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2012年6月

日本民主(党)主義人民共貧国の消費税増税法案

2012063001 消費税増税法案は、案の定と言うべきか、アッサリと衆院を通過してしまった。さすがの民主党議員も57人が造反姿勢を示したらしいが、大多数の議員は本心では増税に賛成だったということが判明し、図らずも『増税政党』としての馬脚を現した格好だ。

 かつての消費税3%(1989年)、消費税5%(1997年)の増税時には、他の税金を下げた上での増税だったのでまだ救いがあったが、今回の場合、実質上、減税無しの増税なので全く救いがない。徴税におけるリスクヘッジが全く機能しないという意味では紛れもない愚策だと言える。

 何事も、何かを得るためには何かを捨てる覚悟が必要であり、消費税の増収を得るためには、別の税収を捨てる覚悟が必要になる。そのバランスのせめぎ合いによって結果的にトータルで増収となれば良しとなる。それが、本来の税制改革である。しかし、今回の税制改革は単に消費税率を上げるだけで増収を獲得しようというものであり、こんなデタラメな増収案を国民が素直に受け入れるはずがない。ゆえに、なぜ増税しなければならないのか?という説明が乏しく、「財政再建のために増税が必要だ」という空念仏を唱えるのみに終始している。しかし、そんな空念仏であっても信じている人々がいるのだからオメデタイと言うほかない。

 かつて、テロ教団による「修行するぞ、修行するぞ、修行するぞ」という洗脳フレーズが話題になったことがあるが、この洗脳フレーズは現在、「増税するぞ、増税するぞ、増税するぞ」に変わっているらしい。おそらく野田総理は教祖ではなく、実行部隊のリーダーという位置付けなのだろうが、まるで『増税教』が自作自演によって日本を破滅に向かわせようとしているかのようだ。
 
 テレビを観ていると野田総理が深々と頭を下げて「心から、心から、心から、お願い申し上げます!」と叫んでいたが、その光景には強烈な違和感を感じた。なぜなら、その言葉は“国民”に対してではなく、増税反対の“民主党議員”に向かって発されているようにしか見えなかったからだ。国民に選ばれた(ことになっている)民主党議員の賛成さえ確保できれば、どんな法案も通るということであれば、ただの独裁政治である。

 民主主義の欠点は、愚かな国民が過半数に達した場合、衆愚政治に陥ってしまうことだと言われるが、今回の茶番を観る限り、衆愚政治ですらなく、況して賢人政治でもない。愚かな政治家による国民不在の“法案可決ごっこ”である。これでは、「民主主義」と言うより『民主党主義』であり、「衆愚政」ならぬ『党愚政』である。要するに、民主党の過半数議員が民主主義を理解しておらず、党内だけで既に衆愚政を体現してしまっているわけだ。

 「自主課税なき処にデモクラシーなし」とは、小室直樹氏の書籍『消費税は民意を問うべし』に出てくる言葉だが、まさに現在の民主党政治にもそのまま当て嵌まる。「自分が納める税金は自分が決める」というのが本来の民主主義(デモクラシー)の原則である。国民に対して増税理由の説明もほとんど無く、納得できる説明もないままに増税を行うという行為は、明らかに民主主義に反している。

 この国では、「子供達の未来を危惧して」という理由で、反原発派が原発再稼働反対デモを大々的に行っているが、なぜか消費税増税反対デモは行われない。同じ理由によってデモが行われても不思議ではないと思えるのだが、なぜ行わないのだろうか? 「子供達の(万が一の)危険」よりも「子供達の(絶対的な)危険」の方が重要だと思われるのだが…。
 もっとも、仮に消費税増税反対デモが行われたとしても、マスコミが報道しなければ、無いに等しい。この辺は中国と同じで、政府(と言うより官僚)にとって都合の悪い報道は全く行われない。少し穿った見方をすれば、原発再稼働反対デモをトカゲの尻尾切り(スケープゴート)にして、消費税増税法案から目を反らしているのではないかと勘ぐりたくもなる。

 政治家だけでなく、未だ国民の大多数も官僚の掌の上で踊らされているというのが、この国の実態なのかもしれない。この国が真の民主主義を手に入れるためには、国民の過半数がそのことに気付くことがスタート点になる。1日も早く、日本民主(党)主義人民共貧国から脱皮しない限り、日本の明るい未来はないと言えそうだ。
 
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野田総理の矛盾【「原発再稼働」と「消費税増税」】

2012062101 メキシコでのG20首脳会議に出席していた野田総理が、会議初日で切り上げて帰国したことが話題となっている。野田総理にとっては、ヨーロッパ経済よりも自国の消費税増税法案が気になるということなのだろう。その証拠にサミットでは以下のように述べたらしい。
 
カンヌサミットでコミットした通り、消費税率を段階的に10%まで引き上げることを含む社会保障と税の一体改革法案を国会に提出し、成立を目指し全力を挙げている
 
 まるで消費税を増税することが正義であると言わんばかりの発言だ。未だ閣議決定もされていない法案を世界舞台で堂々と述べること自体も非常識だと思われるが、「消費税増税で財政再建する」などという政策も、海外の有識者から観れば、非常識この上なく、日本でしか通用しないただの経済音痴政策でしかない。それに、日本の『社会保障と税の一体改革』が実現したとしても、世界経済には何の影響もない…と言うより、むしろ悪影響を及ぼす可能性の方が高いと思われる。

 先日の野田総理の「原発再稼働」発言は、1国の宰相の発言として評価できるものだと思うが、「消費税増税」発言は、今更言うまでもないことだが全く評価できない。「原発再稼働」は他に現実的な代案が無いのだから、苦渋の選択としては納得せざるを得ないところだが、「消費税増税」には現実的な代案がいくらでもあるのだから、納得のしようがない。

 「原発再稼働」という現実案を選択できる人間であれば、ロジック的には「消費税増税」は選択できないはずなのだが、なぜこのような二重人格者の如く政策的矛盾が生じてしまうのだろうか? 「原発再稼働」は至極現実的な政策だが、「消費税増税」は極めて非現実的な政策であり、同一人物の選択としては明らかに矛盾している。

 そもそも「消費税増税」の目的は何かというと“税収アップ”、これしかない。では、“消費税収をアップ”させるには、どうすればいいのかというと、単純に考えると以下の2つの手段がある。
 
 1、消費税率をアップする
  (注:この場合、税収が100%アップする保証はない)
  
 2、消費をアップさせる

 野田総理の手段は言わずと知れた「消費税率をアップする」だが、本来、「民主」を名乗る政治家が採るべき手段は、「消費をアップさせる」である。この2つの違いは、主語が「」か「国民」かの違いだ。

 「(国が)消費税率をアップする」という政策は、如何なる言い訳をしたとしても、国民そっちのけの社会主義政策である。そう考えれば、ロスカボスサミットで野田総理が述べたコメントを本質的な意味合いに翻訳すると、以下のようになる。
 
 「民主党は日本で社会主義政策を全力で行っています
 
 サミット参加者達の耳には、おそらくそう聞こえたはずである。

 「消費をアップさせる」ためには、どうすれば国民(消費者)が消費活動に精を出してくれるのかを考えて、策を練るのが本来の政治家の仕事である。不況で先が見えないという理由でお金が動かなくなっているのであれば、まず、その不況から脱するにはどうすればいいのかを考えて、景気刺激策を矢継ぎ早に打ち出すことこそが経済を理解した政治家が行うべき正攻法だと言える。あくまでも主役は国民なのだ。
 
 そして、消費者が“お金を出しても買いたい”と思うような魅力的な商品を市場に供給するためには、民間企業の自由なアイデアや商行為を縛るような無意味な規制は全て取っぱらう必要がある。
 無論、違法行為を取り締まるべき最低限の法規制は必要だが、「こんにゃくゼリーは小さくしなければならない」だとか、「生食レバーは食べてはいけない」だとか、「ネットで薬を販売してはいけない」などという、明らかに消費活動を減退させるような規制は極力控える方向で賢く対処しなければならない。“規制”と“不況”は密接不可分の関係に有るということぐらいは今時の中学生でも気付いていることだろう。
 
 こんにゃくゼリーが危険な食べ物であると言うのなら、タバコやアルコールと同じように年齢制限を設けて、その法律に反した者は自己責任ということにすればいいだけのことである。生食レバーも、フグの肝と一緒で、食べることにリスクが有るということだけ周知徹底すれば、食べる食べないは自己の判断に任せればよいと思う。ネットの薬販売の禁止に至っては、何の説得力もなく、ただの省益優先規制としか思えない。

 消費だけでなく、生産者の職まで奪うというような過剰な規制ばかりでは、経済がシュリンクし、景気も良くなるはずがない。まさしく、“規制の量”と“景気は良し悪し”は密接にリンクしているのである。
 この単純な経済原理を全国民に認識してもらう(つまり教育する)ことで、景気は少しは改善される(=消費税収は上がる)はずである。しかし日本では、お金の教育同様、規制の悪弊などという本質的な経済教育は一切為されていない。むしろ、「規制こそが経済を安定させる」というような妄論を垂れ流しているのがマスメディアの実態だとも言える。
 
 消費税を上げるよりも、消費を増やす。たったそれだけのことで、景気は良くなり、税収も上がる。多くの国民がその単純な経済原理を理解し、行動することができれば、消費税の増税などは本来、必要無いのである。
 
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「案ずるよりも産むが易し」のブログ記事

 当ブログがBLOGOSに転載されるようになってから1年(BLOGOS financeを含めると1年半)が経過しようとしているので、経過報告の意味も込めて、半年に1回の備忘録記事を書いておこうと思う。
 
 私は当ブログを開始した時、2つの目標を記事に書いておいた。その目標の1つは日々のPVを10000にすることだった。この目標の達成は本ブログだけでは当分不可能だと思われたが、BLOGOSさんのお蔭もあって、部分的には達成された。(「部分的」というのは、たまにPVが10000を超える日があるという意味)
 
 BLOGOSでアクセス解析ができるようになって半年になるが、この半年間にPVが10000を超えた記事は10本(割合としては3分の1)だった。経験上、PVが10000を超えるためには、BLOGOSデイリーランキングで3位以内に入らなければいけない。ちなみに1位になるには、15000以上のPVが必要になる(2012年6月現在)。
 ランキング上位になるためには、BLOGOSだけでなく、livedoorニュースにも取り上げられないと難しいようで、BLOGOSのピックアップ記事に選ばれるだけでは、PV10000までは伸びない場合が多い。

 ランキング上位に入るためには、ブロガーの知名度や記事の内容よりも、編集部の記事の扱い(マーケティング)の方が重要になっているような気もする。もっとも、記事の扱いは、記事の内容と全く無関係ではないだろうから、記事の内容はどうでもよいということではないし、いくら上手くマーケティングできたとしても、中身が空っぽの記事では、そのうち閲覧者に飽きられてしまうことになるので、やはり、最終的には記事の内容が問われていくことになるのだろうと思う。

 ただ、BLOGOSの現在のランキングシステムには少し疑問もある。現在のランキングは24時間単位で更新されるようになっているが、その24時間とは、記事が転載されてからの24時間ではなく、オリジナル記事が投稿された時点からの24時間カウントなので、ブログ記事の投稿時間によってかなり不公平が生じることになる。
 BLOGOSの記事が転載され始めるのは大体、朝の8時台から夜の8時台位までなので、夜の9時頃に記事を投稿した場合、11時間以上のブランクが発生してしまうことになり、逆に朝の9時以降に投稿すれば、ほとんどタイムタグは発生しないので、この両者の間には半日ほどのハンデが生まれることになる。これは、改善の余地があるのではないかと思う。転載されてから24時間にすると何か問題がある(記事の新鮮度の関係?)ということなら仕方がないかもしれないが、特に問題になるような理由が思い浮かばない。システム的にも転載時間でカウントした方が楽だと思うのだが…。
 
 私の場合、記事に対してコメントを頂いても、諸々の事情であまり返事は書かないようにしているが、頂いたコメント(Twitterも含む)には全て目を通している。
 以前、「結論ありきで記事を書いている」とコメントされている人がいたが、私の場合、記事を書く時、結論はほとんど考えていない。書き終えた後に、文章的に結論を先に持ってくることはあるが、基本的には結論は考えずに書いている。
 ある事柄について記事を書こうと思い、その記事を書いて(考えて)いるうちに結論が浮かんでくるという感じで、自分でも予想もしていなかった結論になることがある。BLOGOSの自己紹介欄に「直感」という言葉を使用しているのは、そういう理由もある。
 
 「案ずるよりも産むが易し」という諺があるが、ブログを書いていると、その言葉の意味を実感として感じることがある。実際、結論ありきで記事を書こうなどと思ってもなかなか書けるものではない。結論が無くても、書き出せば、なんとかなってしまう。言わば、ケセラセラという感じに近い。もちろん、ある程度の情報のインプット(読書など)は必要だと思うが、私のような積読家は知識よりも直感の方が大事なのだろうと思う。
 
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BOOK『経済大国なのになぜ貧しいのか?』を読んで。

2012061001 最近、なぜかオウム元信者(指名手配犯)の逮捕ニュースが盛んに報道されているが、かつて、そのオウム信者の脱洗脳に携わったことで注目されたこともある苫米地英人氏の書籍『経済大国なのになぜ貧しいのか?』を読んでみた。

 私は正直なところ、苫米地氏の洗脳論や陰謀論にはあまり興味は無いのだが、経済、金融、メディア論には少し興味が有るので、これまでにも何冊か彼の本を読んだことがある。
 一応、フォローもしておくと、苫米地氏は、脳機能学者でありながら実業家でもあり、かつてのMacintoshの日本語入力ソフト「ことえり」の開発者としても知られているマルチな才能を持った人物でもある。
 
 本書は、デフレ論のウソに始まり、増税論のウソ、増税復興論のウソ、円高悪玉論のウソなど、世に蔓延るウソを暴くというスタイルをとっているが、その多くが今まで聞いたことも考えたこともない角度からの指摘で、読み物としては非常に面白く読むことができた。陰謀論にありがちな「日本の未来は暗い」というようなオドロオドロしい内容ではなく、逆に「日本の未来は明るい」という前提で書かれてあるせいか妙に真実味のある内容だった。
 
 本書の発売日は2012年3月21日だが、氏はそれ以前に書かれた本書の中で、現在のドル円の為替相場は「3月末にかけて一時的に円安にふれる」と述べているが、これは実際にその通りになった。3月15日から21日にかけて84円で天井(と言うより底)を打ち、円高に転換している。
 有名な某経済エコノミストは、「2012年に1ドル90円程度まで下がる」と言っていたが、どうやら、エコノミストよりも苫米地氏の見解の方が正しかったようだ。図らずも「エコノミストは見通しを見誤る」という本書内の指摘は正しかったというわけだ。
 本書をもう少し早く読んで(+信じて)いれば、少しは相場で儲けることができたかもしれない。
 
 この本には、震災後「大規模な金融緩和を行ったり、日銀直受けの復興特別国債を発行したりすれば、日本は経済を一気に浮揚させる一大チャンスを迎えたはず」と書かれてあり、そういった当たり前の政策が採れなかった理由(政府が景気回復を恐れている理由)も鋭く指摘されていた。
 
 本書はウソを暴くことを目的とした書物であることは先に述べた通りだが、裏を返せば、ウソで洗脳されてしまった多くの国民の経済的脱洗脳を行うことを目的とした書物ということなのだろう。
 ではなぜ日本にはそういったウソをついて国民を騙そうとする人々が存在するのか?
 
 その答えは単純明快だ。医者は病人がいなくなると困り、警察は犯罪が無くなれば困る。それと同じ理屈で日本の景気が良くなると困るという職業的矛盾を抱えた人々が存在しているということなのだろう。それがどういった人々かは敢えて述べない。大体想像がつくと思うが、答えは本書に譲りたいと思う。

 本書は難解な経済理論が書かれた本ではなく、誰にでも理解できる平易な文章で綴られている。特に経済に興味のある人には知的好奇心をくすぐられる内容であり、私のように陰謀論を嫌う傾向のある人にもオススメできる経済本になっているので、一読をお勧めしたい。無論、全てを鵜呑みにする必要はない。苫米地氏も述べているように、何が正しくて何が間違っているのかは自分の頭で考えて判断することが最も重要であり、それができてこその脱洗脳である。
 
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橋下 徹氏の選択【“万が一のリスク”と“100%の実害”】

2012060701 これまで舌鋒鋭く「反原発」を訴え続けてきた橋下 徹大阪市長が、福井県の大飯原発の再稼働を容認したことで物議を醸している。
 正直なところ、このまま橋下氏が「反原発理想論」を言い続けた場合、近い将来、政治家としての信用を失うことになるだろうな…と危惧していたのだが、どうやら彼は「機を見るに敏」な人物であったらしく、取り敢えずは最悪のケースだけは免れたようだ。

 政治に携わる者が、“万が一のリスク”と“100%の実害”を天秤にかけて、“100%の実害”を選択することほど愚かなことはない。原発依存度の高い関西電力管轄内の原発が全く稼働しない状態が続けば、どう考えても100%の実害が発生することになる。と言うより、関西経済圏では電力不足懸念から既に実害が出ているものと思われる。
 無論、ここで言う「実害」とは放射能災害のことではなく、経済が萎縮することに伴う企業の倒産や経営悪化による失業者の増加等の実害である。

 「原発が稼働しなくても電気は足りる」という(陰謀論めいた)意見もあるかもしれないが、それがもし真実であったとしても、“電力が不足する事態になるかもしれない”という懸念材料だけで、経済に悪影響を及ぼすには充分な理由になる。
 その日の天気次第で株価に影響を及ぼすというのはよく知られた話だが、経済の規模というものは人間心理に基づき、いとも容易く拡大もすれば縮小もする。電力不足という事態が起こる起こらないに拘わらず、懸念のみで実害が発生してしまうことを知らねばならない。

 “万が一のリスク”と“100%のリスク”では、単純に10000倍の差があることになる。これだけ開きがある2つのリスクが目の前に存在する場合、最も賢くリスク回避する手段とは、まず100%のリスクを避け、徐々に万が一のリスクに対処していくことである。原発問題として具体的に言い換えれば、経済が萎縮することを避け、徐々に原発の安全性を向上(あるいは徐々に原発の稼働率を低下)させていくというのが常套手段であり、まともな社会の姿だと言える。ただ闇雲に「即刻、原発を廃止せよ!」と叫ぶだけではあまりに智恵が無さ過ぎる。
 
 誰が言い出したのか定かではないが、『3・11』に発生した大地震は「1000年に1度の地震」と言われている。もしこれが本当のことであれば、この先1000年間は同程度の地震は発生しないということになる。もちろん私は今回の地震が1000年に1度の地震などとは思っていないが、世間一般では「1000年に1度の非常に稀な地震」であったと認識されている。
 そう考えると、現在の状況は何か可笑しくはないだろうか? 1000年に1度しか起こらないのであれば、この先100年以内に起こる可能性は10%、10年以内に起こる可能性は1%ということになる。仮にこの1%が実現したとしても、同じように原発事故にまで発展する可能性は更に大幅に低くなり、おそらく10000分の1以下(文字通り、万が一)の可能性でしかないだろう。それなら、今後10年位の間にじっくりとエネルギー問題の先行きを考え、徐々にプランを実行していけばいいのではないかと思う。
 現在のヒステリックなまでの「反原発」騒ぎを観ていると、まるで、1年に1回必ず起こる地震のような騒ぎになってしまっている。

 電力会社や電力行政のデタラメぶりを批判するのは大いに結構なことだと思うが、そのことと、原子力発電技術とは分けて考える必要があると思う。現在の反原発論者の言動を観ていると、どうもこの2つのことを分けずに同一に考えているフシがある。

 以前から何度か述べているように、電力を安定供給する明確な代案が有るというなら、今すぐにでも脱原発を目指せばよいと思う。しかしながら、現時点ではそんなことは不可能なことぐらい子供でも理解できるだろう。代案も無いのに反対するだけでは、野党政治家の行動原理と同じであり極めて無責任な態度と言わざるを得ない。

 現在は日本中の企業が節電に勤しんでいるが、本当にこれは必要なことなのだろうか?と疑問に思うことがある。いつの間にか、被災地の復興という本来の目的が忘却され、経済を冷やす(つまり、震災復興に遅延を齎す)という自虐的な方向に舵が切られていないかを、もう一度、冷静に疑ってみた方がよいのではないかと思う。

 こんなことを書いても、現状では「納得できない」という人が大勢いるのかもしれないが、あと数年も経てば、否が応でも納得せざるを得なくなるのではないかと思う。現時点で代案も無しに感情的に「反原発」を訴えている評論家の面々は、いずれ臍を噬むことになるのではないかと思う。
 まあ、言いたい放題、書きたい放題の日本のマスコミと一緒で知らんぷりするだけかもしれないが…。

 最後に一言でまとめさせてもらうと、現在の状況下で原発を即時ストップするという行動は日本全体としてトータルで見れば「得策ではない」ということである。日本経済の先行きと国民の生活の安定を考えた上で地震等の天災リスクを回避する手段を考えていくというのが、良識あるまともな大人の選択ではないだろうか?
 
【関連記事】発展途上原発と、技術革新を無視する人々
      東電と国民の『責任転嫁ごっこ』という悲劇

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パナソニックのリストラ考【真の聖域とは何か?】

2012060201 ソニーに続き、今度はパナソニックが本社従業員7000人のリストラ策を発表した。「経営の神様」と称された松下幸之助氏の影響も手伝ってか、これまで「聖域」とされ、誰も手を付けようとしてこなかったパナソニック本社にまでリストラの波が及んだことをマスコミは大々的に報じている。

 今期(2012年3月期)の連結決算で国内製造業至上最悪の7721億円にものぼる赤字を経常したパナソニックにとっては、大幅なリストラの断行は止むを得ないとは言える。しかし、今回の場合もソニーと同様、対症療法的な中途半端なリストラ策であることは否めない。

 ソニーの1万人削減の時にも少し述べたことだが、人員削減だけがリストラではない。「リストラ」と聞くと条件反射的に「解雇」という言葉を思い浮かべる人がいるのかもしれないが、それはリストラの一部に過ぎない。
 リストラとは、リストラクチャリング(Restructuring)のことであり、ビジネス用語に訳すと、「経営構造を再構築する」という意味合いになるが、人員削減というのは、「経営構造の再構築」と言うより「経営規模の再構築」を意味する。

 「構造」と「規模」では少し意味合いが違う。「構造」の中に「規模」を含めることはできるが、「規模」の中に「構造」を含めることはできない。
 具体的に言うと、ここで述べた「規模」とは“従業員数”のことであり、「構造」とは“給料制度”のことである。なるほど、確かに人員数を削れば、全体的な人件費は抑えることができる。しかしそれでは順序が逆さまであり、本来であれば、人員数を削る前に人件費を削るのが筋である。

 新興国の安価な労働力に対抗するためには、人員数ではなく、人件費を削らなければ意味が無いことはよく考えれば誰にでも解るはずである。年功序列給与制度によって過剰なまでに膨らんだ管理職や高年齢者のバブル給制度を破綻処理せずに、対症療法的に人員数を削ることによって調整できると本気で考えているのだとすれば、相当甘いと言わざるを得ない。(注:人員数を削ることが甘いと言っているのではなく、人件費に手を付けないことが甘いという意味)
 
 世界がグローバル経済に移行してから既に20年以上が経過し、新興国製造業の技術力がどんどん上がり、先進国に追い付こう追い抜こうとしている現代にあっては、人件費が高く成り過ぎた日本企業の給料制度を見直さない限り、この先、まともな競争などできるはずがない。本来であれば、赤字経営の間は一時的にでも従業員全員をアルバイトにする位の抜本的な構造改革を行わない限り、新興国相手には太刀打ちできなくなる時代がそのうち到来する。いや、既にそういう時代を迎えているがゆえに、日本を代表する大手家電メーカーがこぞって大赤字に転落しているとも考えられる。
 新興国と同じような商品を製造している限りにおいては、もはや余剰人員をカットすれば、どうにかなるレベルの問題ではないのである。

 思えば、この国ではすべてがこの調子である。司法、行政、立法に始まり、教育、マスメディア、大企業から中小企業に至るまで、ほとんど全ての組織が時代にそぐわないことが解っていながら、のらりくらりと騙し騙し問題を先送りし、建前と既得権益を維持するがためだけにスケープゴートごっこを繰り返すだけで、ほとんど何の改革もできずにいる。建前だけでやっていける時代はそれでもよかったのかもしれないが、現代は建前だけでは経営が成り立たないことに誰もが薄々気付いている。しかし、それでもまだ建前だけに拘ろうとする人間が後を絶たない。
 
 世界中の先進国や新興国が柔軟にどんどん経済社会システムをアップグレードしている時代にあって、日本だけが、いつまでも旧システムに拘っているように見える。その姿をコンピューターシステムに喩えて言うなら、Windowsであれば、Windows3.1、Macintoshであれば、漢字トーク7.1を使用し続けているようなものである。
 
 日本は識字率が世界一と言われ、国民の平均的な教育水準は非常に高いとも言われている。しかし、如何に優秀なオペレータを抱えていても、システムが旧いままでは、その能力は発揮されない。新興国が、Windows7やMacOSXをバンバン利用している中、先進国である日本がWindows3.1やMaxOS7.1を使用している姿を思い浮かべてみよう。そんなガラパゴス社会で未来に夢や希望を抱けるだろうか?
 
 現代の日本に必要なことは、システムのアップグレードであり、旧システムの再構築ではない。旧システムの再構築を行うよりも、旧システムを廃止し、新しいシステムをインストールすることの方がより重要であるはずだ。
 
 ここで先のパナソニックの人員削減に話を戻そう。「人員削減」というものを同じようにパソコンに喩えると、不用なファイルやキャッシュデータを消去しシステムをデフラグするようなものとも言える。しかし、そういった作業をする前にまずシステムを新しくする必要があるということである。旧システムの再構築を行ってから、新システムをインストールするというのでは順序が逆さまである…と言うより全く無意味だ。
 本来であれば、新システムに入れ替えた後(=給料制度を変更した後)に、それでも不安定であれば、デフラグ処理(=人員削減)を行うというのが筋なのである。
 
 つまるところ、本当の「聖域」とは、“パナソニック本社”のことではなく、旧システムに依存した“日本の労働システム(給料制度)”のことなのである。この本丸に手を付けない限り、日本の製造業の更なる発展は有り得ないと考えるべきである。

【関連記事】『ビジネスごっこ』から誕生した日本の給料システム
 
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