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2012年10月

「ハシモト」記事(仮定)で読み解く「ハシシタ」記事の真実

2012102801 週刊朝日の「ハシシタ」記事問題は結局、結論が出ないまま有耶無耶な形で収束しそうな雲行きとなり、当の週刊朝日の編集長は人事異動(社長付)となったらしい。
 『被差別部落問題』と『言論の自由』、この両問題は今後も様々な場所で議論されて然るべき課題だと思われるが、今回の事件に限って言うなら、少し論点の認識ズレも生じており、オーバーシンキング(考え過ぎ)になっていた感もあるので、この辺で幕引きするのが妥当だったのかもしれない。その理由を以下に述べてみたいと思う。

 まず、今回の問題で週刊朝日側は建前上、「被差別部落地域を記載したこと」を1番の理由として謝罪している。しかし、そういった記述をした記事はこれまでにもいくつか存在したので、週刊朝日の記事だけが糾弾されるのはおかしいと述べている人もいた。また、以前に発表された記事では批判しなかったのに、今回の記事だけ批判するのは不自然(選挙戦略)だという穿った見解を示している人もいた。

 これに対し、橋下氏擁護側は、以前に書かれた記事は、出自の事実を書いただけであり、今回の記事は、単なる出自だけでなく部落差別を前提に書かれているのが問題なのだと述べている。

 これはどちらが正しいのか? 個人的には後者の方が正しいと思うが、それだけでは納得できないと言う人もいるだろうから、ここでは少し違った視点で考えてみよう。

 例えば、橋下氏が“被差別部落出身ではない”という仮定で、今回の記事が書かれていたとすればどうだろう? 父親が元暴力団員で自殺したというような事実のみを固定して、「ハシモト 奴の本性」という記事が書かれていたと仮定した場合、橋下氏は、その記事に対して批判を行ったかどうかを考えてみれば、この問題の本質に少しは近付けるのではないかと思う。

 さて、その場合、橋下氏はどうしただろうか? 私が思うに、おそらく橋下氏は同じように批判を行っただろうと思う。なぜか? それが「差別」記事だからである。
 「えっ?」と疑問に思った人がいるかもしれないが、今回の週刊朝日の記事の最も重要なポイントは、実は同和問題の有無にあるのではなく、同和問題というのものを省いて考えたとしても「差別」というものが残ることが問題なのである。

 ここで「差別」という言葉の定義について考えてみよう。
 例えば、足の速い人と足の遅い人がいたとしよう。その場合、足の速い人と足の遅い人を比べて優劣を付けるのは差別になるか?というと、差別とまでは言えないだろう。なぜなら、足の遅い人でも努力すれば足を速くすることはできるからだ。無論、生まれつき身体に障害があって、努力しても足が速くならないということであれば話は別だ。
 あるいは、仕事ができる人と仕事ができない人を比べて優劣を付けるのは差別になるか?というと、これも基本的には上記と同じ理屈が成り立つだろう。

 要するに「差別」とは、個人の努力では変えることができないことに対して優劣を付ける行為(または思い)のことなのだ。
 人間は個人の努力によって自らの運命を変えることはできるが、残念ながら背負った宿命までは変えることができない。その持って生まれた宿命を持ち出して人を判断することが「差別」なのである。

 そう考えれば、週刊朝日の記事が「差別」記事であることは疑いの余地がない。「部落差別」と限定して考えれば、是非論が出てくる余地があるが、単なる「差別」として考えれば、論ずるまでもなく「差別」記事に該当する。
 個人の努力で一族の過去の行いまで是正することはできない。その「一族」を持ち出し、血が繋がっているという理由のみで人を判断しようと目論む行為自体が「差別」以外の何ものでもないからである。

 100歩譲って、その行為が心理学で言うところの「プロファイリング」に該当したとしても、その推察に同和問題を絡めて公の雑誌で推論記事を大々的に発表するなどという行為は、常識的に考えて許されるはずがなく、世間一般の人々にも受け入れられるはずがない。(端から「独裁者」と決め付けた上でのプロファイリングなど有り得ないが)

 「人権」を売りにしてきた公の報道機関が差別記事を書けばどうなるか? 当然、クレームが入ることになる。つまり彼ら(週刊朝日側)は、自らの社是に反した商品(週刊朝日)を製造・販売してしまったことになるわけだ。単に部落地区を記載したことが問題なのではなく、出版社自らの存在価値を揺るがしかねない不良商品を検品した上で(←ここが重要)販売してしまったことが問題なのである。

 そもそも論として、橋下氏は大阪府知事選の時から、演説を通して自らの出自について言及していたことは周知の事実である。そんな彼が、週刊誌に自らの出自について少し書かれたぐらいで怒るはずがない。怒るには怒るに足るだけの理由があったと見るのが正しい見方だろう。それが選挙戦略だと勘ぐるのは、少々、想像力が逞し過ぎるというものだ。

 今回の週刊朝日の記事には今までに発表された記事には無かったものが有ったのである。それは目には見えず、感性で嗅ぎ取るしかない“何か”である。その“何か”を一言で言うなら「差別意識」という言葉になる。
 今回の事件は「部落問題」と限定せずに、「差別問題」として考えれば、簡単に結論が出る問題だったというわけだ。最初に述べた「論点の認識ズレが生じ、オーバーシンキングになっている」というのはそういう意味である。

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「橋下氏憎けりゃ、一族まで憎い」人々の考察

2012102301 現在、巷では橋下 徹氏と週刊朝日(佐野眞一氏)の対立問題が話題となっており、マスコミでも、大々的に取り上げられている。このような展開になることを意図して記事が書かれたわけではないだろうが、事勿れ主義に徹してきたはずのマスメディアが随分と思い切ったことを仕出かしたものだ。
 無論、橋下氏にとっては迷惑この上ない話であって、自身の政治問題とは直接的にも間接的にも関係のない事柄で時間を割かれるのは堪ったものではないだろうし、その気苦労は察するに余りある。

 この数日間、この問題を論じている人々の意見を興味深く観察してきたが、「反橋下」を標榜する人々というのは、結局のところ、「橋下憎し」という感情だけが先行し、論理的な思考ができない人々なのだなということが改めて理解できたような気がした。彼らは普段から、「人権」やら「平和」やら「生命(いのち)」などと御大層な綺麗事を並べている割には、「差別」という認識については全く意に介さないらしい。いや、意に介さないと言うよりも、「橋下憎し」という感情が邪魔をして、論理的な思考力も理性的な判断力も麻痺していると言った方が正解かもしれない。
 常識的に考えれば、彼ら(人権論者達)こそ、橋下氏を擁護するべきだと思われるのだが、なぜか思想的な立ち位置が全く逆さまになっており、「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」を見事に演じてしまっている。

 当の週刊朝日の記事は私も全て目を通してみたが、客観的な視点で見れば、どう考えてもまともな内容の記事とは思えなかった。「ハシシタ」という表題からして常軌を逸しており、こんな差別意識丸出しの記事を出版して問題にならないと思う方がどうかしていると言える。
 この週刊朝日の記事も結局のところ、「橋下憎し」という思いが先に有り、批判のための批判記事にしかなっておらず、正直、読んでいてあまり気分の良いものではなかった。橋下氏のイメージダウンを狙った記事であることは一目瞭然であり、そこかしこにあからさまな印象操作の跡が観て取れる記事だった。字面を目で追っているだけの人では分からないかもしれないが…。

 『言論の自由』とは、『書きたい放題の自由』のことではないので、このような記事を発表した週刊朝日側は公器の報道機関(?)としての責任を自覚し猛省する必要があると思う。
 
 当の記事を書いたとされる佐野眞一氏は有名なノン・フィクション作家であるらしいが、私は彼の本は偶然にも読んだことがない。佐野氏はソフトバンクの孫 正義氏を題材にした『あんぽん−孫正義伝』という本も出しているが、聞いたところでは、その本も孫 正義本人よりも家族の方がメインで描かれているらしく、元々、血筋や一族などを重視する作家であるらしい。
 機会があれば読もうと思っていた本だが、幸か不幸か、もう読むこともなさそうだ。ちなみに、孫 正義氏のことを描いた本なら私も何冊か読んでいる。中でも『志高く 孫正義正伝』は読後感の爽やかな面白い本だったので、この場を借りてオススメしておきたい。

 それにしても、個人の本質を、血筋や遺伝等で本当に解明できると思っているのだとすれば、その貧困な発想自体が信じられない…と言うより、その発想自体が差別を生むということを知る必要があるだろう。個人の本質を、そのようなもので判断しようとするのは、人間を単なる“動物”か“モノ”としてしか見ていないという証左でもある。
 個人の自助努力や精神性を正当に認めようとしない左翼御用達の朝日らしい記事だと言えるのかもしれないが、人間をモノとしてしか見れない人の文章というのは、如何なる綺麗事が書き並べられていても何も心に響かず、なんの説得力も感じることができない。なぜなら、それは空虚な偽善でしかないからだ。

 元々、人間の本質が見えない人間が、人間を評しても、同じタイプの人間からしか賛同を得ることはできない。「同類相通じる」というやつで、同じく人間を“モノ”としてしか見ていない人間からしか評価されることはない。つまり、差別論者の言うことに共感を覚えるのは、同じく差別論者でしかないということである。おそらく、今回の週刊朝日の記事にも同じことが言えるのだろうと思う。

 橋下氏に不満があるのであれば、日本維新の会の政策内容や、彼の今までの言動にのみ焦点を絞って批判するべきである。経済問題や外交問題を題材にすれば、いくらでも正当な批判をすることは可能だと思われるが、それができないがために、なんの関係もない出自やら家族を持ち出し、感情的で卑怯な批判を行うことになるのだろう。

 一般的に自由主義論者というものは、公平を望むものなので、差別を嫌う傾向にある。これに対し、反自由主義論者というのは、公平であることを願わず、平等というものを望む傾向にある。
 しかし、平等こそは、不公平の同義語であり、差別を生む思想であることを知る必要がある。
 反自由主義論者達は、人間の存在自体を偶然論でしか見ることができないがために、個人の生まれつきの才能や努力して勝ち取った名声や富を否定し、心の内に嫉妬の炎を燃やし成功者を妬むことになる。
 今回の事件は、そのことを如実に証明する格好のケーススタディになってしまったように思える。感情論でしか橋下氏を批判できない一部の「反橋下」派に、反自由主義論者が多いのは偶然ではなさそうだ。

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暴行事件とオスプレイ問題を結び付けようとする人々

2012101801 未だにオスプレイの賛否問題で揺れている沖縄で、米海軍兵(沖縄常駐兵ではない)の青年2人が日本人女性に性的暴行を働いたということで逮捕された。
 非常に痛ましい事件ながら、この時期に、このての事件が起こるというのは、なんとも不運と言うか、間が悪いと言うべきか、いろいろと考えさせられるものがある。
 この偶発的な事件によって、沖縄ではオスプレイ批判がこれまで以上にヒートアップしているらしいが、はたしてこの2つ(暴行事件とオスプレイ問題)を同一線上で考えてよいものなのだろうか?

 まず初めにお断りしておくと、暴行を働いた米海軍兵2名は厳罰に処すべきであることは言うまでもない。しかし、毎度のことながら、個人が起こした事件を、米軍、延いては米国批判に強引に結び付け、意図的に反米感情を煽ろうとしているかに見えるマスコミの報道姿勢には疑問を感じざるを得ない。
 昨日の朝のテレビ番組でも、「(米軍批判の)うねりを起こそう」などと述べている司会者がいたが、これもちょっと飛躍し過ぎであり、少々、被害者意識(注1)が過ぎるのではないかと思う。
(注1:この場合の「被害者意識」とは、日本が米国に隷属しているかのような意識のことであり、事件に遭遇した女性の意識のことではない)

 例えば、ある警察署に在籍する2人の警官が痴漢を行ったとか、酔っぱらって女性に抱きつき暴行事件を犯したような場合、その警察署にいる他の警官に罪が有るのか?というと、有るわけがない。あくまでも事件を起こした2人の警官の個人的な資質の問題だと考えるべきである。
 「警官の管理指導がなっていない」というような意見もあるかもしれないが、警官もロボットではないのだから、どれだけ管理指導しようとも、罪を犯す(悪さをする)人間はある一定の割合で出てきてしまう。如何なる健全な組織であろうと、そこに所属する個々人の行動や感情を完璧に管理統制(コントロール)することなどはできない。そんなことが本気でできると思っているのであれば、それはただの妄想である。

 そもそも、いじめの発生すら管理できない学校という(健全なはずの)組織をつぶさに観察し報道してきたマスコミであるならば、それぐらいのことは理解しているはずだ。
 感情のみが暴走した人々を対象とした“感情論ビジネス”と割り切って報道を行っているだけなのかもしれないが、中国との外交問題を抱えたこの時期にヘタな報道(注2)を行うことは控えた方が無難だと思う。
(注2:被害者である女性を軽視するという意味ではない)

 実際、日本でも警察官が痴漢を行ったとか、盗撮を行ったというニュースはよく耳にする。社会的責任の高い警官でさえもそうなのだから、米兵もこの例外ではないというだけの話である。真に責めるべきは罪を犯した人間であって、その罪を犯した人間が所属している組織でもなければ、国でもない。
 所属組織にも全く責任が無いとは言えないが、“管理できなかったこと”と“実際に罪を犯したこと”を比較すれば、どちらが悪いかは明白だ。

 念のためにもう1度言うと、私は米軍を持ち上げるつもりはないし、事件を起こした米兵を擁護するつもりもさらさらない。

 結論を述べる前に、人間の罪について少し考えてみよう。

 痴漢は悪いことか? イエス。
 暴行は悪いことか? もちろんイエス。
 窃盗は? いじめは? これらも、もちろんイエスだ。
 では、これらは絶対的に無くすことは可能か? 不可能である。
 なぜか? 人間が間違いを犯す業の深い不完全な生き物であるからだ。

 組織が個人を管理・教育することで、そういった間違いを犯すことを減少させることは可能かもしれないが、物事の善悪を教えるのは組織というより親の方であり、善悪を判断するのは自分自身である。その自分自身の判断で罪を犯した場合、責められるべきは、組織ではなく、その人物に善悪を教えた人間か、あるいは善悪を判断し行動に移した本人自身である。細かく言えば、子供の場合は「親」の責任であり、大人の場合は「本人」の責任だ。
 こんなことはわざわざ述べるまでもなく、今時の小中学生でさえ理解していることだと思われるが、なぜか現代の日本のマスコミの論調では、以下のようになってしまっている。

 米兵が罪を犯した → 米軍が悪い → 米国が悪い

 もし、この理屈が正しいのであれば、

 警官が罪を犯した → 警察が悪い → 日本が悪い

ということになってしまうが、はたしてこれが正しい認識だと言えるだろうか?

 もし、あなたが、上記の思考チャートを見て正しいと思うのであれば、一度、自分自身の認識力を疑ってみた方がよいかもしれない。況して、この問題をオスプレイ問題と強引に結び付けようとするのは、こじつけも甚だしいと言える。暴行事件というマイナスイメージを利用してオスプレイ問題を着飾ろうなどという考えは、被害に遭った女性に対しても失礼だと思われる。

 本来の正しい思考チャートは以下のように実に単純だ。

 米兵が罪を犯した → 米兵が悪い → オスプレイは無関係

【結論】暴行事件とオスプレイ問題は別の問題として考えるべきである。それが良識ある大人の対応というものだ。

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BOOK『日本興国論』を読んで。【微量の放射線は万能の良薬】

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 先週、久しぶりに書店に足を運んで話題書のコーナーを物色し、『日本興国論』というタイトルの本を購入した。他にも数冊、パラパラッと立ち読みしてみたが、本書購入の決め手は、目次に「小林よしのり氏はレッドカードだ」という言葉を見つけたからだった。

 本書の著者である渡部昇一氏はかつて(10年程前)、小林よしのり氏との共著『愛国対論』を出したこともあり、当時は「新旧保守論客」と呼ばれていた。しかし、本書で渡部氏は小林氏を「左翼に本卦帰りした」と手厳しく一刀両断されている。

 私も2つ前の記事で偶然にも脱原発を訴える「左翼」についての定義を書いた(小林よしのり氏個人のことを書いたわけではない)が、どうやら私の考えていたことは渡部氏と同じだったようだ。

 私も以前(5年前)、「ブックオフは文化の破壊者だ!」と言っていた小林よしのり氏へのマイナーな反論記事『ブックオフは文化の破壊者か?』を書いたことがある。その後(3年前)、関連記事を書いた時に、「小林よしのり氏の話を書く」と書いたきりになっていたので、この機会に少し述べておきたいと思う。

 実は私も7年程前までは小林よしのり氏のファンだった。『沖縄論』あたりまでは、ほぼ全て購入して読んでいたが、それ以来、一切読まなくなった。理由は、もちろんファンでなくなったからなのだが、もっと具体的に言えば、小林氏の本質が社会主義者であることが見えてしまったからだった。(あくまでも個人的な見解)

 かつての小林氏の『ゴーマニズム宣言』は、「オウム」などの絶対悪を対象にした批判漫画だったので、読んでいても痛快で面白く興味深く読むことができた。しかし、行き過ぎた反米批判や、小泉批判などを読んでいるうちに少々嫌気が差してきた。その後のホリエモン批判などは、ただの嫉妬としか思えなかった。極め付けはハイエク批判で、その思い込みに満ちた的はずれな批判に呆れてしまい、それ以来、全く読まなくなってしまった。

 逆に渡部氏の場合は、生前のハイエクの通訳も務め、『ハイエク』という本も出しており、ハイエクを高く評価されている。「新旧保守論客」がハイエク論でも意見が真っ二つに分かれているというのだから実に不思議だ。と言うより、やはり、両者は思想的に違っていると見るのが正しいのではないかと思う。

 その証拠になるかどうかは分からないが、小林氏は以前、著書の中で自ら「なぜか結論が左翼と同じになってしまった」というようなことを述懐していたことがある。保守を自称している(世間では右翼と思われている)論者の結論が、なぜ左翼と同じになるのか? その疑問の答えはおそらく、“右の社会主義者”が“左の社会主義者”を批判しているという図式だったのだろうと思う。

 そういう訳(7年間、小林氏の本は読んでいない)だから当然、最近発売されたという『脱原発論』も読んでいないのだが、渡部氏は小林氏の「放射線論」についても、「馬鹿も休み休み言え」と厳しく指弾されている。

 渡部氏は放射線における「ホルミシス説」を支持し、小林氏は「LNT説」を支持している。

 簡単に言うと、ホルミシス説とは、「放射線は絶対悪ではなく、微量であれば人体に良い」とする説で、LNT説とは、「放射線は絶対悪であり、どんなに微量でも人体に有害」とする説である。

 渡部氏は「ホルミシス説」を説明する上で、その誤解の本質を以下のように分かり易く述べている。

「塩分を摂りすぎれば高血圧になる危険性が増す。醤油をがぶ飲みすれば命を落とす。だが、塩をまったく摂らなければ健康を損なう。日光が不足するとくる病などになる。日光浴は健康に欠かせない。だが、日光浴がいいからといって、サハラ砂漠の真ん中で長時間太陽にさらされたらどういうことになるのか。 量が問題なのである。」

 放射線の専門家ではなくても、こう言われると、なるほどなと納得してしまう。

 私なりに追加させてもらうと、アルコールにも同じことが言えると思う。昔から「酒は万能の良薬」と言われるが、少量のアルコールは人体にとっても、精神にとっても、良薬と成り得る。毎晩、浴びるようにお酒を飲んでいれば、そのうち病気になってしまうこと請け合いだが、たまに適度のアルコールを摂取することは健康にも良いことである。

 「酒は万能の良薬」では言葉足らずであるがゆえに誤解を招いてしまう。正確に言えば「少量の酒は万能の良薬」で、「大量の酒は無能の毒薬」となる。

 同じように「微量の放射線は万能の良薬」…などと書くとまた批判されそうだが、もしかするとそれが事実かもしれないと思った人、否、むしろ、そう思わなかった頭の固い人にこそ、本書を一読することをオススメしたい。

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『日本維新の会』の支持率低下と“外交オンチ”

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 ここに至って、『日本維新の会』の支持率が民主党と同水準まで急落しているらしく、これまで橋下氏の支持者だった人々の心境にも少しばかり変化の兆しが見られるようだ。

 橋下氏の人気の秘密は、これまで誰にも出来なかった「官僚主導型政治を国民主導型政治に変えてくれるかもしれない」という淡い期待感だった。

 少し前までは、橋下氏が言うところの「道州制(地方分権政治)」が日本を変える起爆剤になるという見方をしている識者も数多くいたが、どうやら少し雲行きが変わってきつつあるようだ。

 無駄の多い日本の官僚社会主義システムを改革することが必要であることには変わりはないのだが、運が悪いと言うべきか、間が悪いと言うべきか、目の前に“中国の脅威”というものが台頭してきたため、国民の関心事スイッチは「国内政治」から「外交問題」に切り替わってしまったようである。

 国内の「合理化」と「安全性」を秤に掛けると、必然的に世論は後者に傾くことになる。なぜなら、「安全性」あってこその「合理化」であるからである。言わば、大【中国】に小【官僚】が呑み込まれた格好だ。

 国内の「合理化」をいくら推し進めたところで、その国自体が他国に乗っ取られてしまえば元も子もなくなってしまう。『道州制』にして日本を元気にするどころか、中国に占領されて『○○省制』になってしまっては元も子もないというわけだ。

 ここで、「安全性」ということなら、原発問題もそうだろうと思った人がいるかもしれないが、それは全く違う。

 最近、「このままいくと、日本と中国は戦争になる」というような意見をよく耳にするが、国際問題アナリストの藤井厳喜氏の書籍【NHK捏造事件と無制限戦争の時代】によると、日本と中国は既に戦争状態にあるらしく、もうずいぶん前から日本は中国による情報戦争の渦中に巻き込まれているというのが真相であるらしい。

 そういったリアリスティックな視点で現状の政治を見つめれば、外交政策に乏しいかに見える『日本維新の会』では、少々心許無いというのが実際のところなのだろうと思う。竹島や尖閣問題までをも大衆迎合のポピュリズム政治に利用しようなどという軽いノリが見透かされてしまったことが、同党の支持率が急落した原因になってしまったと言えるのかもしれない。

 大飯原発の再稼働を認めた時点では、橋下氏も大衆迎合を捨てたのかと少し期待したものの、その後はどっちつかずの姿勢を取っており、どちらかと言えば、脱原発派に傾倒しているようにも感じられる。

 マスコミの世論調査では、原発推進派よりも原発反対派の方が多いということになっている。正直、それが本当の世論の姿だとは思えないが、民主主義が多数決の原理を採用している限り、大抵の政治家は大衆に迎合せざるを得ない。しかし将来、その政治家の選択が誤った判断であったことが判明した場合、その政治家の信用は一気にガタ落ちすることになり、歴史に汚名を残すことになる。

 民主党の野田総理が消費税の増税政策によって歴史に汚名を残すことになるだろうことは以前にも述べたが、橋下氏もこのままポピュリズム路線を選択し続けると、せっかくこれまで築いてきた改革者としての「美名」を失ってしまう可能性があるように思える。

 外交問題を考える上で重要なことは日本のエネルギー問題である。原油資源の無い日本では、原油の代わりに原発がエネルギー政策の根幹を為してきたわけだが、1度の地震(と言うより津波による人災事故)で、原発から完全撤退するというような安易な選択をしてしまうと、明確な代替エネルギーが無い現在の状況では、化石燃料に依存せざるを得なくなる。これは何を意味するのかと言うと、「国の命運を他国に依存してしまうことになる」ということである。

 原発をどうするのかという選択は国内だけの問題ではなく、エネルギーを自国で賄うのか、それとも他国に依存するのかという単純でありながらも非常に重要な選択なのである。

 この場合、後者(他国に依存)を選択すれば、その依存国(または依存国の関係国)の外交問題如何によっては、日本にエネルギー(原油)そのものが入ってこなくなる危険性が有るということである。自国でエネルギーを賄えなくなった国が、他国からのエネルギーまで遮断されるとどうなるか? 当然、日本経済は崩壊の危機に晒されることになる。

 もし本当にそんな事態になると、もはや社会保障などとは言っていられなくなる。年金制度も保険制度も全て名実ともに崩壊することになり、自殺者は3万人どころではなくなってしまい、ある意味でどのような大地震の犠牲者よりも多くの被害者(人災による被害者)を生んでしまうことになる。

 そしてその「エネルギーの窮乏」という名の危機が、皮肉にも戦争の引き金になってしまう可能性がある。そんな悲惨な状況下では「脱原発」と叫ぶような人は誰一人いなくなるだろう。その時になって「脱原発」という耳障りの良い甘い言葉が奈落への扉を開く呪文であったことに気付いても手遅れだ。

 エネルギー政策が、そういった危機と隣り合わせにあるということを少なからず理解している政治家であれば、「脱原発」などというような言葉はおいそれとは言えないし、領土問題をポピュリズム政治に利用しようなどとは思わないはずである。この辺の慎重さに欠けた言動をとることは政治家としては御法度であり、ヘタをすると政治家としての致命傷を負うことに繋がる。

 与党・野党を問わず、「脱原発」などと宣っているような政治家は「ポピュリスト」か「外交オンチ」、またはその両方を満たしていると思って間違いない。

 『日本維新の会』の支持率の低下が示すものは、残念ながら『日本維新の会』自体が“外交オンチ”というレッテルを貼られてしまったと見るのが妥当なところだと思う。

 できれば、改革者としての橋下氏の批判はあまりしたくなかったのだが、正直に思うところを書かせていただいた。悪しからず。

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