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体罰アレルギー論者達の矛盾と疑問(命と法律はどちらが重要か?)

2013011401 前回の記事では様々な意見を頂戴することになり、一応現時点での全てのコメント(BLOGOS及びlivedoorNEWSも含む)を読んだ上で一言述べさせていただくと、どうも誤解されている人が多いなというのが率直な感想だった。

 今回の大阪の桜宮高校の事件は、体罰よりも悪質な暴力事件(私はいびりと認識した)だということで、その批判も込めて、現在の「体罰」を前提とした世論自体が根本的に間違っているという指摘をしたつもりなのだが、多くの人が「体罰」という言葉に囚われたままで、中には、私が体罰を肯定し今回の事件のクラブ顧問を擁護していると誤解されている人もいた。これには流石に呆れてしまった。

 私は誰が読んでも理解できるように、なるべく平易な文章で書いているつもりなのだが、それでも全く逆さまに受け取られる人がいるようで、限られた文章で意見を伝えるのは難しいことだと改めて再認識した。
 斜め読みした印象だけで反論を書いているとしか思えない人もおられたが、間違いだらけの世論に気付いてもらおうと書いたものの、読まれた人の認識も間違いだらけだったという実に皮肉な結果になってしまった。

 記事の内容がどうであれ、「体罰」という言葉を使用しているだけでアレルギー反応的にその言葉を受け入れないという人がいることもよく分かった。「時と場合によっては体罰が必要だ」と述べただけでも、条件反射的に拒否反応を示す人々がいるようなので、言葉を変えて説明するしかないのかもしれない。

 ここで少し思考実験をしてみよう。

 あなたが、車の運転免許を持っている人だとして、ある日、あなたが運転免許証を携帯するのを忘れて徒歩で街に出かけたとしよう。その日、運の悪いことに、あなたの目の前で交通事故が発生し、事故を起こした運転手が轢き逃げした。その被害者は重傷で車で病院まで運ばないと命の危険がある。周りには、あなたと交通事故の被害者以外、誰もいない。しかし、運良くキーの付いた車だけが目の前に停まっていたとしたら?(ここでは電話は無いものとする)

 その時、あなたはどうするだろうか?

 1、その車に無断で乗車して被害者を病院まで運ぶ。

 2、「運転免許証を持っていないので運転できない」と被害者に伝える。

 3、車の窃盗罪と運転免許の停止(剥奪)を恐れて逃げる。

 この質問は、「」と「法律」のどちらが重要かということを問うている。
 「命」を救うためには、時と場合によっては「法律」を破らなければならない時もあるということを述べているわけだが、法律で禁じられた「体罰」を絶対的に認めようとしない人々は「」や「」を選択するとでも言うのだろうか?

 常識的な一般人であれば、たとえ運転免許証を忘れたとしても、たとえ窃盗罪に問われる危険性があったとしても、「」を選択するのではないかと思う。
 その結果、法律を破ることになったとしても、被害者の命を救うために、仕方なく法律を犯したということであれば、情状酌量ということで免責されるというのが、良識ある社会の対応というものだろう。それを、「あいつは法律を犯したので、運転免許を取り上げるべきだ」と言っているのが、体罰を絶対悪とする人々の姿だと言えるのかもしれない。

 目の前で生徒が暴行を受けている時に、勇気を持って仲裁し、いじめを行っている生徒を殴って制止することも、これと同じことだ。そういった勇気ある教師に対し、「あいつは法律を犯したので教師を辞めさせるべきだ」と言うのは正しいのか?
 もしそれが正しい社会だというのであれば、それこそが狂気の社会であり、そんな社会でいじめ等の犯罪が無くなるはずもないだろう。(実際にそうなっているとも言える)

 これは体罰の有無がどうかという問題ではなく、目の前で犯罪が行われている時、それを制止するために暴力を使用することが悪になるかどうか?という問題であり、「法律で禁じられている」などと言うのは、話を摺り替えているだけだと思う。

 体罰を絶対悪だとする人々は、基本的に「命」を大事にする人々であると思われるが、一方では法律の遵守を絶対視する傾向にある。この矛盾をどう説明するつもりなのだろうか? 論理的に納得できる説明ができる人がいるのであれば、一度お聞きしてみたいものだ。

 「人を救うことよりも法律を守ることの方が大事だ」というのは、“融通が利かない”という意味では、「体罰は絶対悪だ」と言っているのと、ほとんど同じようなものだと言える。
 「法律が大事だ」と言うのであれば、「悪を止める」という行為自体も、人間として守るべき最も上位に位置する法(守り事)の1つであるはずだ。なぜこんな当たり前のことが理解できないのだろうか?

 もし、「そんなことは法律には書かれていない」と言うのであれば、あなたは人間性を欠いた「法律の奴隷」でしかないと思う。
【関連記事】法律の存在理由と法律万能教の信者の誕生

 自分の子供や兄弟が目の前で傷付けられようとしている時に、暴力は禁じられているという理由で黙ってその場を見ているのが本当に正しいことなのか? その結果、自分の子供がいじめを苦に自殺した場合、それが正しい選択(行為)だったと言えるのか?

 「言える」と言うのであれば、あなたの人間性を疑うともに、これ以上、もはや何も言うことはない。

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教育問題」カテゴリの記事

コメント

>常識的な一般人であれば、たとえ運転免許証を忘れたとしても、
>たとえ窃盗罪に問われる危険性があったとしても、
>「1」を選択するのではないかと思う。

いやいや無い無い。それはない。

なんで自分を犠牲にしてまで、赤の他人を助けないといけないの?

投稿: らいち | 2013年1月15日 (火) 03時08分

再び長文失礼いたします。

自由人さんのおっしゃる「体罰アレルギー論者」(私も含まれるのかどうか分かりませんが)が、ガチガチの「法律の奴隷」だったと仮定します。
しかし、そうだとしても、少なくとも今記事に登場した事例の解決には、まったく不都合がないと思われます。
なぜなら、どの事例も「法律違反」でないということは、「法律には書かれてい」るからです。


「車に無断で乗車して被害者を病院まで運ぶ」行為は、免許証不携帯罪(道交法95条1項、同120条9号)かつ窃盗罪(刑法235条)の構成要件に該当します。
しかし、「自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為」であり、「これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り」、違法性がなくなり、したがって犯罪は成立しません(「罰しない」、同37条1項)。

これを緊急避難と言って、違法性がなくなるので違法性阻却事由と言います。
つまり、「情状酌量ということで免責」以前に、そもそも「法律違反」ではないのです。


「目の前で生徒が暴行を受けている時に、勇気を持って仲裁し、いじめを行っている生徒を殴って制止することも」、違法性阻却事由という点では「同じこと」です。
殴る行為は、暴行罪(同208条)の構成要件に該当します。
しかし、「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為」であり、違法性がなくなり、したがって犯罪は成立しません(同36条1項)。

これは正当防衛と言って、やはり違法性阻却事由の一種です。
交通事故事例との違いは、行為による侵害利益と保護利益とが「正対正」の関係ではなく、「不正対正」の関係にあるというところです。


まさに自由人さんがおっしゃっておられるように、「これは(中略)目の前で犯罪が行われている時」(特に後者の事例)、「それを制止するために暴力を使用することが悪になるかどうか?」または違法になるかどうか?「という問題であり」、「体罰の有無がどうかという問題では」ないのです(むしろ後者の事例など、正当防衛の典型事例です)。
自由人さんの「体罰」定義に従うとしても、上記事例はいずれも「体罰」にはあたらないと思われます。

そのうえで、事例そのものの解決としては、(道徳的には悪という立場もあり得ますが、少なくとも法的には)どちらの事例も違法ではありません。
なお、「体罰の有無がどうかという問題」そのものについては、前記事における私のコメントを参照してください。


「自分の子供や兄弟が目の前で傷付けられようとしている時に、暴力は禁じられているという理由で黙ってその場を見ているのが本当に正しいことなのか?」という問いも、「体罰の有無がどうかという問題では」ありません。
しかも、細かいことですが、「黙ってその場を見てい」なければならない(不作為義務)かどうかというよりは、「黙ってその場を見てい」てかまわない(作為義務がない)かどうかという問題になっています。

これは、(道徳的には「正しい」という立場もあり得ますが、法的には)「不作為犯」という問題になります。
この場合、作為義務の有無が問題になりますが、「体罰の有無がどうかという問題」からずれるので、割愛します。
逆に、仮に暴力を振るった(作為)としても、上記事例と同じく正当防衛として違法性がなくなり、したがって犯罪は成立しません。


なお、「道徳に反する法律に従う義務はあるか(悪法も法か)」という問いは、悪法問題と言います(「ナチスのユダヤ人迫害」がよく引き合いに出されます)。
「悪法も法か」という問題設定がされる場合、前提として当該法律が悪法であることについては共通認識があるといえます。
しかし、「体罰」に関する法律(学校教育法11条など)が悪法であることついては、共通認識がありません。
なにしろ「体罰アレルギー論者」がいっぱいいますから。

したがって、「『命』と『法律』どちらが重要か?」と問われて、命のほうが大事と抽象的には言えるとしても、それはいわゆる「体罰必要論」の根拠にはならないでしょう。
むしろ、禁止論の根拠になるかもしれません。
また、「体罰の有無がどうかという問題では」ない上記事例についても、(少なくとも現行法に関するかぎり)「命」と「法律」とは両立しています。
それはたとえば刑法36条や37条の文言を見ても分かる通りです。


以上の説明では、「論理的に納得できる説明」にはならないでしょうか。

投稿: Recht | 2013年1月15日 (火) 19時17分

こんばんは、記事読ませていただきました。車が停まっていたのは、タイヤにトラブルがあったためであり、被害者を病院に搬送中にタイヤが外れ、歩道にいた親子を轢き殺してしまったケースはどうでしょう?

投稿: | 2013年1月15日 (火) 21時37分

>Rechtさん

横から失礼します。
多分筆者が言いたいのは、あなたの言う「法律違反」にあたらない部分まで「体罰」というひとくくりにまとめられ、否定されてる事に関して問題提起してるんじゃないかと思います。

投稿: | 2013年1月16日 (水) 00時45分

結局のところ、この人(筆者さま)の頭のなかにある「教師がいじめ加害者を殴ることでいじめは解決し被害者は救われる」っていう、不思議で都合の良いファンタジーが根底にあるので、笑うしかないんだよなあ。こんなイイワケされてもw

投稿:   | 2013年1月17日 (木) 15時59分

思考事件のくだりですが、正直、レベルが低すぎる。法律の基礎知識もろくにないのによくこんな思考実験(笑)を記事に書けますね。恥ずかしいと思わないのですか?

「3、車の窃盗罪と運転免許の停止(剥奪)を恐れて逃げる。」の記述からして、窃盗罪が成立すると思っているのですか?あなたの挙げた事例では「不法領得の意思」を欠くので、そもそも窃盗罪が成立する余地がないです。緊急避難を指摘されている方がいますが、そもそも構成要件に該当しないので、違法性阻却を論じるまでもない。

>目の前で犯罪が行われている時、それを制止するために暴力を使用することが悪になるかどうか?
――いいえ。現行法下においても、正当防衛が成立するので違法性はありませんよ。

投稿: | 2013年2月 2日 (土) 22時32分

刑法の構成要件に該当もしないのに、窃盗罪が成立していると勘違いしているとは・・・。抽象的に窃盗とは人の者を盗むこととか思ってるのでしょうか・・・。刑法の教科書読めばこんな恥ずかしい記事を書かずに済んだのに・・・。思考実験でいいたことは分かりますが、例があまりに不適切でしょう。思考実験の部分を書き換える方がいいのでは。あなたが「私は法律が分かっていません」とアピールしたいのであれば話は別ですが・・・。

投稿: | 2013年2月 3日 (日) 17時04分

>上のかたへ
一瞬、間違えたかとドギマギしましたが、自動車の一時使用の場合、不法領得の意思を否定するのは難しいのではないでしょうか。

まあ、それでもいいのです。
窃盗罪不成立と解する場合は、緊急避難は免許不携帯罪に関してのみと読み替えてください。

投稿: Recht | 2013年2月 4日 (月) 02時11分

たびたびすいません。
「窃盗罪不成立」ではなく、「窃盗罪の構成要件不該当」ですね。

投稿: Recht | 2013年2月 4日 (月) 02時13分

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