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2012年9月

「保守」が「右翼」となる日本の不思議

2012092801 もはや、中国と日本の国家間の対立が明確化しつつあることは誰の目にも明らかだが、そんな時期に計ったようなタイミングで自民党の総裁選が行われ、安倍晋三氏が総裁に選任される運びとなった。
 安倍氏の再登場を批判する向きもあるが、外交問題が政治の最重要課題となってきた現在、無難なところに落ち着いたかと思う。無論、現在の自民党を手放しで礼賛するつもりはさらさらないが、ここは党に関係なく保守政治家に任を委ねた方が無難だと思う。

 以前、安倍氏が総理大臣だった時代も、海外の左巻き国家からは評判が悪かったことは記憶に新しいが、再度、安倍内閣が復活する可能性が浮上してきたことから、同国家はまるでアレルギーを発症したかのように危機感(?)を煽っているかに見える。

 当初、反米親中の姿勢だった民主党は左巻き国家に重宝がられていた(=利用されていたという意味)フシがあるが、親米反中の保守勢力が前面に出てくると左巻き国家は条件反射的に嫌悪感をあらわにする。
 石原都知事や自民党の石破氏や安倍氏、その他保守論客の影響からか、最近よく聞かれるようになった言葉が「右翼」や「右傾化」という言葉だ。少し前には「草食系男子」という言葉が流行り、日本の若者は保守化しつつあることが問題となっていたが、今後は違う意味で「右傾化」しつつあることが問題視されそうだ。
 3年程前には『なぜ若者は保守化するのか』という本が話題になったが、この調子でいくと近い将来、『なぜ国民は右傾化するのか』というようなタイトルの本が出てくるのかもしれない。

 ところで、上述した「左巻き国家」の中には当然、中国も含まれている。しかし、その中国国民とて、中国国内から観れば立派な「右翼」である。と言うよりも世界中の人々はほぼ例外なく自国内では「右翼」だ。これは当たり前の話で、オリンピックなどを観ればよく分かる。
 例えば、サッカーなどでは、相手国のゴールネットにサッカーボールがタッチすることで、自国の国民(サポーター)は狂喜乱舞する。まるで一国の英雄を称えるかのような感情的なその光景は、尖閣諸島にタッチした香港の右翼団体を観て狂喜乱舞した中国国民の姿とダブって見える。
 しかしそう考えると、中国国民は内心では《尖閣諸島=日本の領土》という認識を持っているということになる。尖閣諸島を端から自国の領土だと認識しているのであれば、“オウンゴールして喜ぶ国民”というのはどこか不自然だ。

 話が少し俗論に傾いてしまったが、オリンピックで自国を応援する国民の姿を観れば、それが母国を愛する国民の姿(ナショナリズム)であることが分かる。中国も例外ではない。
 自国内で自国が悪くなることを願う「左翼」が大手を振って闊歩しているのは、日本ぐらいのものであり、それは良く言えば「絶海の孤島の天然記念物」、悪く言えば「ガラパゴス島の絶滅危惧種」でもある。

 右翼や左翼の定義についてツッコミが入りそうなので、ここでウィキペディアの「右翼」の定義を簡単に以下にまとめておこう。

 「左翼も右翼も相対的な用語であり、何を「左翼」や「右翼」と呼ぶかは時代・国・視点などによって変化するが、一般的には、保守的・国粋主義的な思想の傾向を指すものを右翼と呼ぶ

 しかしながら、日本では、思想的な認識において以下のようなズレがあると思われるので、この説明をそのまま鵜呑みにすることはできない。ここでは解り易くするために、「左翼」と「右翼」の間に「保守」という言葉を挟んで考えてみよう。

 【世界】右翼 → 極右【日本】
 【世界】保守 → 右翼【日本】
 【世界】左翼 → 保守【日本】
 【世界】極左 → 左翼【日本】

 日本では、世界と認識が一段ズレており、「保守」が「右翼」と認識され、「左翼」が「保守」と認識されていると考える位が丁度よいのかもしれない。
 日本では、感情的に「脱原発」を唱えている人物が「保守」と思われているフシがあるが、これも認識のズレが招いた曲解だと言える。真の「保守」というものは、あらゆる観点から日本の将来を考えた上で、理性的に物事を判断するものであって、物事の一面だけを観て感情的に危機を煽るのは「保守」ではない。たとえ現在の自分自身にリスクが及ぼうとも、将来的な繁栄を願うのが「保守」である。目の前にあるリスクを無くすことだけに躍起になるような人物のことは「保守」とは呼ばない。そういった人物は一般的に「左翼」と呼ぶ。原発問題だけ見ても、日本では「左翼」が「保守」になっていることがよく分かる。

 ゆえに、現在騒がれている「右傾化」とは「保守化」のことであり、特に問題視する必要もないと思われる。

 世界の常識に照らすと、日本で言うところの「右翼」とは、世界全般的には「保守」のことを意味するので決して恥ずかしいことではない。国際的に翻訳化した意味合いで「保守化することが悪い」というような国内世論が出てくること自体が馬鹿げていると考えるべきである。
 もちろん、「保守」という言葉も先程の「右翼」と同様、相対的な用語であるので、反論も多々あると思われるが、ここで述べたことは、ごく限られた小さな範囲の中での思想論であることだけはお断りしておきたい。一般的な常識の範疇でご理解願いたいと思う。

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中国政府の『日本いじめ』の考察

2012092201 政府の尖閣諸島国有化発言に端を発し、中国各地で反日デモが催されたことから尖閣問題が大きくクローズアップされることになった。書店に行くと、早くも「原発本コーナー」が「領土問題本コーナー」に置き変わりつつあり、その関心の高さが窺える。機を見るに敏な目敏い学者や評論家達は、きっと今頃、せっせと領土問題本でも書いているところだろうと思うが、目下のところ、以下のような本が矢継ぎ早に出版されている。

尖閣諸島が危ない
尖閣を獲りに来る中国海軍の実力
尖閣戦争 ― 米中はさみ撃ちにあった日本
日本掠奪 ― 知ったら怖くなる中国政府と人民解放軍の実態

 覇権主義による領土拡張を急ぐ中国は、どうやら今年にでも尖閣諸島獲りに本腰を入れつつあるように見受けられるが、中国政府のニュース報道などを観ていると、北朝鮮の国営放送とほとんど変わらないな…と感じた人も多いのではないかと思う。さすがに中国寄りの空想的平和主義者達も少しはその危険性を察知したのではないだろうか。

 日本の「反原発デモ」と中国の「反日デモ」は、一見すると、その動機や目的が全く違うように見えるが、結果的には“日本を破滅に導く可能性がある”という共通点を内包している。普通に考えても、その危険性には大差が無いと思われるのだが、おそらく反原発デモ参加者達は自分達がそのような活動に加担している可能性が有ることなど夢想だにしていないのだろうと思う。(理由は後述する)
 翻って中国の反日デモ参加者達はどうだろう? おそらく彼らの大半は、自分達の行動が日本を破滅に導くことになることを理解した上で行っていたと思われる。

 中国の習近平氏が米国に対し「尖閣問題は日米安保の適用外にして欲しい」という恐ろしい申し入れをしたことは既に伝えられているが、幸運にもアメリカが「ノー」と応えたため、一旦はデモ騒ぎだけは収まりつつある。しかし、今回の出来事が我々国民に暗に提示していることは、【日米安保条約の重要性】以外の何ものでもない。現状を冷静に分析すると、日本の行く末は、米中の関係次第によって決まるということを示している。

 日・中・米の三者間の構図を解り易く喩えると、以下のようになる。

 【日】…金持ちのいじめられっこ
 【中】…強欲ないじめっこ
 【米】…借金を抱えたいじめの仲裁者(いじめられっこと契約)

 この3者の関係を考えると、いじめを止めることができる【米】の存在の重要性は言うまでもないだろう。
 今回の尖閣事件を観ても分かる通り、もし【米】がいじめの仲裁を行わなければ、ヘタをすると戦争に突入していた可能性も否定できない。もっとも日本は戦争できないので、米中の代理戦争を意味するが、【米】が代理戦争をする気がなければ、【中】は無血開城で【日】を乗っ取ることができてしまう。
 【日】は金持ちなので、【米】にとっては(今のところ)重要な存在であるため、【日】と【米】は同盟を結んでいる。しかし、その同盟が揺らげば、【日】は【中】にいじめられた挙げ句、殺される可能性もあるということである。

 ここで、「日本には平和憲法がある」と言う人がいるかもしれないが、「平和憲法」というのは、先程の喩えで言うなら、『いじめはしてはいけない』という学校の決まり事のようなものだと言える。現代の学校のいじめ事件を見てもお分かりのように、そのような呑気な決まり事を守ろうとする律儀ないじめっこは誰もいない。いわんや前近代的な無法国家にとっては、そんな決まり事は、ただの紙切れに書いた約束事に過ぎないという現実を知る必要がある。以前の記事にも書いたことだが、平和憲法とは自国の政府を縛る機能しか有していないのである。

 古今東西、老若男女を問わず、いじめっこが最も恐れることは、自分よりもケンカが強い相手が仲裁に入ってくることである。アメリカの一声で中国のデモが収まったことが、そのことを如実に物語っている。この三者間の関係は「いじめの論理」がそのまま当て嵌まると考えれば解り易い。

 しかし現在の日本では、どういうわけか、いじめを止めてくれるアメリカに対して非常に冷たい態度を取っていることは周知の通りだ。基地問題然り、オスプレイ問題然り、まるで、いじめっこの側に立ったような自虐的な言動を繰り返しているように見えてしまう。多くの国民が、そのことに対して少しも疑問を抱かないことが不思議でならない。一体どこの学校に、いじめを仲裁する人物の転校を願ういじめられっこがいるだろうか?

 また、中国は今後、原発を大量に増設する予定であることでも知られているが、日本の反原発論者達は、そのことについては黙ったままというのも可笑しな話だ。中国の原発で大事故が発生すれば、日本も無事では済まないのに、そのことについては都合良くスルーしている。
 「中国は日本のような地震大国ではない」という反論が聞こえてきそうだが、それは地震が起こる確率が低いというだけで、地震が起こらない(リスクがない)ことを意味しない。リスクをゼロにすることを目的とする人物が確率論を唱えることは御法度であり筋が通らない。

 中国政府から観れば、日本が原発から撤退するということは、「核武装も今後行わない」ことを意味するので、内心ではシメシメ…といったところだろうと思う。いじめっこに反抗するための武器(注意:あくまでも自らを守るための武器)をいじめられっこが自ら捨てるという行為が、いじめっこの目にどう映るかを考えれば、それが何を意味するか容易に想像が付くだろう。

 ここまで書けば、反原発デモが間接的に中国を利する行動に繋がっているということの意味が少しは理解して頂けたのではないかと思う。
 今回の尖閣事件を経験して、未だに中国政府が「いじめっこ」に見えないということであれば、自らの心に根付いた“平和ぼけ”をこそ恐れるべきである。

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『1クラス35人制』でイジメは減少するか?

2012091601 文部科学省は、現在、小学1・2年だけに実施している『1クラス35人の少人数学級』を今後5年かけて中学3年生にまで拡大する方針を明らかにした。
 早い話、義務教育課程における1クラスの定員数は全て35人にするということだが、その理由として「授業の分かりやすさや学力向上、いじめの早期発見につながる」としている。今回の発表では時節柄か「いじめ問題」を前面に出しているようだ。

 『1クラス35人制』については、以前にも記事を書いたことがあるので、そちらも参照して頂ければと思うが、今回は、「1クラス35人制にすれば、いじめは減少するのか?」という点に絞って考察してみたいと思う。

【関連記事】
『1クラス35人制』で教育効果は上がるか?

「1クラス35人制」というレトリック

 まず、1クラスの人数が減少すればイジメは減少するか?と言えば、確かに確率論的には減少する。クラス数が増加すれば“イジメっ子”と“イジメられっ子”が遭遇する(=同じクラスになる)確率も減少することになるので、そういう意味で言っているのだとすれば、その通りである。“イジメっ子”と“イジメられっ子”には相性の問題もあるが、1クラスの人数が減少すれば、イジメっ子が徒党を組む人数も減少することになるので、1クラスの人数は少ないに越したことはない。これは刑務所における同一牢屋内の囚人数を考えた場合と同じ理屈である。
 しかし、おそらく当の文科省は確率論で述べているわけではないだろう。あくまでも「1人の教師の目の届く範囲が縮まる」という極めて都合のよい性善説的な意味合いで「いじめが減少する」と述べているだけであることは想像に難くない。

 しかしながら、大津の中学校で問題となった教育関係者達のイジメ自殺隠蔽問題でも明らかなように、いくら教師の目が届いたところで、イジメが有ったことを認めない教師ばかりで、せいぜい「あまりやり過ぎるなよ」と言う程度の腰抜け教師しかいないわけだから、「いじめが減少する」などと言われても誰も素直には納得できないだろう。

 そもそも、現在の日本の教育体制では、教師がイジメを発見しイジメを無くす努力をすることが正当に評価されるという、まともな教育制度が成り立っていないわけだから、確率論は無意味である。
 もっとも、教師の方にも言い分はあるだろう。生徒を叱る(平手で殴る、拳骨する等)と、その叱った理由もまともに聞かずに文句(クレーム)を言ってくるような保護者がいることも問題だろうし、そういったゴネ得社会を放置し続けてきた日本社会にも責任の一端はある。義務を果たさずに権利だけを主張することを当然とした左翼的な歪んだ事勿れ社会の悪弊を追及するという義務を果たしてこなかったマスメディアにも問題がある。

 以前の記事でも書いたことだが、現在の小学3年から中学3年までを追加で35人体制にするためには、教師の数を2万人近く増員しなければならないらしい。推計では、新人教師1人当たりの人件費は667万円かかる計算なので、年間1300億円以上の税金が必要になることを意味する。これでイジメが大幅に減少するなら安い(?)と言えるかもしれないが、全く効果が無いようなら、ただの焼け太りである。

 「生徒の数を減らせばイジメは減少する」というような話を素直に認めていると、消費税の増税スパイラルと同じで、その人数はどんどん少なくなっていく危険性がある。35人から30人、25人、20人…と、少子化で生徒の数が減少しているのに、教師の数だけは一向に減らないということになってしまいかねない。「いじめを無くす」という、およそ実現不可能な大義名分の為に、際限の無い増税を受け入れることになってしまうということである。

 私が思うに、教師を増員して年間1300億円も血税を支払うぐらいなら、その100分の1(13億円)を、イジメを発見しイジメを無くす努力をした教師に対する報償金制度にでも活用した方が良いのではないかと思う。あるいは、非常に出来の悪い教師の給料を減給して、そのお金を報奨金として工面してもよい。そういった当たり前の評価制度を導入すれば、教師を増員する必要もなく、イジメは大幅に減少するに違いない。

…と書くと、ここぞとばかりに「お金」の問題に摺り替えて、反論してくる人がいるかもしれないので予めお断りしておこう。ここで述べていることは、金銭の問題ではなく、リスクの問題である。現在の日本の教育体制の中にあっては、教師がイジメが有ることを告発することが、企業における『内部告発』と同じ構図になっているということだ。つまり、イジメ(不正)が有ることを告発すれば、学校(会社)に居れなくなるという倒錯した教育環境が構築されているということである。

 企業の内部告発であれば、内部告発した人を評価するという社会が有るので、まだ救いがあるが、学校の場合はそうはいかない。残念ながら社会自体がそういった勇気ある教師を評価するようにはなっていない部分がある。イジメを見て見ぬ振りをする教師を擁護するつもりはないが、村社会に生きる公務員教師にとってイジメ告発は「ハイリスク・ノーリターン」どころか、「ハイリスク・マイナスリターン」になってしまっている。それをせめて「ハイリスク・ローリターン」にすれば、イジメを告発する教師が出てくる(=イジメが減る)のではないか?という当たり前のことを述べているだけなので、曲がった解釈はご遠慮願う。

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スマホバブルの行方【物質的バブルと感情的バブル】

2012091101 現在、日本だけでなく世界中で最も熱い注目を浴びている電化製品(ハイテク機器)は何か?と問えば、おそらく誰もが「スマホ」と答えるだろうと思う。世界中の先進企業は、ほぼ例外なく「スマホ」を中心に回り始めていると言っても過言ではなく、パソコンの機能を有した多機能携帯電話「スマホ」の前途は有望に見え、その可能性は限り無く広がっているかに見える。これは誰もが認めるところだろうと思う。
 
 しかしながら、「スマホは万能か?」という質問をされても、現状では「イエス」とは言い難いものがある。例えば、以下の2つの質問に対して、あなたはどう答えるだろうか?

 (1)「スマホは“ポスト携帯電話”に成り得るか?

 (2)「スマホは“ポストパソコン”に成り得るか?

 こう質問された場合、(1)は「イエス」だろうと思うが、(2)を「イエス」だと言える人がどれだけいるだろうか? 熱烈なスマホ信者であっても、さすがに答えに窮するのではないかと思う。

 私もiPod touchをスマホとして利用してはいる(無線LANを使用すれば無料でインターネットができる)が、目の前に「パソコン」と「スマホ」があった場合、どちらを使用するかといえば、躊躇することなく「パソコン」を選択する。如何にスマホが便利なツールだとはいえ、パソコンの代わりに使用しようとは思わないので、私個人としては、(2)の答えは「ノー」となる。

 特に情報(ブログなど)の発信を行っている人であれば、皆そう感じているのではないかと思う。文章を書くにしても、イラストを書くにしても、画像を加工するにしても、画面(作業領域)の大きさというものは何物にも変え難いものがある。クリエイティブ・ワークをスマホのみで行っているというような人は流石にいないと思う。
 情報を閲覧(ネットサーフィン)するだけであっても同様で、やはり「パソコン」の優位性は変わらないと思われる。

 スマホ(タブレットも含む)の優位性と言えば、“持ち歩くことができる”という点だが、よく考えれば、これは既にノートパソコン等でも実現されていたことであり、iPad程度の大きさのものになれば、携帯性はほとんどノートパソコンと変わらない。サイズがiPoneまで小さくなれば、携帯性という意味では、ノートパソコンを凌駕しているが、先程も述べたように画面の大きさではパソコンには全く敵わない。iPadやiPoneがモデルチェンジしてサイズが変更になったといっても、せいぜい数インチの違いでしかないめ、作業能率が格段に上がるというものではない。

 旅行に出かけた時など、パソコンが使えない環境では、スマホがあれば非常に便利だと感じると思うが、それはパソコンの代わりになるという意味での便利さではなく、あくまでもパソコンが無い場合における『お助けツール』としての便利さでしかない。
 スマホの画面がどれだけ綺麗に高精細になったとしても、画面の大きさという物理的な壁を越えない限り、スマホがパソコンに置き換わることはできない。実に単純な話だが、これは否定のしようがない。

 この10年程でパソコンの大きさは劇的に小さくなった。私も使用しているが、持ち運び可能なMac miniのようなパソコンもある。そのベクトルはどんどん縮小化に向かう傾向にあり、スマホもその産物の1つだと言える。しかし、ディスプレイはパソコン本体とは逆にどんどん大きくなってきた。本体は限り無く小さくできても、出力装置としてのディスプレイまでは小さくできない。この矛盾がある限り、スマホがパソコンに置き換わることは残念ながら有り得ないと思う。

 現在は、一時的にパソコンをレンタルするというネット喫茶が流行りではあるが、スマホの性能がもう少し上がると、スマホの外部入出力端子を用いて使用するディスプレイとキーボードのみを設置したネット喫茶ができるかもしれない。
 如何に現在のネット喫茶のセキュリティー管理が万全であったとしても、やはり他人のパソコンに個人情報(パスワードなど)を入力するのは抵抗があるという人は多いと思うので、個人のパソコンならぬスマホを持ち込み、大画面でスマホを利用するというスタイルの商売は近い内に登場するものと思われる。おそらく入力装置と出力装置のみを完備し、パソコン(スマホ)本体は持ち込みというスタイルのホテルや旅館も出てくるのではないかと思う。

 近未来のSF映画に出てくるホログラム・ディスプレイのようなものがパソコン・ディスプレイの代用品として使用できるレベルまで進歩し実用化されれば、パソコンは本当に不要になり、携帯用小型端末(その時は「スマホ」とは呼ばないだろう)の時代を迎えることになると思うが、そこまで行くには数十年か数百年先になるだろうから、現在のスマホブームというのは、その段階に至るまでの途方もない過渡期の1段階に過ぎないと思う。
 しかし考えようによっては、それだけの長い間、景気を刺激し続ける商品として君臨できる可能性があるわけだから、経済的には良いことであり、悲観に暮れる必要性は全くない。「スマホバブル」とは、おそらくはホログラム・ディスプレイが実用化されるまで続いていく可能性を抱えた良い意味での“物質的バブル”なのである。

 ただ、現在のように「スマホがあればパソコンは不要になる」というような言説は明らかに“感情的バブル”だと思う。「電子書籍が普及すれば紙の本は無くなる」というような言説も同様だが、こういった現実から乖離し過ぎた感情的な意見は「バブルではないか?」と一度、疑ってみた方がよいかもしれない。

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お節介で過保護で有り難迷惑な『改正高年齢者雇用安定法』

2012090601 先日、『改正高年齢者雇用安定法』が参院本会議で可決・成立し、日本の企業は再雇用を希望する社員全員を65歳まで雇い続けることが義務付けられることになった。
 2013年から厚生年金の受給開始年齢が1歳ずつ段階的(3年ごと)に引き上げられることが決定されており、2025年には65歳からの支給となる。そのため、「65歳になるまでの間の生活費を保障しなければいけない」ということらしい。

 確かに60歳で定年となり、65歳まで年金が支給されないとなれば、仕事や貯蓄のない人にとっては死活問題と成り得るかもしれないが、問題は死活問題云々ではなく、そのような法律がはたして運用可能なのか?ということである。

 企業が未来永劫潰れることがなく、仕事も永遠に有り続けるという前提でしか、このような法律が問題なく機能することは有り得ない。5年先どころか1年先も全く予測できない時代に、簡単に雇用を5年間も延長して問題が起こらないはずがない。況して、その大部分が1人前の仕事をしていない(失礼)と思われる60歳以上の高齢者であれば尚更である。残念ながら、このような過保護な法律の適用は多くの企業にとっては迷惑以外のなにものでもないと思われる。

 本来、お役人は余程のこと(犯罪等)がない限り、民間企業の経営には口出ししないというのが、まともな資本主義国家(民主主義国家)の常識だが、ガラパゴス国家日本では、そういった当たり前の常識が通用しない。
 日本では、お役人が民間企業の経営・休日・給料にまで直接的に口出し(命令)することが当然という空気が支配しており、ほとんどの国民はそれが不自然なことであることに気付こうともしない。国家総動員体制の戦時中ならいざしらず、21世紀の現代にあって、お役人が民間企業の経営を統制するなどというのは時代錯誤もいいところである。

 このような無茶な法律が全企業に適用されると、結果的に経営が維持できなくなる企業を大量生産することに繋がり、雇用自体も縮小してしまいかねない。いや、雇用は100%縮小するだろう。雇用が足りないことを理由に法律を改正したは良いが、目的とは裏腹に雇用が増々足りなくなってしまうのでは、何のための法改正か分からない。

 日本人の平均寿命は、昔の高度経済成長期と比べると、少なくとも10歳程度は延びているのではないかと思う。そういった生物学的(?)な背景を考慮すれば、定年が60歳から65歳に引き上げられることはごく自然な成り行きであり、そのうち70歳になったとしても不思議ではない。しかしながら、経済のグローバル化と長引く不況の影響で、国内の需要(仕事)自体が減少しており、そういった経済状態を放置したまま高齢者の定年のみを5年延長すると、そのしわ寄せを喰らう形で若年者の仕事は更に減少することになる。早い話、5年間就職できない新卒者が激増してしまうということである。

 この雇用問題を解決する方法は、1に経済成長、2に経済成長、3に経済成長しか無いわけだが、経済を衰退させることにしか興味がないと思われる官主党が国政を壟断している状況では、まともな経済成長は望めそうにない。なんせ、1国の代表である総理大臣が「経済成長」よりも「雇用」が大事というような原因と結果を履き違えた珍説を真顔で述べていた国(政府)である。その経済音痴ぶりは推して知るべきである。
 
 そういった悲観的な政治情勢を考えると、現実的な妥協策としては、若年者の新卒年齢も5年程度引き上げてはどうかと思う。平均寿命自体が大幅に延びているのだから、それに合わせて、社会的な制度自体も根本的に変更すればいいのではないかと思う。
 現代の日本のように労働市場が歪められている影響も手伝い、新卒で就職が決まらずに困っている人が大勢いるわけだから、もう「新卒年齢」というような古臭い概念自体を考え直してもいい頃合いかもしれない。この際、小学校6年、中学校3年、高校3年、大学4年という枠組みも自由に変えてしまってはどうかと思う。例えば、小学校入学は10歳にしても構わない。そこから25歳程度までは学生ということにして、就職するために必要な学習をした後に30歳程度までに就職するということでも構わないのではないかと思う。平均寿命が延びているのだから、新卒年齢も22歳(大卒の場合)であり続ける必要性は無いのではないかと思う。そういった自由度の高い社会になれば、就職できずに自殺するような人間も大幅に減少することだろう。

 少し極論めいたことを書いてしまったかもしれないが、それぐらい融通の利く社会の方が良いのではないかということである。

 「そんなのは暴論だ!」と批判する人がいるかもしれないが、老年者の出口を変更するなら、若年者の入口も変更してもよいのではないか?という至極単純な疑問を述べたまでの話である。

 「学生期間が延びれば、学費はどうするのか?」という疑問もあるかもしれないが、20代の人間ならアルバイトしながら勉学に励むことも可能だろう。それに、定年が65歳になるなら、その5年間(61歳から65歳)に稼いだお金で親が子供の生活費の一部を工面(=世代間所得の移転)することもできるだろう。それすら「できない」と言うなら、それはただの甘えである。

 あくまでも以上は妥協論である。本来、年金などは無いと考えた上で生活設計を行うことが理想だと思うが、自分自身の人生設計まで国に丸投げしなければ気が済まないという依存心の強い国民性が、この国の将来に暗い影を落としていることだけは間違いない。
 その依存心に応えるかのように、国は「国民は愚かだから生活の面倒をみてやらなければいけない」というお節介を焼く。そして国民も「国が国民の生活の面倒をみるのは当然だ」という根拠の無い思い込みを抱くことになる。家庭に喩えるなら、「過保護な親」と「我が侭な子供」の構図に似ているが、実はこの構図こそが「国家社会主義」の特徴でもある。
 こういった官民共通の国家社会主義的な思想の蔓延は、国家を衰退させる負のエネルギーにしかならないことは既に歴史が証明している。この冷厳な歴史的事実を知れば、現在の日本が如何に間違った方向に舵を切っているかがよく分かる。

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BOOK『がんの特効薬は発見済みだ!』を読んで。

2012090101_2 私はたまに医療関係の本を読むことがある。無論、小難しい医学書の類いではなく、何かタメになるようなことが書かれている医療関係本があれば、簡単な紹介記事(レビュー)を書くことにしており、実際にこれまでにも何度か書いてきた。
 先日、久しぶりに医療関係の本をネットで物色していると、非常に興味深いタイトルの書籍に辿り着いた。タイトルはズバリ『がんの特効薬は発見済みだ!』(岡崎公彦著)。
 これほどインパクトのある本のタイトルも珍しいと思うが、おそらくこの言葉を聞いて気にならないという人は誰もいないだろうと思う。私もその例に漏れることなく、非常な興味を抱き、直ぐさま注文し、早速、読んでみた。

 本書は遅読の私でも20分程度で読める薄い本で、中身は50数ページしかないにも拘わらずハードカバー仕様という、非常に珍しいタイプの本だった。医学博士でもある著者の岡崎公彦氏が本書を「遺書」と位置づけているところをみると、ある意味で、聖書的なイメージを狙ったのかもしれないが、岡崎氏曰く、「がんを「特効薬」で治すという情報は、詳細な説明が必要なものではありません。」ということらしい。真実は単純にして明解ということだろうか。
 タイトルだけを見ると、トンデモ本の類いかと思われる人がいるかもしれないが、一読したところ、短いながらもナルホドな…と納得できる内容だった。

 「そんな特効薬があるなら、なぜもっと世間に広まらないのか?」と素朴な疑問を抱いた人もいるかもしれない。その理由は本書でも少し触れられていたが「医学界のタブー」としか言えない。あなた自身でその答えを探ることをオススメしたい。

 さて、『ガンの特効薬』とは、ある物質のことなのだが、その物質は身近な物では「アーモンド」に含まれているらしい。アーモンドと言っても、「」のアーモンドのことなので、通常、市販されているローストされたアーモンド(アーモンドチョコレート等も含む)では効能がほとんど無いらしい。

 ガンは生活習慣病とも言われ、ガンになる最大の原因はストレスだとも言われている。
 誰が考えたのかは知らないが「癌」という字は、なぜか、病だれの中に「品物のようにある」と書く。この「品物」を「仕事」や「食べ物」に置き換えてみると案外、的を射ているのかもしれないなと思う。
 毎日、山のように仕事を抱えている人や、山のようにたらふく食べている人はガンになりやすいとも言われている。そのどちらも、過剰なストレスを伴うものであることは言うまでもない。

 仕事を山のように抱えている人間は、慢性的な休養不足で肉体の免疫力が低下傾向にあり、山のようにたらふく食べている人間は、本人は意識せずとも胃腸(内臓)が極度のストレス状態にある。
 「病は気から」という有名な言葉の通り、精神的なストレスが肉体に与える影響は決して無視できるものではなく、激甚なストレスが原因となってガン等の生活習慣病を発症する現代人は意外に多いのではないかと思う。潜在意識論的に言うなら、《ガンにでもならなければ、仕事の山から解放されない》というような感情を無意識のうちに抱いている人は非常に危険だとも言えるだろう。

 ガンと免疫力の関係を書くと長くなるので今回は控えさせていただくが、本書に登場するガンの特効薬も、基本的には人間の免疫力に関係するものではないかと思う。ゆえに、過剰なストレスを抱えたままでは、いくら特効薬を摂取しても効果は望めないか、効果が薄れることは間違いのないところだろうと思う。
 御存知の方も多いと思うが、一口に「ガン」といっても、ガンには様々な種類のものがあり、進行の極めて速いガンやほとんど変化しないガンなど千差万別なので、“全てのガンを抑制する特効薬”は存在したとしても、“全てのガンを完治させる特効薬”というのは無いと思う。これは当たり前の話だが、どんなことにも例外はあるということは認めた上での特効薬(特別に効く薬)である。

 個人的には、真のガンの特効薬は「ストレスからの解放」、これに尽きると思うが、現代社会ではストレスを感じることなく生きるのはなかなか難しい。
 ストレスを感じると免疫力が低下し、病を発症する。これはガンだけでなく、あらゆる病気に当て嵌まることである。それゆえに日頃から免疫力を強化し維持することが非常に重要になる。

 話を戻そう。
 この本の面白いところは、意外にもエドガー・ケイシーにまで考察が及んでいるところだ。
 「眠れる予言者」として知られるエドガー・ケイシーは現代のように医学が発展していない当時(100年程前)、こう言っていたらしい。

 「毎日一粒のアーモンドを食べ、それを続けたら、あなたの肉体に、腫瘍やそれに酷似した症状が出来ることは決してないだろう。

 「ケイシーリーディング」と言えば、世界的にもあまりに有名だが、そのリーディングの信憑性を数十年後の日本人医師が科学的に裏付けていたことは注目に値する。(注意:この日本人医師とは岡崎氏のことではない)
 図らずも、ケイシーリーディングと(表には出ない)現代医療が時代を超えて交差したことによって信用性が高まった『ガンの特効薬』、これがもし真実であれば、本書はまさに値千金の価値を有した医学書と言えるだろう。

 私も自分の直感を信じて、生アーモンドを早速、注文してみた。1kg1000円程度で販売されているようなので、健康のために1日1粒だけでも食べていこうと思う。1kgで何個の生アーモンドが入っているのか数えてみると900粒以上入っていた。ちなみに消費期限は約1年間。
 万が一、ガンの予防効果が無かったとしても、健康上、食べて損をするというものではないだろうし、プラシーボ(プラセボ)効果は望めそうだ。

 最後に、本書には巻末に誰にでもできる意外なもう1つの健康法が記載されている。内容の方は本書に譲りたいと思うが、この知識も知っておいて損はないと思う。

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