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「春闘」という言葉の意味を考える

2014032101■闘争の相手が見えない「春闘」

 春の兆しが見え隠れする時期になると、どこからともなく「春闘」という言葉が耳に入ってくるようになる。「今年の春闘は良い結果が出た」というニュースもよく聞かれるが、普段、誰もが何気なく耳にしているこの言葉は、正式には「春季闘争」の略語であり、「労働者が賃金の引き上げや労働条件の改善を要求する労働運動」のことを意味している。
 1950年代から始まったとされる「春闘」は、その誕生から既に半世紀以上が経過しており、時代の変化とともにその言葉(闘争という言葉)は、現実からどんどん乖離しつつあるように感じられる。

 この「春闘」という言葉を聞いて、常々思うことは、「一体、誰と闘争するのだろうか?」という疑問である。
 「労働者」が闘う相手ということは、単純に考えれば、「経営者(使用者)」ということになるのだろうが、21世紀の現代において同じ企業内の経営者と労働者が闘うという構図は、どこか古臭く、時代にそぐわない感じがする。

 企業に入社したばかりの右も左も分からない新入社員や、大企業やお役所に勤めている人であれば、それほど疑問は感じないのかもしれないが、一般の民間企業に勤めている人であれば、「春闘」という言葉に違和感を感じている人も多いのではないかと思う。

 国内や海外の競合他社と“労働力”において闘う(労 vs 労)というなら今風だと言えるのかもしれないが、同じ企業内で“労働条件の改善”を目的に闘う(労 vs 使)というのは現代的ではなく、今時、「闘争」というような言葉を使用する必要性は感じられない。「闘う」ではなく、単に「話し合う」でいいのではないだろうか?

■「春闘」は景気連動型の闘争

 高度経済成長時代、多くの労働者はその時代に見合うだけの利益(給料)を享受していなかったため、ねずみ小僧の如く、儲けた企業から少しでも利益を奪い取ってくれる労働組合は労働者の力強い味方だったかもしれない。
 大企業の給料が上がれば、それに倣って中小企業の経営者も給料を上げるという売り手市場ならではの好循環が機能した時代だったため、労働組合が大企業にしか存在しないということも、それほど問題視されなかった。
 しかし、バブル経済の崩壊後、ねずみ小僧の仕事は、単に利益を奪い取るだけでは済まなくなり、徐々に“利益を奪う”よりも“雇用を守る”という方向にシフトしていかざるを得なくなった。

 ところが、雇用を守るためには、利益を奪うことを最優先にはできない。お金の無い企業から無理矢理に利益を奪い、その企業自体が疲弊して潰れてしまえば元も子もなくなってしまう。利益は奪いたいが、雇用も守らなければならず、会社を潰すわけにもいかないという三重苦的なジレンマを背負い込むことになったのが、現代の労働組合の実態かもしれない。

 先に「今年の春闘は良い結果が出た」と書いた。しかし、それは必ずしも春闘で労働組合が頑張ったから良い結果が出たというわけではなくて、円安や株高によって多くの大企業の利益率が増大したからという理由に依るところが大きい。企業は大幅に上がった利益の一部を労働者に分配したというだけのことであり、労働組合の運動次第で大きく明暗が分かれたというわけではない。その証拠に民主党時代の超円高・株安時代は春闘で良い結果が出たというような話はほとんど聞かれなかった。
 要するに、「春闘」とは企業が儲かっているという前提があって初めて成果が出るという景気連動型の闘争なのである。

■誰でも「資本家」になれる時代

 「春季闘争」などと聞くと、なにやら学生運動めいた物騒が感じがして、「強欲な資本家」と「奴隷のような労働者」という判でついたような、お決まりの姿が思い浮かんでしまうが、現代は「資本家」と「労働者」が完全に分断されたような窮屈な社会ではなくて、誰でも、その資本家になれる時代でもある。

 かつては資本(主に土地)を持っている資本家と、資本を持たない労働者という対立が有り得たのかもしれないが、現代では、土地など持っていなくても、ネット社会に存在する無限の空間を誰でも手に入れることができる。
 ネットショップやネットを利用したビジネスを立ち上げるのに土地は必要ない。個人の才覚次第では、いくらでも目に見えない仮想空間を手に入れて、領土(目に見えない資本)を拡張していくことが可能な時代なので、「資本家は敵だ!」などと言っていること自体が既に時代遅れだとも言える。
【参考文献】『新・資本論』(大前研一著)

 少し話が脱線してしまったが、そんな時代であるからこそ、「闘争」というネーミングは、あまりよろしくないのではないかと思える。テレビから「春闘」という言葉が流れてきても何とも思わない人でも、「春季闘争」と聞けば、さすがに「えっ?」と思うのではないかと思う。また、新聞に「今年の春季闘争は良い結果が出た」と書かれていれば、「なにそれ?」と不思議に思うことだろう。

 もうぼちぼち、「春闘」という言葉を「春風」にように馬耳東風で聞き流すのではなく、その言葉の意味を考えても良い時代かもしれない。

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