« 2012年11月 | トップページ | 2013年1月 »

2012年12月

2013年「活断層バブル」の危険性

2012122801 2011年から始まった原発事故を起因とした「放射能バブル」もようやく収束に向かうかなと思っていた矢先、またもや新たなバブルが発生しそうな雲行きになってきた。この調子で行くと、おそらく来年(2013年)には「活断層バブル」というものが発生することになりそうだ。

 今年はマスコミを通じて放射能の危険性というものが嫌というほどに報道された。しかし、「原発選挙」とも言われた年末の衆院選では、被災地の周辺地域ですら脱原発派の政治家は全く支持されなかったという皮肉な結果が出てしまったことは周知の通りである。
 マスコミが報じていたアンケート等では、明らかに脱原発派が多数を占めていたかに見えていたが、いざ、投票箱のフタを開けてみると、実は真性の脱原発派は少数派でしかなかったことが判明してしまった。
 そして、この結果からもう1つ曝け出されたことは、マスコミが如何に脱原発派寄りの恣意的な報道を行ってきたかという疑念である。その恣意的な報道が世論だと勘違いした政党および政治家は、マスコミの報道にまんまと踊らされてしまったというわけだ。

 「原発に賛成ですか? それとも反対ですか?」という即答タイプの単純なアンケートを行った場合、“危険性”を評価基準にすれば誰もが原発に反対するだろう。ところが、「電気代が大幅に騰がることになりますが、それでも原発に反対ですか?」と問えば、結果は違ってくる。アンケートで脱原発派が多数を占めたのは、案外そういった理由だったのかもしれない。

 政府の発表では、1年間に20ミリシーベルトの被曝量が危険値(避難する値)であるとされてきたが、医療現場でのCT検査による被曝量は1回の検査で10〜20ミリシーベルトに達することはあまり知られていない。
 毎年、人間ドックでCT検査を受診しているような人がいたとして、その人物が脱原発デモに参加し、『20ミリシーベルトの被曝量は危険』と書かれたプラカードを持って行進している姿を思い浮かべてみよう。その姿がいかに滑稽であるか、また、いかに倒錯した社会の姿であるかが分かると思う。

 1年間に20ミリシーベルトと、数分間で20ミリシーベルトでは、どちらが人体に悪影響を及ぼすかは考えるまでもない。1日に1gのアルコールを1年間かけて365g飲むのと、365gのアルコールを一気飲みするのとでは、どちらが危険な行為であるかは明白である。ウイスキーを一気飲みしている人物が、「ウイスキーボンボンは危険だから食べるな!」と言ったところで何の説得力もないことは誰にでも分かるはずだ。

 もし本当に20ミリシーベルトの被曝量が危険であると言うのなら、全国のCT装置も使用禁止にしなければ辻褄が合わないことになる。しかし巷間騒がれていた放射線被曝論議では、そういったことは全くスルーされたまま不毛な議論だけが膨張しているという有り様だった。まさに、無知が齎した「放射能バブル」である。
(ここでは話の都合上、20ミリシーベルトの被曝量は危険だという前提で話を進めたが、実際のところは科学的にも未だハッキリしていない。極めて低度の放射線は人体に有害どころか、逆に良いという説も有るので、念のため、そのことだけは付記しておきたいと思う)

 今後、為されるであろう活断層報道にしても、注意しないと、またバブルに踊らされることになると思っておいた方が無難だと思う。「活断層=危険」というような短絡的な思い込みは捨てて、物事を冷静に判断することが重要だ。

 そもそも現代の科学で活断層というものがどこまで正確に判定できるのかということ自体、疑ってかかった方がよいかもしれない。お偉い先生方がスコップを手にして地面を掘っている姿をテレビで観ても分かるように、いかに専門家であろうと、神様ではないのだから、活断層を発見することはできても、その活断層がこの先どう動くのかまでは全く分からないはずである。分からないからこそ、東日本大震災の予想すら全くできなかったわけで、人智を超えた超自然現象を浅はかな人間知で測ろうとすること自体が傲慢であるとさえ言える。1週間先の天気予報ですらハズレてばかりの現代人に、何年も先の正確な地震予知などできるはずがないのである。

 残念ながら、我々現代の人間にできることは、過去のデータを調査して、せいぜい地震の起こる微かな可能性を計測する程度のことである。そして、その計測もほとんどアテにならないことは図らずも東日本大震災で証明されたはずだ。
 現代科学は未だ発展途上の代物であり、地震に関して言えば、全くアテにならないのである。そんなアバウトなものから計測された情報を「神の御託宣」の如く有り難がってしまうのは軽薄以外の何ものでもない。

 もし本当に活断層が絶対的に危険だと言うのであれば、活断層付近にある住宅は全て人が住んではいけないということになる。なぜなら、直下型地震で危険なのは、耐震構造のある原発ではなく、むしろ耐震構造を持たない住宅やマンションの方であるからだ。原発から放射能が漏れて死亡するよりも、自宅が倒壊して死亡する可能性の方がはるかに高い。直下型地震が起こっても、原発は無事だったが、住宅は全壊したという笑えない事態に成ってしまいかねない。

 活断層バブルも行き過ぎると、活断層の疑いのある地域にある住宅の価値は毀損され暴落してしまうことになり、かつての耐震偽装マンションのように、ヘタをすると自宅を捨てて引っ越さなければならないということにもなりかねない。活断層が有ると判断された地域の人々は、本当にそれでよいのか?

 「よいわけがないだろう」、それがマスコミが報じない正確な世論に違いない。

にほんブログ村 経済ブログへ

| | コメント (5) | トラックバック (0)

ポピュリストの誤算とポピュリズム政治の終わり

2012122001 ここ何年かの間に「ポピュリスト」という言葉をよく耳にするようになったという人は案外多いのではないかと思う。敢えて言うまでもないことだが、日本語に訳せば「大衆の人気取り」ということになる。特に政治家に対して使われる言葉であり、大衆に迎合して意見がコロコロ変わる人物のことを揶揄した言葉でもある。

 今回の衆院選でポピュリスト達は、主に「消費税」と「原発」という大衆受けする言葉を掲げて、その名の通り、大衆受けを狙った。しかし、逆に踊らされたのは彼らの方だった。
 多くのポピュリスト達は、「消費税の増税反対」と「原発からの脱却」をセットで訴えた。しかしながら、ほとんどの政党は、そのどちらも代替案無しに「反対」というお題目を唱えるのみだったため、有権者に対して“掴みどころのない政党”というイメージを植え付けることしかできなかった。
 単に人気を取りたい(票を獲得したい)だけの底意が有権者に見透かされてしまい、選挙の結果を見て臍(ほぞ)を噛むことになってしまった政治家も多かったのではないかと思う。

 思うに、消費税の増税反対を訴えるなら、なぜ、いっそのこと減税にまで踏み込まないのか不思議だ。消費税8%には反対するのに、消費税5%には賛成というのだから、何を根拠に反対しているのか分からない。増税して景気が悪くなると言うのであれば、逆に3%に戻すなどの減税を訴えてもおかしくないと思うのだが、それができないということは、結局、票を取ること以外は何も考えていないと思われても仕方がない。消費税増税論者も消費税増税反対論者も“消費税の減税を訴えない”ということでは共通している。その共通項は無論、ポピュリズムだ。

 原発問題にしても、反対するのはよいとしても、誰もまともな代替案を語ろうとしなかった。「2030年に原発を廃止する」と言っても、そう言っている当の本人はその時には政治家であるとは限らないわけで、どこまで本気で言っているのか甚だ疑わしいと言わざるを得ない。だからといって、「即時撤退」などというのは更に始末が悪く、どう考えても絵空事としか思えないというのが大部分の有権者達の正直な気持ちだろうと思う。
 結局、こちらも掛け声だけのポピュリズムに終始しただけで、かつての“学生運動ごっこ”の二の舞を演じるだけに終わってしまった感は否めない。

 インターネットが発達した現代においては、有権者達もポピュリストの「情報弱者ビジネス」に引っ掛かるほど馬鹿ではなかったということが証明されたということかもしれない。

 ポピュリストと言えば、衆議院選挙公示日にも多くの政治家達が、被災地で演説を行ったそうだが、某女性議員はその場でこう述べたらしい。

 「命以上に大事なものはありません!

 一聴すると、ごく当たり前のことを言っているように聞こえるかもしれないが、私は、この言葉に違和感を感じずにはいられなかった。その違和感とは、「命よりも大事なものはないのか?」という疑問と、「政治家がそんなことを言ってもいいのだろうか?」という素朴な疑問である。

 「命以上に大事なものはありません」、実に分かりやすいストレートな表現だ。この台詞自体が、左翼そのものであることを如実に物語っているが、はたして被災地の人々はこの言葉を聞いてどう思ったのだろうか?
 もっとも、「命以上に大事なものはありません」というのは左翼の人々の共通理念であろうから、彼らがその言葉を述べること自体は特に問題視するつもりはない。しかし、公の立場にある政治家が言うべき言葉ではないような気がする。

 左翼の言うところの「」というのは、他人の命だけでなく自分の命も入ってしまうところが悩ましいところだ。「公」と「私」を明確に分けなければ誤解を招いてしまうことになる。
 「国民の命よりも大事なものはありません」と言うなら、まだ理解できるのだが、主語に他人の命だけでなく、自分の命も入るということであれば、話がややこしくなる。

 口幅ったい言い方かもしれないが、本来、政治家というものは、己の命を賭けて、国を発展させ国民を幸福にするという大きな志を持った人物が成るべき職業ではなかったのだろうか? 理想のために、身命を賭して、政(まつりごと)を執り行うのが真の政治家ではないのだろうか?(実際、昔は信念を貫き、凶弾に倒れた政治家が何人もいた)
 その政治家が、「命以上に大事なものはありません」と言うのは、どこか不自然であり可笑しくないだろうか?

 例えば、北朝鮮からミサイルが飛んできた時、その危機から身命を賭して国民を守るというのが本来の理想的な政治家の姿だと思えるのだが、「自分の命よりも大事なものはない」ということであれば、ミサイルが飛んで来れば、逃げ出すことが正しい選択ということになってしまう。

 自分の命よりも大切な守るべきものが有るからこそ、政治家という存在が有るわけであり、そういった理想や信念は一切存在しないということであれば、一体、何が目的の政治なのか分からなくなってしまう。

 なるほど、確かに人間(自分)の命より大事なものはないということであれば、「原発からの即時撤退」は正しい判断だろう。危険な原発には反対と言いつつ、震災のガレキは受け入れないという自分勝手な姿勢も、(自分の)命より大事なものはないという考えの表れだろう。

 しかし、政治家が理想とするべきは、将来的な国の発展繁栄を願うものでなければならないはずで、現在ただいまの命の絶対的安全だけを目標とするのであれば、極めて場当たり的な刹那的思考と言わざるを得ない。

 故マザー・テレサが世界中で尊敬されているのは、命の大切さを訴えたからではなく、命を救う仕事(自分の命よりも大事なもの)に生涯を捧げたからである。もしマザー・テレサが口先だけの命の大切さを訴えるだけで、スラム街の病人に触れることも毛嫌いするような人物であったなら、ただのポピュリストだということで評価されることもなかっただろう。

 「個人の時代」と言われて久しいが、この度の選挙では皮肉なことに、自分勝手な個人主義者(リベラリスト)は自壊したかに見える。それは同時に、リベラリストによるポピュリズム政治が終焉を迎えつつあることを意味している。これからの政治は空想的な建前ではなく、現実的な本音が語られる時代になっていくことを期待したい。

にほんブログ村 経済ブログへ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

BOOK『どうせ死ぬなら「がん」がいい』を読んで。

2012121501 少し前にベストセラーとして話題を呼んだ『大往生したけりゃ医療とかかわるな』の中村仁一氏と、『がん放置療法のすすめ』等で有名な近藤 誠氏の対談本『どうせ死ぬなら「がん」がいい』を読んでみた。

 前著同様、本書も読者に誤解を与えかねないような挑発的なタイトルになっており、中身の方も負けじと「がんの9割は放置がいちばん」と現代医療に真っ向から異を唱える内容になっている。しかし、こういう思い切った題名の本を出版できるということは、それだけ自身の説に絶対的な自信が有るということなのだろうと思う。
 近藤氏は、どんな反論があっても論破するだけの理論武装を行っているらしく、何年か前までなら論戦を挑んできた医療関係者もいたそうだが、現在では誰もが逃げ出すらしい。

 私も父親をガンで亡くした経験から、自らの医療無知を悟り、ガンという病気については自分なりに学習した経験があるので、この御二方の意見には9割方、同意している。同意できない残りの1割は、少々、虚無的な発言が目立つというところだろうか。
【関連記事】BOOK『大往生したけりゃ医療とかかわるな』を読んで。

 つい最近も、歌舞伎俳優の中村勘三郎氏が食道がん手術後の治療で肺の疾患を患い死亡したという痛ましいニュースがあったばかりだが、本書はこの出来事を考える上でも実にタイムリーな書籍だと言える。

 テレビのニュース等では、中村勘三郎氏は“食道がんで亡くなった”というようなニュアンスで報じられていたので、本当に死因は食道がんだったと思っている人が多いかもしれない。
 しかし、彼の場合、食道がんの手術は成功していたので直接的な死因は食道がんではない。手術後の抗がん剤治療によって免疫力が大幅に低下したことにより肺炎を発症したことが直接的な死因だろうと思う。実際、抗がん剤治療によって抵抗力が激減して肺炎で亡くなるケースが多いことはよく知られている。
 
 あくまでも仮定の話だが、失礼を承知で中村勘三郎氏が食道がんの治療をせずに放置していた場合をシミュレーションしてみよう。その場合、どうなっていたかというと、ほぼ間違いなく現在も(元気で)生きていたはずである。残念ながら結果的には、手術や治療を行ったことによって寿命を縮めることになってしまったことは疑いようのない事実である。

 では、手術後の抗がん剤治療はしなくてもよかったのか?ということだが、本書はその疑問に答える内容になっている。と言うよりも、手術自体が必要無かったのではないか?、がん検診もする必要が無かったのではないか?というのが彼らの主張でもある。

 「そんなのは結果論だ!」「がんが転移していた可能性もあるだろう!」と言う人がいるかもしれないが、実はそうとも言えないことが本書には書かれている。
 ただ、何事にも例外はあるように、がんという病気にも様々な例外があるので全てが彼らの言う通りにはいかないことも事実だ。本書内にも「9割」という言葉が使用されているのは、そういう意味を含んでいる。この辺は非常にややこしい構造になっているのだが、ある程度のガンの知識を得るとその構造が把握できるようになり、ガンに対する認識のコペルニクス的転回を体験することになる。

 この本の帯にはこう書かれている。

 「日本人よ、医者と医療を妄信するな

 これは実に含蓄のある言葉だ。現代医療というものは、ある意味で医者を神様と仰ぐ(悪い意味での)宗教と化しており、多くの人々は自分の頭で病気のことを考えずに、全ての判断を医者に委ねてしまう。己の肉体だけでなく精神も、そして時には、命すらも医者に預けてしまう。
 私も何年か前まではそういった部類の人間だったのかもしれないが、不幸な経験から幸運にも現代医療について少しだけ学ぶ機会を経て、「無知であることは恐ろしい」ということを後悔とともに実感した。
 そしてもう1つ実感したことは、医療の世界にも「知は力なり」という言葉が存在するということだった。本書は、きっとあなたの人生に少なからずプラスになる知力を与えてくれるはずだ。


【追記】
 BLOGOSのコメント欄を見ると、「新書2、3冊で判断するな」という批判や、「信じる根拠がUFO等と同じでは…」という疑問が有るようなので、質問に答える形式で以下に追記しておこうと思う。

>「新書2、3冊で判断するな」

 ガンの関連本は数十冊は読んでいます。

>「信じる根拠がUFO等と同じでは…」

 敢えて文章を推測形にしただけであり、実体験(医療現場を見ている)を通して述べています。

にほんブログ村 経済ブログへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

無意味な『最低賃金制度』論争

2012120901 『時間給』というものがある。誰もが知っている日本の給料制度の根幹になっている概念であり、日本企業の多くが採用している月給制というものもこの『時間給』が基になっている。
 つい最近でも、政治の世界において「最低賃金制度」の有無なるものが議論の俎上にのせられていたが、これなども突き詰めて考えれば『時間給』論争であると言える。
 
 人間(労働者)の仕事量を計る概念として長く用いられてきたこの『時間給』というものは、マルクスが説いた「労働価値説」が基になっていると言われることがある。「労働価値説」とは、簡単に言えば「人間の為す労働は皆等しい」という平等思想を基礎にした理論である。

 「産業革命」後のマルクスが生きていた時代(1800年代)は、まだ農業が中心であり、高度な機械文明が花開いていなかったため、人間個人が行える仕事量にはそれほどの違いは無かった。
 しかし、現代のように、産業革命を通り越して情報革命の時代に突入してしまうと、人間個人の才能や経験、努力如何によっては、個人の仕事量は数倍どころか、数十倍、数百倍、あるいは根本的にその仕事が“できる”か“できない”かという違いまで生じることになり、「労働価値説」は時代遅れの遺物となった。

 「人間の為す労働は皆等しい」という言説は現代では名実共に化石化したわけだが、マルクスの思想自体が半ば“信仰”と化していたこともあり、「人間の為す労働は皆等しい」という形骸化した教義だけは未だに残っている。特に高度経済成長期にはマルクスの仮説が成り立つかに見えた時期(労働における価値を考えなくても経営が成り立った時期)が存在したため、マルクスの思想が正しいと思い込んでしまった日本のインテリ(と称する左翼学者)達は、歪んだ平等思想を世間に流布する役目を果たすことになった。

 既に20世紀の工業革命の時代から、「人間の労働は皆等しい」というような誤った言説は建前としてしか通用していなかったわけだが、21世紀を迎えると、個人が生み出す労働価値の違いが更に明白になってしまった。恰もデジタル社会を象徴するかのように明暗(0と1)がハッキリと出てしまったとも言える。
 
 高度経済成長期からバブル経済期にかけては、日本経済は時代的幸運が手伝ったこともあり、多くの日本企業は『時間給』を基にした給料制度(=月給制)でも充分な利益を得ることができた。逆に言えば、月給制にすることによって、その時代の労働者達はその時代本来の労働対価を得ることができなかったとも言える。
 現代の左翼政党が、「企業の内部留保」という言葉を使用しているのは、その時代の名残りであるとも言えるが、これも既に妄想と化していることは言うまでもない。

 日本のバブル経済が一度、終焉を迎えると、企業にとっては有り難かった『時間給』というものは、徐々にその有り難みを失い、ついには、企業にとって有り難迷惑な給料制度に変貌してしまうことになった。(労働者にとっても有り難迷惑だと言えるかもしれないが…)
 経済のグローバル化に伴って、日本の人件費が世界的にも割高になると、『時間給』を満たす程の仕事量をこなすことができない人々が増加した。そして、仕事量が足りない労働者を庇う形で都合良くリスクヘッジ要員と化していた有能な労働者達が行うべき仕事の確保(受注)も難しくなり、互助的な労働システム自体が成り立たなくなってしまった。
 このため、その『時間給』を採用している企業では、至る所で様々な矛盾が生じることになった・・・というのが、現代の多くの日本企業が抱えている大問題でもある。

 以上のことを踏まえた上で「最低賃金制度」の話に移ろう。

 世間には「最低賃金制度は必要だ」と言う人がいるが、賃金などというものは、物価や為替などの時代的背景によっても変動するものなので、例えば、800円が最低賃金だと言っても、5年後、10年後にはどうなっているか分からない。それに、先にも述べた通り、個人が行える仕事量というものには大きな差が有り、時間では計れない仕事というのも多々有るため、極めてアバウトな取り決めに成らざるを得ない。800円ならOKで790円ならNGにする明確な理由を説明できる人がいるだろうか? おそらく誰もいないだろう。

 私が思うに、「最低賃金制度」の有無以前に、そもそも「最低賃金の高低」を論じること自体が可笑しいのではないかと思う。
 世間一般の「仕事は時間で計れる」という常態化した認識(=常識)そのものを変えない限り、「最低賃金制度」の有無を論じること自体が時間の無駄だと思える。

 要は、「仕事は時間では計れない」ということである。時間では計れないものを無理矢理に時間で計ろうとするから無理が生じることになる。本来、仕事の価値(対価)というものは、仕事の質と量で計るのが自然な姿のはずで、時間で計るというのは不自然な姿だということを知る必要がある。

 あなたは、1時間に300円分の仕事しかできない人が「最低賃金を800円にしろ!」と言っている姿を見た場合、どう思うだろうか? その答えこそが、最低賃金制度というものの本質を言い表わしている。
 300円分の仕事をした人には300円しか支払えない。残念ながらこれは子供にでも理解できる経済の基本原則である。(会社の利益や諸経費等の人件費は考えないものとする)
 そういった基本原則が無視されてきたのは、日本の景気が良かったから。この一言に尽きる。経済成長というものは、時に経済の基本原則をも見失わせるほどの効用があったということだろう。そういう意味では、現在の日本に必要なのは、やはり経済成長以外に無いということになるが、皮肉なことに、左翼の人々は潜在意識的に経済成長を好まないという悩ましい性格を抱えている。
 これと似たようなことはハイエクも言っていたそうだが、彼ら左翼が好き勝手なことを言えるのは、経済成長があってこその幸運だったのだ。
 
 300円分の仕事しかできない人が、時給800円で雇用されるとどうなるか? 通常の会社であれば、残りの500円分を補うことを要求されることになる。早い話、個人の能力の3倍近い労働を要求されることになる。それができればいいが、できなければ、過労死寸前まで働くか、辞職するしかないということになってしまう。
 そういう問題があるので、企業は初めから800円分以上の仕事ができると思われる人以外は雇わなく(と言うより雇えなく)なる。そうなるのは、企業が悪いと言うよりは、最低賃金制度という法律が悪いと言った方が正解だろう。

 「300円の仕事しかできない人には300円しか支払えません、しかし、入社後、500円、800円、1000円の仕事ができるようになれば、それだけの昇給を行います。

 企業がこう言える労働環境であれば、300円の仕事しかできない人(新卒者も含まれる)でも、その企業に入社でき、本人の努力次第で給料も上がっていくが、初めから800円分の仕事を要求されると、雇用される人物は限定されることになり、300円の仕事しかできない人は実際に仕事力を磨くという努力そのものを否定され、就職できずに、己の身の丈以上にある「800円労働市場」という名の高台に登ることができず、職が無いという暗闇の中を彷徨うことになってしまう。これが弱者に優しい労働政策と言えるだろうか?

 もちろん、身体の不自由な人などを補助する制度(最低賃金制度も含む)というのは必要だが、なんのハンデもない健常者まで同様に弱者扱いすると、おかしなことになる。
 つまりは、「人間の為す労働は皆等しい」とする平等思想の矛盾が、企業への就職門戸を狭めるという悲劇を生んでいるということである。
 基本的には、「本人の仕事能力と給料は比例する」という当たり前の給料制度にすることが望ましい。そういった公平な給料制度こそが、実は結果的に最も弱者に優しい政策になるのである。

にほんブログ村 経済ブログへ

| | コメント (6) | トラックバック (0)

BOOK『若者を殺すのは誰か?』を読んで。

2012120201 12月1日、大学新卒者の就職活動(就活)が解禁されたが、ちょうど時を同じくして、若者雇用問題のスペシャリストでもある城 繁幸氏の新書第4弾『若者を殺すのは誰か?』を読み終えた。
 最近の社会問題を例に挙げて解りやすく纏められていたので、遅読の私でも一気に読み終えることができた。
 タイトルからも想像できる通り、全般的に世代間格差について述べられていたが、特に第5章『社会に存在する虚構と“空気”』は少し趣きが異なっており、社会学者的な考察で興味深く読ませていただいた。

 本書には「日本企業の新人研修は洗脳だ」とも書かれていたが、これは私も経験があるので、実際にその通りだと思った。
 私自身もかつて、以前に勤めていた会社(新卒で入社した会社)で新入社員研修なるものがあり、2泊3日の泊まりがけの合宿で数十人で研修を受けたことがある。
 当時、学生生活で自由が染み付いていた身には、悪い意味でのカルチャーショックだった。社会人になったにも拘らず、まるでもう1度、義務教育課程に戻ってしまったのか?というような錯覚を覚えたことを記憶している。私はその研修の最中、元同期の人にこう漏らしたことも覚えている。

 「こんなのは洗脳と変わらない

 この言葉を聞いた元同期の人は、笑いながらも怪訝そうな目で私を見ていた。
 当時、同じく研修を受けた新卒同期の人々は、私ほどには(と言うより全く)疑問を感じていなかったようで、まるで子供の遊びのような研修に、それほど疑問を感じることもなく嬉々として順応し、社風に染まっていったことを記憶している。
 ただ、その会社の場合は、別に愛社精神を植え付けるというようなものではなく、他の会社が教育研修なるものを行っていたので、同じように行っていただけだと思う。今考えるとあれはなんだったのか?と思うことがあるが、本書にはその疑問の答えなるものが書かれていた。

 世間の大部分の人々は、自分が置かれた社会的環境に順応することには長けてはいるが、その置かれた社会やシステムが本当に正しいものであるかどうかは考えようともしない。
 独裁国家の多くの国民が、なぜ自らの国に疑問を抱かないのか不思議に思えることがあるが、なんのことはない、どこの国でも国民性は変わらない。単に生まれて住んでいる国が、幸いにも民主主義国家だったというだけで、洗脳されやすい国民性という意味では同じなんだなと思うことがある。

 ところで、本書を読んで初めて知ったことだが、「過労死」という言葉(と言うより現象)は日本にしかないものであるらしい。「karoshi」という言葉でググってみてほしいと書かれていたので、実際にネット検索してみると、確かに「karoshi」という単語が英語の辞書に記載されているようだ。
 では日本企業の過労死を無くすためにはどうすればいいのか? これに対する解答は「終身雇用制度にメスを入れるしかない」ということだったが、これも実際、その通りだと思う。ただ、個人的には、終身雇用制度よりも賃金制度の方に問題が有るのではないかと思う。

 第5章には、ライブドア事件でホリエモンを投獄するために彼の背中を押した黒幕の推察が書かれていた。
 城氏曰く、「ホリエモンを立件したのは検察だが、彼らはただの執行機関であり、意志のない道具にすぎない」ということなのだが、これは私も同意見だ。検察は単なる実行部隊なので、首謀者ではないとは思う。では、検察を動かした黒幕は誰だったのか?
 ここでその推察の答えをズバリ述べるような野暮なことはするつもりはないが、城氏はその黒幕を“具体的な言葉”と“抽象的な言葉”を用いて述べていた。具体的な答えの方は私の推察とは違っていたが、抽象的な答えである「空気」の表現はその通りだと思った。

 かつて、「ライブドア事件は現代の安政の大獄だ」と述べていた人がおられたが、私もこれに近い感想を持っている。ライブドア事件についてはこれまでにも何度か記事を書いてきたが、そのうちまた改めて記事を書きたいと思っている。
【参考文献:『時に、若者が歴史を創った』(有木賢操著)】

 最後に、城氏は「日本の選択肢は増税か社会保障カットかの二者択一」と述べており、「筆者自身も、周りのビジネスマンも、みんな維新八策を支持している」と書かれていた。本書の内容の大半は同意できる内容だったが、この部分だけは納得がいかなかった。
 私は、日本の選択肢は増税か社会保障カットか経済成長かの三者択一だと思っている。無論、最後の経済成長しか日本経済を救う道は無いと考えている。

にほんブログ村 経済ブログへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2012年11月 | トップページ | 2013年1月 »