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2013年11月

インターネットが齎した『合成の誤謬経済』

2013112501■「お金が動かない」経済システムの誕生

 時が経つのは早いもので、「ブロードバンド元年」と言われた2001年(平成13年)から早くも一回り(12年間)が経過した。長い目で観れば、この12年間は未だインターネット社会の黎明期の範疇にしか入らないのだろうけれど、ブロードバンド技術が国民生活(経済)に与える影響というものを、実に様々な功罪ドラマを通じて、まざまざと見せつけられた12年間だったと言える。

 インターネットが流行る以前からパソコン通信を行っていた私のような人間からすると、現在のデータ通信の高速化・大容量化は隔世の感どころの話ではなく、まさに異世界へ突入してしまったかのような錯覚すら覚える。
 昔(と言っても20年も経過していない)は、パソコン通信で電子メールを送信するだけでも、わざわざアナログの電話回線に接続し、通話料と通信料を従量制で支払うというシステムだったため、複数の人に電子メールを送信するような場合、全て書き貯めてから同時に送信するというセコいことを行っていた。それでも、手紙をパソコンから送れるというシステムに嬉々としたことを覚えている。
 そんな時代だから、添付書類を送る場合も、容量をできるだけ軽くするために、データ圧縮ソフトを比較検討し、パケット料金がいくらかかるかを計算しながら送っていた。(今考えると、それも良い勉強だったのかもしれないが)

 ところが現在では、画像どころか動画まで容量をほとんど気にすることなく誰でも送れるような時代になり、パソコン通信などは、もはや昔話に過ぎなくなった。
 あらゆるモノがデジタルデータ化され、それがストレスなく全世界に送信(配信)可能な時代が訪れることによって、経済の様相というものは激変していった。
 経済のグローバル化というものはインターネットのブロードバンド化と密接不可分の関係に有ると言っても決して間違いではなく、ブロードバンドの高速化・大容量化に伴って、グローバル化も(デフレ化も)進んでいった。
 この便利かつオープンなシステムが齎したものには当然、負の部分もあり、その最たるものが、「お金が動かない」という全く新しい経済現象だった。

■間接的な消費活動を抑制するインターネット経済

 人間は利便性を求める生き物であるが、人間が行うべき仕事というものの大半は、その利便性を追求する過程で生じるものでもあった。生産者が効率化を目指し努力するのは、消費者の利便性を追求するニーズに応えるためのものであったが、そのニーズが人間の手を煩わすことなく満たされるシステムが出来上がってしまうと、当然のことながら、人間が行うべき仕事も無くなっていくことになる。

 不便な時代だからこそ人間が行う仕事が有り、便利な時代になると人間が行う仕事が無くなるというパラドックスが将来的に起こるだろうことは誰もが想像してはいたが、まさかインターネット技術の解放によって、そんな社会が自らの生きている時代に現実になるとは誰も想像だにしていなかったのではないだろうか? しかし、インターネット社会は僅か20年程度で、そのパラドックスを現代人にいとも容易く教えてくれた。

 これまで欲しい物を手に入れるために、交通費(電車賃やガソリン代)や労力を使用して、その商品が売られている目的地まで買いに行っていたものが、交通費は必要なく、時間も労力も伴わず、パソコンやスマホの画面から1クリックで購入できることは、消費者にとってはこの上なく便利なことで、まさに消費スタイルの理想の実現とも言える素晴らしい進歩でもあった。
 しかし、その理想が実現することによって、これまで消費活動に付随していた間接的な消費活動は抑えられることになり、結果的には経済は縮小するという負の現象も生まれた。(これも一種の合成の誤謬と言える)

 一昔前であれば、クリスマスやお正月の時期ともなると、お年玉を握りしめて、電気街に買い物に繰り出す子供や若者がいた。電気街で買い物をするために、電車に乗れば、交通費を支払う、車やバイクで行けば、ガソリンがいる、自転車で行けば、のどが渇いて缶ジュースを買う場合もあるし、お腹が空けば、マクドナルドでハンバーガーを食べる場合もあるだろう。ところが、パソコンやスマホから1クリックで商品が買えるとなると、そういった間接的な消費活動というものがキレイサッパリ省かれてしまう。
 個人の経済活動の効率化として見れば、これは良いことなのだが、経済全体として見れば、手放しで良いことだとは素直に喜べない部分もある。効率化によって浮いたお金を別のものに使用するということならプラスとなるが、浮いたお金が貯蓄にまわるだけならマイナスとなる。

■「無料(タダ)ほど高くつくものはない」社会の到来

 かつては努力することによって効率化を追求すれば報われる(報酬アップに繋がる)という時代だったかもしれないが、現在のインターネット社会では努力して効率化を実現し、消費者に喜ばれたとしても、その努力が必ずしも報われるという時代ではなくなった。デフレの影響もあってか、便利になればお金がかかるという価値観が乏しくなり、便利になること、安価になることが当然で、その対価も無料に近付いていくことが当たり前という倒錯した価値観が蔓延り、労働における努力と効率化が比例しなくなった。労働における努力は素晴らしいが、効率化は無意味というアンバランスな労働環境が出来上がってしまったとも言える。

 それゆえか、努力そのものを否定する左派的な主張がもっともらしく聞こえるというような風潮も観てとれる。効率化というものがお金儲けに直結しないシステムが問題であることを知ってか知らずか、努力そのものを否定するという如何わしい思想も蔓延ろうとしている。
 ゆえに、インターネットの進歩と並行して、効率化の努力が報われるという新しい経済システムを創出していく努力も必要な時代だとも思われるのだが、そういった別の意味での努力は全く等閑(なおざり)になってしまっており、問題を提起する学者もほとんどいないという有り様だ。

 昔から「只(ただ)より高いものはない」と言われるが、インターネット社会の中で過当競争に陥っている生産者(企業)は、その言葉の意味を実感として噛み締めていることだろうと思う。
 しかしながら、労力なく商品を入手できる時代において、「無料(タダ)ほど高くつくものはない」という言葉を噛み締めるべきは、消費者の方でもある。

 果たしてこの先、インターネット社会は、努力による効率化が雇用を減少させるという矛盾を克服し、努力による効率化が報われる理想的な社会を築くことができるのだろうか? インターネット社会においても、レッセフェール(自由放任主義)は正しく機能するという前提で、ケ・セラ・セラ(なるようになる)と楽観視していても本当に大丈夫なのだろうか?
 少なくとも現時点では、インターネット経済というものは新たな「合成の誤謬」を生み出したかに見えるが、今後、その「合成の誤謬」をも呑み込むほどの巨大な経済システムに化けることを願いたい。

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食材偽装問題とインフレの予期せぬ関係

2013111701■食材偽装問題の本質とは何か?

 なぜかこの時期、次から次へと発覚した高級ホテル等の食材偽装問題。ここまでの経緯を見る限りでは、食材の偽装を全く行っていない業者の方がむしろ珍しいのではないか?と疑ってしまいたくなるほどの異常な事態となっている。
 テレビニュースを観ていても、毎日のように偽装業者お決まりの謝罪シーンのオンパレード状態となっており、視聴者(消費者)もいい加減にウンザリし、呆れるのを通り越して、既に免疫ができつつある状態かもしれない。

 何年か前に話題となった食品偽装問題では『消費者庁』というお役所ができることになったので、今回の食材偽装問題では『第2消費者庁』でも新たに創設されるのではないかと疑ったものの、今のところそのような気配は感じられない。どうやら、この問題の本質はもっと根深いところにありそうだ。

 一連の食材偽装が起こった原因は「デフレ」にあると述べている人もおられるようで、納入原価の安値競争によって必然的に産地を偽装する羽目になったという意見も聞かれる。そのくせ、高級(高給)ホテル側は、販売価格を値引きせずに利鞘を得ていたということらしい。これが本当のことであれば、まさに「身から出た錆」と言ったところだろうか。

■タレコミでしか発覚しない食材偽装

 かつての食品偽装にせよ、今回の食材偽装にせよ、それが偽装であることを見破ったのは、実際に食材を口に入れて味わった消費者達ではなく、「内部告発(タレコミ)」という他力であったというところは実に悩ましい。
 高級ホテルや百貨店で購入した偽ブランドの食材を口にして「さすがは○○産だ」と舌鼓を打っていた人々も、ここまで問題が大きくなると迷惑な話であり、中には「穴があったら入りたい」という人もいるかもしれない。偽ブランドであっても「美味しい」という場合は有り得るが、見栄を張って、味の違いまで評論していた人の味覚も本物ではなかったことが判明してしまったというわけだ。

 ミネラルウォーターやビールやお酒なら、ある程度は味が分かるという人は大勢いるが、高級食材などは、普段から頻繁に食べている人でない限り、味の違いなどはさほど分からない。田舎で新鮮な野菜などを食べれば、都会で販売されている野菜とは明らかに味が違うことが分かるが、初めて食べるような珍しい食材の場合、新鮮かどうかは判断できても、味の違い(美味い・不味い)などは、実はほとんど分からない。仮に味の違いが分かったとしても、ブランドものだからといって、必ずしも万人が美味いと感じるわけではないので真贋を見分けるのは至難の技ということになる。

 となると、食材偽装を食い止める手段は、基本的には業者のモラルに頼るしかないわけだが、現代のような仕入れ業者がデフレ病【モノが安くなることを当然とする病】を患ったような過剰な価格競争社会では、納入業者は仕入れ業者の言いなりに成らざるを得ず、結果的に偽装に手を付けてしまうという「貧すれば鈍する」状態に陥ってしまうことになる。
 モラルは持っているが、モラルだけでは食べていけないということで行った負の行動が、相次ぐ食材偽装問題として表面化したとも考えられる。高級ホテルや百貨店は、そういった納入業者の偽装を知った上で、販売価格を吊り上げていたわけだから、納入業者よりも罪が重いと言える。

■食材偽装問題発覚によって齎されるインフレ

 しかし、今回の食材偽装問題が改善されることになったとしても、それによって齎されるものとは、結局、商品の値上げに他ならないのではないかと思う。デフレ・スパイラルに対応するために水面下で行われていた食材偽装は、その偽装が暴かれたことによって、商品価格は騰がる(つまりインフレになる)という皮肉な結果を生み出すことになる。 
 もっとも、正真正銘の本物商品を提供していたホテルもあるだろうから、デフレに対応するためと言うより、デフレ下で高級(高給)ホテルのブランドを維持するために行われていた偽装と言った方が正解かもしれないが。

 いずれにせよ、今回の食材偽装の発覚は、デフレによって本来の市場価格以下になっていた商品価値(偽物にすることによって保たれていた商品価値)が適正価格に戻っていくことを意味しており、そのこと(値上げすること)を消費者が批判できない空気が暗黙のうちに醸成されたということを意味している。

 恥を承知の謝罪会見での「…申し訳ございません」という言葉の前には、実は「デフレ価格を止めることになりますが…」という言葉が隠れているような気がしてならない。だからこそ、我も我もと謝罪する業者が出てきたとも考えられる。その姿はまるで、「もう我々はデフレのための無意味な価格競争はご免被ります」と言っているかのようでもある。
 日本のインフレ化への伏兵が、実は食材偽装問題が発覚するという事態の中にも潜んでいたということを、一体誰が予想できただろうか?

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天皇陛下への直訴で考える「無知の罪」

2013110301■“知らずに犯す罪”と“知って犯す罪”

 山本太郎議員の天皇陛下への直訴(?)問題が、自身の議員資格をも脅かすほどに大きくクローズアップされている。既に多くの識者が述べているように、天皇という存在の無理解から生じた暴挙という認識が一般的なようだ。

 もともと政治的な権限を持たないことになっている天皇陛下に直訴するという行為自体、無意味であり馬鹿げている。況してそれが政治家という立場にある公人であれば尚更だ。
 世の中には、“知らずに犯す罪”と“知って犯す罪”という2つの罪があるが、今回の山本太郎議員の行動は明らかに前者であり、問題の本質は本人の無知にこそあると思われる。
 では、無知であれば何をしても許されるのか? それが今回の本題である。

 ここで1つ質問。
 「あなたは“知らずに犯す罪”と“知って犯す罪”は、どちらの罪が重いと思いますか?

 おそらく、大抵の人は「知って犯す罪」と言うだろうと思う。しかし、本当のところは「知らずに犯す罪」の方である。
 例えば、具体的に「殺人」という犯罪を例に考えてみると、殺人が罪であることを認識できる人間が殺人を犯す場合と、殺人が罪であることを認識していない人間が殺人を犯す場合がある。この場合、どちらの罪が重いと言えるだろうか?

 この場合も前者の「罪であることを認識できる人間」と答える人が多いのではないかと思う。しかし、残念ながらそれは間違いである。

■山本太郎議員の“知らずに犯した不敬罪”

 罪を意識できる人であれば、殺人を犯すまでに良心の呵責が生じ、自制心が働く場合があり、仮に殺人を犯したとしても、自らの行為を懺悔するという可能性がある。
 しかし、罪の意識を感じることができない人が殺人を犯す場合、そこには全く自制心は介在せず、自省心というものも存在しない。そこに有るのは、己の欲望と主観的な目的のためには手段を選ばない無知な人(または狂人)の行動原理だけである。

 他人に対して積年の怨みを抱いた怨恨を理由とした殺人行為と、街中で発狂した通り魔による無差別の殺人行為の罪はどちらが重いかを考えてみれば解りやすいかもしれない。怨みという感情が一時的に罪の意識を超えて凶行におよんだ人間と、元から罪の意識を持たない狂人の凶行を比べた場合も、罪が重いのは後者の「罪の意識を持たない」方である。(注:ここで述べている罪の重さとは、法律上での罪の重さのことではない)

 法律を理解する能力を持った犯罪者と、法律を理解する能力を持たない犯罪者(または法律を知らない犯罪者)が存在する場合、善良な人々にとっては、法律で縛ることのできない犯罪者こそが脅威であり危険な存在だと言える。なぜなら、そういった人間には、社会を良くするために用意されているルールや常識が全く通用しないからである。
 ここで「良心」という言葉が頭に浮かんだ人もいると思う。法律云々以前に、人間は生まれもって、やってはいけないことが解っているという意見も有るかもしれない。まさにその通りで、その良心を見失っている人には人工的に作られた法律で縛るしかない。だからこそ最後の防波堤である法律が通用しない人物は危険なのである。

 山本太郎議員を狂人とまで言うつもりはないが、上記の話は今回の“知らずに犯した不敬罪”を考える上で少しは参考になるかもしれない。
 たとえ本人に悪気は無く、善意ある行動だと思って為した行為であったとしても、その当事者にはそれが正しい行動であるかどうかを判断することはできない。その判断を可能足らしめるものは、自らが無知であることを知り、自らの行動を第三者の立場で観ることのできる冷静な判断力が要求される。それでも完全とは言えないが、それが最低限の必要条件である。

 理性的な判断ができずに感情的な原発批判を行っているという時点で、その資格を自ら放棄しているようなものだが、その自らの姿を客観視できないようでは、到底、その資格を満たしているとは言えない。多くの人々が漠然と感じているであろう反原発論者達のうさん臭さは、実はそういったところ(己を客観視できないところ)にあるのではないかと思う。

■「左翼」というより「無知」だった山本太郎議員

 それにしても、今回の山本太郎議員の行動は、彼の思想信条を考える上では非常に興味深い行動だったと言える。元々、反原発派の大部分は左翼(一部のリベラルも含む)というのが一般的な解釈だったと思われるが、彼の場合、今回の行動によって皮肉にも、生粋の左翼ではなかったということが明らかになってしまったと言えるかもしれない。

 天皇制の打倒を1つの目的とする左翼が天皇陛下に直訴(?)というのは笑える事態(ブラックジョーク)であり、山本太郎議員を応援していた左翼陣営にとっては決して素直に喜べるニュースではなかっただろうと思う。
 「平等概念の対極にある権力(この場合は天皇)というものを全否定する左翼が、権力に縋る」、この矛盾だけは左翼にとっては許せない(放置できない)はずで、だからこそ、右翼だけでなく左翼までもが、今回の山本太郎議員の行動を批判しているのだろう。ゆえに、山本太郎議員を擁護している左翼がいたとすれば、その人物はもはや左翼ではない。では何なのか? 答えは無論、「無知な人々」である。

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