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2013年1月

BOOK『アメリカは日本経済の復活を知っている』を読んで。

2013013001_2 現在、なぜか大型書店でもなかなか入手できなくなっている話題のベストセラー『アメリカは日本経済の復活を知っている』を遅ればせながら読んでみた。著者は言わずと知れたアベノミクスの指南役とも言われているイェール大学名誉教授の浜田宏一氏。

 経済の本といえば、専門用語や数式や統計グラフ等でビッシリと埋め尽された難解な本も数多いが、本書は平易な分かり易い文章で書かれているので、あっという間に読み終えることができた。浜田氏も述べておられるように、本書は経済学の専門書という趣きではなく、ノン・フィクションドラマに経済のお話を盛り込んだような感じの本なので、経済学に興味が無いという人でも十分に理解できる興味深い内容になっている。(次回作でより専門的な本を出版される予定らしい)

 少し話は逸れるが、マルクスやケインズの影響もあってか、経済学の本というのは、とにかく難解なものが多い。特に日本の場合、マルクスに感化された左翼学者が多いこともあってか、経済学だけでなく社会学にしても、簡単なことをどれだけ難しく書くかを競うような風潮がある。まるで、誰にも理解できそうにない高尚(?)な文章を書くことがインテリの条件だと言わんばかりの本も多い。
 難しそうに書けば偉そうに見えるという学者特有のスケベ根性があるのかもしれないが、古今東西、真実というものは単純にして明快なものであり、昔から、「頭の良い人は喩え話が上手い」と言われるように、難しいことを簡単に書くことのできる人こそが実は本当に頭の良い人でもある。

 ということで、本書も非常に分かり易く書かれており、浜田氏の頭の良さが窺える内容になっている。ここで言う「頭の良さ」とは、決してIQが高いとか学歴がどうかということではなく、素直に自分の頭で考えることができるという意味での「頭の良さ」であることは言うまでもない。本書にも書かれていたが、やたら法律や経済だけに詳しい専門バカのような人間のことを意味しない。

 浜田氏は「リフレ派の重鎮」ということで批判されることも多い人物ではあるが、ここではリフレ政策の善悪については敢えて述べない。今回、アベノミクスによる金融緩和の発表によって大きく円安に動いたということだけは間違いなく実証されたことなので、この部分については素直に評価されるべきだと思う。

 円安が良いことかどうかはともかく、なぜ金融緩和の発表によって円安になったのか?という理由も実に単純明快に解き明かされている。
 私も以前の記事で少し述べたことがあるが、結局、現代の先進国はデフレを少しでも緩和するために自国の通貨を安くする競争(通貨安競争)を水面下で行っており、その方法論が金融緩和なのだというのが、浜田氏の説(と言うより世界経済の常識)なのだろうと思う。
 そんな中で、日本(銀行)だけが通貨(円)を刷らずにいれば、日本の通貨だけが独歩高(円高)になるのは、至極当然の帰結だったというわけだ。このことは、最近発売され同じくベストセラーになっている渡邉哲也氏の『これからすごいことになる日本経済』にも書かれていた。

 今回の日本の金融緩和を否定している国も出てきつつあるが、これもよく考えれば当たり前の話で、他国(日本)が金融緩和をすることは自国にとって都合が悪いということなのだろう。日本だけが金融緩和を行わないことに、シメシメとほくそ笑んでいた国々が「余計な知恵を付けやがって…」と批判し始めたという構図である。
 かつてのアメリカのように自国の通貨が騰がることを喜ぶ消費国家は別として、大抵の先進国は自国の通貨が安くなった方が都合が良いわけだ。

 急激な円高を抑制するためには、民主党が行った為替の「円売り介入」のような対症療法的なものではなく、より根本的な解決法(大々的な金融緩和を実施すること)を世界に向けて発信する必要があった。そういう本気のシグナルを世界に向けて発信しなければ円高を是正することができなかったというのが本書の要諦だが、その理屈は単純ながらも確かに筋が通っている。

 本書は、現在進行形で我々の眼前で繰り広げられている経済現象(円安、株高)の理由を知る上で、実にタイムリーな書籍であり、現在の日本経済市場を動かしているバックグラウンドを知るためには必読の書物であると言える。リフレ派であろうと反リフレ派であろうと、日本経済の先行きを考える上では、読んでおいて損は無い本だと思う。できれば、経済人だけでなく、一般の人々にこそ一読をオススメしたい。

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自民党経済成長戦略の矛盾(“アベノミクス”と“増税”)

2013012701 先日、与党である自民・公明両党から「平成25年度税制改正大綱」の発表が為された。トータルで見れば「減税政策」ということになってはいるものの、手放しには喜べない部分もある改正案だったと言える。奇しくも前回の記事で書いた証券優遇税制の維持(または減税)はあっさりと裏切られる格好になってしまった。

 「不況時には増税をしてはいけない」、これは経済運営の基本原則であり常識でもある。ゆえに不況時に減税には一切触れず消費税の増税を唱えた民主党は、心ある経済人から非難された。
 現在は自民党政権になり、「大々的な金融緩和を行う」という発表があり景況感は幾分か改善される見通しが立ったものの、舌の根も乾かぬうちに直ぐさま増税の発表とはいただけない。富裕層への増税証券優遇税制の廃止も、景気を良くする政策ではないので、この部分は明らかにマイナスだ。
 こう書くと個人の怨み節に聞こえるかもしれないが、無論、私は富裕層には該当しないし、証券優遇税制についても個人的な感情論を書いているわけではない。

 アベノミクスの発表で景気が良くなり、不況から脱却できる可能性が少し出てきたことは有り難いことだが、本来、景気が良くなって税収が増加するのであれば、相乗効果を狙って、更なる減税路線に踏み切るのが筋である。
 増税による日本経済の衰退に歯止めをかけるために出てきた起死回生の経済政策が『アベノミクス』であったことを考慮すれば、アベノミクスの結果如何に関係なく増税では筋が通らず、何のための経済成長政策か分からなくなってしまう(経済成長効果は半減してしまう)。

 アベノミクス→景気改善→税収増→減税

 これが正しい政策フローだと思うが、現状では以下のようになってしまっている。

 アベノミクス→景気改善→税収増→増税

 これでは、ただの社会主義政策だと非難されても仕方がない。最終的な目的が減税なのか増税なのかで、アベノミクスは善にも悪にも成り得る

 未だアベノミクスは実行に移されていないわけだから、最終的な結果を見る前に増税案を発表するというのは現段階では早過ぎる。20兆円ずつを10年間に渡って市場に放出するのであれば、10年後までにじっくりと判断すればいいことである。10年間かけて200兆円をバラまき経済成長政策を推し進めても一向に景気が良くならず、税収も上がらなかったということであれば、増税も止むを得ないと言えるが、現時点で税金を上げる決断を下すのはあまりにも時期尚早だと思われる。

 自動車取得税の廃止も「年間2000億円の税収減に繋がる」という自治体の反対意見で先送りとなってしまったが、消費税を上げるのであれば、その増加した消費税収内で賄えば済むことだと思われるので、先送りする必要もない。本気で景気を良くしたいという姿勢を国民にアピールしたいのであれば、こういった優柔不断な態度は極力控えるべきだと思う。
 現在の消費税収は10兆円程度だから、消費税が2倍の10%になれば、単純計算で10兆円の追加増収となる(実際にはならないが)ので、取り敢えず、2000億円の穴埋めはそこから賄うということにしておけばいい。

 また、食品等に関する消費税の軽減税率も、どの品目に何%の消費税をかけるかが問題となっているが、各商品ごとの軽減税率などというややこしい制度を設けると、またぞろ無駄なお役所仕事や脱税行為が増えるだけだと思われるので、いっそのこと、軽減税率などは止めて、その分、全体的な消費税率を下げればいい。例えば、全商品7%のシンプルな消費税率にすればいいのではないかと思う。(10%の場合は9%にする)
 念のため、お断りしておくと、私は消費税の増税には反対の立場なので、ここで述べた税率等は、あくまでも仮定の話である。(半分は皮肉で述べているので誤解のないように)

 アベノミクスによって景気が良くなり、税収が増加すれば減税を行うという好循環があってこそ、真っ当な経済成長戦略と成り得るのであり、そうであってこそ、一見、社会主義的な政策であっても善と成り得るのだ。
 安倍総理は、アベノミクスによって消費税の増税を回避できてこそ、名宰相と呼ぶに相応しい。現在のような減税案の中にこっそりと増税案を盛り込むような矛盾した政策内容では、先行きが少し心配になる。最終的には減税路線に切り替えることを切に願う。

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バブルの功罪【アベノミクス・ユーフォリア】

2013012001 この2ヶ月間、日経平均株価は1ヶ月に1000円程度騰げ続けており、節目と言われていた11000円を早々に超えそうな雰囲気になってきた。チャート的には12000円を超えると14000円までは青天井相場になる可能性もあり、海外からの投機マネーの流入も手伝い、日本の株式市場は軽度の陶酔的熱狂(ユーフォリア)状態が生まれつつあるかに見える。
 こういう時期には我先にと株式相場本が出版されるが、書店を覗いてみると、「2013年は大相場になる」という触れ込みの本が増えてきつつあるようだ。

 実際、この2ヶ月間に株式投資(株式投機?)で大儲けした人は多いらしく、短期間の内に泡銭(あぶくぜに)を手にした個人投資家も結構出てきているらしい。私の場合、何年も前から塩漬けだった株式の含み損が少しマシになった程度なので、ほとんど関係のない話だが…。

 昔から「株式投資で1年間に5%の利益を出し続けるのは至難の技」と言われる通り、一時は儲けても、最終的に手元に残るお金はせいぜい数%というのが相場でもある。これは私も実際に経験したことなのでよく解るが、ほとんどの投資家はマイナスになるのだろうと思う。
 藤沢数希氏の『なぜ投資のプロはサルにも負けるのか?』の話ではないが、株式投資は理性的に深読みせずに、感情的に何も考えない方が儲かる場合もある。ある意味、付和雷同型の人の方が株式投資(投機)に向いているのではないかとさえ思う時がある。あのニュートンでさえも株式投資で大損したことはよく知られている。

 これは半分ジョークだが、感情的な脱原発派の人々は案外、株式投資(投機)には向いているかもしれない。と言っても、彼らの多くは金儲けや自己責任を否定する考えの人々だと思われるので、違う意味であまりオススメはできないのだが…。

 バブルという現象は善か悪か? これに対する世間の回答も綺麗に真っ二つに分かれる。とにかく「バブルは悪だ」ということで、ひたすら日本のバブルを潰してきた官僚もいれば、「バブルは善だ」と言っているエコノミストも大勢いる。

 私はバブルには功罪があると思う。「」の方を言えば、バブルというものは、景気刺激現象であり、税収を上げる最も有効な手段(?)の1つだと思う。
 株式市場が活況を呈することがなぜ良いことなのかと言えば、泡銭を儲けた人が気前良く、消費と納税を同時に行ってくれるからだと言える。コツコツと汗水たらして儲けたお金はなかなか使用できないが、泡銭なら気前良く使用するという人は大勢いる。そして、株式売買で儲けたお金には10%の税金(現状では所得税7%、市民税3%)がかかるので、バブル相場における増税収効果は計り知れないものがある。

 もっとも、「二重課税」として悪名高い現在の株式譲渡益課税には私も以前から反対している。民主党は「課税率を20%にするべきだ」と言っていたが、ただでさえ損失を抱えている個人投資家の立場から言えば、悪法以外の何ものでもないと思う。
 「株式投資家=金持ち」などという時代遅れな左翼発想は止めて、現在与党の自民党には景気刺激策の一環として、これ以上の株式譲渡益課税の増税はしない(理想は課税ゼロ)ように願いたい。
【関連記事】『景気が悪くなることを望む左翼政党

 先程も述べたように、株式市場で泡銭を手にした人々の多くは、大々的な消費活動を行ってくれる。しかし、そういったバブリーな人々の大半はそのうち、株式市場で大損することになり、結局、最終的には“消費活動だけが残った”ということになるケースがほとんどだと思う。しかし、それが悪だと言えるか?というと、必ずしも悪とは言えない部分がある。
 現在の日本の不況は「消費不足」であることが1つの大きな原因なので、その解決策である「消費活動」を引っぱり出すことができるという意味では株式市場のバブル化はプラス現象と捉えるべきだ。
 お役人の人為的なバブル潰しによって急激に株価が暴落することは悪だと言えるが、バブルが発生すること自体は悪だとは言えないし、緩やかにバブルが萎んでいくのであれば、それほど問題視する必要もない。

 バブル現象が悪だと言うのであれば、そういう人は株式市場には参加しなければいいだけのことである。しかし仮に、バブルによって消費活動が促進され、景気が良くなるという結果が生まれたのであれば、その現象を齎した立役者は、リスクを取って泡銭を手にし、消費活動を行い、場合によっては大損した株式市場参加者達だったということは忘れてはいけない。
 バブル現象を齎した投資家(投機家)達は、見方を変えれば、投資活動ならぬ、慈善活動を行ってくれたということになる。彼らは投資活動には失敗(=悪)したかもしれないが、慈善活動には成功(=善)したのである。その結果こそが最もシンプルな「バブルの功罪」である。

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体罰アレルギー論者達の矛盾と疑問(命と法律はどちらが重要か?)

2013011401 前回の記事では様々な意見を頂戴することになり、一応現時点での全てのコメント(BLOGOS及びlivedoorNEWSも含む)を読んだ上で一言述べさせていただくと、どうも誤解されている人が多いなというのが率直な感想だった。

 今回の大阪の桜宮高校の事件は、体罰よりも悪質な暴力事件(私はいびりと認識した)だということで、その批判も込めて、現在の「体罰」を前提とした世論自体が根本的に間違っているという指摘をしたつもりなのだが、多くの人が「体罰」という言葉に囚われたままで、中には、私が体罰を肯定し今回の事件のクラブ顧問を擁護していると誤解されている人もいた。これには流石に呆れてしまった。

 私は誰が読んでも理解できるように、なるべく平易な文章で書いているつもりなのだが、それでも全く逆さまに受け取られる人がいるようで、限られた文章で意見を伝えるのは難しいことだと改めて再認識した。
 斜め読みした印象だけで反論を書いているとしか思えない人もおられたが、間違いだらけの世論に気付いてもらおうと書いたものの、読まれた人の認識も間違いだらけだったという実に皮肉な結果になってしまった。

 記事の内容がどうであれ、「体罰」という言葉を使用しているだけでアレルギー反応的にその言葉を受け入れないという人がいることもよく分かった。「時と場合によっては体罰が必要だ」と述べただけでも、条件反射的に拒否反応を示す人々がいるようなので、言葉を変えて説明するしかないのかもしれない。

 ここで少し思考実験をしてみよう。

 あなたが、車の運転免許を持っている人だとして、ある日、あなたが運転免許証を携帯するのを忘れて徒歩で街に出かけたとしよう。その日、運の悪いことに、あなたの目の前で交通事故が発生し、事故を起こした運転手が轢き逃げした。その被害者は重傷で車で病院まで運ばないと命の危険がある。周りには、あなたと交通事故の被害者以外、誰もいない。しかし、運良くキーの付いた車だけが目の前に停まっていたとしたら?(ここでは電話は無いものとする)

 その時、あなたはどうするだろうか?

 1、その車に無断で乗車して被害者を病院まで運ぶ。

 2、「運転免許証を持っていないので運転できない」と被害者に伝える。

 3、車の窃盗罪と運転免許の停止(剥奪)を恐れて逃げる。

 この質問は、「」と「法律」のどちらが重要かということを問うている。
 「命」を救うためには、時と場合によっては「法律」を破らなければならない時もあるということを述べているわけだが、法律で禁じられた「体罰」を絶対的に認めようとしない人々は「」や「」を選択するとでも言うのだろうか?

 常識的な一般人であれば、たとえ運転免許証を忘れたとしても、たとえ窃盗罪に問われる危険性があったとしても、「」を選択するのではないかと思う。
 その結果、法律を破ることになったとしても、被害者の命を救うために、仕方なく法律を犯したということであれば、情状酌量ということで免責されるというのが、良識ある社会の対応というものだろう。それを、「あいつは法律を犯したので、運転免許を取り上げるべきだ」と言っているのが、体罰を絶対悪とする人々の姿だと言えるのかもしれない。

 目の前で生徒が暴行を受けている時に、勇気を持って仲裁し、いじめを行っている生徒を殴って制止することも、これと同じことだ。そういった勇気ある教師に対し、「あいつは法律を犯したので教師を辞めさせるべきだ」と言うのは正しいのか?
 もしそれが正しい社会だというのであれば、それこそが狂気の社会であり、そんな社会でいじめ等の犯罪が無くなるはずもないだろう。(実際にそうなっているとも言える)

 これは体罰の有無がどうかという問題ではなく、目の前で犯罪が行われている時、それを制止するために暴力を使用することが悪になるかどうか?という問題であり、「法律で禁じられている」などと言うのは、話を摺り替えているだけだと思う。

 体罰を絶対悪だとする人々は、基本的に「命」を大事にする人々であると思われるが、一方では法律の遵守を絶対視する傾向にある。この矛盾をどう説明するつもりなのだろうか? 論理的に納得できる説明ができる人がいるのであれば、一度お聞きしてみたいものだ。

 「人を救うことよりも法律を守ることの方が大事だ」というのは、“融通が利かない”という意味では、「体罰は絶対悪だ」と言っているのと、ほとんど同じようなものだと言える。
 「法律が大事だ」と言うのであれば、「悪を止める」という行為自体も、人間として守るべき最も上位に位置する法(守り事)の1つであるはずだ。なぜこんな当たり前のことが理解できないのだろうか?

 もし、「そんなことは法律には書かれていない」と言うのであれば、あなたは人間性を欠いた「法律の奴隷」でしかないと思う。
【関連記事】法律の存在理由と法律万能教の信者の誕生

 自分の子供や兄弟が目の前で傷付けられようとしている時に、暴力は禁じられているという理由で黙ってその場を見ているのが本当に正しいことなのか? その結果、自分の子供がいじめを苦に自殺した場合、それが正しい選択(行為)だったと言えるのか?

 「言える」と言うのであれば、あなたの人間性を疑うともに、これ以上、もはや何も言うことはない。

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間違いだらけの「体罰批判」【“いじめ”と“いびり”】

2013011101 「いじめ問題の次は体罰問題だ」と言わんばかりに、突然、表面化した格好の庶民ネタに各メディア(特にマスメディア)は大騒ぎになっている。少し前の、「いじめを隠蔽していた学校」という言葉を「体罰を隠蔽していた学校」に置き換えたいだけのような煽情的かつ短絡的な報道が繰り返されている。

 毎度思うことながら、現在の報道を観ていると、なにやら「体罰」という言葉だけが独り歩きしているように感じられる。今回の事件の場合、「体罰という言葉を使用するのはおかしい」という比較的冷静な意見も聞かれるものの、では何がおかしいのかということになると、「暴力だ」「虐待だ」と言う意見が多いようだ。
 しかし、肉体への体罰を「暴力」だとし、それが生徒を自殺に追い込んだ原因であるから体罰を禁止しなければならないと言うのであれば、少しお門が違っている。

 暴力には、暴力を伴わない「言葉の暴力」というものがある。もし、今回の事件が物理的な暴力を伴わずに「言葉の暴力」のみで自殺問題に発展していた場合は何と言うのだろうか?

 この質問に対して「体罰だ」と言う人はおそらく誰もいないだろう。つまり、今回の問題は「体罰」ではなかったということになる。
 では何と言うべきなのか? 答えは「いびり」である。

 既に多くの人が述べていることだが、そもそも論として、「体罰」というものは、何か悪いことをした生徒に対して罰を与える行為を意味するので、単に試合に負けたとか、能力が足りないといった理由で生徒に暴力を振るうことは「体罰」では有り得ない。なぜなら、生徒を殴ったり蹴ったりしても、その生徒の能力が向上するわけではないからだ。こういう因果関係を無視した暴力行為は特訓的な意味合いの「しごき」にも該当しない。

 いじめを行ったという理由で、
   「顔面を平手打ち(ビンタ)」・・・・体罰

 試合に遅刻したという理由で、
   「校庭を100周走らせる」・・・・しごき

 能力が足りないという理由で、
   「生徒を殴る・蹴る」・・・・肉体的いびり
   「生徒を罵倒する」・・・・・精神的いびり

 簡単にまとめると以上のようになると思うが、教師が生徒に対して、その行為を行うことによって、事態の改善に繋がることであれば、体罰やしごきを特に問題視する必要もない。鼻血が出るとか骨折するような体罰や、健康を害するとか死の危険が伴うようなしごきは問題だが、通常の体罰であれば、有っても構わない…と言うよりも、全く体罰が無い学校の方が危険だと言える。

 例えば、生徒によるいじめ事件があれば、教師がいじめを行った生徒を平手打ち(ビンタ)することは仕方がない。それは必要悪というものである。
 まずは言葉で注意すべきであることは言うまでもないが、言葉で言っても解らない人間には、暴力をもって教えるしかない。他人の痛みが解らない人間には、自らも痛みをもって解らせるしか方法がない。
 正気を失った犯罪者を警官が暴力行為によって諌めるのと同様、他人を傷付けても心が痛まない異常者には正義の鉄槌が時には必要だ。学校には子供を叱るべき親がいないのだから、親に代わって教師が体罰を与える行為は事情によっては認めるべきだ。

 まともな体罰までも禁止にすれば、元々、事勿れ主義で無法化している学校が更なる無法地帯と化し、野獣の如く野放し状態となったいじめっこは、ますます手が付けられなくなってしまい、いじめによる自殺問題は更にエスカレートすることになるはずだ。そんな地獄のような学校なら、存在自体が悪であり、もう必要無いということになってしまう。「体罰は絶対悪」と言っているような人は、学校の更なる地獄化を望んでいるとしか思えない。

 家庭内でキッチリと子供の教育ができない不出来な親が「教師が生徒を殴ってはいけない」などと言う資格は無いし、教師がそんなクレーマーのような親の存在を許しておく必要もない。教師も生徒も言いたいことをハッキリと言える学校にすることこそが、今回のような問題を防ぐには最も重要なことである。

 今回、自殺した生徒も、おそらくは多くのいじめ自殺者と同様、「逃げ場が無い」と思ったのだろうと思う。単に暴力が嫌だったのではなく、クラブのキャプテンという責任ある立場(または将来ある地位)にいながら、期待通りにいかない状況に不安を感じ、そこに教師からの体罰という名のいびりが重なり、自殺に追い込まれたのだろうと推察する。
 実際はもっと複雑が事情が絡んでいるのかもしれないが、結局のところ、いじめ自殺問題同様、閉鎖された教育空間が齎した悲劇であることには違いはないだろう。


【追記】2013.01.12
 毎度のことながら、トンデモない曲解をしている人がおられるようなので追記しておくと、私は今回のクラブ顧問の教師を擁護しているわけではありません。念のため。

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「デフレ脱却」は可能か?【2種類のデフレ】

2013010901 このところ、「デフレ脱却を目指す」という言葉が毎日のようにテレビや新聞で伝えられている。「デフレ」については何度かブログ記事を書いてきたので重複になる部分が有るかもしれないが、デフレには、「広義のデフレ」と「狭義のデフレ」というものがある。
 「広義のデフレ」とは、グローバルデフレのことであり、「狭義のデフレ」とは、ジャパンデフレ(各国のデフレ)のことを意味している。世間に出回っているデフレ論は、大抵この2つをごっちゃにして述べられているので、よく分からない理論になっているように感じられる。

 グローバルデフレとは「世界の物価が均一に収斂していく過程における先進国の物価の値下がり(後進国の場合は値上がり)」のことなので、1国の金融政策でどうこうできるようなものではない。

 一方、ジャパンデフレというのは、正確に言うならば、「市場におけるお金の流通量が不足していることを1つの原因とした多重構造的な不況」のことを意味する。
 ジャパンデフレは「デフレの番人」と揶揄される日銀が招いた不況だとも言われている。世界中がグローバルデフレ下にあっても、各国単位ではデフレではない国も有るという不思議な論説は、実は狭義のデフレ論を語っているわけだ。
 ジャパンデフレとは、人々がお金をあまり使用しないために物価が必要以上に下がっていく現象のことを意味し、その状態を「デフレ」と呼んでいるに過ぎない。早い話、ジャパンデフレというのは、単なる不況(デプレッション)のことなので、「デフレ脱却」と言うよりも「不況脱却」と言った方がより正確だと言える。

 ゆえに、「デフレ脱却を目指す」と言っても、そのデフレがどちらのデフレを指しているかで、答えが変わってくることになる。「グローバルデフレ」であれは鎖国でもしない限り脱却は不可能だし、脱却する必要もない。なぜなら大部分の人々(消費者)にとって良いデフレであるからだ。無論、グローバルデフレによる物価下落スピードが給料の下落スピードよりも速い場合に限る。

 では「ジャパンデフレ」の場合はどうか? この場合は脱却できる可能性は有る。しかし、こちらも、お金が足りていない状態だけが不況の原因ではないので、金融緩和を行ったとしても絶対的に脱却できるという保証はない。

 アベノミクスで「大々的な金融緩和を行う」という発表があったことで円安になっている原因は、単純に、“円の流通量が増加することによって円の価値が下がる”と思われているからだと言える。世界各国が金融緩和でお金の量をどんどん増やしているのに、日本だけが“インフレになる”という懸念からお金を刷らずにいれば、当然、円の相対的価値は上がることになる。(逆にお金を刷れば円の相対的価値は下がることになる。)

 日本は人口減少社会ではあるが、世界全体では人口がどんどん増加している。その増加した人口に対してお金の量を増やしていかない国の通貨価値は世界的にどんどん上がっていくことになる。ただそれだけのことである。
 しかしながら、金融緩和を行って円安になったからといって、直ぐさまジャパンデフレから脱却できるというわけではない。

 ジャパンデフレ脱却で重要なことは、増やしたお金が本当に市場に流通するかどうかということであり、継続的に流通し続けるかどうかで明暗が分かれてしまう。喩えて言うなら、輸血した血液が滞ることなく全身を巡り続けるかどうかにかかっているということになる。
 大々的な金融緩和を行えば、始めの内はカンフル剤的な効用があることは間違いない。増えたお金が市場を巡っているうちは景気が良くなることは確かだが、そのお金が徐々に貯蓄として積み上げられていくと、最終的に国民の貯蓄額だけが増加した(=国の借金だけが増加した)という結果になってしまう場合も考えられる。

 1500兆円もあると言われてきた国民の金融資産がほとんど動かないことがジャパンデフレの主原因であり、そこに10年間で200兆円注ぎ込むということは、1割から2割程度の資金増加となる。
 その200兆円が呼び水となって1500兆円の内の一部のお金が動くか、それとも200兆円のみが動いているだけか、あるいは国民の金融資産が1700兆円になるだけかもしれない。そういった違いによって結果は大きく変わってくると思われるが、余程の効果(500兆円以上が市場に出てくるとか)がない限り、急激なインフレになる可能性は極めて低いのではないかと思う。

 ジャパンデフレがすっかり板に付いてしまった現在の日本では、「金融緩和でインフレになる」という心配よりも、むしろ、「金融緩和で本当にジャパンデフレ脱却ができるかどうか」をこそ心配した方がよいかもしれない。単にお金の量が増えるだけで流通し続けなければ、インフレにはならないことは、ここ20数年来の日本の経済状態を見れば明らかだ。

 インフレになる心配が有るとすれば、金融緩和によってではなく、原発停止による電力供給懸念等から化石燃料が値上がりして、それが呼び水となって間接的に物価が上昇する可能性の方が高いかもしれない。実際、灯油の値上がりから野菜の温室栽培等の経費が上がり、商品の値段が上がるのではないか?という噂もチラホラ聞かれるので、近い将来、「化石燃料の高騰によって発生する物価上昇」が「インフレになったのはアベノミクスの影響だ」と勘違いされるような状況が現出するかもしれない。

 物事には必ず“原因”と“結果”がある。金融緩和を含むアベノミクスの実行後には、原因と結果を正しく見抜く眼力が試されることになるかもしれない。

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玉石混淆なブログコメント(反論・批判・中傷・誤読)

2013010401 ブログを公開すると、誰しもが書いた記事の内容に対して様々な反論や批判のコメントを頂戴することになる。記事をオープンにしコメントを受け付けているわけだから、これは当然のことで、如何なる反論や批判があったとしても受け入れるしかない。
 世の中には主義・信条の異なる人が大勢いるので、自分自身の考えを正直に書くと、賛否両論のコメントが返ってくることは仕方がない。私自身も自分では正しいと思っていても間違ったことを書いている場合があるかもしれないので、そのことを指摘してくれるコメントは参考にさせてもらっている。しかし、コメントの中には、反論でも批判でも中傷でもないものがたまに有る。それが、誤読や誤解によって為される予想外のコメント(大抵は批判)である。

 当ブログには通常のコメント欄(オープン)とweb拍手を経由したコメント欄(クローズド)を設けているが、面白いことに、オープンなコメント欄には否定的な意見(中傷も含む)が多く、クローズドなコメント欄には肯定的な意見が多い(9割以上は肯定的な意見)。
 後者は拍手ボタンを押下した後のコメントだから肯定的なコメントになるのは当たり前かもしれないが、総じて、肯定的な意見の人は奥ゆかしく理論的で、否定的な意見の人は目立ちたがりで感情的な人が多いようだ。
 単に論破したい目的だけで反論を書いてくる人や、嫌がらせ目的で反論してくる人もいるが、そういった人は大抵、「馬鹿」とか「間抜け」とかいう悪態をついた言葉を使用する。自分自身のブログ記事として書くならともかく、そんな言葉を他人のブログに平気で書き残すような人物の言葉を信じろという方がどうかしていると思う。

 2年前から参加させて頂いているBLOGOSにおいても、なぜかランキングが上位になるに比例して感情的な批判コメントが増える傾向にある。最近、BLOGOS内ではコメントを受け付けないようにされているブロガーが増えているようで、「誹謗中傷的なコメントに耐えられない」といった苦情を編集部に寄せているブロガーが増えているということなのかもしれない。

 私の場合、反論や批判も全て読みたいというタイプなので、特に今後もコメントを受け付けないというようなことはお願いするつもりはないのだが、問題は先程も述べた誤読や誤解に基づいたコメントである。これには如何ともし難いものがある。単なる批判や中傷であれば、誤解を拡散することは無いだろうけれども、誤読に基づいた批判は、ある意味で厄介だ。なぜ厄介なのかというと、表面上は信用毀損行為でありながら、その悪意の有無が分からないからである。

 例えば、最近もBLOGOSコメント欄に以下のようなコメントがあった。まさか意図的に誤読コメントを書いているわけではないと思うので、誤読されたという前提で誤解を解いておこうと思う。(当人が読まれるかどうかは分からないが…)

【BLOGOS該当記事】ポピュリストの誤算とポピュリズム政治の終わり

>>思うに、消費税の増税反対を訴えるなら、なぜ、いっそのこと減税にまで踏み込まないのか不
>思議だ。

>↑消費税増税反対をこのように断言する一方で、下記の記事のように自信満々に消費税増税論を
>批判し、吊し上げ、陰謀と断じたのは何だったのでしょうか

 その後に続く文章で、確かに少し誤解を招くかな?という懸念はあったのだが、案の定、誤読されてしまったようで、私が消費税増税論者に鞍替えしたと誤解されたらしい。しかし私はあくまでも消費税増税反対論者なので、誤解のないように。

>これから推察すると、筆者は「自民党の増税は善行であり、民主党のそれは悪行である」「民主
>党の自由主義は社会主義であり、自民党の社会主義は自由主義である」と、信じていると思われ
>ます、経済学説以前に、「自民マンセー教カルト集団」の一員ですね?

 これも全くの誤解であり、私は消費税増税に賛成する記事は一切書いていないし、自民党を批判する記事は書いたことがあるが礼賛する記事は書いていない。以前(3年半前)に、「自由民主党」は「社会民社党」だと指摘した記事も書いているので、この人が言うところの「自民マンセー教カルト集団」では有り得ない。

【証拠記事】自民党の捨て身の戦略は功を奏するか?

>筆者は東電の税金での救済、国営原発、電力独占統制経済支持に続いて、この記事で亡国の「ア
>ベノミクス」=「血税による公共事業バラマキ統制経済社会主義」を崇拝しているので、

 これも全くの曲解(言い掛かり?)で、東電の税金での救済など賛成していないし、国営原発や電力独占統制経済にも賛成していない。一体どこからこんな論が出てきたのか不思議だ。もしかして、脱原発批判=東電擁護論者とでも思われているのかもしれないが、もしそうだとすれば、とんだ誤解だ。
 私は現在のヒステリックな反原発や現実味のない脱原発に反対しているだけで、“社会主義的な体制を善しとし、その体制にドップリと漬かってきたにも拘らず、都合よく原発を否定するリベラル(=自分勝手な社会主義)な風潮”を批判しているだけである。無論、その批判は東電や原発行政を擁護するためではなく、もっと大きな危険性を孕んでいるという理由からである。

 「アベノミクス」については、(反増税策としての)金融緩和と(真っ当な)公共事業であれば支持するという立場であり、自民党自体を支持しているわけではない。と言うよりも、まともな政策を実行してくれる政党であれば、どこの党でも構わない。アベノミクスという経済政策で本当に景気が良くなり税収が増加すれば、消費税増税の撤回をこそ願っている。

 こんな弁解を述べても全く無意味かもしれないが、誤解が更なる誤解を生んでしまうことを少しでも避けるために敢えて書かせていただいた。当ブログ読者におかれましては誤解のないようお願いしておきます。


【追記】2013.1.5
 本記事の当事者ご本人(yahoo user 09f5e氏)から再コメントがありましたので、少しだけ返答を追記します。

>じゃあ「真っ当な公共事業」とは何なのか?
>そもそも国家主導の財政バラマキで経済を成長させる、という統制経済の思想は社会主義的ではないのか?

 「公共事業」というものは別名で「公共投資」とも言います。つまり「投資」です。インフラへの投資というものは、基本的に民間ではできません。ヤフーのような例外は有りますが、それはあくまでも例外です。「真っ当な」というのは、富を生む(必ずしも無駄にならない)公共投資のことです。
 例えば、ヤフーが行ったようなインターネットインフラ整備を国が先行して行えば公共事業ということになりますが、それは無駄にならない公共投資でもあります。無駄なバラマキは社会主義に通じますが、意味のある必要な投資は社会主義とは言えません。

>また、件の記事で消費税増税反対論をポピュリズムと断じているが、ポピュリズム的反増税論と筆者の反増税論で違いは明白に存在するのか。

 元記事をよく読んでもらえれば分かると思いますが、私が「ポピュリズム」と言っているのは、“減税まで言及しない消費税増税反対論者”のことです。

>また、なぜ消費税を増税してはいけないのか、代替の財源はどうするのか、

 増税というものはあくまでも最終手段です。経済が衰退することを前提に代替の財源のために安易に増税を行う姿勢こそが、統制経済(社会主義)です。

>公共事業で血税を使って、使った血税以上に税収が増えるなんていう「大きな政府」が民間より賢く経済成長するなどという社会主義に賛同しているのもおかしい。

 先に述べた通り、「公共投資」です。公共投資まで全く必要ないということであれば、国民は税金を支払っている意味が半減しますので、それこそ消費税増税も無用ということになります。生活におけるインフラは全て個人個人で揃えなければならないということであれば、それは「小さな政府」を超えた極端な自由主義(アナーキー主義)です。

>とにかく筆者は、「自民党の社会主義」には融和的で「民主党の社会主義」には批判的に見える。非常に偏向している。

 特に偏見を持っているわけではありませんが、実績によって優劣を付けているだけです。これまでの民主党政治を冷静に観てきた人なら、大抵は「民主党<自民党」になると思いますが。

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朝生『激論!日本復興のシナリオ』を観て。

2013010201 元旦に録画していた朝まで生テレビ!『激論!日本復興のシナリオ』を観てみた。

 内容的には、与党に返り咲いた自民党のアベノミクスの先行きを占うもので、広く浅くながらも比較的に多岐に及んだ内容だった。中でも竹中平蔵氏の発言が際立っており、「経済には期待値が重要」という発言は、まったくその通りだと思った。

 当番組には、ベストセラー『デフレの正体』で有名な藻谷浩介氏も出演されていたが、経済における心理学的な側面を重要視する竹中氏と、あくまでも統計学的なデータに拘る藻谷氏は実に対照的に感じられた。番組中の当人達の言葉にもあった通り、まさに「マクロ」(竹中氏)と「ミクロ」(藻谷氏)という感じだった。その言葉を象徴するかのように、勝間和代氏が藻谷氏に対して「木を見て森を見ていない」というようなツッコミ(?)をされていたのが印象的だった。

 最近、「アベノミクスの影響で株価が騰がり円安になっている」という意見をよく耳にするが、実質的にアベノミクスが実行されたわけではない。全く何も行われていないにも拘らず、これだけ経済が拡大方向に向かっているのは、まさしく「期待値」の為せる業である。このまま行くと将来的には“大胆な金融緩和が行われ、景気が良くなるかもしれない”という期待値が経済を動かしている。
 無論、海外の投資家もその流れに乗っている。その流れにマネーゲーム的な側面が有ることは否定できないが、そんなことを否定しても何も始まらない。投資であろうと投機であろうと、自国の株式市場に活気を与えてくれる(資金を注ぎ込んでくれる)人間がいることは喜ぶべきことである。
 「金融緩和を行うとインフレになる危険性がある」と言っても、未だ全く金融緩和は行われていない。ゆえに現在の状態は、全くインフレになる危険性が無い状態で、経済が拡大しているということになる。ここが非常に重要なところで、「経済は人間心理で動く」「景気は気のもの」という言葉の意味する状態が、現在の株高、円安を齎している。

 アベノミクスが行われることによって結果がどうなるかは分からない。吉と出るか凶と出るかを予想することはできても、誰にもハッキリと断言することはできない。
 しかし、だからといって悲観論に傾き何もせずにいれば良いというわけではない。アベノミクスがどういう結果になろうとも、具体的なビジョンを国民に提示することこそが、経済を拡大する意味で最も重要なことでもある。極言すれば、具体的なビジョンさえ示すことができれば、結果は後から付いてくる場合も有るのである。

 そういった集団心理が齎す経済動向というものは、官僚的に過去の統計をいくら頭に詰め込んでも全く導き出せないものである。統計学というものを用いて経済を計ることができたのは経済が右肩上がりの確実性の時代のみであり、そういった時代は既に終了している。先行きの分からない不確実性の時代には、過去の統計などは全く役に立たない。これは当たり前の話だが、確定された過去の統計から不確定な将来の期待値は計測できないのである。

 民主党が政権を担っても株価が全く上がらなかったのは、期待値が無かったから。つまり、集団心理を理解した経済政策が全く採れなかったことにある。多くの国民は内心で“民主党では景気が悪くなるに違いない”と思ったからこそ、経済が低迷したままで一向に拡大しなかったのである。

 「そんなはずがない!」と言う人がいるかもしれないが、そんなはずはあった。なぜなら、民主党の場合、経済政策の善し悪し以前に、経済(成長)政策自体が無かったからだ。国民に明確なビジョンを示すことができなかったことが、民主党の最大のマイナスポイントだったと言える。
 人間心理が経済に与える影響を無視する(または理解できない)人々のことを「経済音痴」と言う。民主党が「経済音痴政党」と言われた所以である。自民党が掛け声だけの「経済音痴政党」でないことを祈りたい。と同時に、アベノミクスが期待値を上回ることを期待したい。

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