橋下 徹氏の選択【“万が一のリスク”と“100%の実害”】
これまで舌鋒鋭く「反原発」を訴え続けてきた橋下 徹大阪市長が、福井県の大飯原発の再稼働を容認したことで物議を醸している。
正直なところ、このまま橋下氏が「反原発理想論」を言い続けた場合、近い将来、政治家としての信用を失うことになるだろうな…と危惧していたのだが、どうやら彼は「機を見るに敏」な人物であったらしく、取り敢えずは最悪のケースだけは免れたようだ。
政治に携わる者が、“万が一のリスク”と“100%の実害”を天秤にかけて、“100%の実害”を選択することほど愚かなことはない。原発依存度の高い関西電力管轄内の原発が全く稼働しない状態が続けば、どう考えても100%の実害が発生することになる。と言うより、関西経済圏では電力不足懸念から既に実害が出ているものと思われる。
無論、ここで言う「実害」とは放射能災害のことではなく、経済が萎縮することに伴う企業の倒産や経営悪化による失業者の増加等の実害である。
「原発が稼働しなくても電気は足りる」という(陰謀論めいた)意見もあるかもしれないが、それがもし真実であったとしても、“電力が不足する事態になるかもしれない”という懸念材料だけで、経済に悪影響を及ぼすには充分な理由になる。
その日の天気次第で株価に影響を及ぼすというのはよく知られた話だが、経済の規模というものは人間心理に基づき、いとも容易く拡大もすれば縮小もする。電力不足という事態が起こる起こらないに拘わらず、懸念のみで実害が発生してしまうことを知らねばならない。
“万が一のリスク”と“100%のリスク”では、単純に10000倍の差があることになる。これだけ開きがある2つのリスクが目の前に存在する場合、最も賢くリスク回避する手段とは、まず100%のリスクを避け、徐々に万が一のリスクに対処していくことである。原発問題として具体的に言い換えれば、経済が萎縮することを避け、徐々に原発の安全性を向上(あるいは徐々に原発の稼働率を低下)させていくというのが常套手段であり、まともな社会の姿だと言える。ただ闇雲に「即刻、原発を廃止せよ!」と叫ぶだけではあまりに智恵が無さ過ぎる。
誰が言い出したのか定かではないが、『3・11』に発生した大地震は「1000年に1度の地震」と言われている。もしこれが本当のことであれば、この先1000年間は同程度の地震は発生しないということになる。もちろん私は今回の地震が1000年に1度の地震などとは思っていないが、世間一般では「1000年に1度の非常に稀な地震」であったと認識されている。
そう考えると、現在の状況は何か可笑しくはないだろうか? 1000年に1度しか起こらないのであれば、この先100年以内に起こる可能性は10%、10年以内に起こる可能性は1%ということになる。仮にこの1%が実現したとしても、同じように原発事故にまで発展する可能性は更に大幅に低くなり、おそらく10000分の1以下(文字通り、万が一)の可能性でしかないだろう。それなら、今後10年位の間にじっくりとエネルギー問題の先行きを考え、徐々にプランを実行していけばいいのではないかと思う。
現在のヒステリックなまでの「反原発」騒ぎを観ていると、まるで、1年に1回必ず起こる地震のような騒ぎになってしまっている。
電力会社や電力行政のデタラメぶりを批判するのは大いに結構なことだと思うが、そのことと、原子力発電技術とは分けて考える必要があると思う。現在の反原発論者の言動を観ていると、どうもこの2つのことを分けずに同一に考えているフシがある。
以前から何度か述べているように、電力を安定供給する明確な代案が有るというなら、今すぐにでも脱原発を目指せばよいと思う。しかしながら、現時点ではそんなことは不可能なことぐらい子供でも理解できるだろう。代案も無いのに反対するだけでは、野党政治家の行動原理と同じであり極めて無責任な態度と言わざるを得ない。
現在は日本中の企業が節電に勤しんでいるが、本当にこれは必要なことなのだろうか?と疑問に思うことがある。いつの間にか、被災地の復興という本来の目的が忘却され、経済を冷やす(つまり、震災復興に遅延を齎す)という自虐的な方向に舵が切られていないかを、もう一度、冷静に疑ってみた方がよいのではないかと思う。
こんなことを書いても、現状では「納得できない」という人が大勢いるのかもしれないが、あと数年も経てば、否が応でも納得せざるを得なくなるのではないかと思う。現時点で代案も無しに感情的に「反原発」を訴えている評論家の面々は、いずれ臍を噬むことになるのではないかと思う。
まあ、言いたい放題、書きたい放題の日本のマスコミと一緒で知らんぷりするだけかもしれないが…。
最後に一言でまとめさせてもらうと、現在の状況下で原発を即時ストップするという行動は日本全体としてトータルで見れば「得策ではない」ということである。日本経済の先行きと国民の生活の安定を考えた上で地震等の天災リスクを回避する手段を考えていくというのが、良識あるまともな大人の選択ではないだろうか?
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コメント
すばらしいご意見を隅々まで読ませていただきました。私の考えと全く違いますが、なるほどと感じる内容もあります。是非私のブログにきていただき、ご意見をいただければと思ってコメントいたしました。
ありがとうございました。
投稿: erie2009 | 2012年6月 9日 (土) 19時41分
地震の規模と発生頻度はベキ分布なので、平均値や1000年に1度等の表現は、ほとんど意味を持たない。
つまり、ベキ分布の性質上ファットテールであることから、いつでも3.11以上の規模の地震が発生する可能性があるということであり、原発稼働賛否自体はどうでもよい。
最大の問題は、官民双方、原発事故は必ず発生するという条件下での、事前の危機管理体制やコンテンジェンシープランが、完全の放置されているという事実である。
投稿: ao | 2012年6月15日 (金) 18時54分