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2014年8月

BOOK『うどん一玉は角砂糖14個分』を読んで。

2014082201_2■「ご飯ばかり食べていると糖尿病になりますよ」という近未来ジョーク

 ここ数年の間に隠れたブームとなっているものに「糖質制限ダイエット」というものがある。書店の家庭医学本コーナーに行けば、“炭水化物悪玉論”系の書籍が数多く見られるが、最近、またブームが再燃しつつあるのか、類似書籍が続々と刊行されている。

 ブーム火付け役の『主食をやめると健康になる』(江部康二著)や、昨年ベストセラーとなった『炭水化物が人類を滅ぼす』(夏井 睦著)などが有名だが、最近はもっと気軽に読める軽いタッチの関連本も出ている。
 今年発売された『なぜ一流の男の腹は出ていないのか』(小林一行著)という本も実は「糖質制限ダイエット」系の本でもある。

 そんな中でも一際目立ったタイトルの『うどん一玉は角砂糖14個分』(牧田善二著)を先日読んでみた。見開き2ページ単位のエッセー風のシンプルな内容なので、あっという間に読み終わる。
 著者は延べ10万人以上の糖尿病患者を診てきた糖尿病専門医としての経験に基づき、冒頭から「炭水化物は諸悪の根源」とバッサリ切り捨て、日本人の実に9割が炭水化物依存症(糖質中毒)になっていると警告する。

 「うどん一玉が角砂糖14個分」というのは、先に述べた『炭水化物が人類を滅ぼす』にも書かれてあったことなので、特に驚きもしなかったが、「糖質制限」を知らない人にとっては「うどん一玉や、ご飯一膳が角砂糖14個分もの糖質を含んでいる」という事実は、衝撃的な話なのだろうなと思う。

 10年程前、会社の年輩の人から、こう注意されたことがある。

 「缶コーヒーのような甘いものを飲んでいると糖尿病(注)になるぞ

 私自身、缶コーヒーはあまり飲まないのでそれとなく聞き流していたが、調べてみると、缶コーヒー1本に入っている糖分というのは、角砂糖3〜4個分に過ぎない。350mlの缶コーラでさえ角砂糖10個分(→参考サイト)と考えると、ご飯の方が圧倒的に糖分が多いことになる。

 当時、この年輩の人は、まさか自分自身が毎日3度食べているご飯に缶コーヒー以上の糖質が含まれていることなど夢想だにしていなかったことだろう。もちろん、当時は私も知らなかったので、返す言葉が見つからなかったが、現在であれば、冗談混じりにこう返していたかもしれない。

 「ご飯ばかり食べていると糖尿病(注)になりますよ

 こんなことを言えば「何を馬鹿なことを言っているのか?」と思われたことだろう。こういったジョークが世間一般で通じるようになるのは、まだまだ先のことなのかもしれない。

(注)ここで述べている「糖尿病」とは、生活習慣病としての「2型糖尿病」を意味する。
 
■ビールを飲むと「ビール腹」になるのは本当か?

 食事制限を謳った本は実に様々な内容のものがあり、「肉は健康食」と書いている本があるかと思うと、その横を見れば「肉は食ってはいけない」というような本もあり、一体、何が正しいのか分からなくなる時がある。
 ダイエットに関しても、「断食」や「空腹」を勧める本もあれば、「カロリー計算」に特化しただけの本、あるいは「個別の食べ物」にこだわった本など千差万別であり、これではどれが正解なのか検討もつかない。そう思っている人も案外多いのではないかと思う。

 私自身、特に太っているわけでもないので、これまで特にダイエットなどを気にしたことはなかったのだが、2ヶ月程前に少し体調を崩したこともあり、ごく自然に糖質制限を行う機会に恵まれた。
 本書には糖質制限の3つのレベル(下記参照)が書かれてあるが、そのどれにも該当しない自己流の糖質制限を意識せずに行っていた。

 レベル1…夕食のみ主食を抜く
 レベル2…朝食・夕食のみ主食を抜く
 レベル3…3食すべて主食を抜く

 私が行った糖質制限は、レベル1のプチ糖質制限どころか、ほとんど普段と変わらない食事制限で、ジュースやお菓子や菓子パンなどの甘い食べ物(間食)を控え、食べるご飯(米)の量を3〜4割ほど減らしただけだった。すると2ヶ月間程度で体重が4kgほど減少した。
 特に絶食したわけでもなく、空腹感を感じたわけでもないのに、メタボ(ウエスト85cm)に近付いていた腹部の贅肉はほぼ綺麗に取れてしまった。この程度の糖質制限で4kgも減ったわけだから、まともな糖質制限をしていれば、激痩せしていたかもしれない。
 しかし、いくら炭水化物がいけないと言っても、主食(ご飯やパン)を完全に控えるというのは少々無理があると思うので、これ位のリスクのない食事制限が私にはちょうど良いのかもしれない。

 ところで、「ビール腹」という既に市民権を得た言葉があるが、私の場合、この2ヶ月間はビールは控えておらず普段通り飲んでいた(1日1缶程度)。それでも贅肉が取れたわけだから、「ビール腹」というのは本当にビールの飲み過ぎが原因なのか?と疑わずにはいられなかった。本書にも「アルコールそのもので、太るということはありえません」と書かれてあったが、その通りかもしれない。

 著者は最後にこう締めくくっている。現代では「知識欲旺盛な人だけが健康になれる」と。これは私も同感だった。

 余談だが、最近、テレビコマーシャルで売り出し中のプライベートジム『ライザップ』も糖質制限ダイエットを取り入れているらしく、同ジムが「全額返金保証制度」を導入できた背景には、糖質制限ダイエット効果に絶対的な自信が有ったということなのかもしれない。(私はライザップの利用者でも関係者でありません。念のため。)

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「科学の進歩」と「社会の破壊」【社会の病理とは何か?】

■「陰謀論」という誤解

 前回のブログ記事は、久しぶりに多くの人に閲覧していただいたようなので、補足の意味も込めてフォロー記事を追加しておこうと思う。

 世間の大半の人々が反小保方に傾いている現状では、あのような記事を書くと、反論や批判、罵詈雑言があることは事前に予想していたものの、毎度のように誤解や曲解も多々見受けられたので、少し、言葉足らずだった部分を補足しておきたいと思う。

 最も気になったのは「陰謀論」という意見が多かったことだが、誤解を避けるために書いておくと、私は以前からも何度か書いているが「陰謀論」の類いには興味がない。
 前回の記事でも「社会的な病理」と書いたはずだが、言わんとしていることが正しく伝わらなかったようだ。

 「がんの特効薬」が発明された場合の仮定話を書いたことで、「これは陰謀論だ」と判断された人が多かったのかもしれないが、仮定話と現実論の区別をせずに一緒くたにしている人もおられた。
 「がんの特効薬」が発明された場合、そのことをストレートに発表できないというのは、別に発明者個人が世間に気遣いして発表できないという意味ではなく、必ずしもそれが実現しないという意味でもない。その発表が世間に受け入れられるようになるためには、様々な社会的な障壁が存在する(=時間がかかる)という意味である。

■「がんの特効薬」を「公務員改革」に置換

 「がんの特効薬」という言葉を「公務員改革」という言葉に置き換えて考えれば解りやすいかもしれない。

 例えば、社会を合理化する最高の公務員改革策を考えた政治家が「公務員改革をします」と言って、それがストレートに社会に受け入れられ、実現されるかというと、一筋縄ではいかないことは誰もが理解できるだろう。

 個人的には「公務員改革」が絶対的な善だと言うつもりはない(注1)が、そのようなことを言う人が現れても、必ず抵抗勢力が邪魔してきたことは誰もが知っている通りである。
 公務員の皆さんにとっては、「公務員改革」よりも「自分の生活」の方が大事なわけで、自分自身の生活を脅かすものが現れると、それに抵抗する。これは当たり前の話である。「自分の生活はどうなっても構わないので、どうぞ公務員改革を進めてください」というような人がどれだけいるかを考えればよく解ると思う。
 それは公務員が悪いというよりも、社会がそうなってしまっているということであり、そのことを「社会の病理」と言う。

注1)「公務員改革」というものは基本的に不況下で行ってはいけない。もの凄く景気が良い時(公務員を退職しても代わりの仕事がすぐに見つかるような時代)に思い切って行うことが望ましい。もっとも、そんな景気の良い時代が訪れるという保証はないし、景気の良い時に「公務員改革」を叫ぶような人はあまりいないので、結局、出来ないということになってしまうのだが。

■「科学の進歩」は「既得権益の破壊」を齎す

 「がんの特効薬」というのもこれ(公務員改革)と同じ。「がんの特効薬」が発明されることは「公務員改革」と違い、人類にとっては絶対的な善だろうし、私も父親をがんで亡くしているので、そういった薬が発明されることを心底願っている。
 しかし、そのような薬が発明された場合、全世界のがんという病に携わる医者や製薬会社、医療器具メーカー、研究者などが一瞬のうちに挙っていらなくなる。それは多くの人々にとって良いことだとしても、そういった急な事態に「待った」をかける抵抗勢力が出現することは必然的なことであり、それが社会の病理なのである。

 「社会の病理」とは、たとえそれが正しいことであったとしても、社会という枠組みが邪魔をして、その実現を妨げることを意味する。
 これを「陰謀論」と言うのであれば、先に述べた「公務員改革」なども「何の抵抗もなく実現される」と言っているに等しい。

 「科学の進歩」というものは、時に「社会の破壊」を齎す。この「社会の破壊」とは別の言葉で言えば「既得権益の破壊」とも言える。

 こんなことは敢えて言わずとも理解されている人の方が多いと思われるが、「陰謀論」と結び付ける陰謀論好きな人々も少なからずいるようなので、敢えて指摘しておきたいと思う。

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STAP細胞の新展開(笹井氏が残した希望のメッセージ)

2014080801■笹井氏が残した2つの意味深な言葉

 8月5日、理化学研究所の笹井芳樹氏が自殺したというショッキングがニュースが伝えられた。発表された当日にでもブログ記事を書きたいと思ったものの、何分、朝から晩まで働いている身なので、限られた時間でしかブログを書いている暇がなく、今頃になってしまった。
 私が以前から小保方氏を擁護していることから、事件があったのになぜ記事を書かない(書けない)のか頻りに気にしているストーカーのような人がいるようなので、この場を借りて、書けなかった理由を述べておこうと思う。先にも述べた通り「忙しいから」、以上。

 まず、理由がどうであれ無念の死を遂げた笹井氏のご冥福をお祈りした上で本題に入ろうと思う。

 この度のニュースでは、笹井氏が複数の遺書を残していたことが報道されていたが、その内の1通は小保方氏に向けたものであったらしく、笹井氏のカバンの中に入っていたらしい。そして、その遺書には次のように書かれていたと伝えられていた。

 「あなた(小保方さん)のせいではない
 「STAP細胞を必ず再現してください

 この遺書の内容を見聞きして様々な憶測が飛び交っているようだが、この遺書が本物であると仮定するならば、事態は非常に興味深い展開になってきたなと思う。
 中には、この遺書が偽物だと勘ぐっている人もいるようだが、それは少々、想像力が逞し過ぎるというものだろう。

■「STAP細胞を必ず再現してください」の意味

 まず、1つ目の文「あなたのせいではない」は、事情がどうであれ、小保方氏を庇っていることが窺える。この文だけであれば、如何様にも捉えることができるが、問題は、2つ目の「STAP細胞を必ず再現してください」という文である。

 もし、笹井氏が「STAP細胞は無い」という諦観を前提に、1つ目の文を書いたのであれば、通常なら2つ目の文を書こうとはしないはずだ。自ら死を覚悟した人間の精神状態も考慮すれば、このような期待を込めた文を捨て台詞として書き残すということは常識的に考えて有り得ないと思う。むしろ、こう受け取るのが普通だろう。

(私の死を無駄にしないためにも)STAP細胞を必ず再現してください

 これなら筋が通っている。自分自身が笹井氏の立場に置かれた場合を想像して素直に考えれば、こう受け取る以外にないと思うのが、世の中には疑り深い人が多いようだ。
 ここで気になるのは、STAP細胞の再現を念頭に置いているにも拘らず、なぜ自殺しなければならなかったのか?ということだ。この矛盾を説明するとなると、彼はSTAP細胞が再現された場合も、逆に立場が悪くなる可能性を持っていたということになる。

 「STAP細胞を必ず再現してください」、これは実に衝撃的なメッセージだ。
 私には、この簡潔な一文が、笹井氏のジレンマに満ちた内情を暗黙の内に語っているようにさえ思える。遺書にこの言葉を書き残したということの意味をよく考えた方がよいかもしれない。

 おそらく彼は内心ではSTAP細胞の存在を信じていたのである。そう考えない限り辻褄が合わない。しかし、なぜかそのことを公に肯定できない空気に支配されていたのだろう。「STAP細胞」の存在はそれほどまでに受け入れ難い常識破りな出来事であったということなのかもしれない。

■もし「がんの特効薬」が発明されれば、どうなるか?

 仮定の話をしよう。
 もし、ある科学者が「がんの特効薬」を発明したとすれば、その科学者は何の抵抗もなく「がんの特効薬を発明しました」と世間に発表できるか?というと、実はできない。
 なぜかというと、その夢の特効薬が発明されることで職を失うことになる医療関係者が膨大な数にのぼるという理由からだ。夢の発明物というものは、得てして「パンドラの箱」のようなものであり、「希望」が出現する前の段階で様々な禍いとも言える不都合な現実を招き寄せる。

 これは現時点では、あくまでも仮定の話だが、「STAP細胞」にしても、もしその存在が真実であれば、短期的には職を失い困ってしまう人々が大勢出現することになる。そういった冷厳なる現実を考慮せずに「STAP細胞」の有無を語ることは、自分の眼に見える都合の良い現実のみを論じているだけで、実は何も考えていないのと同じである。
 「STAP細胞」が存在しない場合、話はそれで終わるが、「STAP細胞」が存在した場合は、一筋縄ではいかず、必ず社会的な病理が目の前に立ちはだかることになる。この問題は、当初から単純な二元論で片付けられる問題ではないということを、頭の片隅で考慮しておく必要がある。

 笹井氏はSTAP細胞が無いことに落胆して死を選んだのではなく、自らのミスを恥じて死を選んだのでもないような気がする。可能性として言えば、自らに嘘を付くことに疲れて死を選んだということも考えられる。真の科学者であればこそ、死を選んだという可能性も全く無いとは言えない。

 「そんなのは妄想だ」と言う人がいるかもしれない。しかし、「STAP細胞を必ず再現してください」という遺言には、そういった穿った想像を許すに足るだけのインパクトがある。実際、この想定外の遺言から、同じような疑念を抱いた人も多いのではないかと思う。

 笹井氏の死を無駄にしないためにも、小保方氏には是が非でも、STAP細胞を再現していただきたいと思う。それが、科学者であり恩師でもあった笹井氏に対する最大の供養となるに違いない。

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「命の大切さ」の意味を深く考えない教育

2014080301■「諸刃の剣」としての猟奇アニメ規制

 長崎県佐世保市で発生した女子高生殺害事件が同級生の猟奇犯罪だったことが判明すると、案の定、猟奇殺人を扱ったアニメ等の規制が強化されるに至った。
 今回、規制の対象になったアニメ『サイコパス』などは、タイトル自体が今回の犯人をそのまんま表しているとも言えるが、このような規制が同様の殺人事件の防止に繋がるか?と言うと、おそらく繋がらないと思っている人が圧倒的多数(ほぼ全員)だろうと思う。

 『サイコパス』は観たことがないが、猟奇殺人を描いているといっても、猟奇殺人者をヒーローとして描いているわけではないだろうし、どちらかと言うと、猟奇殺人者を捕まえるドラマだろう。何らかの防止策を講じなければならないというのは理解できるが、こういうその場限りの対症療法ではほとんど無意味に近いと言える。

 実際のところ、エロ・グロな表現を伴った映像商品が有ることによって、性犯罪や猟奇犯罪を抑制しているという考え方もある。犯罪者が己の妄想を描いたようなドラマを観ることで、自らの妄想を現実化(事件化)せずに済んでいるという側面もある。
 心理学で言うところの「代償機制」というやつで、そういった映像商品は犯罪を助長することにもなれば、逆に犯罪を抑制するという働きも担っており、諸刃の剣的な側面を有している。ゆえにこういった規制も逆の意味で諸刃の剣になる危険性を秘めていることになる。

■「命を大切にする教育」の本来の意味とは?

 この事件を受けて、またぞろ「命を大切にする教育」という言葉が盛んに使われ出しているが、そもそも「命を大切にする教育」とは、具体的にどういう教育を意味しているのだろうか?

 小さな子供が、「命を大切にしよう」という言葉を聞いたとして、それで心底、命を大切にしようと思うだろうか?
 多くの良識ある大人(あなた)は子供の頃に「命を大切にしよう」という教育を受けたから、現在、命の大切さを理解しているのだろうか?
 私はこれは違うと思う。命の大切さの認識というものは、誰かから教育されたから理解するという後天的な代物ではなく、本来は人間が先天的に持っている認識だと思う。幼少の頃はその認識が希薄で理解できないことがあったとしても、物心つく頃から徐々にその認識が自然と芽生えてくる代物だと思う。

 哲学的に言うなら、アプリオリ(生得慧)というもので、誰から教えられるまでもなく、生来、人間に備わっている基本的な認識だろうと思う。それが動物と人間の大きな違いであり、そういった認識力(良心)が備わっているからこそ人間の命は尊い。
 そもそも、命が誰にとっても至上の価値を有しているのであれば、わざわざ「命は大切」などという教育を行う意味がない。命以上に大切なものがあるからこそ、なぜ命が大切なのか?という疑問にも答えを用意することができるし、「命は大切」という教育にも意味が生じる。
 要するに「命を大切にする教育」とは、本来、命以上に価値あるものに気付かなければできない教育なのである。

■「自分の命」と「他人の命」を超えた「命の大切さ」

 人間が「命の大切さ」を教育しなければ理解できないということであれば、それは極論するなら「動物と人間の違いは無い」ということになってしまう。「命を大切にしよう」などと言っても、なぜそうしなければいけないのか?という疑問に答えることができないのであれば、ただのお題目であり、スローガン教育でしかないということになってしまう。

 現在の日本の教育が言うところの「命」とは、「個人の命」という意味合いが強く、「人間の命」というマクロな視点が欠けているように感じられる。「自分の命」と「他人の命」はどちらも同じ命だが、単に「命は大切」と言うだけなら、その違いが分からない。
 自他を超えた命の大切さを認識した教育が行われていないがために、「いじめ」などという他人の命を無視した愚かな行為が蔓延るのだろう。自分の命は大切だが、他人の命はどうでもいいという認識(イデオロギー)が根底に有るからこそ、いじめを理由とした殺人(自殺)も無くならない。

 「いじめは悪いこと」というのも、まともな良識を持った人であれば、誰から教えられなくても理解している。物心つかない幼い時には、昆虫などを平然と殺していた人でも、大人になれば、それはいけないことだったと誰から教えられるまでもなく自省する。なぜそうなるのかというと、良心が芽生えるからだ。そういった本来、人間が持っているはずの良心が隠れてしまっている人は、罪を犯していても、それが悪いことだということに気付かない。まるで、良心が芽生えていない段階にある幼子のように。

 今回の女子高生殺害事件の犯人もそうだと言うつもりはないが、言葉が綺麗なだけの表面的なスローガン教育では、どの道、解決策に繋がらないことだけは間違いない。

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