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2014年3月

「WindowsXPサポート終了」というカミカゼ

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■水面下で進行中の もう1つの駆け込み需要

 消費税増税を明後日に控え、どこもかしこも最後の駆け込み需要ということで、商品の流通・物流業者を中心に嬉しい悲鳴をあげている状況であるらしい。
 マスコミはこの風潮を「消費税増税のせい」と決めつけているようだが、実はもう1つ、世界的に大きな駆け込み需要が水面下で進行している。その世界を舞台にした巨大な駆け込み需要とは何かと言うと、もちろん、WindowsXPサポート終了における新パソコン購入(ソフトも含む)という世界を舞台にした駆け込み需要である。

 長年のMacユーザーである私の場合、WindowsXPはMacのエミュレーションソフト上で使用していたので、OSソフト(Windows7)と新しいエミュレーションソフトのみを購入して対応することができたが、世間一般のWindowsオンリーユーザーは、そういうわけにはいかない。XPで使用しているパソコンが旧い場合には、本体ごとリプレースしなければならない人は結構多いのではないかと思う。

 日本の場合、消費税の増税とXPのサポート終了が運悪く重なってしまったために、この3月で売買されたパソコン台数は相当な数にのぼるらしく、注文してもなかなか発送されてこないというケースが私の身近でも起こっている。
 消費税の増税は日本だけの問題だが、XPのサポート終了は全世界的な問題であるため、その潜在需要は凄まじいものがある。

 実際のところ、未だに「WindowsXPを使用し続ける」と言っている企業やユーザーも多いことから考えると、この需要は当分の間は収まらないのではないかと予想される。今後、XPのパソコンで何か問題が発生する度に、買い替え需要は喚起されることになるので、「WindowsXPサポート終了景気」とも呼べる状況が発生するかもしれない。

■「WindowsXPサポート終了」は社会主義政策?

 言わずと知れたことではあるが、現代社会はコンピューター無しでは成り立たなくなっている。そのコンピューターを動かす基本ソフトの圧倒的シェアを握ることは世界のマーケットを支配することに等しい。
 そのマーケットシェアの大半を握っているマイクロソフトが「WindowsXPのサポートを終了する」と述べたことは、一見、自由主義的でありながらも、実質的には究極の社会主義政策と受け取れなくもない。パソコンを動かす基軸OSの世界的実権を握った企業の一言は、一国の総理の発言以上の影響力を持っていると言っても決して言い過ぎではないだろう。
 全世界に広がったパソコンというインフラを一新するだけの影響力というのは、日本で消費税を上げる・下げるなどという影響力とは比べ物にならない。社会に絶対的に必要とは言えないインフラの一新というものを半強制的に行うという意味では、IT版の公共事業とも言える。

 とはいえ、今回、パソコンの買い替え需要が発生したのは、マイクロソフトがサポートを打ち切ったことにあるのではなく、本質的にはコンピューターウイルスなどの違法行為が存在するためだとも言える。仮にサポートを打ち切ったとしても、世の中にコンピューターウイルスなどを利用した違法な犯罪行為が無ければ買い替え需要は起こらなかったわけで、マイクロソフトにとっては「ウイルス様々」といったところかもしれない。

 犯罪や病気が無ければ、警察も病院も流行らないのと同じように、コンピューターウイルスが無ければ、ソフトウェア会社も儲からないという、なんとも皮肉な屈折した社会構図の模範例を見ているようで嘆かわしいが、それを言ってしまうと身も蓋もなくなってしまう。

■安倍総理は「カミカゼ」に助けられるか?

 ところで先程、「消費税の増税とXPのサポート終了が運悪く重なった」と書いた。しかし、よくよく考えると、この状況は日本にとっては実は運が良かったのではないかとさえ思える。消費税増税の駆け込み需要の反動で4月以降は消費が落ち込み、景気が悪くなると言われているが、4月以降もパソコン購入の駆け込み需要が続くと考えると、上手くいけば、消費の落ち込みは少し緩和されるかもしれない。

 「WindowsXPサポート終了」という出来事は、日本にとっては「カミカゼ」のようなものとなる可能性がある。早期の消費税増税に踏み切ったことで、経済音痴を曝け出してしまったかに見えた安倍総理だったが、もし、この難を逃れることができたとすれば、つくづく運の良い人物だと言えるのかもしれない。

(注意)消費税を増税することに賛成しているわけではないので誤解のないように。

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「春闘」という言葉の意味を考える

2014032101■闘争の相手が見えない「春闘」

 春の兆しが見え隠れする時期になると、どこからともなく「春闘」という言葉が耳に入ってくるようになる。「今年の春闘は良い結果が出た」というニュースもよく聞かれるが、普段、誰もが何気なく耳にしているこの言葉は、正式には「春季闘争」の略語であり、「労働者が賃金の引き上げや労働条件の改善を要求する労働運動」のことを意味している。
 1950年代から始まったとされる「春闘」は、その誕生から既に半世紀以上が経過しており、時代の変化とともにその言葉(闘争という言葉)は、現実からどんどん乖離しつつあるように感じられる。

 この「春闘」という言葉を聞いて、常々思うことは、「一体、誰と闘争するのだろうか?」という疑問である。
 「労働者」が闘う相手ということは、単純に考えれば、「経営者(使用者)」ということになるのだろうが、21世紀の現代において同じ企業内の経営者と労働者が闘うという構図は、どこか古臭く、時代にそぐわない感じがする。

 企業に入社したばかりの右も左も分からない新入社員や、大企業やお役所に勤めている人であれば、それほど疑問は感じないのかもしれないが、一般の民間企業に勤めている人であれば、「春闘」という言葉に違和感を感じている人も多いのではないかと思う。

 国内や海外の競合他社と“労働力”において闘う(労 vs 労)というなら今風だと言えるのかもしれないが、同じ企業内で“労働条件の改善”を目的に闘う(労 vs 使)というのは現代的ではなく、今時、「闘争」というような言葉を使用する必要性は感じられない。「闘う」ではなく、単に「話し合う」でいいのではないだろうか?

■「春闘」は景気連動型の闘争

 高度経済成長時代、多くの労働者はその時代に見合うだけの利益(給料)を享受していなかったため、ねずみ小僧の如く、儲けた企業から少しでも利益を奪い取ってくれる労働組合は労働者の力強い味方だったかもしれない。
 大企業の給料が上がれば、それに倣って中小企業の経営者も給料を上げるという売り手市場ならではの好循環が機能した時代だったため、労働組合が大企業にしか存在しないということも、それほど問題視されなかった。
 しかし、バブル経済の崩壊後、ねずみ小僧の仕事は、単に利益を奪い取るだけでは済まなくなり、徐々に“利益を奪う”よりも“雇用を守る”という方向にシフトしていかざるを得なくなった。

 ところが、雇用を守るためには、利益を奪うことを最優先にはできない。お金の無い企業から無理矢理に利益を奪い、その企業自体が疲弊して潰れてしまえば元も子もなくなってしまう。利益は奪いたいが、雇用も守らなければならず、会社を潰すわけにもいかないという三重苦的なジレンマを背負い込むことになったのが、現代の労働組合の実態かもしれない。

 先に「今年の春闘は良い結果が出た」と書いた。しかし、それは必ずしも春闘で労働組合が頑張ったから良い結果が出たというわけではなくて、円安や株高によって多くの大企業の利益率が増大したからという理由に依るところが大きい。企業は大幅に上がった利益の一部を労働者に分配したというだけのことであり、労働組合の運動次第で大きく明暗が分かれたというわけではない。その証拠に民主党時代の超円高・株安時代は春闘で良い結果が出たというような話はほとんど聞かれなかった。
 要するに、「春闘」とは企業が儲かっているという前提があって初めて成果が出るという景気連動型の闘争なのである。

■誰でも「資本家」になれる時代

 「春季闘争」などと聞くと、なにやら学生運動めいた物騒が感じがして、「強欲な資本家」と「奴隷のような労働者」という判でついたような、お決まりの姿が思い浮かんでしまうが、現代は「資本家」と「労働者」が完全に分断されたような窮屈な社会ではなくて、誰でも、その資本家になれる時代でもある。

 かつては資本(主に土地)を持っている資本家と、資本を持たない労働者という対立が有り得たのかもしれないが、現代では、土地など持っていなくても、ネット社会に存在する無限の空間を誰でも手に入れることができる。
 ネットショップやネットを利用したビジネスを立ち上げるのに土地は必要ない。個人の才覚次第では、いくらでも目に見えない仮想空間を手に入れて、領土(目に見えない資本)を拡張していくことが可能な時代なので、「資本家は敵だ!」などと言っていること自体が既に時代遅れだとも言える。
【参考文献】『新・資本論』(大前研一著)

 少し話が脱線してしまったが、そんな時代であるからこそ、「闘争」というネーミングは、あまりよろしくないのではないかと思える。テレビから「春闘」という言葉が流れてきても何とも思わない人でも、「春季闘争」と聞けば、さすがに「えっ?」と思うのではないかと思う。また、新聞に「今年の春季闘争は良い結果が出た」と書かれていれば、「なにそれ?」と不思議に思うことだろう。

 もうぼちぼち、「春闘」という言葉を「春風」にように馬耳東風で聞き流すのではなく、その言葉の意味を考えても良い時代かもしれない。

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BOOK 『嫌われる勇気』を読んで。

2014030801 話題のベストセラー『嫌われる勇気』(岸見一郎・古賀史健 著)を購入し読んでみた。
 たまたま、アマゾンのランキングで目に止まった本だったが、キャッチコピーの「自由とは他者から嫌われることである」という言葉に引かれて購入する運びとなった。
 ところで本書は、立ち(座り)読みはアマゾンで行い、購入はリアル書店で行った。家電製品の(悪名高い)ショールーミング化は有名だが、本の場合は、ネットとリアルの逆ショールーミング化という場合も有り得るわけで、私の場合、書店に置いていないような本はアマゾンで購入するようにしているが、知名度の高い本は極力、リアル書店で購入するように努めている。(リアル書店の応援の意味も込めて)

 さて、本題に入ろう。本書は一時、ベストセラー1位にランキングされたほどの人気本だが、ジャンルとしては珍しく「心理学」の部類に入る。このての本が売上1位になるというだけでも興味深く、一体どんな内容の本なのかと興味津々と読んでみた。

 ソフトカバー本とはいえ、紙質が薄いせいか、ページ数の割りには手にしたボリュームが感じられない本であり、見かけはかなりチープな感じのする本だった(失礼)が、その反面、内容的には非常に濃い本だった。「人は見かけによらない」と同じく「本は見かけによらない」を地でいく本だった。
 どちらかと言えば、心理学というより哲学に近い内容であり、古代ギリシャ哲学でよくみられる「対話篇」という体裁を取ったユニークな本だった。

 心理学者としては、ユングやフロイトが有名だが、本書には第三の心理学者アドラーが登場する。欧米では、この3人を「心理学の三大巨頭」と呼ぶらしい。

 著者の古賀史健氏はユーモアセンスの有る人のようで、「哲人」と「青年」との対話が面白く、かなり凝っている。人生に悲観的でニヒルな哲学青年を説き伏せていく「哲人」は、著者の2人、ひいてはアドラー自身の生き写しなのだろう。
 難解な哲学書という趣きを一切廃し、1冊の本を丸ごと対話篇にしたのは実に上手い手法だと思う。アドラーの心理学と同様に、本書もかなり独創的な本になっている。

 日本でもフロイトが説いたとされる「トラウマ(心的外傷)」という言葉は有名で、本やブログなどを読んでいてもよく見かける(私もたまに使用する)言葉だが、アドラー心理学では、その「トラウマ」を完全に否定する。曰く「トラウマは無い」と。
 そして、「全ての悩みは対人関係の悩みである」と断じる。「引きこもり」や「吃音」「ワーカホリック」という現象を原因論ではなく目的論で捉え直した論考は、実に興味深かった。

 フロイト心理学が「原因」を探る心理学(責任転嫁論)であれば、アドラー心理学は「目的」を探る心理学(自己責任論)であり、極めて未来志向の実践的な心理学(人生哲学)だとも言える。
 その証拠に、有名なデール・カーネギーの『人を動かす』やスティーブン・コヴィーの『7つの習慣』もアドラー心理学が基になっているらしい。
 
 おそらく、大抵の読者は、この本に登場する「青年」と同じような認識で本書を読み進めるのだろうと思う。架空の「哲人」に対し、人生の疑問を自らぶつけているような錯覚を覚え、どんな難問にも明快に即答する「哲人」に、いつしか興味を抱いている自分を発見するのではないかと思う。平易な会話を通して人生哲学論を淡々と述べる「哲人」の言葉に「はっ?!」とする人は案外多いのではないかと思う。

 もともと心理学に興味が有る人にも、全く興味が無い人にも、1つの人生論として本書を一読することをオススメしたい。「人生における最大の嘘」とは何か? その解答を発見するだけでも一読する価値はある。

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