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2013年12月

「ブラック企業論」注意報

2013122801■「ブラック企業論」に抜け落ちているもの

 ここ数年で「ブラック企業」という言葉が広く世間に浸透し、その言葉が示す通り、完全に「ブラックな存在」として定着した感がある。
 しかし、一口に「ブラック企業」と言っても、その定義は極めて曖昧だ。ブラック企業の程度(ランク)を示す“ブラック度”はピンからキリまであり、数えあげるとキリがないが、一応、広義には次のように定義されている。

 『入社を勧められない過酷な労働搾取企業

 世の中には実際に、労働者を使い捨てにすることを前提に雇用しているような悪徳企業が存在することは確かであり、そういった企業を社会悪として「ブラック企業」と呼称することに何ら異論はないのだが、世に蔓延っている「ブラック企業論」をつぶさに観察していると、どうも、前提条件として、すっぽりと抜け落ちているものがあるような気がする。それは何なのかと言うと、労働者側の資質(生産性)というものが無視されていることである。

 労働者側の資質(生産性)に全く無関係な生粋の「ブラック企業」なら仕方がないが、最近のブラック企業論の中には、特に「ブラック」とは言えないような普通の企業まで「ブラック企業」扱いされつつあるような気がするのは私だけだろうか?
 別な言い方をすれば、「ブラック企業」という言葉の陰に隠れて「ブラック労働者」という存在が見落とされていないか?ということである。

 「ブラック企業」に対する「ブラック労働者」の定義は、簡単に言えば、以下のようになるだろうか。

 『退社を勧めたくなるほどの過剰な給料奪取労働者

■「ブラック企業だ」と言える資格を満たしていない人々

 日本では、端から「労働者は善人」で「企業は悪者」という、マルキスト的な左翼思想が未だに幅をきかせているためか、どうしても、企業悪玉論に傾きがちだが、労働者側の善悪論というものを抜きにした一方的な「ブラック企業」批判論は、素直に納得できないものが多い。「ブラック企業」批判に便乗して、まともな企業にも「ブラック労働者」を量産するシステムを暗に構築しようとしているかのようですらある。

 簡単な例で示そう。
 例えば、ある企業の給料が月給20万円として考えると、その企業の中には、1ヶ月間に20万円分の仕事ができる人の他に、10万円分の仕事しかできない人もいれば、30万円分の仕事ができる人もいる。

 ・・・1ヶ月間に10万円分の仕事ができる。
 ・・・1ヶ月間に20万円分の仕事ができる。
 ・・・1ヶ月間に30万円分の仕事ができる。

 この場合、この企業に対して「ブラック企業だ」と言える資格が有るのは「」だけである。こんなことは子供でも解ることだと思うが、現在のブラック企業論には、そういった雇用する側から見た視点というものが、あまりにも無視され過ぎているのではないかと思われる。
 実際、上記の例はかわいいもので、30万円分の仕事をして20万円の給料が貰えるなら、文句を言う人はほとんどいないだろうと思う。本当のブラック企業であれば、100万円分の仕事をしても20万円しか給料が貰えないという場合も有り得る。
(注:ここでは総人件費としての間接的な経費は考えないものとする)

 ブラック企業の定義が「過酷な労働搾取企業」と言うのであれば、対象となる労働者は搾取されるだけの仕事をしている(利益をあげている)ことが前提となる。もしそうでないなら、少なくとも、その労働者にとってはブラック企業とは成り得ない。なぜなら、搾取するべきものが存在しないからだ。
 10万円分の仕事しかしていない労働者が、20万円の給料を貰い、「ブラック企業だ!」と言っても、残念ながら筋が通らない。厳しい言い方かもしれないが、それは搾取されているのではなく、逆に企業から利益(他人の給料)を奪っている駄々っ子の姿だということを知る必要がある。

■「ノーブレス・オブリージュ」で成り立っている日本の企業

 曲解する人が必ずいると思われるので一応、お断りしておくと、私はブラック企業を擁護しているわけではない。安直なブラック企業批判が放置されたまま拡大していくと、結果として、ブラック労働者が増殖することになり、そのブラック労働者によって、まともなホワイト企業までブラック企業化していくのではないかと危惧している。

 現在の日本企業は昔と違い、生産性を上げれば必ず報われるというような労働環境を構築できているとは言えないので、生産性を上げたからといって、ブラック企業が無くなるわけでもない。しかし、だからと言って、生産性を全く無視すれば良いというものではない。
 誤解を恐れずに本音で言えば、日本のサラリーマン社会とは、基本的には仕事のできる人(生産性の高い人)が仕事のできない人(生産性の低い人)の分も文句を言わずに仕事を行ない、ほとんど一方的にカバーしている(助けている)という屈折した互助社会でもある。
 先の例で言えば、Aが休めばCが助け、Cが休んでもAには助けてもらえないという、歪なリスクヘッジ(互助になっていない)が罷り通っている社会でもある。
 それが良いか悪いはともかくとして、そういった稀な互助社会が機能しているのは、未だ日本には「勤勉の精神」というべきものが存在しているからに他ならない。「ノーブレス・オブリージュ」と言って、仕事のできる人間が文句を言わず、割りの合わない給料にも愚痴をこぼさずに黙々と働いているからこそ、企業はその他多くの人を雇用できているという現実がある。

■「給料が安い」と言う人々の共通点

 私もこれまで同じ労働者の視点から、いろんな労働者を見てきたが、「給料が安い」というような言葉(愚痴?)を人前で平気で口にするのは、給料分以上の仕事をこなしている人よりも、給料分の仕事を満たしていない人の方が圧倒的に多かったと記憶している。これは推測で述べているのではなく、実際に経験した個人的な統計結果であるので、敢えて本当のことを書かせてもらうが、仕事ができる人に限って、なぜか自分の給料が安いとは言わない。これは面白いほどにその通りだった。
 「それは、それだけの給料を貰っている人だからだろう!」と反論する人がいるかもしれないが、実際は仕事に見合うだけの給料を貰っていようがいまいが同じだと思う。

 仕事ができる人は、真面目に仕事をしていれば、そのうち評価されると前向きに考える傾向にあるが、仕事ができない人は、真面目に仕事をすることよりも先に、「給料が安い」という不満感を抱いているためか、給料が上がらなければ真面目に仕事はしない、だから給料も上がらず、仕事もできないという悪循環思考に陥る傾向にある。
 まるで「引き寄せの法則」そのまんまだが、これは実際にその通りだったので、心当たりのある人は、1度、自分自身の考え方をチェックした方が良いかもしれない。

 話が少し横道に逸れたので、元に戻そう。

 労働者に優しい企業は「ホワイト企業」
 労働者に厳しい企業は「ブラック企業」

 このような中身の無い表面的なステレオタイプな考え方が流布されると、その意に反して、労働条件はますます悪化していくことになる。労働者の生産性を無視した堕落思想が広まると、真面目に働いている人間がますます馬鹿をみる社会になってしまう。日本型資本主義の精神である「勤勉の精神」が破壊されると、誰も真面目に働かなくなってしまう。それは、給料分の仕事ができない人にとっても決して良い社会ではないということを知らねばならない。

 あなたが目にする「ブラック企業論」の中に、労働者の資質(生産性)というものが全く書かれていない論文があれば、少し疑った方が良いかもしれない。「ブラック労働者論」に言及しない「ブラック企業論」には注意しよう。

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万能の健康食品『アーモンド』の効能

2013122301■アーモンドであなたの人生は変わる(?)かもしれない

 昨年の夏頃、アーモンドには抗がん作用が有るという記事を書いてから、私は毎日欠かさず2、3粒の生アーモンドを食べ続けている。無論、「がん」や「病気」の予防を意識して食べているわけではなく、健康食として食べているだけなのだが、そのせいも有るのか無いのか、毎年、会社の健康診断で少しだけ数値が高かった肝臓のGOTとGPTの値が今年は大幅に低下(正常値)した。
 肝臓は「沈黙の臓器」と言われるが、私の場合、それほどお酒を飲んでいるわけではないので、肝臓のGOTとGPTの値が高いことが少しだけ気になっていたのだが、それが正常値に戻ったのは素直に嬉しかった。アーモンドのせいかどうかは分からないが、特にスポーツも健康(食事)療法もしているわけではないので、生活習慣で変えたことと言えば、アーモンドを食べるようになったことぐらいしか思いつかない。

 ということで、アーモンドについてもう少し詳しく知ろうと思い、書店で『食べても痩せるアーモンドのダイエット力』という本を見つけた。私は特に太っているわけでもないので、タイトルにはそれほど興味が湧かなかったが、帯に書かれた「アーモンドがあなたの人生を変える!!」というキャッチコピーに惹かれて購入し読んでみた。

 著者の井上浩義氏は医学博士でありナッツ研究の権威であるらしく、50代でありながら、肌年齢は30代をキープされているらしい。それもアーモンドの美肌効果であるということが著者の納得の体験談を交えて書かれていた。

■アーモンドの底知れない健康効果

 現在のところ、アーモンドには、「ダイエット」「アンチエイジング」「整腸作用」「大腸がん予防」という4大効果があることが判明してきており、アーモンドの食物繊維はごぼうの2倍、鉄分はほうれん草の6倍、ビタミンEはかぼちゃの5倍も含まれている。
 先に述べた健康診断で、昨年、一昨年と少し貧血気味だった値も、今年は正常値に戻っていた。もしかするとアーモンドの鉄分のお蔭だったのかもしれない。
 ビタミンEについては、抗酸化作用が有ることは広く知られているので、敢えて述べるまでもないが、煎茶や抹茶を除くと、ビタミンEが最も豊富に含まれている食品はアーモンドということになる。とうがらしやあんこう(きも)やすじこにも多く含まれているが、毎日食べれるようなものではないので、やはり、ビタミンEを続けて摂るにはアーモンドがベストということになる。
【参考URL】簡単!栄養andカロリー計算

 人間の老化原因は「酸化」と「糖化」であり、ビタミンEには「酸化」を防止する効果が有ることは先に述べた通りだが、「糖化」の要因には老化物質「AGE」というものがあるらしく、この「AGE」が体内に蓄積されることによって人間は糖化(老化)していく。ところが、アーモンドにはこの老化物質の体内蓄積を抑える効果もあることが判ってきたらしい。そのメカニズムは本書に譲ることにして、アーモンドが万能の健康食品であることは、どうやら私の直感通り、正しかったようだ。

 井上氏の場合、アーモンドを毎日50粒食べていると書かれていたが、それが「生」とは書かれていなかった。生アーモンドと加工されたアーモンドでは栄養価が違うらしいので、加工されたアーモンドであれば、それなりに食べなければいけないということなのかもしれない。
 最近は円安の影響で輸入アーモンドの値段が昨年よりも何割か騰がっているものの、量を考えるとそれほど高価な品物でもなく、生でも意外に美味しいナッツなので、興味が湧いた人はお試しあれ。

 なお、この記事で書いたことは煽りや創作ではなく事実ですが、アレルギーや食べ過ぎで健康を害しても責任は負いかねます。念のため。

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『地上の楽園』での「自堕落で腐敗した生活」

2013121401■“資本主義は悪いもの”という刷り込み報道

 この数日間、北朝鮮の実質ナンバー2の権力者だったとされる張成沢(チャン・ソンテク)氏が粛清されたというニュースが飛び交っていたが、ついに処刑が執行されたという恐ろしいニュースが全世界に伝えられた。
 身内であろうと情け容赦なく極刑に処すとは、つくづく恐ろしい国ではあるが、先日、出かける前に朝のテレビ番組を横目で観ていると、何気なく、以下のような言葉が耳に入ってきた。

 「張成沢氏は(中略)…資本主義的な生活をしていた…」

 これを聞いて、「えっ?」と我が耳を疑った。

 北朝鮮では、国内に資本主義を持ち込んだ人間は処刑にされるということはよく知られたことだが、このテレビ番組の発言には違和感を覚えずにはいられなかった。もちろん、解説者も意図的にこんな発言をしたのではないと思うが、世間一般の人々に対して誤解を与えかねないのではないかと少し心配になった。仮に皮肉で言っていたのだとしても、このような発言が公の電波に乗って大々的に行なわれると、その言葉を聞いた物心のつかない子供などは“資本主義は悪いもの”というような印象を無意識のうちに刷り込まれてしまうことになる。

■「自堕落で腐敗した生活」は資本主義の専売特許か?

 北朝鮮での張成沢氏に対する裁判文書には、「彼は2009年以降、あらゆる種類のポルノ写真を仲間に配り、退廃的な資本主義者のライフスタイルを私たちの社会に持ち込んだ。彼は自堕落で腐敗した生活を送り、行く先々で浪費した。」とあるらしいが、今時、「自堕落で腐敗した生活」が資本主義者の姿だなどと思っているのは思想統制された独裁国家の人間だけだろうと思う。ちょっと知識の有る人であれば、「自堕落で腐敗した生活」は資本主義者の成れの果てではなく、どちらかと言えば、特権階級を持つに至った共産主義者が最終的に陥る姿であることは知っている。

 実際のところは、張成沢氏が本当に「自堕落で腐敗した生活」を送っていたのかどうかは定かではないが、日本のアナウンサーであれば、以下のように言うべきだったのではないかと思う。

 「張成沢氏は(中略)…共産主義的な特権階級生活をしていた…」

 こう言っていれば、出かける前に変な違和感を感じることもなかっただろうし、本記事を書くこともなかっただろうと思う。
 この違和感の正体をもっと突き詰めて書くと、共産主義国というのは基本的に人間の上位概念である「神」という認識が存在しない国である。逆に資本主義国というのは、形骸化していようとも「神」という認識が存在する国である。
 なぜ人間は「自堕落で腐敗した生活」をすることがいけないのか? その思想の根底にあるのは「神」の目というものであり、人間として恥ずかしくない生き方というものが意識されているからである。と考えると、北朝鮮においては「自堕落で腐敗した生活」がなぜいけないのか?という質問に対する答えは有って無いに等しいことになる。しょせんは人間が決めたただの決まり事(法律のようなもの)に過ぎないのだから、その禁を破ることに罪悪感は伴わないことになる。
 つまり、精神的に「自堕落で腐敗した生活」を是正しようとするストッパーが機能しないのは資本主義国ではなく、共産主義国の方なのである。
 この辺のところはマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読めばよく解るかもしれない。

■「地上の地獄」が「地上の楽園」に見える思想

 それにしても、一国を統べる思想というものは、げに恐ろしきかなと改めて実感した。我々、日本に住んでいる人間から観ると、正直、処刑された人間の方が処刑した人間よりもまともではないのか?と思えてしまうが、かつて「地上の楽園」と言われた国ではそう思わない人が大勢いるらしい。
 先に「刷り込まれる」という言葉を使用したが、まさに生まれた時にその地を統べている誤った思想が心の奥深くに刷り込まれてしまえば、善悪というものの倒錯にも気付かないということも有り得るわけだ。善人が悪人に見え、悪人が善人に見えるという、善悪がひっくり返った状態を疑問にも思わないことほど恐ろしいことはない。

 「平等な社会」を目指すという思想を掲げた国が、自分達が「自堕落で腐敗した資本主義」と批判する国の人々よりも優しさや融通性に欠け、人の命や人権を軽く見ているという現実を、彼らはどう見ているのだろうか?

 「教育とは、世界を変えるために用いることができる最も強力な武器である」というのは先ごろ亡くなられたネルソン・マンデラ氏の言葉だが、確かに人間には教育が重要だ。しかし、その教育の土台にある思想の重要性はその比ではない。ここが間違うと、国そのものがカルト教と化してしまうということを、彼の国は身を持って証明してくれているかのようだ。
 「地上の地獄」が「地上の楽園」に見えるような人がいたとすれば、その人物は立派なカルト教信者である。

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現代化粧品トラブル考【美白のリスク】

2013120701■「美白化粧品」は「美白薬品」

 カネボウの「美白化粧品」によって一部の使用者に白斑被害が出たことで大きな話題となった化粧品トラブル問題だが、カネボウ以外のメーカーから販売されている「美白化粧品」でも少なからず被害報告があったことはよく知られている。そして今度は第一三共ヘルスケアが製造販売している化粧品でも一部の使用者に皮膚障害が発生していることが判明し、またまたニュースになっている。

 第一三共ヘルスケアの化粧品「ダーマエナジー」の場合、カネボウのような白斑が出るというような深刻なトラブルではないらしいが、肌への浸透性のある化粧品の場合、どうしても体質に合わないという人が一定の割合で出てきてしまう。そう考えると、現代の化粧品に副作用リスクが有ることは別に不思議な話でもないのかもしれない。
 特に「美白化粧品」というものは、実質的には「化粧品」というよりも「薬品」に近いものなので、万人に最適化された安全な化粧品とは言えない。

 女性は昔から肌を白く見せようと努力し、色の白さを競うかのように(厚)化粧を重ねてきたことは言うまでもない話だが、最近の「美白化粧品」というものは、肌の上に白い化粧をするのではなく、肌そのものを白くするという効能が謳われている。これはどういうことかというと、「もはや化粧品ではない」ということでもある。「美白化粧品」と言うより「美白薬品」と言った方が正解だろうと思う。

■「化粧品」は「薬」にも「毒」にもなる

 「薬品」である限りは、効能は人によっては千差万別のはずで、個人の元々の肌の白さや強さ、薬品に対する耐性や相性などによって効き目は全く違ってくる。上手い具合にピッタリ相性が合い、美白に成功した人もいれば、幸か不幸か、ほとんど効果が無かったという人もいるのではないかと思う。
 問題となったのは、肌全体が万遍なく白くならなかった人や、白く成り過ぎた人がいたことであり、まさに十人十色の美白結果となってしまった。そして、その結果は偶然に発生した突発的なトラブルと言うよりも、むしろ起こるべくして起こった必然的なトラブルであったことこそが問題だと言える。
 美しくなるために行なった化粧行為によって、逆に醜くなってしまった女性には同情を禁じ得ないし、男性であってもその憤りは痛いほど解る。「そんな危険な化粧品を販売するとは何事だ!」と苦情を言いたくなるのは至極もっともな話だ。

 しかしこの問題は、「美白化粧品」に使用されている薬品の種類や、薬品の適量を議論しても一向に埒があかないのではないかと思える。この問題の本質は、「美白化粧品」というものを販売する過程において、「薬品には副作用のリスクが有る」ということをキッチリとアナウンスしていなかった(または消費者にリスク意識が浸透していなかった)ことにあるのではないかと思われる。
 いくら厚生労働省から医薬品としてのお墨付きをもらったといっても、それが万人に無害ということはまず有り得ない。

 以下のように書くと、この問題の本質がよく解るのではないかと思う。

 「美白化粧品」>「美白薬品」>「美白毒」

 「化粧品」と名が付いていれば、誰もその危険性を疑わない。では「薬品」ではどうだろうか?
 「薬品」と言えば確かに聞こえは良い、しかし「薬品」の本質は基本的には「」である。その証拠に、どんな薬であろうと、摂取量を間違って大量に飲めば命に危険が及ぶことになる。風邪薬や胃腸薬が薬だと言っても、大量にガブ飲みすれば重篤な副作用が生じる(場合によっては死に至る)ことは誰もが知っている。たとえ無害なビタミン剤が入っているだけでも、使用する人がアレルギーを発症することは有り得るわけで、絶対的に安全な化粧薬品などというものは存在しない。
 ゆえに、「美白化粧品」も、個人の体質によっては様々な結果(悪くなる場合もある)が生じるリスクが元々あったということである。

■リスクが伴う「現代の化粧術」

 ところで、「美白」という言葉が使用されだしたのは一体いつ頃のことなのだろうかと思い調べてみると、1990年代後半のことであるらしい。当時、故 鈴木その子氏が「美白の女王」と呼ばれていたことは記憶に新しいところだ。
 その後、2000年になると、今度は「ガングロ」という肌を黒くするファッションが一時的に流行ったものの、結局はまた「美白」ブームが訪れた。
 昔から「色の白いは七難隠す」と言われ、「色白」もとい「美白」というものは、女性の憧れでもあった。

 「美白」、文字通りのその美しい言葉に心惹かれ、「美白」有効成分「ロドデノール」を配合した化粧品に手を出した女性はたくさんいた。そしてその「美白化粧品」が日本の隅々にまで行き渡ると、今度は「美白」トラブルが発生し、カネボウの美白化粧品が取り沙汰されることになったというわけだが、実はそれは化粧品のトラブルではなく、薬品のトラブルだった。肌を白く見せる化粧品ではなく、肌を白くする薬品(場合によっては毒)を自らの肌に塗っていたことが問題なのであり、それは本来、危険を承知の上で行うべき賭け事でもあったというのが本質的な問題だった。

 塗り薬の注意書きには大抵「お肌に合わない場合は、ご使用を中止ください」と書かれてあるが、化粧品の場合、肌に合うかどうかは実際に結果が出ないと判らない。しかし、悪い結果が出てからでは既に後の祭りとなってしまう。となると、元々、肌の弱い人などは、極力、美白化粧品などは使用しない方が良いということになる。
 現代の最先端科学によって人工的に開発された化粧品には当然リスクが有る。そのことを正しく認識した上で、注意深く化粧品を選択するのが現代風の化粧術ということなのかもしれない。

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