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2014年11月

「糖質制限」は是か非か?

■実体験で判明した「糖質制限」の効能

 今年の8月(3ヶ月前)に糖質制限についてのブログ記事を書評を交えて簡単に書いてみると、意外にも多くの人に閲覧していただいた(当者比)。
 前回は、自己流のプチ糖質制限で「2ヶ月間で体重が4kg減少した」と書いたが、その後3ヶ月間で更に3kg減り、半年を待たずに計7kg減少したことになる。
 加えて、中性脂肪が半分程度になり、血液検査のGOTおよびGPT値も大幅に減少し基準値(の平均以下)に収まった。
 肝臓のGOTとGPT値については以前、生アーモンドを食べ続けることで改善したと書いたことがある。今回は生アーモンドと糖質制限の相乗効果かどうかは分からないが、糖質制限には明らかに肝臓の値を下げる効能が有るようだ。

 体重が減少するに比例して肝臓の値が下がるということは既に多くの糖質制限体験者が語っていることなのだが、ここまでハッキリと目に見える形で結果が出てしまうと、個人的にも納得せざるを得なくなってしまった。
 私の場合、特にダイエット(痩せること)が目的で糖質制限をしたわけでもないのだが、体重計に乗るたび、面白いようにどんどん体重が減っていく体験(ある程度の糖質制限知識が無いと逆に恐い体験になるかも…)を実際に味わうと、「痩せることができない」「贅肉がとれない」とダイエットで悩んでいる人が滑稽にすら思えてしまうほどで、私の「糖」における認識はこの半年間でコペルニクス的に変化した。
 「最も確実なダイエット方法は?」と聞かれれば、迷うことなく「糖質制限」と答えるだろう。では、「最も安全なダイエット方法は?」と聞かれればどう答えるか? それが今回のテーマでもある。

■「糖質制限」のエッセンスは「シンプル」

 こういう単純な感想を書くと、逆に疑われてしまいそうだが、私は元来、疑り深い性分なので、単純に信じたというわけでもない。ある程度、糖質制限についての知識も仕入れた上で述べている。と言うよりも実際に自分自身の身体を実験台にして実績が出たわけだから「疑え」と言われても困ってしまう。

 この3ヶ月間で追加で以下の書籍も読んでみた。

 どれも個性的なタイトルで、それぞれに特徴がある本だったが、書かれてあるエッセンスの部分は共通している。詳しくは述べないが、人体のメカニズムというものを知れば、糖質制限は実にシンプルなダイエット法であることが分かる。
 「肯定本ばかりで否定本は読まないのか」と言うような人がいるかもしれないので、一応お断りしておくと、もちろん否定本にも目を通している。

 世の中には「糖質制限は危険だ」と言っている人もおられるが、これもケースバイケースであり、人によって危険度は異なる。例えば、肥満体の人が糖質制限を行う場合と、痩せている人が糖質制限を行う場合は危険度は変わってくるかもしれないし、どれだけ糖質量を制限するかによっても大きく違ってくる。元より個々の人間の体質というものは千差万別なのだから、体質の違いと糖質制限量によっては不具合が生じる可能性が有るのは当たり前の話である。

■「甘いものを食べ過ぎると身体に悪い」という言葉を否定することはできない

 昔から「甘いものを食べ過ぎると身体に悪い」と言われるように、糖分を採り過ぎることが身体に悪いことは万人が認めていることなのだから、糖分の摂取量を少し減らすだけなら、全く危険性など有るわけがない。
 「糖」を「ケーキ」に喩えて言うなら、ケーキを毎日食べている人が、2日に1回に減らすことで、「ケーキ制限は危険だ」などと言う人はいない。「ケーキを食べる量を減らせば不健康になるのか?」と問えば、誰も「そうだ」とは言わないだろう。仮にケーキを全く食べなくなっても健康を害することは無いと思うが、その変化に肉体と精神が付いていかず、ストレスによって体調を壊すことは有り得る。

 問題となるのは、過剰なまでに糖質を制限した場合であり、急激に栄養バランスが変化した場合、その変化に身体が追いつかないことで健康を害する危険性が有るということだと思う。人体には糖を作り出す体内機能(糖新生)が備わっているらしいが、何十年間も体外から糖分を過剰摂取してきた人が急に糖分を全く採らなくなれば、その反作用で一時的に健康を害する危険性は有るかもしれない。

 現実的に考えても、糖分摂取量を0にすることはできないだろうし、ごはん、パン、ラーメン、うどんなどを全く食べない生活を一生続けるというのは無理がある。
 既に糖尿病を患っている人であれば、全く糖分を採らなくする必要性もあるかもしれないが、健康体の人が直ぐさま糖分を全く採らないようにする必要はないと思う。リスクを考慮して徐々に糖分を控えるようにしていくことで、自分の身体に合った糖分摂取量を見つければいいのではないかと思う。

■糖質制限量で変化する「糖質制限」是非論

 「糖質制限」というものにも「肯定論」と「否定論」が存在する。肯定論の中には完全に糖質を0にすることを勧める人もいれば、緩い糖質制限を勧めている人もいる。一方、否定論の中にも「糖質制限は危険」の一点張りの人もいれば、過剰な糖質制限は危険だと言っているだけの人もいる。
 ただ、糖質制限で身体を壊したというような話のモデルは、大抵、60代、70代の高齢者であり、その原因が本当に糖質制限にあったのどうかも疑わしいケースが多い。たまに20代、30代の人の報告も見られるが、これも過剰に糖質制限し過ぎたことによって身体を壊したという類いのものだろう。要は程度の問題なのである。

 炭水化物の多くは糖分と食物繊維を含んでいるので、極端な糖質制限を行うと便秘になるということがある。中には腸内環境の変化によって逆に下痢になる人もいるらしいが、私の場合、プチ糖質制限で少し便が固くなった。以前まではたまに下痢することがあったが、糖質制限を始めてからは、ほとんど下痢しなくなった。これは想定外の収穫だった。

 私が子供の頃は、近所の八百屋で売られていたジュースの販売形態は主にガラス瓶だった。容量は200mlにも満たない。当時、自動販売機で売られていた缶ジュースも250mlだったと記憶しているが、現代では500mlのペットボトルが主流になっている。大容量になって価格が下がるのは良いとしても、1度に飲む量が2倍にも3倍にもなると、それだけ糖分摂取量も増えてしまう。
 ジュースの容量だけを見ても分かる通り、現代人が糖分を採り過ぎていることは否定できない。最近の「糖質0ビール」の流行もそういった現実を反影してのものだろう。

 「糖質制限」という医学的な言葉を使用すると、どこか「食事制限」のような痛々しさをイメージさせるので、胡散臭さを感じる人がいるのかもしれないが、糖質制限の本質は実にシンプルなものであり、本来なら、是か?非か?と言い争うようなものではない。シンプルにこう言えばいい。

 「糖分摂取量を減らしましょう

 これなら誰もが納得できるのではないかと思う。

【関連記事】

BOOK『うどん一玉は角砂糖14個分』を読んで。

1年間の糖質制限結果のご報告

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「消費増税を延期すればアベノミクスは失敗だったことになる」という奇妙な論理

■現実味を帯びて来た「衆院解散」

 「火の無い所に煙は立たぬ」と言うが、現在、テレビなどのマスコミ報道では「衆院解散」の憶測報道がしきりに飛び交っている。
 当の安倍総理は「解散には言及していない」と伝えられていたが、「消費増税を1年半延期する」というような具体的な情報が流れているところをみると、どうやら本当に解散総選挙が行われそうな雲行きだ。
 自民党にとっては消費増税の判断を間近に控えた難しい時期でもあるので、「国民に信を問うための解散」とも言われている。

 ところで、最近のニュース番組を観ていると、「消費増税を延期すればアベノミクスは失敗だったことになる」という意見をよく耳にするが、このロジックは明らかに可笑しい。
 こういった言葉が出てくる背景には「アベノミクスが好調だったから8%の消費増税を行った」という誤認があるのだろうが、8%の消費増税が決定されたのは、決してアベノミクスが好調だったからではないし、仮にアベノミクスが好調であったとしても、そのことが消費増税を認める理由にはならない。

 国民の大部分は消費増税に反対(これは当たり前)であったし、多くのエコノミストも時期尚早な消費増税には反対していた。「早期の消費増税はアベノミクスの失敗を招く」と口が酸っぱくなるほど忠告していたことは記憶に新しいところだ。8%の消費増税は、その是非を国民に問うたわけではなく、「有識者」として選ばれた人々の過半数が賛成したことによって、半ば強引に決定されたことである。

 安倍総理にしてみれば、内心では《本当に消費税を上げても大丈夫なのだろうか?》という思いもあったと思われるが、官僚を敵にまわすと後が恐いので仕方なしに増税に踏み切ったという側面もあったのだろうと推察する。その際、将来的に「増税を決定した張本人」というレッテルを貼られる危険性を回避するために「有識者」達に汚れ役を演じさせたとみるのが正解かもしれない。

■消費増税を延期しなければアベノミクスは成功するのか?

 「消費増税を延期すればアベノミクスは失敗だった」という言葉は、裏を返せば「消費増税を延期しなければアベノミクスは成功する」というロジックになるが、これも可笑しい。
 時期尚早な消費増税を行ったことがアベノミクスの失速…と言うより景気の減速を招いたことは統計的にも明らかであり、国民の多くもそう実感していると思われる。大部分の国民が今思っていることは、「これ以上、消費税を上げれば更に景気が悪くなるのではないか?」という懸念であり、「消費税を上げれば景気が良くなる」などというノーテンキな考えを抱いている人はごく少数だろう。

 今回の「衆院解散」報道は、それがデマで有る無いに関わらず、株式市場にはプラスの影響を与えた。その理由は「消費増税は延期される可能性が高くなった」という思惑が働いたからだとも言われている。
 ここで、「えっ、消費増税を延期すれば、アベノミクスは失敗だったんじゃないの?」と思われた人がいるかもしれないが、実際のところは、国内外を問わず多くの投資家達が、「これ以上の消費増税を行えばアベノミクスは失敗する」という認識を持っていたことが暗に証明されたと言える。

 以前にも書いたことだが、消費増税というものは、アベノミクスが失敗した場合(=万策が尽きた場合)に行うべき政策であって、アベノミクスと同時に行うべき政策ではない。
 アベノミクスが成功した暁には、消費増税をする必要がなくなる。それが本来の意味での景気回復策というものの目的であり、背水の陣で臨まない景気回復策などは本来、有り得ない。ポジティブな政策(アベノミクス)と同時にネガティブな政策(消費増税)を実施するということ自体が間違いなのである。

■「消費増税を延期しなければアベノミクスは失敗する」

 「アベノミクスは失敗する」と高を括っている悲観主義者達は、必然的に「増税する以外に道はない」というロジックに陥ってしまう。彼らにとっては、アベノミクスが成功するか失敗するかなど端から眼中になく、どう転んでも景気は良くならないのだから増税するしかないというニヒルな結論に達してしまうのだろう。

 希望的観測とはいえ、アベノミクスの目的は、潜在的に眠っている消費活動や投資活動を呼び起こすことであり、そのために景気を刺激し、国民感情を上向きに変化させることによってのみ成功への道筋が微かに生まれる。しかし、その道筋は未だ見えておらず、現状では単なる蜃気楼でしかない。
 その蜃気楼のような景気回復を現実に実った果実であるかの如く錯覚し、人為的に成長を止めてしまう。その様は、恰も、まだ実が熟していない果物をむしり取る野生の山猿の姿を彷佛とさせる。

 未だ「景気回復」という名の果実は熟していない。その実はまだできたばかりであり、山猿の如く収穫の時期を間違ってしまうと、後には枯れ木のみが残ってしまう。「景気」というものは非常に繊細で気紛れな代物なのである。

 「消費増税を延期すればアベノミクスは失敗だったことになる」ではなく、「消費増税を延期しなければアベノミクスは失敗することになる」が正解だ。アベノミクスが成功するかどうかは分からないが、アベノミクスの成功率が0%でない限り、今は増税を急ぐべき時期でないことだけは間違いない。

 果物の収穫の時期を解さない農業音痴(経済音痴)のような人々に景気判断を任せることほど危険なことはない。今回の「衆院解散」の目的が「消費増税の延期」であるなら大いに結構。安倍総理が同じ轍を二度踏まないことを祈る。

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「同一労働同一賃金」という言葉を都合よく利用する人々

■「正社員」と「アルバイト」の「同一労働同一賃金」は可能か?

 「同一労働同一賃金」という言葉がある。既に耳馴染みの言葉であり、良い意味での市民権を得た言葉でもあるが、どうも世の中には、未だにこの言葉の意味を正確に理解していない(考えていない)人が少なからずいるようなので、少し述べておこうと思う。

 「同一労働同一賃金」で真っ先にやり玉にあげられるのは、「正社員」と「アルバイト」との違いであり、「正社員であろうとアルバイトであろうと同じ仕事をしているのであれば同じ賃金にするべき」という意見がよく聞かれる。
 確かにこれは正しい意見である。しかし残念ながら、「正社員」と「アルバイト」という立場をそのままにした状態では完全な同一労働同一賃金を実現することはできない。

 例えば、正社員の場合、給料以外にも賞与や退職金や企業年金など、その場の賃金にカウントされない副次的なプラスアルファが存在する。こういったもの全てを考慮した上で同一労働同一賃金を実現するとなると、額面収入は正社員よりもアルバイトの方が高くなければ辻褄が合わないことになる。つまり、正社員とアルバイトの額面的な給料を同じにしても同一労働同一賃金にはならないのである。

 「正社員」と「アルバイト」を同一労働同一賃金にするというのは、その計算自体が極めて複雑になるため、あまり現実的とは言えない。先に述べた正社員の福利厚生と言っても、現代のような不安定な時代では、退職金や年金などというものも将来的に確実に受け取れるとは言えないような不確定要素なので、カウントすることが本当に正しいかどうかも判らない。前回の記事でも述べた通り、正社員というのは時給ではなく月給(24時間×30日=720時間会社に拘束される)なので、時給換算するのは難しいという問題もある。

 ゆえに、「同一労働同一賃金」を実現するためには、「正社員」と「アルバイト」という立場の違いを無くす、それが前提条件になる。その場合、まずは労働者全員を正社員にするか、労働者全員をアルバイトにするかという判断が要求される。

■「日本経済の破綻」or「ワークシェアリング」?

 しかし、現代日本において「労働者全員を正社員にする」というのは、「労働者全員を公務員にする」と言っているに等しく、もしこれが実現されるとなると、企業の求人数が激減することになるので、世の中には膨大な数の失業者が溢れることになる。
 逆に労働者全員をアルバイトにすれば、収入が減少する人は多くなるが失業者は大幅に減少するだろう。
 単純化して言えば、前者は「日本経済の破綻」を齎すが、後者は「ワークシェアリング」を齎すことになる。

 どちらの実現も現実的には不可能に近いが、前者を採用した場合、日本経済が破綻してしまうのだから、「同一労働同一賃金」どころか「無労働無賃金」になってしまう人が大勢出てくることになる。
 そうなると、「同一労働同一賃金」を実現するためには、後者を採るしか手段はないことになるが、この国では、なぜか「労働者全員の正社員化」と「同一労働同一賃金化」を同時に叫んでいる人々がいる。
 この2つが実現した社会とは、有職者と無職者との間に圧倒的な開きがある超格差社会となる可能性が極めて高い。有職者(正社員)は「同一労働同一賃金」を目指せるが、無職者は「無労働無賃金」というような完全に二極化した社会になってしまう。それは、仕事の有る者同士は同じ賃金に成り得ても、仕事の無い者同士も同じ賃金(無賃金)になるという倒錯した「同一労働同一賃金」社会を意味している。「同一労働同一賃金」とは万人に仕事が有ってこそ活きる概念だということがスッポリと抜け落ちてしまっていることになる。

■「同一労働同一賃金」の本質は「平等 < 公平」

 常日頃、「格差は悪」と言っている人に限って、「労働者全員の正社員化」と「同一労働同一賃金化」を同時に叫んでいるというのは、とんだ皮肉である。
 そもそも、日本国内においての同一労働同一賃金論争とは、特権的に守られたかに見える正社員の優遇制(身分制)を批判したものであるのに、その同一労働同一賃金の実現のために正社員化をセットで謳うというのは明らかに矛盾している。

 結論として言えることは、アルバイトを正社員にすることのみを考え、正社員をアルバイトにすることは一切考えないというような甘えた思想の持ち主に「同一労働同一賃金」を語る資格はないということだ。

 以上、完全な同一労働同一賃金を実現するための方法論を皮肉を込めて書かせていただいたが、実際のところは、少し緩い同一労働同一賃金なら立場を変えずとも可能だと思われる。
 少し話がややこしくなるかもしれないが、同一労働同一賃金を真に求めている人々というのは、待遇の平等性を求めているのではなく、評価の公平性をこそ求めているのではないかと思う。
 同じ正社員でも大企業と中小企業では待遇が大きく違うわけだから、正社員になれば誰も彼もが待遇が良くなるというわけでもないので、そういった現実が見えている人からすれば、待遇よりも評価の方が重要視されるのは当然だろう。「正社員」という身分に執着するのではなく、評価が同じ程度であればアルバイトでも構わないというリアリストは案外多いのではないかと思う。

(注記)本記事は日本国内に限定した「同一労働同一賃金」を述べたものであり、世界全体としての「同一労働同一賃金」は考慮していません。

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「月給制」の矛盾と「能力時間給」

■「月給」の本来の意味とは?

 「月給と時給、あなたならどちらがいいですか?」という質問をすれば、大抵の人は「月給」と答える。こういった回答が条件反射的に大勢を占めてしまう背景には、「月給=正社員」、「時給=派遣・パート・アルバイト」というような差別的な認識が有るせいだろうと思われる。
 しかし、現代社会の中で実際に働いていると、本当に「月給」の方が「時給」よりも良いのだろうか?と疑問に思うことがある。

 「月給制」が正社員制度と密接に関係していることは先に述べた通りだが、月給制とは本来、読んで字の如く「1ヶ月間の給料」という意味である。これに対し「時給」とは「1時間の給料」であることは言うまでもないが、「1ヶ月間の給料」の本質とは、「1ヶ月間丸々、会社に拘束される」ことを意味している。それが良いか悪いかは別として、月給労働者というものは、仕事が忙しい時やトラブルが発生した時には残業も休日出勤も行わなければならないという暗黙の拘束条件が付加されている。

 法的には1日8時間労働というような決まりが存在するが、そんな制度をキッチリと守っている正社員がいたとすれば、それは「8時間分の時給を貰う労働者」と変わりないことになる。これでは雇用する側からすれば、正社員(月給労働者)として雇うメリットはほとんど無いことになってしまう。
 「定められた8時間分働けば、後は知りません」と言うような月給正社員がいたとすれば(実際にいると思うが)、「私は時給アルバイターです」と自分自身で認めているようなものである。
 繰り返すが、ここではその善悪については述べない。素直に考えれば、そういう結論にならざるを得ないという意味合いでの一般論を述べている。
 「月給」とは、何かあった時には時間外でも働き、休日でも出勤するという責任が付いてまわる給料制度のことを意味している。それが「時給」と「月給」の根本的な違いだということは、言葉の定義からしても認めざるを得ないし、それが現代においても正社員制度というものが存在し続けていることを正当化できる僅かな理由(または詭弁)の1つでもある。

■「時間給」で働いている姿をシミュレートする

 ここで質問を変えよう。

 「あなたは1ヶ月間丸々拘束される月給制と、1時間単位で拘束される時給制のどちらがいいですか?

 これなら、少しは考える余地があるかもしれない。条件反射的に「月給制」と述べる人は先の質問よりは少なくなるだろう。

 現代の労働環境で問題となるのは、主として「低賃金問題」と「長時間労働問題」の2つである。仕事内容にも依るが、基本的に、時給で働いている人々は「低賃金」を問題とし、月給で働いている人々は「長時間労働」を問題としているケースが多い。

 「低賃金」問題はまた別の機会に譲るとして、ここでは「長時間労働」に絞って述べることにしたい。長時間労働を余儀無くされ、そういった無理な労働環境が常態化している原因は、正社員の月給制にこそある。
 もし、あなたが月給制で長時間働いている労働者であるなら、1度、シミュレーションとして自分自身が時給で働いている姿を思い浮かべてほしい。

 そうなると、残業代が出るかどうかも分からないような無駄な残業をする必要性は無くなる。上司に気を遣って夜遅くまで居残りしなければいけないというようなストレスからも解放される。尤も、キチンと1人前の仕事をしている(ミスもしない)ことが前提となるが、無意味な時間を過ごすことが減少することだけは間違いない。

■「“月給”と“残業”」は「“水”と“油”」

 月給制では、残業代の定義が極めて曖昧になるというデメリットがある。先に述べた通り、月給制とは1ヶ月間拘束されるという給料制度なので、残業代は月給制に含まれるという具合になってしまいがちだ。意外にも、あまり認識されていないことなのかもしれないが、実は、「月給制」と「残業」というものは相反する概念である。だからこそ、サービス残業というものが発生してしまうことになる。
 しかし、時給制なら、サービス残業という概念は基本的に発生し得ない。もちろん例外は有るし、これもキチンと1人前(時給に見合うだけ)の仕事ができればの話だが、時給制であるからこそ残業という概念が自然に生じることになる。

 残業代と言えば、基本的に時間給である。もともと時間給であれば残業代を算出するのは容易だが、月給の場合、時間給である残業代を算出するのは難しい。
 「月給を基に1時間当たりの給料を算出することはできる」と言う人がいるかもしれないが、ここで述べていることはそういうことではない。そもそも論として言うなら、月給に残業を付加することに矛盾が存在しているわけだ。月給を「水」に喩えれば、残業代とは「油」に該当する。この水と油を無理に混ぜ合わせようとするから矛盾(長時間労働など)が生じてしまうことになるのである。

 さらに言えば、月給制でないなら、1日8時間の労働時間に囚われる必要もない。この場合、雇用者側の認識も変える必要があるが、8時間分の仕事を5時間でできるのならば、5時間勤務ということも有り得る。
 「それでは給料が減ってしまうじゃないか!」と言う人がいるかもしれないが、無論、5時間の仕事で8時間分の給料を貰うという意味である。雇用者側の認識を変える必要が有るというのは、そういう意味である。

■「能力時間給」のメリット

 仕事の出来・不出来に無関係の一律平等な時間給は問題だが、能力に応じた時間給であれば、労働時間は短縮され、収入も上がる可能性がある。月給で支給されている給料以上の仕事が出来る人なら、能力に応じた時間給であれば、1時間当たりの収入は月給で支給される金額を上回るケースが多くなるのではないかと思う。

 日本では未だに「正社員神話」を信仰している人々が多く、「正社員(月給制)こそが幸福へのパスポートだ」と本気で思っている人もいる。しかしながら、会社が労働者の人生の面倒をみてくれるかのような手厚い福祉厚生を用意することが出来なくなった現代であるからこそ、労働者にとっては必要以上に会社に拘束される月給制よりも時給制の方が有り難いと思っている人は案外、多いのではないかと思われる。

 少子化・未婚化で家族や子供を養う必要の無い人や、親と同居してローンでマイホームを購入する必要の無い人も大勢いる時代的背景を鑑みれば、人生に必要となる総生活資金も大きく違ってくる。それが良い時代とは言えないかもしれないが、誰も彼もが同じだけの収入を必要としなくなった現代においては、会社に縛られるだけでほんの少しだけ給料の高い月給制に固執していない人々も大勢いると思われる。

 月給制は長時間労働を生む矛盾を抱えていると述べたが、ほぼ日本に限定される「過労死」という問題も、基本的には時間給で働くアルバイトよりも月給制で働く正社員に多い問題である。
 以前に「すき家」のワンオペ問題に関する記事を書いたことがあるが、「すき家」の場合、従業員が辞めることで問題が表面化したわけだが、あれが全員正社員だったなら、どういう結果になっていただろうか? 私が思うに、おそらく「過労死」や「過労自殺」という問題にまで発展していた可能性が高いと思う。「正社員」という身分に拘るあまり、過酷な業務でも辞めることもできずに過労死に至るケースは後を絶たないが、これとて、時間給であればある程度は緩和される。なぜそうなるのかと言えば、月給制は仕事の上限というものが曖昧になってしまうからである。

 《月給制は時間給よりも給料がよい、そのため多少の無理は仕方がない》という認識が暗黙の了解として存在しているため、際限の無い長時間労働に至り、その結果、肉体や精神を病み、最悪、過労を原因とした死に至る。これこそ、月給制が齎した悲劇である。無論、正社員であろうとアルバイトであろうと、仕事に責任は付き物であり、責任感を持つ必要がないと言っているわけではない。責任感も大事だが、そのせいで肉体や精神を病んでしまっては本末転倒だという意味である。

 最後にもう1度、質問しよう。

 「あなたは過労死リスクの高い月給制と、過労死リスクの低い時給制のどちらがいいですか?

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