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2012年11月

『6億円宝くじ』にみる不可思議な現象

2012113001 1等賞金4億円(前後賞合わせて6億円)という史上最高額(10年前の10倍)の『年末ジャンボ宝くじ』が11月26日に全国一斉発売されたが、「6億円」という金額が影響しているのか、例年よりも多くの人々が宝くじ売り場に足を運んでいるらしい。

 日頃、1円でも安い商品を買うことを生業にしている生っ粋のデフレ人間のような人であっても、宝くじだけは別物であるようで、胴元(国)のテラ銭が5割という割の合わないギャンブル(=割に合わない買い物)であっても、多少の出費は気にせずに購入してしまうという人は多いようだ。
 当選金額が昨年の2倍になっても、テラ銭(胴元の取り分)率が変化するわけではないので、単に当選者数が半分になったというだけの話なのだが、「6億円」という大金は、人々から合理的な思考そのものを奪うほどのインパクトがあるということなのだろう。

 「宝くじ1等に当選する確率は交通事故で死亡する確率よりも低い」と言われることがある。この「交通事故」というのは自動車事故ではなく、実は飛行機事故のことであるらしいが、今回のように当選賞金は上がっても当選人数が減ってしまえば、さらに確率は低くなってしまう。
 テラ銭を削って賞金を上げるというならまだしも、高額な当選賞金に反比例して当選確率は大幅に低くなっているにも拘らず、人々の行動は変わらないどころか、逆に勢いを増している。よく考えるとこれは実に不可思議な現象だと言える。

 よく「サラリーマンの生涯年収は2億円」とも言われるが、2億円もあれば毎年500万円の生活費が必要な人であっても40年間暮らすことができる。300万円なら60年間、200万円なら100年間暮らすことができる。
 これが、6億円ともなると、毎年1000万円で60年間という計算になる。
(注意:全て税金は考えないものとする)

 普通の暮らしで満足できる人であれば、6億円もの大金は必要無いわけで、2億円でも充分な気がする。6億円で68人当選するぐらいなら、2億円で204人当選した方が有り難いのではないかとさえ思える。

 (A)6億円が68人に当選

 (B)2億円が204人に当選

 一般庶民にとって、上記の2つはどちらが魅力的な宝くじだと言えるだろうか?
 私なら迷うことなく(B)を選択すると思うが、どうやらそう思わない人が多いらしい。

 通常、2億円もあればお金に困ることはないので、当選する確率が高い方を選択した方が合理的なはずだ。しかし、多くの人々は「6億円」という金額に目(心)を奪われて理性を失ってしまい、まるで、当選金額が上がることが得であるかのような錯覚に陥っているかに見える。

 中には、「100万円分の宝くじを買う」という人もチラホラといるそうだが、ある意味、恐れ入ってしまう。
 1枚300円の宝くじを100万円分買ったとしても、3333枚しか買えない。8ケタの宝くじで1等が当たる確率は1000万分の1なので、10000000を3333で割ると、約3000ということになる。つまり、100万円分の宝くじを購入して1等に当選する確率は3000分の1ということになる。
 ということは逆に考えると、3000分の2999の確率で90万円近くをドブに捨てることになるわけだ。まさに万馬券狙いのギャンブルだとも言えるが、そんな大それた行動が取れるということは、きっと余剰資金を多く抱えた資産家達なのだろう。

 一般的な庶民であれば、100万円も出して宝くじを購入するぐらいなら、100万円分の株式を購入した方が、はるかに合理的であり無難な選択ではないかと思う。100万円分の株式を購入して90万円をドブに捨てることになる確率の方がはるかに低い。
 今なら、PBR(株価純資産倍率)がを大幅に下回っている割安株がいくらでもあるので、優良銘柄に投資すれば、高い確率で利益を得ることができる。6億円も儲けることは無理な話だが、6万円ならプラスにできる可能性は充分に有る。ほぼ不可能に近い6億円と、手の届く範囲にある6万円、あなたなら、どちらを選択するだろうか? 私なら迷わずに後者を選択する。90万円もドブに捨てる覚悟が有る人なら、きっと株式を買うことなど造作もないことだろう。

 しかし、そうは言っても、多くの国民は自国の株式などには全く目もくれず、テラ銭50%というハイリスクギャンブルに心を奪われてしまう。
 この不可思議な現象から我々が学ぶべきことは、たとえ微かな可能性であっても、その先に圧倒的に巨大な『』が存在すれば、人々はデフレ思考を乗り越えて、お金を使うようになるということである。全ての国民が合理的な行動しかできないようなら面白くない。時には不合理な行動ができる人々がいるからこそ、経済も回っていくのだろうと思う。

 この国の未来に「希望」という名の『夢』が微かにでも有ることを国民に感じさせることができれば、日本の20年を超えるデプレ(デフレではない)も解消される可能性が有るかもしれない。ふと、そんな希望(幻想)を抱いてしまいたくなるほどに不可思議な現象を我々は現在、目の当たりにしているのかもしれない。

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『家電のショールーム』よりも『データの管理金庫』

2012112101 ソニー、パナソニック、シャープと、日本を代表する大手家電メーカーが大赤字経営に陥っているせいもあってか、家電量販店の年間売上も軒並みダウン傾向にあるらしい。
 最近はアマゾンの電子書籍リーダー、キンドルが発売されたものの、一部の大手家電量販店では販売そのものが見送られたということも話題になっていた。一応は家電製品であっても、その商品が売れることによって自社の経営に痛手を被る可能性のあるものについては販売するわけにはいかないということらしいのだが、それなら楽天のコボでも同じだと思えるのだが、なぜかコボの方は取り扱われている。

 リアルな巨大空間を抱えた店舗が、仮想空間しか持たないオンライン店舗に圧されており、この流れを食い止めるためにはどうすればいいのか?という話題も事欠かない。最近よく聞かれるのが、家電量販店の“ショールーム化”というもので、消費者は現物商品のみを家電量販店で確認し、実際の購入はネット通販で行うというものだが、これも少々、現実味のない話ではある。

 実際、家電量販店を無料のショールームとして利用しているネットユーザーは多いと思われるが、本当に広大な敷地を利用して家電のショールームなどを作ったとしても、おそらくはペイできないと思う。人通りの多い小さな敷地で管理人員が1人というようなショールームであれば運営可能かもしれないが、販売を行わないショールームのみでは到底採算が合わないだろう。

 「販売も行えばいいのでは?」と思った人がいるかもしれないが、そうなると、本当に購入目的で来店した人は、ショールーム利用料金まで支払わなければならないということになってしまう。
 「商品を購入した人は無料にすればいいのでは?」と思った人もいるかもしれないが、その場合も、目的の商品が無かった場合はどうするのか?という問題が生じる。端から購入する気が無いのに“目当ての商品が無い”という理由で、まんまと無料でショールームを利用するという不届き者が出てくることは間違いない。そういった不正を許す隙間を与えるようなビジネスモデルでは無理がある。隙間だらけの市場でニッチなサービスというのは、洒落にはなっても商売にはならない。

 ショールーム化のようなビジネスモデルが成り立つには、国民のほぼ全員がネットで買い物ができるという時代的条件が必要になってくるが、現在のところ、幸か不幸か、まだそういった前提条件が成立していないと思われるので時期尚早の感は否めない。

 車や宝石といった高価な商品のショールームビジネスであれば、それなりに閲覧料金も請求できるかもしれないが、家電製品を見ることにお金を支払うという感覚は通常では考えられない。
 例えば、ある電化製品がリアル店では10万円、ネット店では8万円で売られていた場合、商品見学料金として1万円支払おうなどという人はいないと思う。5千円でも3千円でも無理だろう。せいぜい千円が関の山だと思う。そもそも、お金を支払うぐらいなら、カタログだけを見て選ぶという人がほとんどだろうから、利益が出せる商売にはならないと考えた方が正解だと思う。

 では、家電量販店はネットの仮想量販店にどう対抗していけばいいのか?
 これに対する答えでよく聞かれるのが、「家電量販店の百貨店化(またはコンビニ化)」というもので、広大な敷地を活かして家電以外の商品も販売すれば集客効果は望めるのではないかという意見が多いようだ。
 しかし、これは既に多くの家電量販店で行われていることであり、医薬品や日用品、カー用品、書籍など様々な商品が既に販売されている。しかしながら、売れ筋商品のみに焦点を絞らざるを得ないので、どうしても“狭く・浅く”という感じの商品陳列に成りがちであり、大幅な集客効果は望めそうにない。

 将来的に安定的な集客を見込むためには、基本的に、ネットでは売れない商品を開発していくしかないのではないかと思う。最近では、家電量販店最大手のヤマダ電機がエス・バイ・エルを子会社化したことが記憶に新しいところで、太陽光発電や省エネ家電などのセット販売などが行われている。確かに住宅ともなると、さすがにネットショップでは販売できないので、その発想は良いのではないかと思う。ただ、住宅と家電をセット販売するだけでは、勿体無いような気がする。どうせなら、家電住宅ならぬコンピューター住宅でも開発すればどうかと思う。

 例えば、現代では個人がパソコンを所有することが当たり前になり、一家に何台もパソコンが置いてある風景を見ることも珍しくなくなったが、パソコンをヘビーに使用している人なら誰もが1度はこう思ったことがあると思う。

 「このパソコン(またはデータ)が盗まれたらどうしよう

 私自身、そう思ったことは何度もある。個人的にはデータのバックアップは定期的に取得しているが、それでもバックアップファイルごと盗まれたらどうしようと思うことがある。火事や震災などでもデータが失われる場合があるかもしれない。
 自宅以外のどこかにデータを保管したいという需要もあるので、オンライン・ストレージ・サービスも流行り(私も個人的に契約している)だが、これとて、そのサーバーを管理している会社のミスでデータが失われてしまう可能性がある。(実際、少し前にヤフーの子会社「ファーストサーバ」でも発生した)
 それに、いくらプロのデータ管理会社とはいえ、自分自身の重要な情報(個人情報やパスワードなど)まで外部に保存しておくというのは恐いものがある。一時、クラウドで世界中の人々がデータを共有するというようなことが騒がれたが、まさか個人情報までクラウド化されることは有り得ない。知らない間にハッカーに丸ごとデータを盗まれるというようなことも可能性としては有り得る話なので、やはり、本当に重要なデータは自宅の安全な所に保管しておきたいと思うのが人情だと思う。そんなことを考えているパソコンユーザーは案外多いのではないかと思う。

 そこで登場するのが、住宅据え付け型の『データ管理金庫』だ。パソコンのハードディスクは、パソコン本体ではなく、住宅に設置されたデータ金庫のようなもので管理するというイメージだ。全ての部屋からケーブル回線によって接続可能で、堅牢にガードされたデータ管理金庫のようなものを作ればいい。火事でも燃えず、盗まれる心配もないバックアップ機能付きのデータ管理金庫を家の床にでも埋め込めば立派なパソコン住宅の出来上がりだ。
 もちろん、日進月歩の激しい業界だから、セットでメンテナンス契約や交換修理なども行えば継続的な需要が見込める。さすがのネット業者も保守メンテナンスまでは対応できないので、そこは家電量販店の信用の見せ所だろう。

 銀行にお金を預けた場合、そのお金が盗まれても、同じ金額のお金を銀行が保証してくれれば特に問題は無いが、データとなると話は別で、盗まれた場合、その保証ができない。
 デジタルデータは際限無くコピーが可能なので、価値が無いと思われがちだが、唯一無二のデータは、お金では買えない絶対的な価値を有している。たとえ、100万円積まれても、1億円積まれても、1つしかないデータは買う(取り戻す)ことができない。この単純にして冷厳な事実を理解すれば、データを安全に保管するという設備には、多少のお金をかけても構わないという人々は増加することはあっても減少することはないと思う。つまり、そこには、潜在的な大きな需要が隠れている可能性が有るということでもある。

 現金や貯金通帳という資産を堂々と机の上に置いたまま旅行に出かけるような人はいないが、データという資産の場合は未だそうはなっておらず、堂々と机の上(パソコン)に置いたまま出かける人が多い。しかし、パソコンでデータを作るような仕事をしている人の場合は、これがいかに危険な行為であるかが理解して頂けるのではないかと思う。仕事をしていなくても、趣味のデータや個人情報が入ったデータが突然、目の前から消えてしまうことの恐ろしさは解って頂けるのではないかと思う。どちらにしても、データというものが貴重な資産であることに疑いを入れる余地はないだろう。

 情報漏洩や悪質なハッカーの存在が問題となっている昨今、「もし、このパソコン(と共にデータ)が盗まれたらどうしよう」と考えている人は多いと思う。データを自宅で管理する『情報金庫』の潜在需要は決して少なくないはずだし、将来的には実際に商売として成り立つかもしれない。

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経済音痴政党の「野党下野宣言」

2012111801 11月14日、自民党の安倍総裁との党首討論の場において、民主党の野田総理が「衆院解散」発言を行った。この突然の出来事により、政界だけでなく日本国中に激震が走った。しかし、それは悪い意味での地震ではなく、多くの国民が待ち望んでいた心地良い震動でもあった。

 その心地良い震動(マッサージ)によって日本経済の肩凝りが治る兆しが見えたのか、翌日からの日経平均株価は上昇に転じ、あれよあれよという間に9000円台を回復した。
 よく「株式相場は実体経済の半年先を行く」と言われるが、おそらくは事実上、半年後には民主党は野党になっていることを見越してのことだろう。如何なる政党(左翼政党は除く)が次の政権の座に着いたとしても、民主党ほど酷い政治にはならないだろうとの予測が立ったためだろう。経済音痴政党の党首自らの表舞台からの「退場宣言」を、市場は素直に好感したというわけだ。

 通常、誤解される政治家には2種類のタイプが存在する。1つは、正論を述べているのに、国民がそのことを理解できずに誤解(嫌悪)されるタイプ、そして、もう1つが、自らが間違ったことを述べているのに、そのことを国民が理解できずに誤解(支持)されるタイプ。
 では、野田総理は、このどちらに該当するのかというと、どちらにも該当しない。強いて言えば、後者に分類されるという感じだろうか。

 日本の景気を良くするためには、先ず、国民の消費意欲と投資意欲を喚起しなければならない。ところが、民主党の野田総理は、消費税を上げ、国民から富を奪うことによって景気を回復させようとした。これは言い換えると、国民の消費意欲を減退させる施策でしかなく、どう考えても景気が良くなることは有り得ない景気衰退政策である。
 消費税を上げなければならない理由を単純に考えれば、消費量が足りないからである。それならば、消費量を上げる方向に舵を切らなければならない。消費税を上げるのではなく、消費量を上げるような政策を採らなければいけないのである。「民主」を名乗るのであれば、次のように言うべきだった。

 「国民の皆さん、どうか消費量を上げてください。このまま消費が減退したままでは、消費税を上げなければならなくなりますので、どうか消費量を上げてください。そうすれば、消費税を上げる必要は無くなります。その場合、累進課税ならぬ累進消費でお願いします。お金持ちの人はどんどんお金を使ってください。そうすれば景気は必ず良くなります。」

 上記は冗談のように聞こえるかもしれないが、国民が今よりも何割か多くお金を使用すれば、日本の景気などは直ぐさま回復する。消費税も上げるどころか下げることも可能となる。しかし、多くの国民は消費するお金は持っていても、国や自分の将来が不安なために、財布の紐を固く縛り、極力、消費活動を行おうとしない。その影響から、企業は安値でモノを売ることばかり考え、必要以上の安値競争(薄利競争)に明け暮れることになる。そして、国民の集団心理を解さない無能な政治家の経済音痴政策が、国民のマイナス感情に更に火を注ぐことになり、出口の見えない悪循環スパイラルに陥っていくことになる。
(注意:ここで述べた「安値競争」とは、グローバル経済下における安値競争のことではなく、必ずしも必要性の無い安値競争のこと)

 もし、野田総理が「消費税を下げることに政治生命を賭ける」と言っていたのであれば、国民に誤解される政治家であったとしても、正しい政治家として支持できたかもしれない。しかしながら、実際のところはこの逆で、消費税を上げることに政治生命を賭けていたことは周知の通りだ。
 税率を上げて経済を動かそうという考えは、国民の意思を無視した経済政策であることを否定できる人はいないだろう。「民主」を名乗る政党の党首であれば、国民に選択の自由を与えた政策を採らなければならない。消費を拡大して消費税収を上げる政策を執り行うのが本来の姿であるはずだ。しかし、野田総理は、税収を上げるために税金を上げるという本末転倒な手段を選んだ。この時点で既に「民主」とは言えず、間違った政策を国民の意思を無視して断行しようとした暴君でしかない。
 国民の自由意思を無視した政策は、所詮、どこまでいっても社会主義政策であり、いずれは破綻することになる。「経済は感情で動く」という言葉の通り、国民感情を良い方向に動かすことができなければ、経済も良い方向に動くことはない

 21世紀の経済学とは、実は半分は「心理学」の領域であり、集団心理というものを捉えることができなければ、経済を語ることが無意味となる時代でもある。このことは大前研一氏の著書『心理経済学』でも触れられていたが、政治家にもそういった能力が求められる時代だということでもある。

 例えば、経済用語に「合成の誤謬」というものがある。「合成の誤謬」とは、「個人が善かれと思って行ったことが、全体としては悪になる」という皮肉な経済現象のことを意味するが、よく使われる例として、「個人が貯蓄することは善だが、国民全員が貯蓄に走ると経済に悪影響を及ぼす(結果的に収入が減少する)」というものがある。(現在の日本はこの状態にある)
 企業で言えば、景気の良い時に一部の仕事をサービスで請け負うようなことを行ってしまうと、いざ景気が悪くなった時に、そのサービス仕事のみが残ることになり、経営を圧迫するような事態に陥る場合もある。経済においては、善かれと思って行った行動が裏目に出ることは多々ある。倫理的に正しい行動だと思っていても、その行為が必ずしも良い結果に結びつくとは限らない。要するに、善意が裏切られる結果になることが多いということだ。

 また誤解を招くかもしれないが、もっと卑近な例で言うなら、「脱原発を願うことは個人の考えとしては善かもしれないが、国民全体(国)がその状態を目指すと、経済に悪影響を及ぼす(結果的に電気代が大幅に上がる&国家が衰退する)」ということになる。(現在の日本は実際にこうなる段階に差し掛かっている)
 この辺のところが経済という生き物の非常にややこしいところでもある。

 こういったマクロな経済現象を捉える視点を持たなければ、これからの政治家は時代に置いていかれることになるはずだ。現代という時代は、過去の統計やら経験則など、ほとんど何の役にも立たない無用の長物と化す時代でもある。そんな時代であるから当然、経済を計画的に動かそうなどということも不可能になる…と言うより、既に不可能になっている。消費税率を上げて消費税収を上げようなどという社会主義的な政策は、短期では成功したかに見える場合があったとしても長期的には成功するはずがないのである。

 大衆に靡(なび)くポピュリスト(政治屋)ではなく、人心を掌握した政治家が必要な時代には、経済音痴政党も無用の長物と化す運命にある。この度の経済音痴政党の「野党下野宣言」は日本経済にとっては、明らかなプラス現象であり、当然の成り行きだと言えるのかもしれない。

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脱原発論者には見えない“巨大なリスク”

2012110701 前回の記事で、エレベーター事故を基に原発のリスク問題について書いたところ、案の定、相当数の反論・批判を頂いた。その反論・批判内容もある意味、予想していた範疇のものだったので特に驚きもしなかったが、誤解されたまま、このまま素通りするのもどうかと思うので、追記として述べておきたいと思う。

 最も多かった反論は、「エレベーターと原発を同様に扱うのはナンセンスだ!」というものだったが、これは言われるまでもなく当たり前の話である。
 実際、そういう反論が返ってくるだろうことをそれとなく書いておいたので、少しは察してもらえるのではないかと思っていたのだが、残念ながら、一部の人々には、それが理解してもらえなかったようだ。やはり感情的な反論の防波堤にはならなかったようで、この問題の根深さを改めて実感した。

 私は、「エレベーター事故」と「原発事故」の直接的なリスクの比較を述べたわけではなく、間接的、または結果として生じるリスクを含めた上で書いたつもりだったのだが、言葉足らずだったせいもあるのか、そのままストレートに解釈された人が多かったらしい。

 原発で本当に大々的な事故でも起きれば、確かに国家存亡の危機に直面する可能性は有る。そのリスクが有ることは否定しない。しかし、代替エネルギーが無い状態で本当に原発をゼロにしてしまうことによるリスクの方も無視するわけにはいかないのである。

 元々、日本の原発行政は、自国でエネルギーを賄えないという“巨大なリスク”を抱えた日本ならではのリスク回避政策だったという側面がある。他国からのエネルギー供給がストップすれば、自国の経済が崩壊してしまいかねないという危機的な状況を避けるためには、どうしても原発が必要だったわけだ。
 しかしながら、世界で唯一の被爆国である日本ではもともと“”に対する強いアレルギーが存在し、「核」という言葉を聞いただけで無条件に拒否する人々は多い。そのために流布された言葉が「原発は絶対安全です」という嘘だった。

 「原発は絶対安全です」というような言葉を信じる方がどうかしているわけで、原発が危険なものであることは事故が起こる前から誰もが薄々理解していたことである。
 本当に原発が危険だと思うのであれば、事故が起こる以前から「原発反対!」と言うべきであり、それをせずに、原発から供給された電気を素知らぬ顔をして使用し続けてきたのが我々国民だ。「国に騙された」と言う前に、危険な物と知った上で使用してきた人間に全く罪は無いと言えるだろうか?

 「自由主義者は個人で管理できない原発という危険物とは相容れない」というようなことを書いている人もおられたが、これも上記と同じであり、事故が起こる前から言わなければ意味がなく、自家発電で生活しているという人でない限り、結果論としての机上の空論でしかない。
 原発などという危険物は、元々、社会主義的な組織でしか運用できない代物である。そして、その原発を運用する電力会社のステークスホルダーが我々国民だ。つまり、我々国民は全員、電力会社の株主のようなものなのである。だから、電気代が上がれば有無を言わさずに我々国民に負担が跳ね返ってくるわけだ。そんな立場に甘んじ、何の批判もせずに電気を使用し続けてきた(現在も使用している)のが我々国民なのだ。

 「自由には責任が伴う」という言葉の通り、自由主義者にも責任は付き物だ。ゆえに、本当の自由主義者であれば、そういった社会主義的な体制を自ら受け入れてきたことに対する責任を持たなければならない。個人の責任を放棄し、「国が悪い」「国がなんとかしろ」と言うのでは、単なるリベラルな個人主義者(=左翼)であり、本来の自由主義者では有り得ない。反原発論者が左翼だと言われるのは、そういう理屈なのである。(補足:自由主義のことをリベラルと訳す向きもあるが、本来、自由主義とリベラルは同じものではない)

 大体、明確な代替案も無いのに「原発を2030年までに無くす」などと言うこと自体、無責任そのものである。そんなことができる保証が本当にあるのだろうか?
 エレベーター(原発)と階段(自然エネルギー)の例えをもう1度、使わせてもらうと、「上階に上がる第3の方法を2030年までに見つけます」と言っているわけだが、こんなのは、「テレポーテーション技術を2030年までに発明します」と言っているようにしか聞こえない。まさにSFだ。こんなジョークが言えるのは、階段(自然エネルギー)という最低保証が有るからだと思われるが、そんな滑り止めの最低保証で国民は本当に満足できるのだろうか?

 脱原発の実現を目指すということは、先に述べた“巨大なリスク”を受け入れるということでもある。その危険性は原発事故のように可能性(しかも極小の可能性)の問題ではなく、ほぼ100%間違い無く訪れる危険性なのだ。主として、外交リスクと、それに付随した経済破綻リスクが伴う。外交リスクとは、エネルギーが入って来なくなった場合、戦争に発展する可能性が有るというリスクのことである。無論、そこには中国も関係してくることは言うまでもない。

 結局のところ、原発のリスク問題というのは、事故が発生するか発生しないかというような可能性の問題ではなく、選択次第によっては、結果的に“亡国に至る可能性が有る”という極めて重大な問題なのである。「原発事故も重大だ」と言いたい気持ちも理解できるが、それ以上に悲惨な結果を齎す可能性が有ることが解れば、「脱原発」などとは言いたくとも言えない。将来的なリスクとは決して一元的なもの(原発事故リスクのみ)ではないのである。

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エレベーター事故をスルーするノーリスク教の信者達

2012110401 先週、シンドラー社製エレベーターの誤作動による痛ましい死亡事故が発生した。同社製エレベーターでは2006年にも誤作動による死亡事故が発生しており、その安全性が再びクローズアップされ大きく取り上げられた。
 事故の原因がエレベーターの構造的問題だったのか、それとも保守点検等の問題だったのかは定かではないが、今のところ「制御回路の不具合だった可能性がある」とだけ伝えられている。

 エレベーターは全国に70万台以上あるそうだが、そのエレベーターが1日に上下稼働する回数は少なく見積もっても数千万回に達し、1年間では数百億回にまで達するだろう。今回の事故が前回の死亡事故から6年経過していることを考えると、エレベーターの誤作動による死亡事故発生率は数千億分の1以下ということになる。しかしながら、それはあくまでも死亡にまで至る確率であり、誤作動による怪我や、単なる誤作動ならケタ違いに有るのだろうと思う。

 特に都市圏に住んでいる人なら、ビジネスやショッピング等で毎日のようにエレベーターを利用していると思うが、まさかエレベーターが、乗り降り中に突然動き出すなどとは誰も思っていない。一度、実際に誤作動事故にでも遭遇しない限り、リスクのある乗り物(機械)だとは意識することもできない。それが大部分の人々の認識だろうと思う。

 前置きはこの辺で置いておくとして、今回、なぜこの問題を取り上げたのかと言うと(察しのよい人なら既にお気付きのことだと思うが)「リスク」問題を考えるためである。無論、原発のリスク問題との対比だが、誰もこの問題を論じていないようなので、少し述べておこうと思う。

 先にも述べた通り、日本国中の人々は、《エレベーターは安全な乗り物》だと思っている。実際、エレベーターの落下事故というのは未だに起こったことがないらしく、かなり安全性の高い乗り物であることは間違いない。
 そんなエレベーターが数年ぶりに死亡事故を引き起こし、リスクが有る乗り物だということが再判明した。マスコミは当然の如く、この問題を大々的に取り上げた。しかし、人々はなぜか「エレベーターは危険だ!」とは言わない。「リスクが有ってはいけない」ということで、あれほど「原発反対!」を訴えかけていた人々の誰一人として、「脱エレベーター!」とは叫ばない。それはなぜだろうか?

(答え)自分自身には直接的に関係のない問題だから。

 「脱自動車」も「脱飛行機」もこれと同じ理屈であり、自分自身には被害が及ばない(と思っている)リスクについては、無問題と処す。それが、ノーリスク教の信者達の特徴でもある。
(ここで述べた「ノーリスク教の信者達」とは、原発事故に直接関係がなく、脱原発を訴えている人々のことを指す)

 彼らにとっては初めから「リスク」などはどうでもよく、自分自身に火の粉が飛んでくる可能性が無いと思えれば、それでノープロブレムとなる。
 彼らが語るところの「リスク論」はただの詭弁であり、本当のところは、「自分自身に被害が及ぶことはいけない」という意味での狭義のリスク論に過ぎない。つまり、主語は「国民」ではなく「自分」なのだ。

 彼らだけでなく、国民の多く(ほぼ全員)も、エレベーター等のリスク問題には非常に冷静であり、そのうち、技術が進歩して安全なエレベーターが出来上がると信じており、それまでの間に自分自身が事故に遭うなどとも思っていない。
 被害の大小に違いが有るとはいえ、今回のエレベーターのリスク問題は、基本的には原発問題と同じであると思えるのだが、なぜ人々は原発問題には冷静になれないのだろうか?

 ドイツ等の一部の国を除いて、諸外国の人々は原発問題にも至って冷静であり、日本の原発事故をプラスに捉えている国も多い。「プラス」と書くと語弊や誤解があるかもしれないが、あれだけの巨大な地震でも壊れなかった(事故の直接的原因は津波による電源トラブル)日本の原発を高く評価している国は多い。その証拠にアメリカでは、34年ぶりに原発を新設することになり、中国は100基以上の原発を増設予定だ。

 かつて、悪名高い『日独伊三国(軍事)同盟』というものがあったが、これになぞらえて『日独伊三国(脱原発)同盟』と揶揄している識者もおられるが、まさに言い得て妙である。
 この道を選択することは、経済敗戦への道となる可能性が極めて高いと思われるが、性懲りも無く日本の左翼系マスコミは再び国民に同じ道を歩まそうとしている。
【参考文献】脱原発のウソと犯罪(中川八洋著)

 エレベーターが危険だからといって、階段を利用する人は稀だと思うが、原発が危険だから、自然エネルギーを利用しようという人々は多い。
 リスクが有るという理由で、全国のエレベーターが使用禁止になり、階段を利用しなければならなくなると、人々の労力やストレスは甚大なものとなるだろう。階段を上り下りすることで転んで怪我をする(または死亡する)ケースは、おそらくエレベーターを利用している時以上に増加するはずだ。階段を利用することで骨折したというような話はそこらじゅうに有る。同じように、自然エネルギーを利用することによって起こる事故も有り、その事故発生率は原発を利用する以上に高くなる可能性も大いに有る。しかし、そういったリスクには全く無頓着というのも、ノーリスク教の信者達の特徴である。

 エレベーターにも階段にもリスクは付き物だが、「リスクが有ってはいけない」ということであれば、どちらも利用できないことになり、終いには、建物は1階建ての平屋しかいけないということになってしまう。
 少々、オーバーな話だが、東京スカイツリーやあべのハルカスなど、上へ上へと目指してきた日本の建造物も全て無駄になり利用できないということになってしまう。こうなってしまうと、まさに経済版『下山の思想』である。

 今回のエレベーター事故の場合、製造元のシンドラー社が原因究明と改善に努めるべきであることは言うまでもないことだが、エレベーターと同様、原発も技術の進歩によってリスクを限りなくゼロに近付けていくことは可能なことである。
 この世にリスクがゼロというようなものは無い。そのリスクを限りなくゼロに近付けていくという努力を放棄することが善であるなら、エレベーター事故が起こっても、その原因を究明すること自体が意味の無いものになってしまう。

 「原発とエレベーターを同じ次元で語ること自体、馬鹿げている」と言う人がいるかもしれない。ある意味、その通りだ。しかし、そんな馬鹿げた比較をしなければ、脱原発という発想が、およそ現実味のない空論(SF)であることに気が付かない人がいるということである。「2030年に原発ゼロを目指す」というのは、「2030年にエレベーターゼロを目指す」というのと、同じようなものである。
 「脱原発」と「脱エレベーター」、この全く違うように見える2つの言葉が、本質的にはほとんど同じもの(実現不可能)であるとするならば、この国で大勢を占めている言論が如何に間違ったものであるかが解るはずである。

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