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2012年7月

日本に誕生した「空想的安全主義者」の考察

2012072201 相変わらず、日本を取り巻く原発関連問題は未だ全く収束する気配が無く、毎日毎日、次から次へと洪水のように新たな原発関連ニュースが報道されている。
 原発事故が発生していなければ、今頃は震災の復興ニュースなどで賑わうところなのかもしれないが、原発問題が必要以上に巨大に成り過ぎて、震災の復興ニュースどころではなくなっているようだ。その様はまるで、脱出不可能な迷路に国民自らが嵌まり込んでいるかのようでもある。

 日本が原発迷宮に嵌まり込むだろうことは、原発事故が発生した当初から予測されていたことだが、この迷宮から脱するためには、感情論を捨てて理性的に物事を考える必要がある。「脱原発」という感情論だけでは、「脱迷宮」は果たせないということをそろそろ冷静になって考える必要があると思う。迷路から脱出するために必要なものは「感性」ではなく「知性」と「理性」であることは言うまでもない。
 
 今回は少し感情論に傾き過ぎているきらいのある“原発撤廃論者”のメンタリティー(精神構造)というものに焦点を絞って考察してみたいと思う。

 実に不思議なことではあるが、世の“反原発論者”と言われる人々は、ほぼ例外なく“反米論者”でもあるようで、面白いようにピッタリと符合している。

 “反原発論者”と“反米論者”、この二者の共通点とは何なのかと言うと、一言で言うなら「理想論主義者」だということだろうと思う。

 「反原発」も「反米」も、それを実現する過程で、間接的な問題が何も起こらないという前提に立てば、全く正しい。しかし、この世の中(社会)というものは、そうは単純には出来ていない。結果として単独でその状態が実現されることは正しくとも、その状態を実現するためには、実に様々は障壁が存在している。
 「反原発」や「反米」という理想的な状態を実現するためのハードルは極めて高く、理想論主義者が思っている以上に高い。その高さは、電力会社が想定していた津波の高さと実際に発生した大津波の高さの乖離差のように大きなものであり、理想論主義者を一瞬にして呑み込むだけの高さを有している。
 原発を撤廃し、その結果、日本経済に「未曾有の危機」という名の大津波が押し寄せないと目が覚めないというのが、理想論主義者の姿だと言える。もっとも、端からそれ(国家の破壊)が目的という人々も混じっていると思われるが…。

 「反原発」という理想を実現するためには、原発に代わる「代替エネルギー」が絶対的に必要であり、「反米(=独立)」という理想を実現するためには、「自主防衛能力」が絶対的に必要になる。しかしながら、現在の日本には、このどちらも存在していない。
 存在していないものを「存在する」という前提に立って、理想を追い求めれば、その理想が叶わないだけでなく、事態はより一層悪化することになるのは世の常だ。ユートピア(理想郷)を追求したは良いが、結果としてデストピア(暗黒郷)を招来することになる。
 
 このことは現在のイジメ問題にも言えることで、いじめを無くす教育システムが存在していない状態で、「いじめ根絶」「いじめ根絶」などと叫んだところで、結果的に現出するのは、いじめの無い理想的社会ではなく、いじめが増加し続ける暗黒的社会である。感情論だけでは社会は改善しないという良い例である。

 「反原発」も「反米」も「反イジメ」もそれを実現するためには、クリアしなければならない絶対条件が有るのだが、その絶対条件を無視して(あるいは考えも及ばずに)理想論に酔っているのが、理想論主義者の特徴である。
 「平和」「平和」と叫んでいれば、世界は平和になるという思想を持った人々のことを「空想的平和主義者」と呼ぶ。この例に倣って、「脱原発」「脱原発」と叫んでいれば、日本は安全になると思っている人々のことを「空想的安全主義者」と名付けたい。

 一応、お断りしておくと、私は原発推進論者ではない。これまで電力行政に反対せず、原発に依存した生活をしてきた以上、国民にも少なからず責任が有る(代替エネルギーが見つかるまでは原発リスクを受け入れる必要がある)と考える原発受容論者である。ちなみに「受容」とは、「良い・悪いに拘わらず、受け入れる」という意味である。

 原発推進論者 = 科学的
 原発撤廃論者 = 空想的
 原発受容論者 = 現実的

 
 以上の3つの違いがあることを感情的にならず理性的に知っていただきたいと思う。
 
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喩え話で解る「社会保障と税の一体改革」の正体

2012071701 民主党、野田総理が「政治生命を賭ける」と豪語して取り組んでいる「社会保障と税の一体改革」というものがある。もはや、この言葉を聞いたことがないという国民は誰もいないと思われるが、その中身を真剣に考えている国民は、はたしてどれぐらいいるのだろうか?
 
 「社会保障制度」と「税金」を一体化して行う改革とは、一体、何を意味しているのか? このことをシンプルに考えてみよう。
 
 「社会保障制度」と「税金」を単体で改革する場合、次の4つの手段がある。
 
 1、「社会保障」をプラスする。
 2、「社会保障」をカットする。
 3、「税金」をアップする。
 4、「税金」をダウンする。

 
 基本的には以上の4つしかない。そして、この2つを組み合わせる場合、大まかに言えば、以下の4パターンがあることになる。
 
 A、「社会保障」をプラスし、「税金」をアップする。
 B、「社会保障」をプラスし、「税金」をダウンする。
 C、「社会保障」をカットし、「税金」をアップする。
 D、「社会保障」をカットし、「税金」をダウンする。

 
 このうち、 BとCは現実的に考えて有り得ない。残るのはAとDだが、野田総理が行おうとしているのはである。
 では、Aは「改革」と呼べるのか?というと、その答えは残念ながら「ノー」だ。
 上記のAからDの中で、改革と呼べるのはだけである。BとCは改革ではないことは先に述べた。ではAとは何か? 答えは無論、「改悪」だ。
 
 野田総理は、Aを行うことが「決断できる政治」と述べているが、これもトンデモない間違いである。「決断できる」とはDを行える政治のことを言うのであり、決断できない政治であるからこそAを選択することになるのである。つまり、彼は「決断できない政治」に政治生命を賭けていることになるわけだ。
  
 話がややこしいと言う人がいるかもしれないので、具体的な言葉に置き換えてみよう。「政治家」を「アル中患者」に、「社会保障」を「お酒」に、「税金」を「酒代」に置き換えると分かり易いと思う。
 
 「お酒」をプラスし、「酒代」をアップする「アル中患者」。
 
 これが、果たして「決断できる」アル中患者の姿と言えるだろうか? まともに考えれば、どう考えても決断できないアル中患者の姿である。
 
 では、逆にこれではどうだろう?
 
 「お酒」をカットし、「酒代」をダウンする「アル中患者」。
 
 これこそ、「決断できる」アル中患者の姿ではないだろうか?
 
 「政治家とアル中患者を一緒にするな!」というようなトンチンカンな批判が返ってくると困るので予めお断りしておくと、上記の話は喩え話であり、言葉遊びでもありません。一応、念の為。

 ということで、本来の意味での「決断できる」政治とは、「社会保障」をカットし、「税金」をダウンする政治のことを言う。「決断する」というのは、「スッパリと止める」ことを意味するのであり、現状の不健康体質を維持し続けることを意味しないのだ。

 ○国民に社会保障をカットすることを我慢してもらう。
 ●国民に税金をアップすることを我慢してもらう。

 同じ我慢でも、この2つは全く違うということを知らねばならない。「社会保障」と「税」という言葉をくっつけることにより、その矛盾を覆い隠そうとしたものが、「社会保障と税の一体改革」の正体である。
 際限のない社会保障制度の拡充のために、税金を湯水の如く注ぎ込む改革、こんなものが本当の改革であろうはずがない。

 現在の日本に必要な改革とは、「社会保障と税の一体改革」というような矛盾した改革ではない。経済成長政策によって、現状の社会保障制度を極力維持(またはソフト・ランディング的にカット)しつつ、減税を行うという『経済成長と社会保障と税の三位一体改革』こそが必要なのである。
 
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“いじめ空間”と化した公立学校の悲劇

2012071301_2 大津市の中学校でのいじめ問題は予想外に大きな騒ぎとなり、ついには警察まで動き出すという異例の事態となってしまった。この問題のせいもあってか、民主党のドタバタ劇も鳴りを潜め、政治情勢のニュースは陰に追いやられた格好だ。

 私も前回の記事で大津市“いじめ”問題を取り上げてみたが、初日の(BLOGOSの)PVが28000を超え、これまでで最高のアクセス数を記録した。「いじめ」問題というのは多くの人にとって政治問題よりも身近な関心事であるということなのかもしれない。

 今回のいじめ問題で明らかになったことは、教育委員会の無能ぶりと保身の構図であることは、もはや誰の目にも明らかであり、この期に及んで、教育委員会を擁護しようなどという酔狂な評論家は誰もいないようだ。マスコミの御用学者達もさすがに今回は分が悪いと判断したのか、比較的良心的な意見を述べているように感じられる。

 現在の教育委員会のインタビュー等を観ていると、映画『それでもボクはやってない』に登場した小日向文世演じる裁判官の姿がオーバーラップしたのは私だけではないと思う。この映画では、保身のために感情を失った冷酷な裁判官の姿が描かれていたが、あの異様な光景が頭に浮かんだ。大津市教育委員会がいじめを隠蔽しようとする目的も、まさにあの映画と同じ構図である。
 
 日本の教育界のトップに君臨するのは、言わずと知れた文部科学省であり、学校における教育問題の報告は単純化すれば以下のような順序で行われる。

 学校の教師 → 校長 → 教育委員会 → 文部科学省

 こういう順序で報告が行われるだろうことは誰でも想像がつくと思う。この序列は民間の製造業で言えば、商品の欠陥報告のようなものであるとも言える。言葉を置き換えれば、次のようになる。

 従業員 → 工場長 → 役員 → 経営者

 「日本の教育管理者にとって『いじめ』報告とは、企業における『商品の欠陥』報告と同じようなもの」という前提で話を進めよう。

 製造業では当然のことながら欠陥商品は少ない方が評価は上がる。工場等では「不良品0」というような目標を掲げたポスターをよく見かける。しかし、民間の製造業と同じ感覚で教育機関が「いじめ0」を目標としているのだとすれば、一歩間違うと非常に恐ろしいことになる。

 例えば、自動車会社で製造している商品に欠陥が発見されると直ぐさまリコールとなる。商品に欠陥が有ったことはマイナスだが、未然に大きな事故を防いだということにもなるので、マクロ的に見ればプラス評価にもなる。
 欠陥商品が市場に出回ることによって重大な事故でも発生すれば、大きなクレーム問題となり更なる被害や損害を齎すことになるため、民間企業では欠陥商品を発見すれば、そのことを隠すわけにはいかない。仮に隠していたことがバレた場合、その従業員がクビになることはもとより、会社経営自体が破綻しかねないからだ。

 しかし、公立学校の場合、『いじめ』という欠陥が見つかっても、そのことが表沙汰にならなければ、大きな問題にはならない。
 教師が校長に「いじめが有ります」と伝え、校長が教育委員会に、教育委員会が文部科学省に伝えたとしても、「いじめは有っては困る」「いじめが有れば減点だ」というような絶対的な減点主義が蔓延っていたとすれば、その組織内では、いじめを隠すことが最も無難な対処法だということになってしまう。現在の教育委員会の姿を観ていると、まさにそのまんまであることは疑いの余地がない。
 つまり、現在の公立学校では、「いじめを発見し、いじめを無くすことが評価される」という当たり前の教育原理が機能していないのである。「いじめを無くす」ことではなく、「いじめが無い」ことが評価されるというデタラメな評価基準が誰にも指摘されることなく罷り通っていることこそが問題なのだ。
 自浄作用が働かない組織で「いじめ0」運動などを行うのは無理があり、非常に危険なことなのである。

 私立学校の場合、いじめを行う生徒がいれば、いじめを受けた生徒や親は学校に文句(クレーム)を言うことができる。もし学校側がそのクレームを無視すれば、その学校の評判を口コミで世間に広めることもできる。例えば、「あの学校は酷いイジメがあっても誰も注意もしないような学校だから行かない方がよい」というような噂が広まると、その学校は死活問題となってくるので、酷いイジメっ子がいれば退学にすることも辞さない。
 私立学校では、いじめが有ると、生徒だけでなく経営者自身が困ることになる。もし学校内で殺人事件やいじめによる自殺などがあれば、誰も新しい生徒が入学して来なくなり学校自体が潰れてしまう危険性が有るからだ。そういう意味では、私立学校では当たり前の教育原理が機能していることになる。
 
 ところが公立学校の場合、どんな事故や事件があっても、生徒は新たに入ってくるし、学校が潰れることもない。もっと言うなら、公務員としての教師も失業するリスクが無いため、「いじめを無くさなければならない」というモチベーションが生まれない。もちろん、正義感の強い立派な教師がいることも否定しないが、そういった当たり前の教師が浮いてしまうことになる。
 結果、学校内の正義は失われ、不正義が支配する地獄のような教育環境が出来上がることになる。このジメジメとした陰鬱な空気が、いじめの温床となり、いじめが有っても、誰も注意せず、注意した者は生徒はおろか教師ですら仲間外れにされるというイジメ社会が構築される。言わば、学校自体がイジメ社会になってしまうわけだ。学校でいじめが有ることが問題と言うより、学校そのものが“いじめ空間”と化しているのである。
 その証拠に、今回のいじめ事件でも、教師は未だ誰一人、いじめが有ったことを認めようとしない。「いじめが有った」と言えば、仲間外れにされる(公職を失うことにも繋がる)からである。
 
 「なぜ、いじめを無くせないのか?」という意見をよく耳にするが、公立学校でいじめが無くならないのは、むしろ当然の帰結であり、この“いじめ空間”を健全な空間に変化させる力が働かない限り、未来永劫、悲劇は繰り返されることになる。
 現代の教師や教育委員会が無能なのは、その人物が元からダメ人間なのではなく、教育システム自体が間違っているため、誰もが無能にならざるを得ないところにある。

 悪事を無くそうとする善人の声が届かず、悪事を行う悪人の好き勝手が罷り通る。昔からそういう不条理な悪夢のような世界のことを人々はこう呼んできた、「地獄」と。
 いじめが原因で自殺した被害者の声が届かず、いじめを行った加害者の好き勝手が罷り通る現在の教育界は、やはり「地獄」という形容が似つかわしい。この歪んだ教育システムを根本的に改革しない限り、日本の公教育に未来はないだろう。

【追記】
 BLOGOSのコメント欄を見ていると、何人か誤解や曲解をしている人がいるようなので、少し追記しておきます。
 本記事では、“人間のいじめ”を“工場の商品”に喩えて書いていますが、私自身が、人間を“モノ”として認識しているわけではありません。むしろその逆で、私自身は、人間を“モノ”として認識しているかに見える現代の教育に異を唱える者です。本ブログ読者におかれましては、誤解・曲解の無いよう、お願いしておきます。
 
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いじめ防止策と教育委員会の詭弁

2012070501_2 昨年10月、滋賀県大津市で発生した中学校の飛び降り自殺問題で、自殺した生徒が「自殺の練習をさせられていた」ことが判明した。ところが、昨年の11月に行われた記者会見の場で、大津市の教育委員会がこの事実を隠していたことが表沙汰となり大きな問題となっている。

 毎度のことながらマスコミは、こういった「いじめ自殺」問題が発生すると「痛ましいニュース」として伝えるだけで、決して根本的な問題を追及しようとはしない。教育委員会という組織も、いじめ事件を隠蔽することだけに躍起になっているようにしか見えず、本当にいじめを無くす気など、さらさら無いように見える。

 奇しくも大津市の女性市長は当人も子供時代にいじめを経験し自殺を考えたこともあるという理由から「いじめの無い大津市」というものを目標に掲げていたそうだが、そんな目標は、当の教育委員会にとっては馬耳東風であったらしい。
 教育委員会いわく、「自殺の練習をさせられていたとの確証は得られなかった」「いじめと自殺との因果関係は判断できない」ということらしいのだが、常識的な視点で観れば、誰が見ても「いじめ」を理由とした自殺としか考えられない。
 遺書が無ければ、自殺の原因は断定できないということなのかもしれないが、こういった詭弁を放置しておくと、仮に遺書が有ったとしても、「その遺書の内容が本当だとは限らない」ということになってしまいかねない。

 そもそも、事件が起こった当初から15人もの生徒が「自殺の練習をさせられていた」とアンケートで回答しているのだから、因果関係の有る無いに拘わらず、世間から「自殺の原因はいじめだ」と疑われるようなことを無くすべく努めるのが、教育委員会の仕事だろう。口先だけで「いじめを無くそう」などという綺麗事を言っているだけでは、何の解決にもならないのである。

 皮肉なことに、現在の教育委員会の教育姿勢は、いじめによって自殺した生徒ではなく、いじめを行っていた生徒達を庇うという構図になってしまっており、その構図は恰も、暴力団にヘコヘコと媚びを売り、間接的に犯罪に加担している取り巻きのようですらある。
 現代の中学生の陰湿ないじめ行為というものは、ある意味で暴力団よりも性質(タチ)が悪いかもしれない。遊び感覚で他人を傷付け自殺に追い込んだとしても、教師や教育委員会が庇ってくれる(隠してくれる)のだから、自分自身を律することのできないヤクザ紛いの生徒にとっては、まさにやりたい放題である。

 無論、いじめ問題というものは、もっと根が深いものである。単に暴力的な生徒がいるというだけの問題ではなく、家庭の事情や生い立ち、ストレスや劣等感、そういった様々な負の感情が引き金となって発生するものでもある。性善説的な立場に立てば、「いじめ」という行為が生まれること自体が、人間社会の悲劇であるとも言える。
 しかし、だからといって性善説的な考えでは、いじめ問題を解決することはできない。いじめ行為を人為的に無くすことが難しいのであれば、採るべき手段は、次の2つになる。

 1、いじめ行為を行った生徒には徹底的に厳罰を与える。

 2、いじめは無くせないという前提に立ち、教育制度を改める。

 は、いじめを行った人間は、たとえ未成年であろうと全国に名前と素顔を晒し懲役刑にする。そういった厳罰を与えれば、いじめを行おうと考える生徒は激減するだろうし、どんなにいい加減な親でも「いじめはするな」と子供に注意するだろう。しかし、こういった手段は、世間一般にはあまり受け入れられそうにないし、冤罪を生む可能性もあるので私も反対だ。

 の場合は、いじめを絶対的に回避するために、学校という制度自体を無くすことを意味する。
 学校内という閉ざされた空間でいじめが発生し、逃げ場がないのであれば、その逃げ場を作ってやればいい。そう、学校に行かずとも、教育を受ける場を与えてやればいいのである。これができれば、いじめによる自殺は綺麗サッパリ無くなる。この件については、以前にも書いたことがあるので、下記の記事も参照していただければと思う。

【関連記事】いじめによる自殺を無くす唯一の方法

 日本の教育委員会にとっては、生徒達が互いに傷付け合い、罵り合うという「いじめ」行為は有ってはならないものなのかもしれないが、いじめの被害にあっている生徒にとっては、そのような教育委員会の体制自体が有ってもらっては困るものである。
 教育委員会にとっては、現在の教育制度を改めるということは死活問題にも成りかねないので、とにかく波風立てずに現状の教育制度を維持したいのだろうと思う。学校というものが、どんなに理想から掛け離れた場所に落ちぶれていようが、あくまでも理想的な教育環境であることをアピールしたいのだろう。
 しかし、いじめ等の不都合な問題を隠蔽することによって、現在の教育環境を飾ろうとするのはいただけない。現在の教育制度を維持したいのであれば、本当に理想的な教育環境を構築することを目標に据え、いじめ問題の解決にも前向きに取り込んでいくことこそが求められる。
 
 現在の公立学校の教育体制は、いじめを発見した教師を評価するというものになっておらず、どちらかと言えば、いじめが無いことを評価するという事勿れ体制になってしまっている。そんな官僚的な組織が取り仕切っている無法地帯のような場で教育を受けさせられる真面目な生徒は堪ったものではないだろう。
 特に公立学校では、基本的にどんな生徒であっても辞めさせることができない。いじめの加害者を退学にすることができないだけでなく、いじめの被害者も学校を辞めることができない。これではまさしく、刑務所である。

 「刑務所はオーバーな表現だ」と言う人がいるかもしれないが、追いつめられた生徒は『自殺』という最悪の選択をするしか、いじめから解放される手段が無いと考えたのだ。それはなぜか? 少なくとも、その自殺した生徒にとって学校は刑務所に近い場所だったということであり、“自殺を選択した”という事実自体がそのことを如実に物語っている。

 刑務所のような現在の教育環境を改めない限り、いじめ問題は決して無くならない。野口悠紀雄氏の『1940年体制』ではないが、教育の場に戦時経済体制を敷いたことによって、教育の自由が失われてしまったことが、いじめ問題の遠因になっていると言えるのかもしれない。
 いずれにせよ、教育委員会自身が現在の事勿れ主義を改めない限り、いじめ問題は一向に解決に向かわないということである。
 
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