将来、電子書籍を介して選りすぐられた紙媒体の書籍が、高い価値を持つようになり、新たな本の文化が誕生するかもしれない。電子書籍というものは、本の文化の最終到達点ではなく、実は通過点であり、本の価値を間接的に上げる媒体に過ぎなかったということが認識される日が来るのかもしれない。
 
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官僚的社会と就活地獄の隙間

2012051001 日本の自殺者が年間3万人を超えていることは周知の通りで、その状態が既に14年間も続いている。特に最近の傾向としては“就職難”を理由とした若者の自殺が急増しており、この4年間で実に2.5倍にも膨れあがっているらしい。

 文科省と厚労省の統計では、昨年の大学生の就職率は91%ということなので、ほぼ1割の大学生が就職浪人している計算になる。もっとも、新卒で無事に就職できたとしても、3人に1人が3年以内に退職するような時代なので、実質的には4割以上の若者が就職で悩みを抱えている時代だとも言える。

 私も転職経験があるので、就職するまでの空白期間(無職期間)が人間の精神にどういった影響を及ぼすかは少なからず理解しているつもりでいる。私の場合、自己都合で会社を辞めたので、すぐさま転職活動をしたわけではなかったが、それでも個人的には(仕事をしない期間は)「半年間」というのが限界だった。現在のように、何年間も就職先が見つからずに就職活動(以下、就活)を行っている人々には同情を禁じ得ないし、気の毒と言う他ない。

 人それぞれ仕事における認識は違うかもしれないが、人間、働き過ぎれば、休日が欲しくなるし、遊び過ぎれば、働きたくなる。「無いものねだり」とはよく言ったものだが、大抵の人間(生っ粋のワーカホリックや遊び人は除く)は、仕事ばかりではストレスが溜まるし、遊んでばかりでもストレスを感じるものだと思う。
 お釈迦様の言ではないが、人間の生活は何事もバランスのとれた「中道」が丁度よく、生活が両極端にブレるとストレスを感じるようにできているのかもしれない。

 就職活動をしていても、なかなか就職先が決定しない人は、「仕事をしたくても仕事が無い」というストレスだけでなく、「自分の将来が見えない」という漠然とした将来の不安感も手伝って、精神的に追い込まれてしまうのかもしれない。況して、日本の場合、卒業後の就職市場が閉ざされているような感じがする(実際、閉ざされているのだが)ので、余計に不安感を増大させてしまうのだろう。

 敷かれたレールから脱線することを極度に嫌う官僚的な社会的風潮と、そのレールからはみ出すことを考えもしてこなかった学生達との間に開いてしまった歪な空間、その歪な空間が日本の就活者達の未来に暗い影を落としている。自殺者の多くは就活中に、その歪に開いた漆黒の空間に「失望」という名の闇を垣間見たのではないかと思う。

 人間が自殺を考える時とは、基本的には自分の心を自分でコントロールできなくなった時でもある。失恋に始まり、失業、大病、身内の不幸、大借金など、感情をコントロールできなくなり、飯も食べれず、夜も眠れないという経験をしたことがある人なら、自殺者の苦しみはある程度は理解できると思う。一見、前向きなイメージのする「就活」というものも、さすがに数年間も続けば誰でも悩みの種になることは避けられない。就活というものが未来永劫続く責め苦だと思い悩んでいる人にとってはまさに「地獄」だろう。

 現代の日本は、本人の仕事能力の有無以前に、絶対的な仕事量が足りていないような経済状況なので、いくら就活を頑張っても報われるという保証はなく、運良く希望の会社に入社できたとしても、そこでの仕事が永続的に続くという保証もない。
 数十社も数百社も会社訪問するエネルギーが有るなら、いっそのこと、そういった就活生を100人単位で集めて、就活に使用するはずだった資金を出し合って起業でも考えた方が良いような気もする。もちろん、失敗する可能性も多々有るが、就活に失敗して仕事ができずに悶々と悩むよりも、実際に仕事をして失敗した方が得るものは大きいのではないかと思う。
 政府も経済成長を考えるつもりが無いなら、せめて、そういった人々を支援するような制度だけでも作った方がよいかもしれない。政治家が無能で、まともな経済政策によって雇用を増加させることができないのなら、民間の起業家を支援するシステムでも構築するしかないだろう。

 こういうことを書くと、「現実的ではない」という批判を頂戴することになるかもしれないが、もちろん、そんなことは承知の上で書いている。上述したような起業家支援システムのようなものができると、そういったシステムを逆手にとって支援金のみをふんだくろうとする輩が必ず出てくるので、確かに現実的ではない。
 しかしこの国では、「格差断固反対!」「規制緩和反対!」「原発即刻廃止!」と、経済成長を間接的に阻んでいる行為が善しとされる風潮が罷り通っているため、まともな経済成長政策を行える人が現れたとしても、日本経済を成長軌道に乗せることは至難の業とも言える。
 そう考えると、この国で自殺を食い止めるために必要なものとは、経済成長政策ではなく、まず、“無知であることの罪を認識すること”なのかもしれない。
 
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規制強化よりも重要な交通事故防止策

2012050401 今年は、JR宝塚線(福知山線)脱線事故から7年が経過したとのことで、テレビでも特集番組が放送されていたが、同じような悲惨な交通事故が短期間に内に相次いで発生した。京都祇園のてんかん暴走事故に始まり、同じく京都亀岡の居眠り暴走事故、そして、関越自動車道での高速ツアーバス事故と、新たな事故が発生する度に、その前の事故の報道が減少していく。事故の規模の大きさと、加害者が未成年でないことも影響しているのかもしれないが、現在、直近の高速バス事故がマスコミで槍玉にあげられている。
 
 京都での2つの事故についての記事は敢えて書かなかったが、高速バス事故については、少々、流言飛語の如く情報が飛び交っているようなので、少しだけ書かせてもらおうと思う。
 
 現在、よく聞くのが、「高速バス事故の原因は規制緩和のせい」というものだが、これは本当に正しい情報だと言えるだろうか? 今回はこの部分にスポットライトを当ててみたいと思う。
 
 今回の高速バス事故の直接的な原因は、京都亀岡の暴走事故と同様、“運転手の居眠り”だった。しかし、そのことが判明した時点で(高速バス事故に限り)その居眠りの間接的原因(または遠因)がどこにあるのか?という犯人探しになり、行き着いた答えが、過酷な労働=“規制緩和”だったという毎度お決まりのパターンである。

 予めお断りしておくと、私は規制緩和が正しいと言うつもりは無いし、世間で言われている市場原理(?)に任せれば全て上手くいくなどという考えも持っていない。
【証拠記事】『市場原理』とは何か?
 
 規制緩和によって価格競争が起こり、バス会社の安全性が低下したというのは、ある意味ではその通りかもしれないが、今回の事故だけでそう判断するのは、あまりにも早計であり短絡的な結論と言わざるを得ないと思う。今回のような居眠り事故が何度も続いたということなら、そう考えざるを得ないかもしれないが、運転手もロボットでない限り個人的な違いがある。個々人の生活リズムも違えば、肉体的な生理現象の度合いも人それぞれ違う。疲労を感じる程度というのも千差万別だし、朝型の人間もいれば、夜型の人間もおり、元々、夜間バスの運転手には向いていない人だっている。そういった様々な運転手がいるにも関わらず、運転手は全て同じという前提で犯人探しが行われているような気がする。
 
 それに規制をどれだけ厳しくしたとしても、それで交通事故が起こらないわけではない。先の京都亀岡の暴走事故を例に出すまでもなく、バスの運転手が無茶な私生活を過ごしていれば睡眠不足で居眠り運転事故を起こす場合も有り得る。
 規制云々だけでなく、実に様々な事情で事故というものは発生する。車の運転は人間が行っているのだから、如何なる方策を講じたところで、全くの無事故にすることは残念ながら不可能だ。極力、事故を避けようと思うのならば、より安全な交通手段を利用するしかないかもしれない。
 
 運転手が2人いたところをコスト削減で1人に減らされたようなケースであれば、確かにリスクは高まるかもしれないが、はたして、夜間バスを利用している人々はそういった安全性リスクが増大していることを認識しているのだろうか? 鉄道を利用する場合と、夜間バスを利用する場合、その料金には大きな開きがあるが、その開きとは一体、何の差だろうか? 運行設備の差だろうか? それともスピードやサービスや快適度の差だろうか? そこには様々な違いが存在するが、実は“安全性”という違いも入っていることに気が付いているだろうか?
 
 「規制緩和がいけなかった」と言うのは、極論すれば、「夜行バスは利用するな」と言っているようなものである。なるほど、バス会社を“安全性”という名目で規制で縛れば、運行料金は跳ね上がり、多くの人はバスではなく電車を利用することになるかもしれない。そうなれば、当然、バスを利用するよりも安全だ。しかし、それで消費者が満足するだろうか? 少しでも安価で旅行することを追い求め、夜行バスを利用し続けている消費者達が、リスク回避のために、高額な交通料金を支払っても構わないということになるだろうか?
 伝えられているところでは、今回の事故が起こった後も、夜行バスの利用客は全く減少していないらしい。結局、彼らは、安全性というものよりも低料金制というものに惹かれて行動していることになる。その感情は規制緩和によって生まれ、規制強化によって消えて無くなるものだと言えるだろうか?
 
 JR宝塚線の脱線事故にしても、規制が緩かったから事故に至ったわけではない。あの事故の場合、「時間厳守」という規則を絶対視するあまり、暴走を招いてしまったとも言える。
 そういう意味ではむしろ、規律厳守という違う意味での日本社会の規制(?)によって事故が起こったとも考えられる。
 もし、数分間、電車が遅れても問題視されない社会であれば、あのような悲惨な事故は起こらなかったと思う。安全性よりも規律制を重視した融通の利かない窮屈な社会が招いた悲劇だったと言えなくもない。
 違った例で言えば、過労死というものがある。これも、価格競争によって過剰な労働を要求されることよりも、その会社を辞めて他の会社に転職することが難しいという融通が利かない労働市場にこそ問題があると言える。
 
 今回、事故を起こしたバス運転手も、運転途中、3回の小休憩を取ってハンドル上にうつ伏せになって眠っていたと伝えられているが、この運転手が恥を承知で「居眠りしそうなので、ドライブインで1時間程、仮眠してもいいでしょうか?」と言うことができれば、今回の事故は起こらなかったと思う。しかし、そのようなことを言えば、「お客様に対してなんて失礼な奴だ!」「こんなバス会社は二度と利用するか!」ということになり、その運転手はクビになり、ヘタをすれば口コミでバス会社も潰れるかもしれない。
 
 あくまでも結果論に過ぎないかもしれないが、バス会社が無理をして安価な料金でサービスを提供していると思うのであれば、少し位はそういったマイナス点も笑って呑み込める位の度量が消費者にも必要かもしれない。元々、料金の違うものに同程度のサービスを要求する社会にも問題が有ると思う。サービスの高低は料金相応というのが、本当の市場原理である。そう考えると、この国では、市場原理がまともに機能しておらず、規律を重んじるという建前が、安全性よりも上位概念になってしまっているとも言える。
 
 規律を守ることは社会人としての常識(マナー)ではあるが、乗客の命を守ることよりも、その規律を守ることの方が大事だというところまでいくと大きな問題となる。
 ということで、規制を強化するよりも、社会の融通性を強化することを考えた方が良いかもしれない。つまりは、建前社会の規制緩和だ。
 
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シンプルに考えるべき日本の軍事問題

2012050201 先週に録画していた『朝まで生テレビ』【日本の安全保障とアジアの平和】を観てみた。今回は25周年記念スペシャルで沖縄のスタジオで行われたということもあり、現地の人々の生の声を少しだけ聞くことができた。もっとも、この番組に参加していた人々の意見が沖縄県民の総意かどうかは定かではなく、かなり思想的なバイアスがかかっているのではないかと思われる意見も見受けられた。

 沖縄県民にとっては、「なぜアメリカの基地が沖縄に集中していなければいけないのか?」という疑問があり、同じ日本でも“本土”と“沖縄”の扱いが違うということに不満を感じているようだった。沖縄だけが日本の犠牲になっているという被害者意識も有るように感じられた。
 確かに沖縄が本土以上にリスクを背負わされていることについては心情的には理解できる。いくら時代的背景と地理的事情によって沖縄に米軍基地が有ることは仕方がないとは言っても、実際に近隣に住んでいる人からすれば、「冗談じゃない」という気持ちは少なからず理解できる。私が当事者なら引っ越すと思うが、そうできない事情もあるのだろう。

 パネリストの小池百合子氏もチラッと述べておられたが、“米軍基地”と“原発”というものに対する国民的感情は実によく似ていると思う。誰しも、自宅の隣(と言うのは誇張表現だが)に原発があったり、基地があったりすれば、素直には受け入れられないとは思う。これはどんな立場にある人間でも共通する感情だろうと思う。
 しかしながら、敢えて苦言を述べさせてもらうと、それはあくまでも個人的な感情論であり、国や国民にとって、米軍基地が必要かどうかという議論とは分けて考える必要がある。

 個人的にはアメリカの基地は、ケビン・メア氏の言う通り、中国や北朝鮮という危険な軍事国家が存在している以上、防衛上、必要なものだろうと思う。自国で防衛手段を整える気があるというなら話は別だが、平和憲法が邪魔をしてそれができないのだから、現状では嫌でもアメリカに依存するしか方法がない。

 その「平和憲法が有るために戦争抑止力になった」という意見も聞かれたが、残念ながらこれは少し違うのではないかと思う。日本が戦後、戦争に巻き込まれずに済んだのは、アメリカとの安全保障条約という(他国からの)戦争を抑止する力が存在したからであり、曲がりなりにも、アメリカが世界の警察の役割を果たしてきた(つまり、アメリカという存在自体が最大の抑止力になった)からである。別に私は親米でもないし、アメリカ贔屓する気もないが、実際に現実を冷静に観ればその通りであるのだから、認めざるを得ない。

 では平和憲法に戦争抑止力は無いのか?ということだが、もちろん、有る。しかし、その抑止力とは、あくまでも自国が戦争を引き起こすことを抑止するためのものであって、他国からの戦争を抑止するものではない。ここを勘違いしてはいけない。
 他国からの視点で観れば、日本の平和憲法の有無など、全くと言ってもいいほど関係が無い。そもそも北朝鮮のような自国の法律も有って無いような無法国家が、日本の憲法に書かれてある「平和」などという言葉を意識する道理が無い。こんなことはよく考えれば誰でも解ることだと思う。日本の平和憲法が北朝鮮に対して機能しているなら、拉致問題なども起こらなかったはずである。
 
 要するに、憲法というものは自国の国家権力を縛るためのものであって、他国のそれを縛る権限も無ければ、効力も無いということである。同じ民主主義国家ならともかく、独裁国家を自国の民主憲法で縛れるなら、こんなに楽で平和な話はない。しかし、現実はそう甘くはない。

 世界中の先進国(民主国家に限る)が核兵器を保持しているのは、戦争を起こすためではなく、他国を侵略するためでもなく、戦争を抑止するための手段であることは常識中の常識である。自国の論理が通用しない国に対しては、憲法や法律という言葉としての論理ではなく、実際に抑止力を持った野蛮な方法で対抗するしか方法がない。その万国で通用する野蛮な“抑止力”が“核兵器”になっているわけだが、これは“凶器を持った狂人に対抗できるのは凶器でしかない”という当たり前の防衛論理が機能しているだけのことである。狂人に「平和」を説いたところで無意味だということを世界中の人々は常識として理解しているが、平和ボケした日本人にはそれが解らないというだけの話なのだ。

 こういった防衛上の問題は、あまり複雑に考えずに、子供のような素直な心で考えれば、簡単に答えが導き出される問題であると思われるのだが、いらぬ知識やバイアスがかかりまくった頭の固い人々には、その思い込みが邪魔をして論理的思考ができなくなっているのかもしれない。特に日本の学者や評論家などは、簡単なことを複雑にする能力だけには長けているので、職業上、物事をシンプルに考えることができなくなっているきらいがある。
 簡単なことを複雑にしてしまう人々の言うことを気にしていると、物事は一向に前に進まない。日本の軍事問題に関しては、シンプルに考えることをオススメしたいと思う。
 
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