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2013年2月

『市場原理』と『市場破壊原理』を混同する人々

2013022801 「モノの価格は市場原理によって決まる」という有名な言葉がある。需要と供給の交差する地点が最適な価格になるという経済原理のことを言い表した言葉だ。
 ある商品を1万円で売りたい人と、その商品を1万円で買いたい人がいれば、需要と供給の原理によって、その商品の売買が成立する。この法則はオークションや株式売買等でもお馴染みの原理である。
 しかし、本来この原理がまともに機能すると言えるのは、前提となる環境条件が整っている場合の話である。

 所謂「市場原理主義者」(意味不明な言葉だが)と呼ばれる人々は、モノの価格は市場に任せれば全て最適な価格に収斂するという考えを持っている。しかしながら、「最適な」という言葉の定義は、環境条件によって大きく変わってくる。
 例えば、生産者が正規社員ばかりの市場と、非正規社員ばかりの市場では、最適なる価格というのは大きく違ってくる。百貨店とコンビニでは売られている商品が違うが、仮に同じ商品を販売した場合、人件費云々で利益率は大きく変わるので、最適な価格設定は違ってくる。
 もし、市場原理の役割が“商品を限りなく安くすること”でしかないなら、日本の労働者は全てパートかアルバイトにしなければ成り立たないということになってしまう。

 本来、市場原理というものが機能しているのであれば、労働市場すらも平準化されるべきだが、実際のところはどうなっているのかというと、歪な大きな格差が開いたまんまだ。
 現代日本で安値競争を繰り広げている企業の従業員の大半は、基本的にパートやアルバイトとして雇用されていることはよく知られている。雇用形態をパートやアルバイトにすることによって最適な価格を下げているわけだが、これが全員、正社員であれば、当然、最適な価格は上がってしまうことになる。この事実1つ取っても、市場原理で決定される価格というものは、前提となる環境条件によって変わることが分かる。価格というものは、市場原理だけで決まるのではなく、環境条件も考慮に入れなければ意味が無いということだ。

 上記は日本の例だが、20世紀以前の経済環境と21世紀以降のグローバル経済環境下では、「最適な」という言葉の意味するものが全く違ってくるため、その定義を根本的に見直さなければいけない。
 「市場原理によって価格は決まる」という台詞が如何に正論であったとしても、経済のグローバル化によって発生した“変数”を無視した経済理論は、なぜか現実感が伴わない。それは定義自体が曖昧なためである。

 20世紀以前の如何なる優れた経済学者であっても、現代のような複雑化したグローバル経済を前提にした経済学を説いたわけではない。
 経済学というものも、その時代、その環境において最善となる答えが変わってくるものなので、如何なる大経済学者が説いたことであろうと、それが必ずしも現代で通用するかどうかは分からない。良く言えば「形骸化」、悪く言えば「机上の空論」と化してしまうのが、経済理論の宿命でもある。過去の経済公式や統計理論をどれだけ頭に詰め込んだところで、複雑化した現代の経済を把握したことにはならない。なぜなら、確立された21世紀の経済学などは、未だ誰も説いていないからだ。

 無論、「市場原理」という法則は普遍のものである。しかし、市場原理によって決定される価格というものは、その前提となる市場の違いによって異なる。
 日本という1国の市場で考えるか、それとも世界という全体市場で考えるかで、決定される価格というものは違ってくる。個々の市場によって決定される「最適な価格」のことを市場原理価格と呼ぶのであって、決して世界で「最も安い価格」が市場原理価格ではないのである。

【関連記事】『市場原理』とは何か?

 もし、グローバル経済下で、最も安い価格にすることだけを目的とした市場原理を徹底して押し進めれば、日本人の平均所得はいきなり現在の10分の1以下まで下落することになるだろう。日本の労働者の平均年収が400万円と仮定すると、それがいきなり40万円になってしまうわけだから、時給に換算すれば、せいぜい200円以下になるということである。
 最低賃金が約800円になっている国で、いきなり平均所得が時給換算で200円になってしまうことが、はたして現実的(最適)な解だと言えるだろうか? 仮にそれが市場原理によって齎される最適な解だとして、「はい、そうですか」と素直に納得できるだろうか?

 あまりピンと来ない人がいるかもしれないので、もっと分かりやすい例えで言おう。
 もし、地球人の10倍の仕事能力を持った異星人が何十億人と地球に飛来し移住することになったとして、“地球人は異星人の10分の1しか仕事ができない”という理由で、いきなり収入を10分の1にすることは正しいのか?ということだ。市場原理というものが、異星人が混在する市場においても絶対だということであれば、如何に自然の原理とはいえ、それが多くの地球人にとって容認できるものなのか?ということだ。

 異星人というのは、あくまでも例えなので的外れなツッコミはご遠慮願うが、日本よりも10倍以上人件費が安い中国などは、実質的に10倍の仕事ができる宇宙人みたいなものである。
 日本人も中国人も同じ人間なのでベースとなる仕事能力は変わらないが、人件費に10倍もの差があれば、競争にならない。無論、グローバル格差が縮小していけば問題はなくなるわけだが、縮小していく過程においては、なんらかの手立て(ソフトランディング化)は考える必要がある。

 競争にならないという理由から、「モノ作りは全て中国に任せて、日本は高付加価値仕事に携わるべきだ」というリカードの比較優位説のような意見もよく聞かれるが、先進国の人間が揃いも揃って全員、製造業を捨てるというのは、少々話が飛躍し過ぎであり、およそ現実味のない話である。
 そもそも、将来的にグローバル格差が無くなれば、どこの国にも万遍なく様々な業種の労働者が存在するのが当たり前という社会になるわけで、そう考えると、過渡期である現在だけ国によって業種を分けるというのは無理があると言わざるを得ない。

 国内市場のみで考えれば、正規労働者と非正規労働者では、同じ仕事をしていても収入が違う。この場合、市場原理がまともに機能すれば、両者の収入は平均的なものに収斂していくことになる。これなら誰が考えても正しいと思うだろう。
 同一の環境下で歪に開いた不条理な格差を正常な状態に戻すという意味での市場原理であれば納得もできるだろうが、元々大きな差のある異なる市場を一緒くたにすることで発生する様々なマイナスを一切コントロールせずに成り行きに任せ、それが市場原理だと言うのであれば無茶苦茶な話だ。現代という時代が、グローバル経済に移行する過渡期であるということを完全に無視した考えだと言わざるを得ない。
 お役所等の無駄を是正する意味での市場原理と、世界格差を無くす意味での市場原理とは、似て非なるものであり、齎す結果も全く異なる。
 
 一応お断りしておくと、本記事はグローバル化や競争原理が悪だと言っているのではない。全く環境の異なる市場をいきなり混ぜ合わせることによって生じる当然の諸問題を全く考慮せずに、全てを市場原理ならぬグローバル原理(市場破壊原理)に任せるというのは、ある意味で文明人としての思考を放棄した姿であるということである。

 「デフレは消費者にとっては天国」と言われる。しかし、世の中に生っ粋の消費者というのはほとんどおらず、大抵は消費者でありながら生産者でもある。働かなくても生きていける一部の絶対消費者にとっては、モノの価格が最適化(世界統一の最低価格に下落)するのは良いことであっても、大部分の人々にはそうとは限らない。

 グローバル化によって問題が生じることが予め判っているのであれば、その問題をできるだけ最小化するために知恵を絞る、それが国民を主役に置いた「経(世)済(民)学」の基本というものだ。経済の主役は理論ではなく、あくまでも人間なのである。

(補足)本記事は「TPP」のことを述べたわけではないので、誤解のないように。

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「神の見えざる手」と「悪魔の見えざる罠」

2013022301 前回の記事では、際限の無い安値競争は日本のデフレに拍車をかける一因になっていると述べた。物の価値が下がり続けることが当たり前というデフレ思考も行き過ぎると、本来の市場法則以上に物の価値が下がり続けることになり、結果的に自らも貧しくなっていくという原因結果の法則を述べた。この現象を経済用語を用いて一言で言い表せば「合成の誤謬」ということになる。
 善悪は別にして、消費者としての個人的欲求(1円でも安く買いたいという欲求)を追求していけば、全体としてはジリ貧経済に陥っていくという、ごく当たり前の経済現象を述べた。

 前回述べたことを要約すれば、次のようになる。

 「全国民が合成の誤謬を理解すれば日本はもっと生きやすい国になる

 これはデフレが解消するという意味ではなく、デフレのスパイラル化を幾分かは抑えることができるという意味である。デフレは経済現象なので、ある程度は受け入れるしかないが、市場法則を超えた必要以上のデフレスパイラルまで受け入れる必要はない。海外からの安価な商品が入ってきて、日本製の商品の値段が市場法則によってある程度下がっていくことは仕方がない。問題は、その影響がバブル化して際限のない値下げスパイラルに陥ることだ。経済原理ではなく、人間心理によって齎される無意味な値下げまでも経済現象(神の見えざる手)だと錯覚してはいけないということである。「神の見えざる手」ではなく「悪魔の見えざる罠」に嵌っていると言えば、分かりやすいかもしれない。

 経済現象としてのデフレを人為的に解消することは困難だが、デフレのスパイラル化は人間の知恵によって、ある程度は解消できる。
 際限の無い安値競争が日本経済を悪化させている(=自分自身の生活をも悪化させることになる)ということを理解した上で働くか、それとも全く理解せずに(それが良いことだと思って)働くのとでは、大きな違いが生まれる。

 最近、「金融緩和によってデフレは解消できるか?」ということが話題になっているが、正確に言えば、デフレが解消されると言うより、他国の商品価値が上がると言うべきかもしれない。つまり、金融緩和による円安によってデフレが幾分かましになるということである。
 自国の通貨価値が下がることによって、他国の通貨価値が騰がれば、当然、その国(他国)の商品価値は上がり、その商品を輸入する場合、料金が上がることになる。仮にこれまで50円で仕入れていた商品を60円で仕入れることになれば商品価格は2割増になるので、100円ショップが120円ショップになる計算になる。

 単純にそう考えると、動くお金の量が1.2倍になるので、給料も額面では1.2倍になる(可能性が有る)ということだが、給料価値が上がるわけではない。商品が1.2倍になったとしても、給料が1.2倍以上にならないことには実質的には所得が下がったことになる。額面が変化したとしても、商品とお金の交換価値が変化しない限り、給料が上がったことにはならない。こんなことはわざわざ書かなくても誰もが理解していることだと思うが…。

 金融緩和によって自国の通貨を下げることは、人件費の安い国々の通貨価値に少しは近付くということなので、グローバル経済格差を少しでも緩和できるという意味では、必要な手段ではある。
 「金融緩和で日本は滅ぶ」という意見も最近よく耳にするが、「金融緩和をしなければ日本は滅んでいた」可能性の方が高いかもしれない。
 デフレ思考という「悪魔の見えざる罠」に嵌っている人々が自主的にお金を大々的に使うということは考えられないので、そんな異常時には政府が主導して大々的にお金を使用して(刷って)、その罠から脱するしかない。「悪魔の見えざる罠」に嵌った人々に「神の見えざる手」は機能しないからである。

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デフレ思考脱却(安値競争地獄からの脱皮)のススメ

2013021701 昔、小中学校の近所には「文房具店」というものが必ず存在していたが、現在では文房具店そのものが、ほとんど姿を消してしまった。スーパーや百貨店の1コーナーとしての高級文具店は残ってはいるが、安売り文具店というと、今では100円ショップに完全にお株(仕事)を奪われてしまい、「文房具=100円ショップ」は既に定着してしまった感がある。

 この身近な社会の変化こそが、デフレ現象の最たるもので、その理由は、中国等の国々からの安価な労働力を利用した安価な商品が流入してきたことによる。ユニクロやニトリといった企業も、海外(主にアジア)の安価な労働力を利用して、そこで作られた商品を日本に輸入(海外には輸出)することで利鞘を稼いでいるビジネスモデルであることはよく知られている。

 そういった安価な商品が日本に入ってきたことによって、日本の商品にも値下げ圧力が加わり、1円でも安く売ることが企業の至上命題となり、まるで利益を取ることが罪であるかのような空気が日本中に満たされた。この空気こそが、デフレ思考の根源であり、日本的デフレ不況の正体でもある。

 デフレ不況の最大の問題点は、資本主義の存在基盤たる「利潤」というものを否定する空気にある。その空気が国民の思考に影響を及ぼすことによって行き着く先は、利益が限りなく0に近付いていく社会でもある。利潤という概念が存在しなくなっていくという意味では、最終的には共産主義的な社会に限りなく近付いていくことになる。
 これこそがデフレ思考の最大の問題点だと言える(注意:デフレの問題点ではなくデフレ思考の問題点)。資本主義下での利潤0というのは、共産主義よりも性質(タチ)が悪い。(死ぬほど働いても利益0では、奴隷以下になってしまうという意味)

 資本主義社会は適度の利潤があってこそ成り立つ社会であり、利潤が0になった場合、資本主義システムは崩壊する。
 日本の民間企業で働いている人々が、利潤を追求することなく、利益を悪しきものだと考え、限りなく利益を0にすることを目標に実践すれば、その会社も崩壊の危機に晒されることになる。

 少々オーバーな話を述べてみたが、実際、現在の日本企業では“利益を悪”とする思考が蔓延しているかに見える。「中国で作ればこんなに安くできるのに、日本で作ればなぜこんなに高いのか?」というような言葉に囚われ、他のアジア諸国に比べて高額な人件費(給料)を得ている日本の労働者は悪だとする自虐思考が蔓延している。

 その結果、薄利で過労死寸前まで働くというような労働形態が、まるで、これまで暴利を貪ってきた人間の罪滅ぼしであるかのように思い込まされ、ブラック企業というものが蔓延る社会を当然であるかのような空気まで醸成されつつある。経済成長時代を経験していない若年者にとっては、老人の尻拭いをしているようで甚だ迷惑な話だと思う。

 利潤を最大化するために企業で働く人々は合理化に努める。なぜならば、合理化の精神を失った企業は容赦なく市場から淘汰されることになるからだ。この考えは、一国の経済単位で考えれば確かにその通りであり、グローバル化以前の日本でも正しい考えだった。しかし、現代のように労働単価(人件費)が全く異なる国々が同じ土俵の上で価格競争を行うということであれば少し話が違ってくる。極限まで合理化に努めたとしても、全く太刀打ちできない相手とケンカをすれば、利益が0どころか、マイナスになっても敵わないという事態に陥ってしまうことになる。
 
 そこで出てくる結論でよく聞かれるものが、「日本は製造業を卒業して高付加価値サービス業にシフトするべき」というような意見だ。
 しかし、先進国の中にも第一次産業から第三次産業まで揃っているのが普通であり、一国の全ての労働者が第三次産業の従事者などというのは有り得ない社会である。その比率を変えることは可能でも、全国民がこぞってサービス業を行うというような真似事はできないので、どこまでいっても絵空事でしかないと言える。

 「金融緩和によってデフレ脱却する」と言っても、円安になるだけでは不十分で、日本に蔓延しているデフレ思考をまず見直さないことには真のデフレ脱却は不可能だろうと思う。ハイパーインフレなどと心配するのは、デフレを脱却した後の話であるのだから、夢のまた夢だ。(夢と言うより悪夢)

 企業が「1円でも利益を取るのは悪だ」というようなデフレ思考を捨て、消費者が「1円でも安く買わなければ損だ」というデフレ思考を改めない限り、デフレから脱却するのは難しい。

 こう言うと「そんなのは商売を知らない人間の戯言だ!」と言う人が必ず出てくるが、逆にそういった人は経済というものを全く理解していないのである。

 ところで、あなたは、100円ショップが200円ショップになったとすれば、どう思うだろうか?

 「許せない!」と思うような人は、紛れもなくデフレ教の信者になっている。デフレ思考からの脱却とは、“物の価値は下がるのが当たり前”とする「デフレ教」の洗脳を解くことに他ならない。
 デフレ思考脱却に必要なものは、消費者が生産者に対して「1円でも多く儲けてもらおう」という逆転の発想(思考)である。「1円でも多く奪ってやる」というような心の貧しい思考を捨てることに努める必要がある。そういうさもしい考えも行き過ぎると、巡り巡って自分自身に跳ね返ってくることになるという単純な経済原理を知らねばならない。

 多くの国民が、無益な安値競争地獄からの脱皮を目標にすれば、少しは景気も良くなり、デフレ不況も少しは改善に向かうはずだが、こんな簡単なことが最も難しい。退治するべきはデフレではなく、人間の愚かな心なのかもしれない。

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金融緩和の正体【機会の平等政策】

2013021401 既に様々な有識者がアベノミクスによる金融緩和の是非について意見を述べているが、なぜか意見が真っ二つに分かれている。まるで神学論争の如く悲観論と楽観論がせめぎ合っているような状態だが、果たしてこれはどちらが正しいのだろうか?

 リバタリアン的な自由主義論者や、資本主義の精神を重要視する合理主義者は、“お金を刷って解決する”という一時凌ぎ的な経済政策を理性的に嫌う傾向にある。
 “お金を刷って解決する”という方法は、どこか“借金を帳消しにする”とか“努力しない者も報われる”というようなイメージを彷佛とさせるので、自己責任感の強い人間ほど、なかなか素直に受け入れられないということなのかもしれない。
 労働市場が既得権益によって大きく歪んでいる日本社会は、ある意味では“真面目に働いている人間が馬鹿を見る社会”でもあり、そういった既得権益構造を変えない限り、日本経済の真の復活はないというエコノミストの言い分も確かに一理ある。
 しかしながら、今回の金融緩和については、合理主義的な考えを一旦、白紙に戻して考えた方が良いのかもしれない。

 ソニー、パナソニック、シャープなどの輸出企業が今回の円安を契機に経営難を一時的にでも逃れたことは否定できない事実であり、昨年には大赤字だったこれらの企業が揃って息を吹き返しつつあることは周知の通りだ。
 こんなことなら、もっと早く大幅な金融緩和を行っていれば、昨年の大幅な人員削減も少しは緩和されていたのかもしれないな…と悔しい思いをしている元従業員も、さぞかし多いことだろうと思う。

 逆に、無策のまま急激な円高が続いていたと仮定すれば、ソニー、パナソニック、シャープといった大企業が本当に経営破綻していた可能性もまんざら否定できない。そうなれば、当然のことながら、関連企業や下請企業なども揃って経営が立ちいかなくなっていただろう。それだけでなく、無関係の企業も先行き不安心理から更に新規雇用を抑制することになり、大失業時代の扉を開くことになっていたかもしれない。

 本来、円高や円安に善も悪もないが、急激な円高、急激な円安は、ある程度は是正しコントロールする必要はあると思う。グローバル化やIT化(ネット化)にしても、その現象自体に善も悪もないが、「急激な」という言葉が前に付けば悪になる場合がある。なぜなら、その急激な変化に耐える努力をする以前に、その努力をする間も与えられることなく破壊されるシステムが生まれるからである。努力する余地が有ればなんとかなっていたものを、その余地が無いがゆえに、コントロール不能に陥り、必要外の大きな損失を出してしまうことがあるからだ。

 こういった意見に対しても、「時代に付いていけない企業は淘汰されるべきだ」とする反論があるかもしれない。しかし、ここで問題としているのは、“時代に付いていけないこと”ではなくて“急激な変化に付いていけない”ことである。時代ではなく、スピードに付いていけないだけで悪と見做すのは短絡的過ぎるというものだ。
 淘汰の原理を「スクラップ・アンド・ビルド」と言えば聞こえは良いが、必要外の淘汰まで礼賛しても意味がない。本当に無駄な部分についてはスクラップする必要は有るだろうが、無駄とは言えない部分までスクラップすれば、その先のビルドもできなくなってしまいかねない。何事も両極端ではいけないのである。

 ベルリンの壁が崩壊して以降、世界経済は1つの大きな市場となり、先進国以外の国々を巻き込んだ自由競争の波が世界中の先進国に津波の如く押し寄せた。それまでの先進国と発展途上国は、それぞれ2つの市場を形勢し、一方では物価が高い国々、もう一方では物価が安い国々という具合に分断された市場であったものが、グローバル化の波によって2つの市場の垣根が消失し、世界は1つの巨大なマーケットと化した。

 先程も述べた通り、グローバル化自体は悪ではない。世界中の人々が同じマーケットで労働に従事することは、長い目で観ればおそらく良いことだろうと思う。しかし、それが理想だと言えるのは、労働における前提条件が同じであればこその話である。
 現在ただいまのグローバル市場というものは、国によっては労働における人件費が全く異なっている。日本と中国を比較しても、未だ10倍以上の開きがあるため、まともに競争しても勝てるはずがない。世界中の労働者の人件費が同程度であれば、グローバル競争は良いことだと言えるが、人件費が数十倍も開きがある歪な市場でまともな競争原理など機能するはずが無いことは少し考えれば誰にでも解ると思う。

 そういった事情があるため、世界中の先進国は自国の通貨だけでも下げようと画策し、金融緩和政策を行っているわけだ。要するに、金融緩和政策とは、労働における機会の平等が失われている状態を少しでも緩和しようという試みでもあるのである。「機会の平等」を目指すということなら、リバタリアンも合理主義者も納得できるのではないかと思う。

 金融緩和を一国の単なる「バラマキ」と捉えるか、それとも世界を舞台にした「機会の平等政策」と捉えるかで、ものの見方は180度違ってくる。

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「触らぬ生徒に祟りなし教育」の行く末

2013020201 正直なところ、体罰問題は一過性のもので、1ヶ月もすれば収束に向かうのだろうと高を括っていた。しかしその考えは甘かったようで、未だ全く騒ぎが収まる気配がなく、マスコミの煽り(過剰報道)のせいもあり、ますますエスカレートしつつあるように見受けられる。
 テレビを観ていても、連日のように「体罰を受けた」という生徒が名乗り出て、教師を訴えるというようなニュースが報道されており、オリンピックの柔道女子選手までもが、監督を告発するというような前代未聞の事態にまで発展してしまった。
 と言っても、私も柔道における暴力的な指導を肯定するつもりはないので、これに関しては行き過ぎた指導であったのだろうと思う。もともと、レスリングや柔道というような肉体を武器にしたスポーツ選手は血の気の多い人が多いと思われるので、少々暴力的な指導になるのは職業病だと言えなくもないが、選手から「ノー」を突き付けられたのであれば、謝罪するしかない。

 無駄な誤解を避けるために、まず始めに根本的なことをお断りしておくと、私は体罰は絶対的に必要だとは思っていない。悪い(または危険な)行為をした生徒を叱ることは必要だとは思うが、体罰制度を設ける必要が有るとは思わない。しかし、同時に「叱る」という行為の中には、暴力が伴ったとしても、それは仕方が無い場合も有ると思っている。

 こう書くと、「体罰は法律で禁止されている」という筋違いの反論が返ってくることになるのだが、「生徒を叱る」という行為を無条件に「体罰」だとするのは間違いだ。こういう反論をしてくる人は、まるで《生徒が全員、体罰を義務付けられる》というような錯覚(強迫観念)を抱いているのかもしれないが、大部分の真面目な生徒は体罰とは無縁だということを見失っているのではないかと思う。悪いことをしない限り、誰も教師から暴力行為を受けることはない。それは法律が保障している通りだ。しかし、犯罪行為を行った生徒にまで教師は指一本触れてはいけないということであれば、それはただの無法社会である。
 法律を盾にする人間が無意識的に無法社会を望んでいるというのだから、自己矛盾も甚だしい。

 現在、いじめ問題も大きくクローズアップされていることは周知の通りだが、多くの人がこう言っている。

 「いじめは犯罪行為だ!

 その通りだ。しかし、そうであるなら、いじめという犯罪行為を行った人物を「体罰は法律で禁止されている」というような理由で擁護することは明らかに矛盾している。
 「いじめは犯罪行為だ!」と言うのであれば、そのいじめを行った生徒は法的に裁かれなければならないということになるが、犯罪行為を行った生徒にすら手を出してはいけないということであれば、「いじめっこに対する体罰も法律で禁じられている」ということになる。こんな都合のよいデタラメな法律解釈があるだろうか?

 「いじめは犯罪だ」と言いながら、一方で「いじめっこも法律で保護されている」と言うのであれば、ただの詭弁でしかない。
 法律を犯した人間を裁くのは法律であるというのは理解できるが、法律を犯した人間を制止するのに同様の法律を適用するのは筋違いというものだ。

 少し前までは、「生徒と先生のスキンシップ」というものが大事だと言われていたが、この調子でいくと、教師は生徒に触れることもできないというような、教育におけるアンタッチャブル社会が構築されてしまうのではないかと心配になる。

 他人の所有物を盗んだとか、危険な行為を行ったということで、教師から拳骨や平手打ちされるような光景は何度も見たことがあるが、今後はそういったことまで「体罰」と見なされ、法律を犯した犯罪者のような扱いになってしまうのだろうか?
 もしそうだとすると、現在の教師達はまさに痴漢の冤罪者予備軍になったような気分だろうと思う。

 これまで教師と生徒との触れ合いを重要視してきた教育熱心な人権主義者達は、「体罰(と言うより暴力)事件」を境にして、生徒との触れ合いを禁ずるという、全く逆さまの価値観を伝播するに至ってしまった。
 そんな価値観が常態化するのであれば、もう生身の教師など必要無いということになってしまう。今後は、生徒は全員、学校などに行かずに、ネット中継されたテレビ画面の教師から教育されるというスタイルに切り替えた方が、教師にとっても生徒にとっても幸せかもしれない。学校に行かずに自宅で学習できるなら、いじめ問題は根絶するし、教師も生徒に触れて訴えられる危険性が無くなるし、良いことづくめかもしれない。まさに「触らぬ生徒に祟りなし教育社会」の到来だ。

 いじめも暴力も一切無い理想的な教育社会、それこそ彼ら人権主義者達が夢想したユートピアなのかもしれない。(無論、皮肉だが)

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