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「ハシモト」記事(仮定)で読み解く「ハシシタ」記事の真実

2012102801 週刊朝日の「ハシシタ」記事問題は結局、結論が出ないまま有耶無耶な形で収束しそうな雲行きとなり、当の週刊朝日の編集長は人事異動(社長付)となったらしい。
 『被差別部落問題』と『言論の自由』、この両問題は今後も様々な場所で議論されて然るべき課題だと思われるが、今回の事件に限って言うなら、少し論点の認識ズレも生じており、オーバーシンキング(考え過ぎ)になっていた感もあるので、この辺で幕引きするのが妥当だったのかもしれない。その理由を以下に述べてみたいと思う。

 まず、今回の問題で週刊朝日側は建前上、「被差別部落地域を記載したこと」を1番の理由として謝罪している。しかし、そういった記述をした記事はこれまでにもいくつか存在したので、週刊朝日の記事だけが糾弾されるのはおかしいと述べている人もいた。また、以前に発表された記事では批判しなかったのに、今回の記事だけ批判するのは不自然(選挙戦略)だという穿った見解を示している人もいた。

 これに対し、橋下氏擁護側は、以前に書かれた記事は、出自の事実を書いただけであり、今回の記事は、単なる出自だけでなく部落差別を前提に書かれているのが問題なのだと述べている。

 これはどちらが正しいのか? 個人的には後者の方が正しいと思うが、それだけでは納得できないと言う人もいるだろうから、ここでは少し違った視点で考えてみよう。

 例えば、橋下氏が“被差別部落出身ではない”という仮定で、今回の記事が書かれていたとすればどうだろう? 父親が元暴力団員で自殺したというような事実のみを固定して、「ハシモト 奴の本性」という記事が書かれていたと仮定した場合、橋下氏は、その記事に対して批判を行ったかどうかを考えてみれば、この問題の本質に少しは近付けるのではないかと思う。

 さて、その場合、橋下氏はどうしただろうか? 私が思うに、おそらく橋下氏は同じように批判を行っただろうと思う。なぜか? それが「差別」記事だからである。
 「えっ?」と疑問に思った人がいるかもしれないが、今回の週刊朝日の記事の最も重要なポイントは、実は同和問題の有無にあるのではなく、同和問題というのものを省いて考えたとしても「差別」というものが残ることが問題なのである。

 ここで「差別」という言葉の定義について考えてみよう。
 例えば、足の速い人と足の遅い人がいたとしよう。その場合、足の速い人と足の遅い人を比べて優劣を付けるのは差別になるか?というと、差別とまでは言えないだろう。なぜなら、足の遅い人でも努力すれば足を速くすることはできるからだ。無論、生まれつき身体に障害があって、努力しても足が速くならないということであれば話は別だ。
 あるいは、仕事ができる人と仕事ができない人を比べて優劣を付けるのは差別になるか?というと、これも基本的には上記と同じ理屈が成り立つだろう。

 要するに「差別」とは、個人の努力では変えることができないことに対して優劣を付ける行為(または思い)のことなのだ。
 人間は個人の努力によって自らの運命を変えることはできるが、残念ながら背負った宿命までは変えることができない。その持って生まれた宿命を持ち出して人を判断することが「差別」なのである。

 そう考えれば、週刊朝日の記事が「差別」記事であることは疑いの余地がない。「部落差別」と限定して考えれば、是非論が出てくる余地があるが、単なる「差別」として考えれば、論ずるまでもなく「差別」記事に該当する。
 個人の努力で一族の過去の行いまで是正することはできない。その「一族」を持ち出し、血が繋がっているという理由のみで人を判断しようと目論む行為自体が「差別」以外の何ものでもないからである。

 100歩譲って、その行為が心理学で言うところの「プロファイリング」に該当したとしても、その推察に同和問題を絡めて公の雑誌で推論記事を大々的に発表するなどという行為は、常識的に考えて許されるはずがなく、世間一般の人々にも受け入れられるはずがない。(端から「独裁者」と決め付けた上でのプロファイリングなど有り得ないが)

 「人権」を売りにしてきた公の報道機関が差別記事を書けばどうなるか? 当然、クレームが入ることになる。つまり彼ら(週刊朝日側)は、自らの社是に反した商品(週刊朝日)を製造・販売してしまったことになるわけだ。単に部落地区を記載したことが問題なのではなく、出版社自らの存在価値を揺るがしかねない不良商品を検品した上で(←ここが重要)販売してしまったことが問題なのである。

 そもそも論として、橋下氏は大阪府知事選の時から、演説を通して自らの出自について言及していたことは周知の事実である。そんな彼が、週刊誌に自らの出自について少し書かれたぐらいで怒るはずがない。怒るには怒るに足るだけの理由があったと見るのが正しい見方だろう。それが選挙戦略だと勘ぐるのは、少々、想像力が逞し過ぎるというものだ。

 今回の週刊朝日の記事には今までに発表された記事には無かったものが有ったのである。それは目には見えず、感性で嗅ぎ取るしかない“何か”である。その“何か”を一言で言うなら「差別意識」という言葉になる。
 今回の事件は「部落問題」と限定せずに、「差別問題」として考えれば、簡単に結論が出る問題だったというわけだ。最初に述べた「論点の認識ズレが生じ、オーバーシンキングになっている」というのはそういう意味である。

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