« 2013年7月 | トップページ | 2013年9月 »

2013年8月

消費税増税タイミングは「今でしょ」の欺瞞

2013083101■「今でしょ」という流行語にあやかる消費税増税論者達

 ついこの間までは、2013年度の流行語大賞は、自民党の「アベノミクス」か、東進ハイスクール/林  修氏の「今でしょ」でほぼ決まりかと思っていた。しかし今夏、思わぬダークホースが出現した。そのダークホースの名は皆さんもよく御存知の人気テレビドラマ『半沢直樹』の台詞にある「倍返しだ」という言葉であることは言うまでもない。
 「アベノミクス」は民主党時代の株価の「倍返し」を見事に演じたわけだが、逆に消費税の増税も「今でしょ」と言わんばかりの勢いで進められているかに見える。

 個人的には今年の流行語が「アベノミクス」でも「今でしょ」でも「倍返しだ」でも構わないのだが、この「今でしょ」という言葉にあやかってか否か、政界では大きな間違いが起ころうとしている。その間違いとは無論、消費税増税タイミングの問題である。

 現在、60人の有識者に消費税増税について意見を聞くという『集中点検会合』なるものが催されているが、現在までのところ、消費税の増税に「賛成」の立場をとっている人が大半を占めているらしい。その中には「条件付きの賛成」や「一時的な先送り」も含まれるのかもしれないが、今回のヒアリングには、消費税増税に「賛成する」「反対する」「先延ばしする」という選択肢は有っても、「減税する」という選択肢は無いらしい。
 「毎年1%ずつ消費税を上げていく」という意見はあっても、「毎年1%ずつ消費税を下げていき、最終的に2%にする」というような意見は聞こえてこない。

■“景況感の改善”無しの消費税増税論

 有識者だということで選ばれた人物が「消費税を上げるのは今でしょ」では、本当に真っ当な知識を有しているのかどうか疑わしい限りだが、消費税を上げるのは本当に今で正解なのだろうか?

 本来、増税というものは好況時に行うというのが経済運営の常識であり鉄則でもある。有識者の中には「アベノミクスで景気が良くなったので増税する」というような安直な考えを持っている人もいるのかもしれないが、現時点で景気が良くなった(と言うより元に戻った)業界は、円安によって恩恵を受けた輸出産業と一部の建設業者ぐらいのものであり、世間一般では全くと言っていいほど景気が良くなったというような実感は無く、実際に「景気が良くなった」というような話も聞こえてこない。

 代わりによく聞かれるのが、「未だ全く景気が良くならない」とか「アベノミクス効果など全く無いのではないか?」というような冷やかな台詞であり、現状では、実体経済の景気はほとんど変化していないとみるのが正しい判断だろうと思う。
 麻生副総理がインタビューで「増税する時期は整いつつある」などと自信満々に応えていたが、どうも違和感を拭えない。正直なところ、実際の現場を知らない人間の戯言にしか聞こえない。

 専門家の間でもアベノミクスの効果が出てくるのは、少なく見積もっても2年程度はかかると言われているので、未だ世間一般の人々には景況感の改善が感じられないのは仕方が無いことだとしても、現段階で直ぐさま増税するなどという判断は論理的にも常識的にも筋が通っておらず、とても正気の沙汰とは思えない。

 アベノミクスの目的は「景気を良くすること」であるはずだが、その結果も未だ出ていない段階で安易に増税しなければならない理由が全く理解できない。増税のタイミングは、世間一般の人々が“景況感の改善”を真に肌で感じられるようになってから考えることであって、今すぐに決める必然性がどこにあるのか?という疑いを禁じ得ない。

■「アベノミクス」と「増税」の連関ロジックとは?

 全く経済成長戦略の無かった民主党時代であれば、増税以外に手段が無いと考えるのはまだ理解できるとしても、曲がりなりにも『アベノミクス』という経済成長戦略を携えている自民党がなぜ、消費税の増税を急ぐ必要が有るのか不思議でならない。

 先程、「アベノミクスで景気が良くなったので増税する」と書いたが、消費税の増税は、アベノミクスが失敗した時にこそ行うのが筋である。
 アベノミクスが成功した場合は、自然と税収も増加するので、増税する必要性は薄くなるが、アベノミクスが失敗した場合は、おそらく税収も落ち込むことになるので、増税するしか手段がなくなる。

 アベノミクスが成功 → 税率据置き、または減税
 アベノミクスが失敗 → 増税

 これが本来の正しいロジックである。もしこれ以外に増税するタイミングが有るとすれば、アベノミクスが10年間行われた後、アベノミクス無しでも経済が独り歩きし、景気が非常に良くなっていた場合の話である。

 ところが、消費税増税論者というのは、端からアベノミクスの正否などは考えておらず、とにかく「財政再建のためには増税するしかない」という立脚点から自前の増税論理を展開しているように見える。
 中には「アベノミクス」と「増税」を同時に行うことによって相乗効果で景気が良くなっていくと考えている人もいるのだろうが、そんなどっち付かずの矛盾を抱えた政策であれば、成功する確率が低くなることはあっても高くなることはないと言える。

 「決断できる政治」「決断できない政治」と言われることがあるが、「決断できる政治」とは、どっち付かずの優柔不断な政治を意味しない。安倍総理が政治家として本気で景気を良くしたいという願いを抱いているのであれば、経済成長戦略に背水の陣で立ち向かうべきであり、自らの背後に60人の有識者を置くというようなリスクヘッジ政策に傾倒するべきではない。

 安倍総理は現在、「決断できる政治」と「決断できない政治」の間で揺れ動いているように見受けられるが、有識者達に責任を転嫁するような真似事は止めて、リーダーシップによって「決断できる政治」を行ってくれることを切に願う。

にほんブログ村 経済ブログへ

| | コメント (1) | トラックバック (0)

デフレと鬱(うつ)病の関係

2013082501■1998年から続く「15年鬱(うつ)病」

 2年前(2011年)に厚生労働省が、これまでの「四大疾病」(ガン、脳卒中、心臓疾患、糖尿病)に新たに1つの疾病を加えたことによって「五大疾病」という言葉が生まれた。その追加された疾病とは「精神疾患」という病気であるが、基本的には鬱(うつ)病を中心とした「心」の病のことである。

 よく「デフレ」は「鬱(うつ)病」、「インフレ」は「躁(そう)病」に例えられることがあるが、まさに言い得て妙だと思う。1998年から始まったとされる日本の「15年デフレ」は、人間に喩えると、15年間も鬱(うつ)病が治らない状態だとも言えるだろうか。
 鬱(うつ)病は自殺の原因としても大きなウエイトを占めているが、現在の経済的理由による自殺の根本的な原因はデフレであるからだとも言える。
 この1998年から始まった日本のデフレの原因は、その時期的理由から、主として次の2つが挙げられることがある。

 1、1997年の消費税増税
 2、1997年のアジア通貨危機

 基本的にアベノミクス肯定派は前者であり、御用学者は後者であるらしい。そのせいか、アベノミクス否定派には消費税増税に前向きな人が多い。
【参考文献『アベノミクスを殺す消費増税』(田村秀男著)】

 人間の精神(心)というものは個人差が有るとはいえ、実に不安定なもので、失恋、離婚、失業、家族の大病や死などで、誰もが鬱(うつ)病になる可能性がある。と言うよりも、人生において1度も鬱(うつ)状態に陥ったことのない人を探す方が大変かもしれない。
 失恋や家族の死による鬱(うつ)状態というものは、ある程度、時間が経過することで自然と治っていくものだが、失業や大病の場合、その状態から抜け出さない限り、いつまでも鬱(うつ)状態が続く可能性が有る。新卒者がいつまでも就職できずにいる状態が続くと自殺に繋がるという現象は、まさに鬱(うつ)病の発症メカニズムと軌を一にしている。

 現代の日本経済というものも、先行きが見えない状態が15年(20年)も続いているため、デフレ状態から抜け出すことができずにいるとも言えるだろう。

■インフレを嫌いデフレを好む封建領主達

 高度経済成長時代やバブル経済時代は、明らかに先行きが見えていた。たとえそれが集団的錯覚であったとしても、人々は日本の将来は良くなるというイメージを抱き、そのことを信じて疑わなかった。ゆえにモノの価値が上がっていくというインフレ状態を素直に受け入れることができた。

 バブル時代、繁華街でタクシーを捕まえるために、片手に1万円札を握りしめてタクシーを呼ぶという現代では考えられないような羽振りのよい人々がいたことは、もはや語り草となっているが、その姿はまさしくインフレを象徴する「躁(そう)状態」の典型であった。
 誤解を恐れずに言えば、デフレに慣れきった現代人が、初乗り500円で乗れるタクシーに、その20倍もの金額を提示する(または実際に支払う)ことに躊躇しない人間を観れば「躁(そう)病患者」に見えたことだろう。

 デフレというものが精神的な鬱(うつ)状態であるとするならば、その状態から抜け出すために必要なことは、「未来は良くなる」というイメージを国民に与えることに他ならない。金融緩和によって円安、株高になったことだけで未来が良くなるわけではないが、一部の人々には少しは明るい未来を予感させることはできた。

 一方、金融緩和を否定している人々は、現状のデフレ状態を良しとしている。自らが鬱(うつ)病を患っていないという理由によって、「鬱(うつ)病を患った人々の気持ちなど知るか」と言わんばかりに。その姿は自らの金融資産がインフレで目減りすることを恐れる封建領主のようでもある。
 現在、一生食うに困らない金融資産や、一生食うに困らない地位を有している人々にとっては、モノの値段が下がり続けてくれる方が良いというわけだ。デフレ容認主義者というのは、一見、現状維持主義者を装ってはいるが、実のところは現在の身分を固定したいという既得権益主義者でもある。官僚がインフレを嫌う理由もまさにそこにある。

■「デフレも気から」の経済学

 昔から「病は気から」「景気は気から」と言われるように、「デフレも気から」「インフレも気から」と言うこともできる。「気」の別名である「」が変化しない限り、経済は動かない。

 経済の商行為においても、「1円でも多く値切ってやれ」という貧しい思考を脱皮して、「1円でも多く儲けてもらおう」という発想に切り替えることができれば、自ずと景気は良くなっていく。先に述べたタクシーの件は行き過ぎだが、チップを支払うという精神は非常に重要だ。実際の労働力以下の対価しか支払う気はないというような貧相なデフレ思考を捨てなければ健全なインフレにはならない。

 現在の日本では、「非正規雇用はいけない」と抗議している人々は多いが、パートやアルバイトという非正規雇用で成り立っている業界に対して抗議している人々は見かけない。パートやアルバイトで成り立っている安価なファストフード店の前で、「非正規雇用は止めろ」と抗議している人はいない。
 では、なぜそういった人々がいないのかというと、ファストフード店の従業員が全て正規雇用者になれば、メニュー料金が大幅に上がってしまうことになるからだ。300円以下で食べれる牛丼が600円になって困るのは、「非正規雇用は止めろ」と言っている人々でもあるからだ。
 こういうのを「偽善」と言う。自分達は正規雇用を願うが、他人は非正規雇用でも構わないという封建領主的な思考がそこに有る。そして、その思考こそが日本に広く蔓延し深く根ざした「デフレ思考」なのである。これは難治性の精神病のようなものであり、並大抵のことでは完治させることはできない。15年間も「モノの値段は下がる」というお題目を毎日唱えてきたカルト教の信者が、その洗脳から脱皮するほどに難しい問題だとも言える。

 いらぬ曲解を避けるために、予めお断りしておくと、ここで述べていることは、「ファストフード店の従業員を全て正社員にせよ」ということではない。他人に対して「1円でも安い商品を提供しろ」という姿勢を取り続けるのであれば、「自らの給料も安くなっていくことを受け入れなければならない」ということであり、その姿勢が変わらない限りデフレから脱するのは難しいという話である。

 デフレ放置論者の難儀なところは、インフレを否定することによって自らが悪性のインフレを呼び込む手助けを無意識的に行っていることに気付いていないところだ。もしアベノミクスが成功して適度なインフレ状態にすることが可能であったとしても、その芽を自らが摘んでいることに気付いていない。それゆえに、アベノミクスの正否に関係なく、どちらに転んでも批判できるという非常にズル賢い立場を意図せずに手に入れることになる。

 化石燃料や消費税が上がることによって齎される間違ったインフレ現象を観て「物価が上がった」「デフレの方が良かった」と言うような人物には要注意だ。今後、そういったトンチンカンな評論家や御用学者が出現する可能性が有るので、騙されないように注意しよう。

にほんブログ村 経済ブログへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『有給休暇制度』撤廃論の【補足説明】

 前回、「有給休暇」について以前から疑問に思っていたことを少し書いてみると、予想していた以上に閲覧者が多かったようで、2チャンネルにスレッドまで出来ていた。
 BLOGOSのコメント欄等、様々な意見(反論、批判)を読ませて頂いたが、読んでいると、「馬鹿」だの「アホ」だのという言葉が多く見られ、中にはタイトルだけしか読んでいないのではないか?と思われる人もおられた。
 タイトルが「『有給休暇制度』撤廃のススメ」だったので、これだけ見て条件反射的に《有給休暇が無くなり給料も減額される》と思い「何をバカなことを言っているんだ」ということになったのかもしれない。もし本当にそういった人がいるようなら、とんだ誤解なので、弁解の意味も込めて少し補足記事を書いておこうと思う。

 まず私は以下のように書いた。

 「有給休暇制度を撤廃し、その分、幾分か休日数を増やし、休日が増えた分だけ給料をカットする
 「有給休暇を始めから固定休日ということにし、慶弔や大病、事故などの絶対的に休まなければならない事情が有る場合を除き、その他の休暇は全て欠勤扱いにする

 これをどう受け取られたのかは分からないが、少しややこしい書き方をしてしまったので、誤解を招くことになったのかもしれない。おそらく読む人によっては解釈が違っていたのだろうと思う。
 「従業員・経営者共にWin-Winの真っ当な制度」とも書いたので、理解してもらえるだろうと思っていたのだが、どうも考えが甘かったらしい。

 上記の言葉を具体的に説明すると、例えば、現在20日間の有給休暇が有るとすると、その内の一部を初めから休日にするということだが、例えば、次のような場合が有り得るということを書いたつもりだった。

 20日間の有給休暇が有る場合

   5日間を固定休日(有給)にして、それ以外は欠勤扱い(無給)
  10日間を固定休日(有給)にして、それ以外は欠勤扱い(無給)
  15日間を固定休日(有給)にして、それ以外は欠勤扱い(無給)
  20日間を固定休日(有給)にして、それ以外は欠勤扱い(無給)

 20日間全てを固定休日にするというのは現実的に少々無理があると思われるので、実際は10日間程度になると考えるのが妥当なところだと思うが、要するに、経営者と従業員が双方納得できる折衷案ということである。
 この場合、現在、有給休暇をほとんど取得していない人にとっては、明らかに休日が増えることになる。もちろん、その分の給料は引かれない。
 大部分のサラリーマンにとっては、給料に影響せずに、煩わしい有給休暇取得願いの提出もせずに、休日が増えますよという前向きな提案のつもりだったのだが、逆に、給料が引かれ、何のプラスにもならない奴隷根性丸出しのブラック企業の経営者のような提案だと思った人が大勢いたらしい。確かに全ての有給が欠勤扱いになるということなら、従業員にとっては何のメリットも無いことになる。

 ただ、毎年、有給休暇を全て取得している人からすれば、この案でも「何をバカなことを言っているんだ」ということになる。一部の休日が欠勤扱いになってしまうということだから、そんなのは暴論だということなのだろう。
 しかし、法律的には有給休暇の取得は労働者に認められた権利ということになっているとしても、残念ながらそういった法律自体がまともに機能していないし今後も機能するとも思えない。そういう前提に立った上での提案なので、初めから有給休暇を全取得しているような人を対象にはしていない。
 別に法律を変えろというわけではなく、個々の企業がそういった独自の休暇システムを採用すればいいのではないか?という提案なので、現在、有給休暇を全取得できるような人の休日数を減らせと言っているわけではない。

 ワークシェアリングに触れている人もおられたが、それは私も意識していた。例えば、10日間の固定休日が増加すれば、年間250日が出勤日の人であれば、最大4%程度のワークシェリングが可能となる。しかしこれも実際は既存の従業員の残業が増えるだけの場合もあるし、社内失業者という問題も有るので計算通りにはいかないが、それでも1%程度なら雇用者数を増加できる可能性が有るかもしれない。

 それと、前回の記事は「お金(給料)」というものに限定した記事を書いたので、仕事の質や量、中身には敢えて言及しなかった。「仕事をちゃんとこなしているのであれば有給を取るのは個人の自由だ」と書いておられる人もおられたが、それはその通りだと思う。
 しかし、仮に仕事ができたとしてもその自由(有給休暇を取る自由)を行使できない場合もある。「仕事をこなした上で有給休暇を取るのは自由だ」と言っても、組織の中で個人主義を貫くのは難しいという現実的な問題がある。人を指導する立場にあれば尚更で、義務を果たさずに権利だけ要求するわけにはいかないという場合がある。それに職種によっては仕事のノルマを線引きするのは難しい。ゆえに、初めから固定休日にすればいいということになるわけだ。

 前回の記事を書いている最中、おそらく仕事内容についての反論が有るだろうなと思い、初めはその件も書いていた(予防線を張っていた)のだが、記事自体が必要以上に長くなり、返ってややこしい内容になってしまったので、敢えて、その部分を省いて投稿させてもらったという経緯がある。
 ブログ記事には特に字数制限が有るという訳でもないのだが、暗黙の字数制限というものは有る。その限られた暗黙スペースに万人に納得して(読んで)もらえるような事細かな記事など書けるわけがなく、どうしても最大公約数的な内容になってしまうことは仕方がない。

 しかし毎度、頂いたコメントを読んでいると、コメントを書く人にも様々な解釈をされる人がいるものだと驚かされる。先のワークシェアリングなど、私が書いていないことまで察してくれている人もいれば、全くお門違いの思い込みで批判を書いているとしか思えない人もいる。

 「文は人なり」というのはフランスのビュフォンの言葉だが、コメントを読んでいると、まさにそれが良く分かって面白い。しかし、批判のための批判、論破目的の反論などは、読んでいると、その底意が伝わってくる場合も多々有り、たまに気分が悪くなる時が有る。多くの有名ブロガーがコメント欄を閉じられているのも、そういった一部の人々の邪念に影響されるのが嫌でそうされている場合も有るのかもしれない。
 他人を罵るような言葉には目に見えない毒が含まれている。それが敏感に感じ取れる作家のようなタイプの人には堪らないということなのだろうと思う。

 反論や批判は大いに結構なのだが、どこかどうおかしいのか、なにがどう間違っているのかという説明もなしに、「馬鹿」だの「アホ」だのと言われても、なんの改善もできないし、誰もなんのプラスにもならない。
 今回の記事の場合は、そういった言葉を含んだコメントがあまりにも多かったので、「これは誤解を招いたかな?」と自分で判断できたわけだが、私が目を通した範囲では誰一人としてそのことを指摘してくれる人がいなかったのは残念だった。

 いずれにせよ、少々、誤解を招くような文章になってしまったことに対する反省文として、本記事を書かせていただいた。悪しからず。

にほんブログ村 経済ブログへ

| | コメント (7) | トラックバック (0)

『有給休暇制度』撤廃のススメ

2013080901■有名無実化している有給休暇制度

 「有給休暇」とは、読んで字の如く「給料の出る休暇」という意味だが、日本の会社は有給休暇がなかなか取れないことで有名だ。これは今に始まったことではなく、昔から誰もが疑問に思ってきたことでもある。
 決められた有給休暇を消化することが半義務化されている公務員や一部の企業を除き、有給休暇制度というものは有名無実化している。
 とはいえ、世間一般的には有給休暇制度というものは、病気などの理由で休んだ場合に給料が引かれないようにするために予備的に設けられた休暇制度という側面も有る。元々、万が一の保険のようなもので、取らないことが望ましいと認識している人も多いかもしれない。

 少し個人的なことを書かせてもらうと、私の場合、ここ数年間、法事で有給休暇を1日だけ取得した程度で、昨年は皆勤だった。土曜日も年間に半分程度は出勤しており、おまけに仕事が忙しい時は休日出勤も行っているので、世間一般よりもかなり休日は少ない方だと思う。
 昔は休日は日曜日だけだったという会社も多いそうだが、土曜日が出勤日か休日かという違いは実に大きい。出勤日を基準にして「7日中5日出勤」と「7日中6日出勤」を比較すると、あまり大差が無いように感じられるが、視点を変えて休日を基準にして考えてみると、「1週間に2日休み」と「1週間に1日休み」では実に2倍の差が有ることに気付かされる。
 たった1日の違いでも、「24時間の自由時間」と「48時間の自由時間」では雲泥の差で、次の週に残る疲労感にも圧倒的な差が出ることは言うまでもない。

■休むことに引け目を感じない有給休暇制度の導入

 話を戻そう。先程、「日本の会社は有給休暇が取れない」と書いたが、もちろん、強制的に取れないという意味ではない。では、なぜ取れ(ら)ないのかと言うと、有給休暇を取得することに抵抗感を感じるためである。その理由は人によって様々だが、大抵は次のような理由からだろうと思う。

 1、周りの人が休むことなく働いているのに、自分だけ休むのは気を遣う。
 2、理由もなしに休むのは、倫理的にどこか罪悪感がある。
 3、自分の代わりに仕事をする人がいないので休めない。
 4、ワーカホリック(仕事中毒)なので、休まなくても苦にならない。

 の場合、周りの従業員に対してではなく経営者(や上司)に対して気を遣うという人もいるかもしれない。経営者(や上司)の視点で観れば、従業員(や後輩)は休むことなく真面目に働くのが良い姿に映るので、そのイメージを損なわないために気を遣って休めないという人もいるだろう。

 は例外としても、有給休暇が取れない理由は「遠慮」という感情が大きな障壁になっていることはほぼ間違いない。休むという行為にあまり良いイメージが伴わないからこそ有給休暇が取れなくなる。
 「エコノミック・アニマル」と揶揄(賞賛?)された日本人らしい倫理観とも言えるのかもしれないが、この問題を倫理観を損なうことなくクリアすることができれば、日本でも有給休暇が普通に取れることになるはずだ。では、どうすればいいのか?

 この解決策は実はそれほど難しいことではない。単純に次のようにすれば、あっさりと解決するのではないかと思う。

 「有給休暇制度を撤廃し、その分、幾分か休日数を増やし、休日が増えた分だけ給料をカットする

 つまり、有給休暇を始めから固定休日ということにし、慶弔や大病、事故などの絶対的に休まなければならない事情が有る場合を除き、その他の休暇は全て欠勤扱いにすればいいのである。

 『遠慮の固まり』と化した有給休暇を取得することに引け目を感じるのであれば、その引け目を感じないようにすればいい。その方法論は、「休めば給料が下がる」という当たり前の労働システムの導入だ。言わば、『無給休暇制度』の導入である。

■有給休暇が取れない原因は『精神的な三重苦』

 現在の有給休暇制度では、有給休暇を取得した人間は、自らは罪悪感に苛まれ、従業員からは妬まれ、経営者からは疎まれるという“精神的な三重苦”を背負うことになる。
 しかし、休むことによって給料が引かれるのであれば、自らは休むことに気を遣う必要はなくなり、従業員からも公平感があるので嫉妬されず、経営者からも嫌な顔をされずに済む。
 
 現在の有給休暇制度というものは、休んだ人間も休まなかった人間も結果的に皆平等というような悪平等制度であるために有名無実化してしまっているとも考えられる。
 有給休暇の残日数が給料や賞与に影響するという会社も有るかもしれないが、そのような従業員の忠誠心を試すような姑息な踏み絵制度を設けなくても、従業員のやる気は別の方法でいくらでも測ることはできる。休むか休まないかだけで従業員を評価するなどという考えは時代遅れだとも言える。

 休んだ人間も休まなかった人間も平等にではなく、公平に処遇されるという当たり前の制度を導入すれば、有給休暇(ではなく無給休暇)を取得する人は自然と増えることになり、従業員・経営者共にWin-Winの真っ当な制度に様変わりすることになる可能性は極めて高いと思われる。

 実際、有給休暇を遠慮なく取得する人に限って、仕事も不真面目という場合が多い。それはどこの会社でも一緒だろうと思う。現在の有給休暇制度では、皮肉なことに「真面目な人間ほど休日が減少する」ことになる。
 本来なら、普段から真面目に働いている人間にこそ、リフレッシュ休暇を取得し英気を養ってもらうというのが正しい倫理観の根付いた社会の姿ではないだろうか?
 真面目な人間よりも不真面目な人間ほど楽をするというような現在の有給休暇制度は、やはりどこか歪んでいると言わざるを得ない。

 念のためお断りしておくと、私は仕事が嫌で休みが欲しいという理由でこんな記事を書いているわけではない。公平感の無い無意味な休暇制度なら、いっそのこと廃止にして、新しく公平な制度を設け直した方が良いのではないか?というだけの話である。
 仕事の忙しい繁忙期には休日出勤も大いに結構だ、しかし逆に仕事が暇な閑散期に休日を取得できないということであればフェア(公平)とは言えない。

 「休むが勝ち」というような悪平等な休暇制度を廃止し、いらぬ気を遣わずに自己責任の範疇において伸び伸びと休日が取れる本当の意味での自由な労働制度の導入こそが必要な時代だと思う。
 
 なお、本記事は「休暇取得のススメ」ではないので誤解のないように。

にほんブログ村 経済ブログへ

| | コメント (15) | トラックバック (0)

『効率化』の功罪【無意味な“効率化”に喘ぐ日本の製造業】

2013080401■「効率化」と「IT化」によるデフレ現象

 「効率化」という言葉がある。
 仕事が滞り無く増え続けた高度経済成長時代は、効率的に仕事をこなすことによって、1人が行える仕事量が増大した。バブル経済崩壊後も、膨れ上がった無駄な仕事を削減するという意味での効率化が行われた。この違う意味での2種類の効率化は時代の要請として必要不可欠なことだと認識され、無条件に受け入れられた。

 バブル崩壊の傷痕が癒えないまま無常(無情)に時は流れ、日本は否応無しにグローバル経済に突入していくことになった。時を同じくしてIT技術が飛躍的に進歩し、インターネットのブロードバンドが全盛となる時代を迎えると、それまでアナログ的に作業されていたことがどんどんデジタル化され、データに置き換え可能なモノを扱う仕事に従事してきた人々は、コンピューターと新興国の人々に徐々に仕事を奪われていき、効率化を良しとしてきた日本の労働モデルは一部では成り立たなくなっていった。

 データがデジタル化されたことによって仕事が奪われるという現象が表面化したが、その影に隠れて大量の違法コピー商品が蔓延ることになり、生産者が本来得られるはずの利益を消費者に盗まれるというアングラ経済が水面下で進行した。そういったモラルハザード的な状況がどういった結果を招くことになるのかはあまり問題視されず、罪の意識を隠してしまうかのように都合良く「フリービジネス」という言葉も生まれた。
 この現象によって最も被害を被ったのは、世界的にも汎用性の高い商品(ゲームやアニメ)を製作しているクリエイター達だったことは言うまでもないだろう。

 本来、生産者が得るべき利益が大量に消費者に移行したことで、お金の動きが緩慢になり、雇用するべき生産者も縮小されることになっていった。かくして、無料でコピー商品を入手した罪の意識を持たない消費者達は、因果応報的に“自らも生産者に成れない”という就職難現象を創り出すことになってしまった。一方、生産者の方も作業単価が低下し、長時間労働を余儀無くされるという悪影響を被ることになった。

 「IT化がデフレの原因だ」と言われている人もいるが、確かに、IT化によって副次的に齎された負の現象も日本のデフレ不況を助長する一因となっていることは疑いようのない事実だ。

■「効率化」によって得られる果実とは?

 前置きはこの辺にしておいて、「効率化」に話を戻そう。(以下は主に正規雇用の製造業を対象に述べる)

 本来、1人の人間が8時間で行える平均的な仕事量が「10」であった場合、効率化によって得られるものは次のようなことである。

 A、8時間で「13」の仕事ができるようになる。
 B、6時間で「10」の仕事ができるようになる。

 「A」は仕事量を基軸に考えた場合であり、「B」は労働時間を基軸に考えた場合である。
 「A」は仕事が有り余っていた高度経済成長時代、「B」は仕事が減少していくバブル崩壊以降(現代も入る)に該当する。

 仕事量が有り余っている場合、「A」の効率化は絶対的に正しい。8時間でできる仕事が10から13になるのであれば、会社は儲かるし、従業員の給料も上がる(かもしれない)。

 では逆に、仕事量が減少している場合はどうだろうか?
 6時間で10の仕事ができるようになるということは、8時間でなら13の仕事ができる計算になる。しかし、それは仕事が有る場合の話であって、それだけの仕事量が無いのであれば話が違ってくる。
 その場合(仕事が無い場合)、企業が採るべき手段は、仕事量を増やすために営業努力をすることは言うまでもないことだが、社会(あるいは業界)全体の仕事量が減少している状況では、企業努力にも限度というものがある。そんな状況下で仕事の奪い合いをしても、際限の無い安値競争に陥るだけで、結果として社会(または業界)全体が得られるはずの利益もシュリンクしていく(=利益が消費者に移行する)という悪循環(デフレスパイラル)に嵌まっていくことになる。

 では、現在の日本企業はそういった現状にどう対応しているのかというと、次のような感じになっている。

 「6時間で10の仕事が出来るにも拘わらず、8時間で10に満たない仕事を行っている

 つまり、逆に非効率化を行っているわけだ。なぜそうなるのかと言うと、労働者は8時間労働をするものだという決まり事が常態化し、8時間分の給料を支払うという制度自体も変えることができずにいるからだ。そういった硬直した制度が仕事も無いのに無意味に会社に居残りを強要される人間を生み出し、その影響で新たに雇用されるべき新卒者が職に付けず、ひいてはブラック企業を作り出す原因にもなっているのではないかと思われる。

 6時間で10の仕事ができるようになったのであれば、ズバリ6時間で帰れるようにすればいい。それが本来の効率化によって得られる果実のはずである。しかし、会社全体としての就業時間が8時間と決まっているため、それは非現実的かつ非常識な話になってしまう。
 しかし、よくよく考えると、それは元々、仕事が有り余っている時代に構築された労働システムが単に現代という時代に対応できていないというだけの話なのだが、多くの人々は就業時間が有る(8時間勤務)ということが空気のような常識だと思い込んでいる。

 「就業時間というものが定められているのに、途中で帰れるわけがないだろう」と思った人は案外多いかもしれないが、その就業時間というものも仕事が有り続けることを前提として決められたものであることを見落としている。社会主義国家でもない限り、仕事が無い時代であれば、就業時間を固定することはできないはずだからだ。仕事が有り続けた時代だったからこそ、就業時間を設けることができたのである。

■2種類の報酬(「収入増」or「自由時間増」)

 仕事が効率的にこなせるようになれば、収入が増える時間に余裕ができるかのどちらかが達成されるのが本来の理想だと思われるが、諸々の事情により、このどちらも達成できていないのが現在の多くの日本企業の実態ではないかと思う。

 8時間で13の仕事ができるのであれば、平均を超えたプラス3つ分の仕事で得られる利益の一部が労働者に支払われるべきだが、13の仕事をこなそうにも10の仕事しか無い場合、お金の代わりに時間としての給料を支払う(労働時間が短くなるという意味)、それが本来の労働市場原理というものである。

 グローバルデフレ社会(新興国の安価な労働力との競争社会)によって、先進国の製造業に携わる労働者の給料がある程度下がっていくのは仕方が無いにしても、企業側も労働者側も、『8時間労働』というものに固執するあまり、一見、バランスが取れているように見えながら、実態は非常に歪な労働環境が出来上がってしまっている。

 長々と書き連ねてしまったが、簡単に要約すれば、次の通りである。

 「仕事量に応じた臨機応変な労働システムにすれば、本当の意味での効率化が達成され、少しはまともな労働環境が構築される

 効率化することによって人間が行う仕事量が減少していくのであれば、効率化することがメリットになるシステムでなければ、なんのための効率化かが分からなくなってしまう。
 「効率化」という言葉は良い意味で使われることがほとんどであり、それが悪いことだと言うつもりは毛頭ないが、残念ながら「好況時の効率化」と「不況時の効率化」では、全く違った結果を齎すことになる。この違いを認識せずに、闇雲に「効率化は良いことだ」と妄信してはいけない。

 これに近いことはケインズも言っていたことである。『アベノミクス』が『現代のケインズ政策』に成り得るかどうかは未だ不明だが、時代環境や経済情勢によっては「効率化」の意味が変わるということを正しく認識しなければ、無意味な効率化に喘ぐだけの不毛な社会になってしまうことになる。

にほんブログ村 経済ブログへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2013年7月 | トップページ | 2013年9月 »