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金融緩和の正体【機会の平等政策】

2013021401 既に様々な有識者がアベノミクスによる金融緩和の是非について意見を述べているが、なぜか意見が真っ二つに分かれている。まるで神学論争の如く悲観論と楽観論がせめぎ合っているような状態だが、果たしてこれはどちらが正しいのだろうか?

 リバタリアン的な自由主義論者や、資本主義の精神を重要視する合理主義者は、“お金を刷って解決する”という一時凌ぎ的な経済政策を理性的に嫌う傾向にある。
 “お金を刷って解決する”という方法は、どこか“借金を帳消しにする”とか“努力しない者も報われる”というようなイメージを彷佛とさせるので、自己責任感の強い人間ほど、なかなか素直に受け入れられないということなのかもしれない。
 労働市場が既得権益によって大きく歪んでいる日本社会は、ある意味では“真面目に働いている人間が馬鹿を見る社会”でもあり、そういった既得権益構造を変えない限り、日本経済の真の復活はないというエコノミストの言い分も確かに一理ある。
 しかしながら、今回の金融緩和については、合理主義的な考えを一旦、白紙に戻して考えた方が良いのかもしれない。

 ソニー、パナソニック、シャープなどの輸出企業が今回の円安を契機に経営難を一時的にでも逃れたことは否定できない事実であり、昨年には大赤字だったこれらの企業が揃って息を吹き返しつつあることは周知の通りだ。
 こんなことなら、もっと早く大幅な金融緩和を行っていれば、昨年の大幅な人員削減も少しは緩和されていたのかもしれないな…と悔しい思いをしている元従業員も、さぞかし多いことだろうと思う。

 逆に、無策のまま急激な円高が続いていたと仮定すれば、ソニー、パナソニック、シャープといった大企業が本当に経営破綻していた可能性もまんざら否定できない。そうなれば、当然のことながら、関連企業や下請企業なども揃って経営が立ちいかなくなっていただろう。それだけでなく、無関係の企業も先行き不安心理から更に新規雇用を抑制することになり、大失業時代の扉を開くことになっていたかもしれない。

 本来、円高や円安に善も悪もないが、急激な円高、急激な円安は、ある程度は是正しコントロールする必要はあると思う。グローバル化やIT化(ネット化)にしても、その現象自体に善も悪もないが、「急激な」という言葉が前に付けば悪になる場合がある。なぜなら、その急激な変化に耐える努力をする以前に、その努力をする間も与えられることなく破壊されるシステムが生まれるからである。努力する余地が有ればなんとかなっていたものを、その余地が無いがゆえに、コントロール不能に陥り、必要外の大きな損失を出してしまうことがあるからだ。

 こういった意見に対しても、「時代に付いていけない企業は淘汰されるべきだ」とする反論があるかもしれない。しかし、ここで問題としているのは、“時代に付いていけないこと”ではなくて“急激な変化に付いていけない”ことである。時代ではなく、スピードに付いていけないだけで悪と見做すのは短絡的過ぎるというものだ。
 淘汰の原理を「スクラップ・アンド・ビルド」と言えば聞こえは良いが、必要外の淘汰まで礼賛しても意味がない。本当に無駄な部分についてはスクラップする必要は有るだろうが、無駄とは言えない部分までスクラップすれば、その先のビルドもできなくなってしまいかねない。何事も両極端ではいけないのである。

 ベルリンの壁が崩壊して以降、世界経済は1つの大きな市場となり、先進国以外の国々を巻き込んだ自由競争の波が世界中の先進国に津波の如く押し寄せた。それまでの先進国と発展途上国は、それぞれ2つの市場を形勢し、一方では物価が高い国々、もう一方では物価が安い国々という具合に分断された市場であったものが、グローバル化の波によって2つの市場の垣根が消失し、世界は1つの巨大なマーケットと化した。

 先程も述べた通り、グローバル化自体は悪ではない。世界中の人々が同じマーケットで労働に従事することは、長い目で観ればおそらく良いことだろうと思う。しかし、それが理想だと言えるのは、労働における前提条件が同じであればこその話である。
 現在ただいまのグローバル市場というものは、国によっては労働における人件費が全く異なっている。日本と中国を比較しても、未だ10倍以上の開きがあるため、まともに競争しても勝てるはずがない。世界中の労働者の人件費が同程度であれば、グローバル競争は良いことだと言えるが、人件費が数十倍も開きがある歪な市場でまともな競争原理など機能するはずが無いことは少し考えれば誰にでも解ると思う。

 そういった事情があるため、世界中の先進国は自国の通貨だけでも下げようと画策し、金融緩和政策を行っているわけだ。要するに、金融緩和政策とは、労働における機会の平等が失われている状態を少しでも緩和しようという試みでもあるのである。「機会の平等」を目指すということなら、リバタリアンも合理主義者も納得できるのではないかと思う。

 金融緩和を一国の単なる「バラマキ」と捉えるか、それとも世界を舞台にした「機会の平等政策」と捉えるかで、ものの見方は180度違ってくる。

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コメント

急激な変化についていけない人、困っている人は別に悪ではありません。
そういう人を助けてあげることも、悪ではありませんよ。

どうぞ、あなたのお金で助けてあげてください。
誰もそれを批判しませんよ。
おなたのお金を何に使おうと、それはあなたの自由です。

ただし、他人の財布に手を突っ込んだならば、それは泥棒です。
泥棒は悪です。
合理的精神とか言う以前に、人間としてのアタリマエの道徳です。

投稿: muu | 2013年2月19日 (火) 03時49分

追記しますが、

>「機会の平等」を目指すということなら、リバタリアンも合理主義者も納得できるのではないかと思う。

これはいったい何の冗談ですか?
リバタリアンってなんのことだか、何もわかっていないなら、書かない方がいいですよ。
恥ずかしすぎます。

もしかしたら、真面目にそんなこと思っているのですか?
もしそうなら、「リバタリアン 機会の平等」でググってみたほうがいいですよ。

投稿: muu | 2013年2月19日 (火) 04時09分

muu様

コメント、有り難うございます。

>これはいったい何の冗談ですか?

 多分、あなたの言わんとしているのは、「リバタリアンは私有財産権としての機会の平等を否定している」ということだと思いますが、私の書いたのは「(労働における)機会の平等」です。
 国家が労働市場に介入することを嫌う(実際、国家が介入することで労働における機会の平等が失われる)のがリバタリアンであるなら、労働における機会の平等は認めるべきだという意味です。半分は私の持論ですが。

投稿: 管理人 | 2013年2月19日 (火) 23時43分

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