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2014年2月

「便乗値上げ」を全否定するべからず。

2014022301■QBハウスの値上げは便乗値上げか?

 このところ、消費税増税が迫ってきたこともあり、企業はあらゆる商品価格やサービス価格の改訂を余儀無くされている。中には消費税増税分を内税としてサービスする羽振りの良い企業もあるものの、ここぞとばかりに便乗値上げに踏み切る企業も多いようだ。

 例えば、理髪店のQBハウスは、これまでのカット料金を1000円から1080円に値上げするらしい。これまで内税として消費税分の50円をサービスしていたのかもしれないが、そのサービスは取り止め、外税として請求する料金設定に切り替えたことになる。
 と言っても、そのことを批判するつもりは全くない。むしろ、妥当な判断だろうと思う。来年には消費税が10%になると言われている状況下で、税込み1000円に拘っていると増税の度に利益は目減りしていくことになるので、税抜価格を1000円固定にして、あとは税金分を上乗せするという当然の判断をしただけだろうと思う。

 私は既存の理容店を利用しているので、QBハウスの料金設定がどうなろうとも全く関係がないのだが、QBハウスを利用している人からすれば「3%の消費増税で、なんで8%も料金が上がるんだ!」と文句を言うかもしれない。
 しかし、もともと、1000円という破格値なのだから、これ以上、デフレを推し進めるような さもしい文句や苦情は控えた方がよいのではないかと思う。文句を言うのであれば、便乗値上げ(?)したQBハウスではなく、消費増税の決定を行った政府に対して言うのが筋というものだ。

 もともとベラボウに高い商品が便乗値上げで更に高くなるのは問題だが、もともと安過ぎると思われるようなものは、この際、便乗値上げに踏み切った方がよいと思う。日本の不況は消費不況だが、もともと安いモノの値段を更に下げたからといって、モノが格別売れるようになるわけではないし、景気が良くなるわけでもない。
 消費者の「価格は下がっていくのが当たり前」、生産者の「1度下げた価格は絶対に上げることができない」というような尻すぼみのデフレ根性を見直さない限り、薄利経済にどんどん拍車がかかり、マクロ的な経済状況はますます悪化していくことになるので、もうこの辺で、デフレ教の洗脳から脱した方がよいのかもしれない。

■牛丼離れする牛丼メーカーと消費者達

 あるいは、身近なところで言えば、牛丼価格というものがある。これまでデフレ経済を象徴するかのように価格が下がっていくことが当たり前とされてきた牛丼価格も、今後は上昇に転じるかもしれない。と言うよりも、最近は消費者の牛丼離れが加速しているらしく、その空気を感じ取ったメーカー側も牛丼を主力商品とは見ていない傾向があり、別の商品開発に力を入れているらしい。「なか卯」を始め、「吉野家」「すき家」も揃って、すき焼き風メニューに移行しつつある。

 ところで、なぜ牛丼は売れなくなってきたのだろうか?

 「飽きたから」という答えが圧倒的に多そうだが、理由は他にもいろいろと考えられる。しかし、ここで大事なことは、「安くすれば売れ続けるわけではない」ということである。
 実際のところはどうか分からないが、イメージ的には国全体として少し景気が良くなってきたという雰囲気があるので、最安の目玉商品である単品牛丼に拘る消費者が減少したということなのかもしれない。牛丼メーカーが安値競争に鎬を削ってきた単品牛丼は、言葉は悪いかもしれないが「客寄せパンダ」的な商品でもあったと思う。牛丼(並)単品だけの注文ではほとんど利益は出ないが、付随する商品をセットで販売することによって少なからず利益を得ていたのではないかと思う。

■注意するべきは「便乗値上げ」ではなく「利益は悪」とする思想

 牛丼は、カレーやラーメンと同じく、飽きの来ない商品ではある。しかし、カレー店やラーメン店と同じく、継続していくために最も大事なことは「値段」ではなく「」である。
 多くのメーカーは、デフレ下では「味」よりも「価格」ばかりに目(心)を奪われてきた。その風潮に呼応するかのように消費者達も「価格」ばかりに目(心)を奪われ、肝心の味を追求するという本来の食文化というものを忘却してきた。

 「味」とはつまり「文化」である。「貧すれば鈍する」という諺の通り、人々はお金に余裕がなくなれば、「味」よりも「お金」に固執してしまう。
 「お金の無いところに文化は生まれない」、デフレ社会は、その言葉の本質を理解するには、まさに格好の時代だとも言える。しかし、もし「お金」や「利益」を悪とする思想がデフレの中に含まれているのであれば、その思想は社会を貧しくし、文化を破壊する危険性を秘めていることになる。
 デフレ自体には善も悪もないが、デフレ社会の中で「富を否定する」空気が生まれ、それが正当化されると、デフレは悪になってしまう。

 便乗値上げを闇雲に否定する行為も、「富を否定する」側に立てば悪に転じる可能性がある。「便乗値上げ反対」という言葉の中に「利益は悪」とする思想が紛れ込んでいるのであれば、要注意だ。

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『脱原発論者』が感情的な理由【失恋脳という病】

2014021401■「放射脳」の別名「失恋脳」

 周回遅れの『原発選挙』となった『東京都知事選挙』は、多くの人が予想していた通り、舛添氏の当選ということで落ち着いたようだが、目下のところ、当選した舛添氏よりも、落選した側の小泉氏や田母神氏の方が世間の注目を浴びているかに見える。

 各メディアで本音の正論を堂々と述べていた田母神氏よりも、本音と建前を上手く使い分けていた舛添氏の方が万人受けしたということなのだろうと思う。逆に、建前のみに固執した候補者達はものの見事に総スカンを食らった格好となった。
 もし私が東京都民であったなら、(舛添氏が当選するだろうことはほぼ見えていたので)応援票として田母神氏に投票していたかもしれない。

 いずれにしても「即原発ゼロ」などという無責任極まりない妄想を支持する都民が多数派にならなかったことは幸いだった。もし本当に「即原発ゼロ」などというものが国是になってしまうと、日本の将来はお先真っ暗になるところだった。無論、「停電になる」という意味でのシャレではない。
 「そんなオーバーな…」と言う人がいるかもしれないが、まんざらオーバーな話でないことは、物事を理性的に考えられる人であれば素直に理解できると思う。

 「即原発ゼロ」を訴えているような人というのは、傍から眺めていても、理性的なタイプとは程遠いという印象を受ける。
 誰が考えたのか知らないが、ネット界隈では「放射脳」という言葉をよく見かける。理性的な判断ができない脱原発論者を揶揄した言葉であるらしいが、言い得て妙なネットスラングだと思う。私なりに別の言葉に置き換えさせてもらうと「失恋脳」ということにもなるだろうか。脱原発論者というのは、良く言えば、極めて女性的な傷つきやすいタイプの人なのだろうと思う。(注:意図的に脱原発を訴えている人は別)

■「恋愛感情」と似通った「原発感情」

 たった今、失恋したばかりの人に理性的な言葉で慰めても通じない。このことは(劇的な)失恋経験の有る人であれば、よく解るのではないかと思う。
 失恋して心に傷を負ったばかりの人に、「失恋なんて、5年もすれば何とも思わないようになりますよ。10年もすれば美しい思い出に変わりますよ」と言っても無駄である。なぜなら、傷心した人の心は感情が膨張し、理性が冬眠している状態に近く、「恋の病」という躁状態とは真逆の「失恋の病」という鬱状態に陥っているため、如何に正論であろうとも理性的な言葉は全く通じなくなる。
 失恋感情が暴走してしまうと、時には自殺するというような悲劇まで生まれてしまうことは周知の通りであり、数年経てば笑って済ませる話でも、現在ただいま失恋病を患っている患者にとっては、至って真面目な重大事となる。

 原発事故によって脱原発論者達が陥った心境も、「信じていた人に裏切られた」というような失恋感情と非常に似通っていたのではないかと想像する。
 「私を裏切った男を許せない」というような感じで、「私を裏切った原発を許せない」という感情が膨張し、ひどい場合は、その男(原発)が自分自身の前から永遠に姿を消さなければ気が済まないということになってしまう。それが「放射脳」もとい「失恋脳」というものの正体である。
 端的に言えば、妄想が膨張し理性を失っている精神的バブル状態なのだが、失恋者同様に“自分中心に世の中が回っている”という錯覚を抱いている状態に近い。そういう意味では、現代の天動説論者と言えるのかもしれない。

■「脱原発」バブルは必ず崩壊する

 福島原発事故から、既に3年が経過しようとしているので、軽度の「失恋病」を患った程度の人は病が癒えつつあるのか、最近は以前ほど感情的な意見は聞かれなくなってきた。私がたまに脱原発の批判記事を書いても、以前ほど感情的な反論は返ってこなくなったので、そのことは実感としても感じられる。

 「脱原発」バブルは、近い将来必ず崩壊すると思われるので、利口な人は、その未来の姿を本能的に感じ取っているようだ。原発論議のシロクロは徐々に明白になってくると思われるが、もういい加減に「失恋の病」(理性の冬眠)から目を覚ましてもよい頃合いだと思う。
 恰も大失恋者であるかの如く、悲劇の主人公を演じることで憂さを晴らすのも結構だが、その独りよがりの独善を他人にまで強要するのは間違っている。失恋感を持つに至らなかった理性的な人にまで、毎年1人数万円もの不必要な電気代を強要し、経済を衰退させることに目を瞑れと言う資格は誰にも無い。
 長期的な「脱原発」はともかくとして、「即脱原発」などと言っているのは、どう考えても多数派では有り得ないし、そのことは都知事選でも判明した。民主主義の基本原則から言っても、「即脱原発」を認める理由はもはや消滅したと言っても過言ではない。

 年間数兆円もの不必要な無駄金を垂れ流すぐらいなら、そのお金を生活保護や介護費用、または定額給付金としてバラまいた方がよっぽどましだと言える。実際、数兆円ものお金があれば多くの命を救うことができる。
 「即脱原発」などと言って、本当に救える命には目も向けずに、起こるかどうかも判らない危機を煽る人々とは、一体何が目的で行動しているのだろうか?

 「原発はいらない、経済成長もいらない、オリンピックもいらない」というような台詞は、本当に国の将来を憂いた言葉なのだろうか? 国民の将来ではなく己個人の将来しか考えていないのではないか?ということを自問自答してみることをオススメする。

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【思考実験】日本を「東日本」と「西日本」に分割すれば?

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■『日本民主共和国(東日本)』と『日本連邦共和国(西日本)』

 第二次世界大戦で敗戦したドイツは1949年に「東ドイツ」と「西ドイツ」に分裂した。「東ドイツ」は共産主義国家、「西ドイツ」は資本主義国家となり、それから40年後、「東ドイツ」の民主化運動によってベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツは統一された。
 誰もが知るこの世界的事件を現代の日本に当て嵌めて考えてみると面白いかもしれない。
 
 その思考実験のベースとなるのは、現在、東京都知事選でも争点の1つとなっている「原発」に関してである。「敗戦」を「原発事故」に置き換えて考えてみよう。

 「原発事故」によって、日本には全く正反対の考えを持った人々が誕生した…と言うより存在することが明らかとなった。片方は「原発反対」、もう片方は「原発容認」、この全く正反対の考えを持った人々を左右の国に振り分けてみると、一体どうなるだろうか?

■衰退する「東日本」と発展する「西日本」

 原発稼働を否定する人々は「東日本」に住み、原発稼働を容認する人々は「西日本」に住むという感じで分けてみると、おそらく数年後には非常に面白い(と言うよりも興味深い)結果が出るのではないかと思える。

 日本列島を地質学的に左右に分断するフォッサマグナ(中央地溝帯)を基準として住み分けてみると、反原発論者達が居住する「東日本」は電気代がウナギ登りに上昇し、景気も冷え込み、文化も廃れ、失業者や自殺者も増加し、数年もすれば、西日本に逃げてくる(亡命してくる)人が大勢出てくるのではないかと思う。
 現在、原発を停止していることで毎年失っている膨大な国富(数兆円)を全て「東日本」が負担することになるのだから、これはほぼ決定的な未来予測と言える。
 そうなるとアメリカも「東日本」には興味が無くなり、中国も、尖閣諸島や沖縄を無視して「東日本」を自国領にしてしまうかもしれない。

 一方、「西日本」は安価で安定的に電気供給が保たれ、景気も安定し、仮に地震が起こったとしても東日本大震災の教訓を生かして何の問題も発生せず、有能な人材が世界各国(東日本からも)から集まり、隆々とした世界に冠たる経済国家として君臨することになるだろう。2020年の東京オリンピックも「西日本」主催で行われることになるかもしれない。

 『日本民主共和国(東日本)』と『日本連邦共和国(西日本)』は、数十年後、かつての東西ドイツと同じような結果となるだろうことは、ほぼ間違いないだろう。

■リアルな社会実験としての「東京都知事選」

 以上のシンプルな思考実験を考慮した上で、現在の都知事選を俯瞰してみると、如何に論点がズレているかがよく解る。日本をこの思考実験で述べた「東日本」にするか「西日本」にするかを決めるのは国民であり、今回の都知事選に限って言えば、東京都の有権者の肩(良識)に日本国民の運命がかかっていると言えるかもしれない。

 思考実験だけなら笑い話で済むが、現在、首都で繰り広げられている都知事選は、紛れもないリアルな社会実験である。単なる都知事選で日本の運命が決まるというのは、本来、有ってはならないことだが、皮肉にも「原発」問題を争点にしたことによって、日本全体の命運を占う選挙になってしまった。東京都民が間違った選択をしないことを祈る。

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