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2015年1月

「市場原理」は人間の感情によって変化する

■「人間感情」によって変動する市場価格

 例えば、あなたの目の前に1万円の商品が売られているとしよう。
 あなたはその商品を買おうとして財布から1万円札を取り出そうとした瞬間、そこに2人(AとB)の客が現れて、それぞれ次のように言ったとしよう。

 「この商品、9,000円になりませんか?」

 「この商品1万円で買うよ。500円はチップとして支払うよ。」

 この3人の客を前にして、このお店の店主は誰にその商品を売ろうと考えるだろうか?

 答えは考えるまでもなく「」である。ではそれはなぜか? 「1番高く買ってくれるから」 それ以外に答えは見当たらない。
 
 ではここで決まった商品価格10,500円とは何だろうか? ある人はこう言うだろう。「それが市場原理価格だ」と。
 しかし、それは本当に市場が決めた価格と言えるのだろうか? もともと1万円で売られている商品の市場価値は1万円であり、「1万円という価格を市場原理が決めた」と言うのであれば、その通りかもしれないが、その商品は結果的に10,500円で取引されたわけだから、500円のプレミアムが付いたことになる。その500円は市場原理とは無関係に変動した市場原理の付加価格であり、その価格を決定した要因は、人間の感情と言うべきである。

 さて、なぜこのような出来の悪い例え話を書いたのかというと、前回の記事でも「デフレ」(経済現象)と「デフレ思想」(人間の感情)の違いを混同している人が少なからずいたと思われたからだ。
 私は平たく言うなら「人々の考え方によって市場原理は変わってくる」ということを述べたのだが、単に「デフレがどうのこうの」だの、「企業がどうのどうの」だの、筋違いな反論が多かった。
 「市場原理」については以前にも述べたことがあるので、詳しくはそちらの記事を参照していただくとして、例え話を続けよう。

■「市場原理」に優先する「人間感情」

 例えば、ある企業の経営者が、下請け企業2社(CとD)に対して競争見積もりを行い、次のように言ったとしよう。

 「この仕事の原価は100万円ですが、次の仕事も頼むという条件で利益無しの100万円でやってくれませんか?」

 こう言われた場合、CとDは何と答えるだろうか?
 この場合、業界の景気動向やCとDという企業の経営状況によっても大きく答えは変わってくるだろう。景気が良くて他にも仕事をたくさん抱えているような状況であるなら、わざわざそんな利益も出ないような仕事を受ける必要もないだろうし、逆に仕事が無くて困っているような経営状態であるなら、例え赤字受注でも二つ返事で引き受けるだろう。
 CとDという企業2社ともに経営状態が良好な場合、2社とも「無理です」と断ればそれで済む。その場合、100万円での取引は成立しない。しかし、問題はこの2社ともに経営状況が芳しくない場合だ。その場合、高い確率で100万円以下の見積もり競争ということになる。
 その原価割れ競争で決定した価格が、仮に90万円だった場合、その90万円という価格とは何だろうか? ある人はまたこう言うだろう。「それが市場原理価格だ」と。しかしそれが本当に市場原理価格と呼べるだろうか?

 重複するが、もう1度、繰り返そう。この取引での価格90万円を決定した要因とは、市場原理ではなく、人間の感情なのである。この感情には、取引先の要求を無碍に断れば、今後の取引も中止されかねないというような感情も含まれる。

■「市場」も「人間」も不完全なもの

 100万円の原価がかかる仕事なら100万円を境にして、100万円以上で決定される。それがまともな市場原理が機能した価格である。100万円の原価がかかる仕事を100万円以下で決定されるなどというのは、市場原理が決めているのではなく、人間の感情こそが決めているのである。

 ここでニヒルにこう言う人もいるだろう。

 「その2社が100万円で儲けにならなくても、よそ(例えば中国)でなら可能でしょ。」

 なるほど、確かにグローバルな視点に立てば、中国も日本も同じ市場であるわけだから、市場原理に照らせば、人件費の安い国に仕事を発注することは理に適っているとも言えるだろう。しかし、もしその市場原理が完全なものであるなら、日本で行われている仕事(主に製造業)の大部分は中国で行うということになり、日本国内はほとんどもぬけの殻ということになってしまうが、実際はそうはなっていない。
 中国で行えるような仕事であっても日本で行われている場合も多々ある。市場原理が完璧なものであるなら、なぜそうなるのか? その場合も、市場原理以前に最終的な決定を下しているのは人間の曖昧な感情だからである。1円でも儲かるのであれば全て中国で行うというわけではなく、ある程度のマイナスは許容しようというような人間感情があるからこそ、日本国内に留まっている仕事もあるわけだ。

 市場が完璧なものであるなら、利益がマイナスになるような価格などが付くはずがないが、実際にはそういった価格も発生する場合がある。損をして得を取れならまだ良いが、世の中には、損をして得にならないような仕事もある。その一事をもってしても既に市場は不完全なものであることを如実に物語っている。市場というものを支配しているのは人間の感情であり、人間が不完全である限り、市場も完全では有り得ない

 しかし、だからと言って、市場を否定するのは更に始末が悪い。不完全な人間が市場を動かそうとすることは、市場に任せるよりも性質(タチ)が悪い。その理由は同じく、人間は市場を理解できるほど完全なものでは有り得ないからだ。

 市場価格などというものは人間の感情によって、いとも容易く歪められてしまう。ゆえに、人間の考え方が変われば、市場も変わる。完全には成り得ないが、少しは生き易い世の中にすることは可能だと言う意味で前回の記事を書いた。
 モノの値段を本来の価値以下に引き下げる原因の1つが、人間のマイナス感情にあるということが間違っていると言うのであれば、それを納得できるように論理的に証明していただきたいものだ。

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「利益は悪」とする思想脱皮のススメ

■デフレから生じた歪んだ思想

 日本経済はバブル崩壊後、「失われた20年」の間に、すっかりデフレ経済が定着し「モノの値段は下がっていくもの」というデフレ思考が人々の心の深奥(潜在意識)にまで刷り込まれていった。今日は阪神淡路大震災からちょうど20年が経過した記念日だが、あの震災後に生まれた現在20歳以下の若者は生まれてこのかた「モノの値段が上がる」という現象とはほとんど縁が無かったためか、昨今のようにどんどんとモノの値段が上がっていく現象に少なからず違和感を感じているのかもしれない。
 現在のインフレ現象は経済成長が伴った真っ当なインフレというよりも、人為的に生じた悪性のインフレもどきという側面もあるので、違う意味で違和感を感じている人も多いと思われるが、いずれにしても、「何か違う」という違和感を抱いている人がほとんどだろうと思う。

 景気が良かった頃の日本では、「1円でも高く売ろう」という営業活動が盛んだったが、景気が悪くなるに連れて、「1円でも安くしよう」という営業活動に様変わりしていった。この消費者に対する2つのスローガンは似ているようでありながらも本質的には全く正反対のものであり、立場を生産者に置き換えてマクロ的に換言するなら以下のようになる。

 「1円でも高く売ろう」=「1円でも給料を上げよう

 「1円でも安くしよう」=「1円でも給料を下げよう

 本来、デフレ経済下では、「1円でも高く売ろう」というスローガンを掲げなければいけないのだが、現実としては「1円でも安くしよう」となってしまう。それは、1円でも安くしなければ消費者にそっぽを向かれるという後ろめたい心情が有るせいだが、この思考の行き着く先は、ゼロ金利ならぬゼロ利益であり、行き過ぎたデフレ思考は最終的に「利益は悪」とする歪んだ思想を生み出すことになる。

■「デフレ思想」と「チップ思想」

 この「利益は悪」とする思想とは、言葉を変えれば「利益を奪う」思想であり、他人の利益を奪うことを当然とする卑しい人々を量産していくことになる。
 例えば、ある生産者が100の価値を生み出したとしても、消費者としてキチンと100の対価を支払おうとせずに、まるでマージンを奪うかのように一部の利益(価値)を頂戴することを当然とする人々が跋扈するようになる。
 その挙げ句、他人の利益を奪うという行為が、巡り巡って己の収入を減らすことに繋がるという経済的な真理(因果応報)を理解できない経済音痴が大手を振って街中を闊歩するようになる。

 これらの人々は、自らが薄利な商品を購入しているという認識がなく、過剰なサービスを要求する(=利益を奪う)という特徴を持っている。ファストフード店に高級レストランのようなサービスを要求するような人物もこれに当たる。

 このデフレ思想の対極にある思想とは、言わば「チップ思想」というもので、100の価値を生み出した人に対して時には100以上の価値を付けて支払うようなサービス精神が旺盛なチップ文化がそれに該当する。
 お断りしておくと、ここで述べていることは、景気が良いからチップを支払い、景気が悪いからチップを支払わないというような話ではない。景気が良かろうが悪かろうがチップを支払うというメンタリティ(サービス精神)が根付いた社会であれば、景気は本来の現状よりも良くなっていくということであり、卵(チップ)が先か、鶏(景気)が先か?というような話をしているのではないので誤解のないように。

 「デフレ思想」と「チップ思想」、これこそが経済における「悪循環」と「好循環」の別名である。他人から利益を奪おうとする思想が蔓延すると経済は悪化するが、他人に儲けてもらおうという文化が花開くと経済は活性化する。「Give and Take」という言葉を基にすれば、前者が「Take Only」、後者が「Give Only」とも言えるだろうか。

■「利潤0」は共貧主義社会へ至る道

 デフレ社会が生み出した「過剰な安値競争」という値引き合戦は、傍から冷静に観れば、お互いがお互いの首を絞め合っている(または足を引っ張っている)姿そのものであり、マクロ的には経済が縮小していくことにしかならないのだが、「限られたパイの奪い合いをしている」という狭量な認識から脱することができず「生き残り」という言葉に囚われた人々は、単純な経済真理を見失い、自分だけが生き残ればよいという利己的な生存本能に支配され、ただひたすらにデフレ地獄の亡者と化していく。

 その亡者達は「利益は悪」とする思想に被れ、「お金儲けは悪いことだ」という刷り込まれた認識通りに薄利で仕事を行い、また行わせることを当然とするようになっていく。「利益は悪」とする彼らにとっては「薄利」こそが(醜い)お金儲けをする上での言い訳になるからである。

 ここまで読んでお分かりのように、デフレ思想の行き着く先は、利益を悪と考え、無意識的に「他人の利益を奪うことを当然」とする共産(共貧)主義社会なのである。

 過剰な安値競争は、最終的には「利潤0」を目指すことになり、それが行き過ぎると皮肉なことに資本主義や合理主義の否定に繋がってしまう。
 もしあなたが「利潤0」を肯定するのであれば、物価以上に給料が上がらない共貧主義社会へ至るのは至極当然の帰結であるということも併せて認める必要がある。もういい加減に「利益は悪」とする思想を卒業しよう。

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朝生『日本はどんな国を目指すのか?!』を観て。

■朝生のスタンスは「保守」vs「リベラル」?

 遅ればせながら、元旦に録画していた『朝まで生テレビ』を観てみた。
 「日本はどんな国を目指すのか?」ということで、政治や外交問題が中心に論議されていたが、毎度のことながら誰かが話している最中に横やりが入るという感じで、聞きたい話も途中で遮られるケースが多かった。

 それにしても誰がセッティングされているのか知らないが、上手いことメンバーを左右に振り分けているなと感心する。話の途中で森永卓郎氏が対面のメンバーに対して「右翼の皆さん」と言っているシーンがあったが、森永氏の認識では、テレビを観ている観客目線で観れば、右側が右翼、左側が左翼ということなのだろうか?
 私が観たところでは、「右翼」vs「左翼」の構図というよりも、「保守」vs「リベラル」という感じに近かったのではないかと思う。無論、メンバー全員が該当するというわけではないので、誤解のないように。

 「保守」と「リベラル」の違いというのは、一言で言えば「国家観」の有無に尽きる。日本でいうところの「リベラル」というのは、アメリカの「リベラル」とは少し違っている。アメリカのリベラルというのは、国家観を持ちつつも個人を尊重するという「共和党」の考えに程近い人々だが、日本の場合の「リベラル」というのは国家観を持たない個人主義者という意味合いになるので、自民党とは相性が悪いという特徴を持っている。(自民党が自由党を体現していればの話だが)

■「選挙には興味がない」は失言か?

 選挙の話では、古市憲寿氏が「(若者は)選挙には興味がない」というようなことを述べていたので、保守論客からはバッシング(?)されていた。
 私は若者の代表(?)としての古市氏の意見もまんざら解らなくもない(後述する)ので、「選挙には興味がない」と言うだけでは失言だとは思えないが、古市氏の場合、先の消費税8%増税時には政府から有識者の1人として選ばれ、確か条件付きで増税賛成だったと記憶している。
 自分から立候補したわけではなくて、知名度的に勝手に選ばれただけかもしれないが、そういった国民の将来を決定するような重要な会議のメンバーに選ばれた立場にある人物が「選挙には興味がない」と言うのはいただけない。そういう意味では「失言」と思われても仕方がないと思う。

 この論議でも竹中平蔵氏が「消費税増税のほとんどの税収は若者とは関係のない高齢者に使用される」と言っていた。竹中氏が言うまでもなく、消費税収は主に福祉に使用され、老人に益を齎す政策であることは広くアナウンスされていたことなので多くの人が知っている。
 そう考えると若者の代表である古市氏は、「増税に反対」するべきだったと思われるのだが、実際は「増税に賛成」だった。このことは、彼が政治(増税の中身)に無関心だったということの証明にもなっていると思われるので、「選挙には興味はない」というのは本音だったのだろうと思う。

 既に結果論だが、若者の代表として古市氏が言うべきは、「どうせ消費税を10%に上げるのだから、選挙に行っても仕方がない」だったのではないかと思う。

■「戦争できる国」というレトリック

 「日本はどんな国を目指すのか?」ということで、後半は主に外交問題が取り沙汰されていた。政治・経済問題では無口だった孫崎 享氏が急にヒートアップしたのが印象的だった。
 この論議では、「戦争リスク」のことが語られていたが、安倍政権が誕生してからはよく「戦争できる国」という言葉を耳にする。集団的自衛権の是非が論じられる時にも必ず出てくるのが「戦争できる国」という言葉だが、なぜ「防衛できる国」という風に考えることができないのか不思議で仕方がない。

 「戦争できる国」と「防衛できる国」では全く違う。このそれぞれの言葉を子供でも解るように翻訳するなら、「いじめができる学校」と「いじめを防げる学校」と訳すことができる。

 「戦争できる国」=「いじめができる学校」
 「防衛できる国」=「いじめを防げる学校」

 こう考えると、どこがどう違うのかよく解ると思う。
 「防衛できる国」であれば何の問題もないと思われるのだが、なぜか「戦争できる国」という言葉だけが強調される向きがある。現代の日本が自国から戦争を仕掛けるなどということは有り得ない話であり、戦争を仕掛けなければならない合理的な理由が全く無い。現在の日本は周囲の独裁国家からミサイルの照準をセットされている国である。そんな国で論議されるべきは、当然「防衛論」であって「戦争論」ではないはずだが、「防衛論」と「戦争論」を混同している人々の如何に多いことか。

 「戦争できる国」と「防衛できる国」を反意語にして翻訳すれば以下のようになる。

 「戦争できない国」=「いじめができない学校」
 「防衛できない国」=「いじめを防げない学校」

 こうすれば、何が可笑しいのかは一目瞭然だ。
 「戦争」という言葉を意識しなければいけないのは、「いじめっこ」の立場にある国だということだ。では現在の日本は「いじめっこ」なのか? もちろん違う。武器も持たず、喧嘩することも禁じられている日本は明らかに「いじめられっこ」だ。「いじめられっこ」が意識しなければならないのは「防衛」であって「戦争」ではない。
 「いじめられっこ」を「いじめっこ」に置き換えた修辞法、こんな単純なレトリックがなぜ見抜けないのか不思議だ。
 日本が目指すべきは「防衛できる国」であって「戦争できる国」ではない。

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