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2013年9月

『半沢直樹』記事の後日談【日記泥棒の存在】

■『半沢直樹』フィーバーの実感

 前回に書いた『半沢直樹』記事は、世間一般の人々の大きな感心事であったことも手伝ってか、予想していた以上にアクセス数(当ブログ記事の方ではなくBLOGOS記事へのアクセス数)が伸びたようで、BLOGOSのアクセス解析で確認してみると現状で270,000PVを超えている。(実際はもっと多いのかもしれない)

 前回の『半沢直樹』記事は、朝起きてから1時間程度かけてアップした記事であり、個人的には、ここ最近で最も短時間で書いた記事であったにも拘らず、アクセス数は最も多かったという実に皮肉な結果になってしまった。
 念のため書いておくと、その日の朝に思い付きで記事を書いたわけではなく、前の晩に『半沢直樹』を観終わった後の感想が書かれているいくつかの口コミサイトの確認をし、本当に怒りを露にしている人々が何人もいたので、次の日の朝に処方箋(?)を書いた次第だ。

 当ブログは2007年に開設してから既に6年以上経過(記事数は380程度)しているが、その6年間の総アクセス数(パソコンからのアクセス)は35万PVにも満たない。それが、おそらく最も短時間で書いた簡素な1つの記事が6年間のPVを超える勢いなのだから、BLOGOSの影響力もさることながら、半沢直樹人気のフィーバーぶりが如何に凄まじかったのかということを思い知らされた格好となった。

■ブログ記事をパクる泥棒ブロガーの罪

 私の経験でお話すると、BLOGOSに記事が掲載されても、アクセス数は数百にしかならないこともある。記事が掲載されてから、その記事がピックアップ記事に選ばれるか、一面記事に選ばれるか、あるいはLivedoorニュースに取り上げられるかしないと、アクセス数は思ったほど伸びない時もあり、必ずしも記事の内容とアクセス数は比例しているとは言えない部分がある。もっとも、記事の内容の良し悪しの判断をするのは、書いているブロガーではなく読んでいる閲覧者なので、これは当たり前の話なのかもしれないが。

 あと、その記事が別のサイト(Yahooなど)で取り上げられると更にアクセス数は伸びることになるが、当ブログの場合、「です・ます調」を使用しないせいか、あるいは本音が書かれ過ぎている(?)せいもあるのか、そういったことはあまり無いようだ。当たり障りのない建前ブログを書いている人の方が間接的なアクセス数は増えるのかもしれない。

 書いた記事が多くの人の目に触れることはブロガーの喜びでもあり、いろんなブログで間接的に紹介されることもブロガー冥利に尽きると言える。しかしながら、たまに、他人が書いた記事を引用元を記すこともなく、自分が書いた記事として、文章をそのままパクって掲載している人を見かける。そういうブログを見かけると何とも言えない嫌な気分になる。パクっている当人に悪気が無いとしても、この感情は変わらない。

 この感情は経験したことのある人にしか解らないかもしれない。ブログを書いていない人にも分かるように言うなら、例えば、自分で山に登って苦労して撮影してきた写真を勝手に使用された場合の感覚を想像していただければよいのではないかと思う。「これは私が撮影したものです」と言わんばかりに、その写真を他人が使用しているのを見つけた感覚に近いと言えるだろうか。あるいは、自分で苦労して作った料理を他人が「自分が作った料理です」と言っている場面を見た時の感覚にも近いと言えるかもしれない。

 今回の記事でも、内容の一部を改竄してアフィリエイト記事として利用している人がいた。ここでそのブログ名を掲載してもよいのだが、せっかく運用しているブログが閉鎖に追い込まれると気の毒なので、今回は敢えて書かないが、やっていることは「盗用」という立派な犯罪行為である。

■インターネット社会の功罪
 
 大学の卒業論文でも、参考にした書籍の文章をほとんどそのままパクるという行為があることはよく知られた話だが、現代のように何でもかんでもデジタル化されると、それほど罪の意識を感じることもなく真っ先にパクられるのがテキスト文である。

 「情報知」として、他人が人生における経験と学びで得た知恵や価値を共有することはインターネット社会が生み出した素晴らしい「」の部分だが、逆に他人の経験を恰も自らが経験したが如く無断で盗用するという詐称行為を行っても全く罪や恥の意識を感じない人間を作り出したことは、インターネット社会が生み出した醜悪な「」の部分である。

 他人が書いた書籍や記事を参考にして、自分自身の言葉で文章を書くというのが本来のまともな姿であり、実際、ブログ記事を書いている人の多く(ほぼ全員)は、そのようなスタイルを採っている。ブログネタとなる書籍や様々な情報グッズを購入し、その経験によって得たほんの僅かな価値を自分自身の言葉で世に発表する。それが、まともなブロガーが日々実践している自己投資というものだ。
 そういった自己投資を一切行わず、他人が書いた文章を無断でパクるという行為は、どう考えてもただの泥棒である。

 一頃、デジタル化された書籍(自炊本)の著作権というものが騒がれたが、実際に盗用されるという当事者としての体験を通してしか、その問題点は感じることができないのかもしれない。
 経験も実感も伴わないパクリ記事を無断で改竄し掲載しているという時点で既に個人の日記としてのブログとは言えない。それはブログという体裁を纏い他人に成り済ました日記泥棒であり、商犯罪行為でもあることを自覚し反省していただきたいと思う。

 『半沢直樹』で話題となった土下座ではないが、間違ったことをした人間が謝罪するという文化はネット社会でこそ必要だと思う。警察がネット社会を全て把握できないのであれば、ネット上での被害や損害問題を警察に代わって取り扱うような新たなネットビジネスが生まれるべき時代なのかもしれない。

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『半沢直樹』のラストに激怒する人々への処方箋

2013092301■『半沢直樹』に恋した人々

 社会現象ともなった国民的超人気テレビドラマ『半沢直樹』が終了した。
 多くの視聴者は、きっと『水戸黄門』的な爽やかな気分を味わえるのだろうという期待を胸に固唾を呑んでラストを見守った。ところが、ラストでは全く予想外の結末となり、「え、これで終わり?」「裏切られた!」となった人が大勢いたらしい。

 このドラマの原作には続編があり、今回のラストも一応は原作通りなので、怒っても仕方がないことだと思われるのだが、これまで半沢直樹に感情移入してきた熱狂的なファン(?)からすれば、「許せない」ということらしい。

 元々、『半沢直樹』というタイトル自体、原作とは違っている。今回放送された『半沢直樹』というテレビドラマ自体、池井戸 潤氏の『オレたちバブル入行組』と『オレたち花のバブル組』の2作品をカップリングしたドラマであり、第3弾である『ロスジェネの逆襲』も既に書籍として販売されているので、今回のラストは明らかに続編が有るということを意識した上でのドラマ的手法だったというわけだ。

 こういった意外なラストは海外ドラマではよく見られる傾向なのだが、日頃から無料のテレビドラマしか観ない人々には、このてのドラマ的な捻りが分からなかったのかもしれない。とは言え、そういった連続シーズンドラマにお約束の「To be continued」という言葉を入れなかったTBSにも視聴者にいらぬ誤解(マイナス感情)を与えた責任の一端は有るのかもしれない。

 しかし、このドラマのラストが与えた衝撃は意外なほど大きかったようで、「続編が有りますよ」と言っても、納得できないという人々が多いと思われる(実際にいる)ことだ。これまで散々ベタ褒めしていた熱狂的なファンに限って「続編が有ってももう観ない」と言っている人が大勢いるらしい。おそらく彼らにとって『半沢直樹』は恋のようなもので、1度裏切られたという感情を持ってしまったからには、謝っても許さないということなのだろう。彼らにとっては、まさに「半沢直樹英雄神話」の崩壊と言ったところだったのかもしれない。

■『半沢直樹』に失恋した人々への妙薬

 私自身、池井戸 潤氏のファンでもあるので『半沢直樹』以前にも彼のドラマは好んで観てきた。彼の原作ドラマは今回の『半沢直樹』以前にもNHKで『鉄の骨』というテレビドラマが放送されたことがあり、以前から、優れた…と言うより面白い企業小説を書く人物だと注目してきた。
 と言っても、私の場合、創作物としてのフィクション本は、最近ほとんど読まなくなったので、彼のドラマは有料のWOWOWで放送された後に販売されたDVDソフトで観てきた。(『鉄の骨』もDVDで視聴)
 この『半沢直樹』シリーズはWOWOWで放送されると思っていたのだが、無料のTBSで放送されたことによって、これまでにない秀逸なドラマということで社会現象にまでなったわけだが、私の実感では『半沢直樹』並み、あるいはそれ以上に面白いドラマは既に存在していた。

 『半沢直樹』のラストでモヤモヤ感を抱き、そのマイナス感情が払拭できない人には、同じく池井戸 潤原作の以下の作品を観ることをオススメしたいと思う。

 『空飛ぶタイヤ
 『下町ロケット

 2作品とも続編のない完結ものなので、『半沢直樹』のようなモヤモヤ感は残らず、爽やかな気分になり、「半沢直樹の続編も観てみようかな」という前向きな気分になれること請け合いだ。

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『オリンピック招致』に揺れる反原発論者達

2013091301■民主党では不可能に近かった『オリンピック招致』

 まずは遅ればせながら、「祝・2020年 東京オリンピック開催」…と言いたいところだが、日本国内にはなぜか日本でのオリンピック開催を素直に喜べない人々が大勢いるらしい。

 今回のオリンピック招致における各国の問題点となっていたのは、以下のようなものだった。

 イスタンブール・・シリア問題(地政学的リスク)
 マドリード・・・・財政問題(経済的リスク)
 日本・・・・・・・原発(汚染水)問題(環境リスク)

 いずれもここ数年で表面化した問題を各国それぞれが抱えていた。“安定した国家体制”と“安定した経済状態”、そして“安全な競技環境”が必要とされるオリンピックなので、どこを選ぶにしても問題が有ると思われていたわけだ。しかし、冷静になって考えれば、この3国で最も適している(リスクが低い)のはやはり日本だろうと思う。

 オリンピック招致委員達にとっての日本の問題点は、お国全体の原発問題がどういった現状に置かれているのかということではなく、もし東京でオリンピックを開催することになった場合、選手達にリスクが及ぶのかどうかということだった。
 事実はどうであれ、残念ながら、反原発論者達が危惧するほどの大きな問題とは思われていなかったというのが実際のところなのだろうと思う。安倍総理を始め、日本の代表を務めた招致メンバー達のスピーチ等を観ても、原発問題を後ろ向きに捉えている人は誰もいなかったのも幸いしたのかもしれない。

 これが民主党政権であったなら、あの場で総理自らが原発事故の危険性をアピールしていたかもしれないと思うとゾッとするものがある。そうなると、招致メンバー達の感動的なスピーチも無駄になっていたかもしれず、今頃は日本国中、悲観的なムードに包まれていたかもしれない。

 景気は気のものであることを考えれば、オリンピックが開催されないことによる経済的損失(ダメージ)は想像以上に大きい。もし現在でも民主党政権のままであったなら、外交問題で大揺れになっていただろうし、経済政策無しのジリ貧国家というイメージを払拭できずにいただろうから、先述した3つのリスクを全て抱えることになり、オリンピックの招致は非常に困難だっただろうと思われる。

■「オリンピック賛成!」と「原発反対!」の相容れない関係

 ところで、オリンピック開催が日本に決定したことによる反原発論者達の心境は如何なるものなのだろうか?
 彼らの中にも、自国でオリンピックが開催されることに喜びを感じる人はいるのだろうと思う。しかし、内心では「オリンピック賛成!」でも、表面的には「原発反対!」なので、素直に「オリンピック万歳!」とは言えない。そういう悩ましい心理状態に置かれているだろうことは容易に想像できる。
 失礼ながら、感情的な反原発論者達のことだから、オリンピックの開催が日本に決定した瞬間に、原発のことなどすっかり忘れて「オリンピック万歳!」と叫んだ人も少なからずいたのではないかと想像するが、大部分の人々は複雑な心境を抱えているのではないかと思われる。

 彼らの一部は、その心理的矛盾を解消するためにか、責任の所在を「安倍総理が嘘を付いた」ということに置き換え、「オリンピックには賛成したいが、安倍総理の意見は許せない」という立場をとっているように見受けられる。しかし、そういった妥協(ダブル・スタンダード)も許さない生っ粋の反原発論者達は、「オリンピック反対!」の姿勢を頑に固持している。

 近隣の反日国家が日本でのオリンピックに反対するのは頷ける(納得できるという意味ではない)のだが、なぜ原発に反対している人々が国内でのオリンピック開催にまで否定的になるのか? これは非常に興味深い現象だと言える。

■確率論を無視し続けてきた存在論者達の矛盾

 彼らが言うように「原発の有る国はオリンピックを開催してはいけない」ということなら、アメリカやドイツやフランスなどでも今後オリンピックは開催してはいけないということになってしまう。

 こう書くと、「日本は他国に比べて地震が多い」という反論が返ってくるかもしれないが、他国でも地震や自然災害が起こる可能性はゼロではない。
 そもそも、これまで反原発論者達が問題としてきたことは、原発事故や地震が発生する“確率”の問題ではなく“存在(=可能性の有無)”の問題だったはずだ。いかにパーセンテージが低かろうが、原発事故や地震が起こる可能性がゼロでないなら原発には反対という姿勢を取ってきたはずだ。
 そうであるなら、「日本は他国に比べて地震が多い」では筋が通らなくなる。彼らが問題視してきたのは、地震の“多い・少ない”ではなく、地震の“有る・無い”であるからだ。

 となると、反原発論者達の心境はますます苦しくなる。何を理由にオリンピックに反対しているのか明確な説明ができず、自分でも分からないという人も出てくるかもしれない。素直に「原発」と「オリンピック」は別の問題だと割り切って考えればいいと思われるのだが、強引にその2つを結び付けようとするために矛盾が露呈してしまうことになる。

 “存在(=可能性の有無)”論に固執した場合、「原発が有る国はオリンピックを開催してはいけない」と言うのは、「地震が発生する可能性が有る国はオリンピックを開催してはいけない」と言っているのとほとんど同じである。彼らの言っていることを突き詰めて言うなら、「世界中、どこであろうとオリンピックは開催してはいけない」ということになってしまうのである。

 如何に善意の言葉で装ったところで、確率論を無視した存在論というものは、初めからそういった矛盾を内包するものであり、図らずも今回のオリンピック招致問題によって、その矛盾が透けて見えるようになってしまったとも言える。

 多くの有識者が真っ当な確率論を述べても、まったく意に介さなかった人々も、今回のオリンピック開催決定を境に、自らの思考的矛盾に気が付いてくれるかもしれない。もしオリンピック開催にそういった効能(目から鱗を落とす効能)が有るのであれば、日本経済にとっては大きなプラスになる。

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ガンホー株で学ぶ株式投資の極意

2013090801■「半値八掛け二割引き」で下げ止まったガンホー株

 アベノミクス相場の主役であり牽引役でもあったガンホー株は、10分割後の価格で言うと、一時163,300円の高値を付けた後、50,400円まで急落し、再度、8万円台まで戻した。10万円以上で持っていた人の多くは、おそらく6万円を切った辺りで暴落に耐え切れずに損切り(投げ売り)したのではないかと思う。

 株価が大幅に暴落している最中は、一体どこまで下がるのか不安になり、自らの資産がドンドン目減りしていく恐怖に耐え切れずに思わず損失を確定してしまう人は数多い。
 ガンホー株のように一般的に「バブル株」だと思われている株式であればなおさらで、執拗な売り煽りに負けて、安値で投げ売りしまう人は大勢いる。

 ガンホー株は、ごく短期間で100倍近くに跳ね上がった株なので、どうしてもバブルという印象が強くなってしまうのだが、ガンホーの場合、実体としての本業の営業利益も44倍になったことでも知られる超優良企業なので、一概にバブル銘柄とは言い切れない部分もある。

 現状の株価で計算すると、ガンホー株の株価収益率(PER※)は15倍程度なので、特にバブルというわけでもない。かつてのバブル時代はもとより、現在でもPERが100倍を超えているような株は数多くある。日本企業の場合、PERは15倍から20倍程度が妥当と言われていたこともあるので、その水準で考えれば、現在のガンホー株は適正な水準にある。成長が見込める高業績企業であることを考慮すれば、まだ割安な水準にあるとも言える。(ちなみにPERが低いほど割安)

 ※PER(株価収益率)= 株価 ÷ 1株当たりの純利益

■株式投資の本質は“投げ売りを誘う”心理ゲーム

 もし、ガンホーが赤字企業で、実体を伴わずに騰がり続けてきた正真正銘のバブル銘柄であるのならば、株価がどこまで下がるのかは全く判らない。しかし、黒字で業績好調の将来有望企業であるならば、大凡の下値目処は予想できる。
 その下値(底値)予想とは、株式格言の「半値八掛け二割引き」を適用した株価であり、実際にガンホー株も、ほぼこの定説通りに反転した。この格言にガンホー株を当てはめてみると、

 163,300円×0.5×0.8×0.8=52,256円 となる。

 実際、ガンホー株は50,400円で下げ止まったので、この格言を信じて勇気を持って買えた人は、わずか10日間で株価(資産)が1.5倍以上になったことになる(普通は1.5倍になるまでに売ってしまうものだが)。

 さて、では、その増えたお金はどこから来たのかと言えば、無論、暴落に耐え切れずに損切り(投げ売り)してしまった人々のお金が大半を占める。

 多くの人々は、株価がスイスイ騰がっている時には、ホイホイと株式を購入するが、下がっている時には見向きもせずに、逆にオドオドして投げ売りしてしまう。「株は騰がりもすれば下がりもする」という単純な当たり前の真実を忘却し、下がることだけに心が囚われてしまい、実際、その心に描いた通りの行動に出てしまう。それが「損切り(投げ売り)」という行動であることは言うまでもない。

 暴落した株を動揺せずに持ち越し、あるいは追加買い(ナンピン)することのできる人々と、我慢できずに投げ売りする人々の違いは何かというと、単純に『信じる』という行為の有無の差でしかない。(信用取引者は除く)
 先行きを信じることができなくなった人々は、「リスク回避」という格好の良い言葉と、時には「クソ株」という捨て台詞を言い残し「投げ売り」という行為を実践してしまう。株式投資(投機)の本質が、如何に損切り(投げ売り)させるかを競う心理ゲームであることに気付かないままに…。

■短期間で株式投資の極意を教えてくれたガンホー株

 誰かが儲けるためには、誰かが損をしなければならない。もっと正確に言えば、誰かに損をさせなければならない。16万円まで急騰した株が5万円まで急落しても、売らない限り損はしない。しかし、投資している企業の業績云々を調べることもせずに、まだまだ下がるという恐怖に呑み込まれてしまった人々は、アッサリと損失を確定してしまう。その損失分をゴッソリと頂いて行くのが、プロの投資家(投機家)達である。

 もちろん、ロスカットというものが必要な時もある。投資している企業が事件や事故を起こしたりした場合は、損失を最小限に抑える手段も必要になってくる場合はある。しかし、業績絶好調の企業の株が一時的に暴落したという理由だけで簡単にロスカットしてしまう姿勢はあまり褒められたものではない。なぜなら、その姿勢自体が既に投資では有り得ないからだ。

 アベノミクス相場で初めて株式投資(投機)に挑戦し、初めて購入した株がガンホー株だったという人は案外多いかもしれない。そして、初めて儲けた株もガンホー株だったが、初めて投げ売りした株もガンホー株だったという人も結構多そうだ。

 「投資のプロでも年間5%儲ければ良い方だ」というのはよく言われることだが、ガンホー株が騰がり続けている時には、それ以上のパフォーマンスを得て「プロなんて大したことがない」と思いかけていた人々も大勢いたはずだ。しかし、ガンホー株の暴落によって投げ売りした人々は「二度と株なんかしたくない」と思ったのではないかと想像する。

 「投資のプロでも年間5%儲ければ良い方だ」という言葉はやはり正しい。「信じる者」と書いて「ける」という言葉になるということもよく知られたことだが、この漢字の意味するところもやはり正しかったということをガンホー株は教えてくれたと言えるのかもしれない。

 最後に、本記事はガンホー株の買い煽り記事ではなく、単なる分析記事です。毎度のことながら、株式投資は自己責任と余剰資金でお願いします。

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