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2015年5月

1年間の糖質制限結果のご報告

■話題に事欠かない「ライザップ」

 昨年(2014年)の8月11月に個人的な糖質制限体験談記事を書いたみたところ、意外にも多くの人に閲覧していただき、現在でも毎日、一定数のアクセスがあるようだ。政治・経済関連や時事問題を扱ったブログ記事は、当然のことながら一定期間が過ぎると記事としての賞味期限が切れてしまい、ほとんどアクセスが無くなってしまう。そう考えると、世間一般の多くの人が興味・関心を抱いていることを記事にした方が良いのかもしれないなと思うことがある。特に健康やダイエットに関する情報は、時代が変わっても変わらない普遍的なテーマでもあるので、需要が途切れることもない。

 ここ最近も、芸能人(赤井英和氏やSMAPの香取慎吾氏)を起用したダイエット広告で有名となったトレーニングジム「ライザップ」が話題になっていた。神戸のNPO法人から「30日間全額返金保証制度」について批判されるニュースが出たかと思うと、その数日後にはライザップの高収益性を絶賛したニュースが出るという状態で、同社の注目度はそのダイエット効果と同様、ますますアップしているかに見える。

■糖質制限体験談(volume.3)

 前置きはこの辺にして早速、本題に入ろう。
 昨年の6月に始めた糖質制限だったが、8月には体重が4kg減って、11月には7kg減ったことは既にお伝えした。ではその後、どうなったのかと言うと、今年の3月には10kg減少し理想体重をも下回った。そのせいでウエストも5cm以上細くなったので、幸か不幸か昨年まではいていたズボンを全て捨てることになってしまった。以前までは、ウエストが太くなることで、はけなくなったズボンはあったが、まさか逆のパターンになるとは思いもよらなかった。

 しかし、さすがに短期間で10kgも体重が減ってしまうと、これ以上痩せるのが恐くなり、逆に少し体重を増やすことを考えるようになってしまった。私の場合、糖質制限と言っても、間食やジュースを控える程度の超プチ糖質制限だったので、食事自体はほとんど変わっていない。ごはんの量を元に戻しただけで、2kg程リバウンドした(ほぼ理想体重)が、体重は現在もずっとそのまま維持されている。

 自らの糖質制限体験で実感として判ったことは、結局のところ、自分自身の身体が処理できる糖分量というものがあるということだった。毎日の糖分摂取量が許容限度を上回れば脂肪が付いて太る、逆に許容限度を下回れば脂肪が燃焼して痩せるという実にシンプルな結論に達した。
 もちろん、このことは様々な糖質制限本にも書かれてあることなので、「判明した」と言うよりも「確認できた」と言った方がよいかもしれないが。

 人間は年齢とともに膵臓の機能が低下していくことによって、摂取し過ぎた糖分(高くなった血糖値のこと)を処理できなくなり、インスリンの機能により脂肪が付いていく。30歳を過ぎた頃から下腹が出てくるのは、膵臓の機能が低下することによって膵臓から分泌されるインスリンの量も減少するため、過剰に摂取した糖質が脂肪として蓄積されていくことが主な原因だと思われる。人間には、そういった体内システム(糖質を脂肪として蓄えるシステム)が備わっていることが実体験を通して理解できたような気がした。
 私の場合、お菓子や甘いジュースの採り過ぎで、身体が処理できる糖分量を少しだけ上回っていただけだったので、超プチ糖質制限だけで痩せることができたのだろうと推察している。

 無論、肥満は膵臓の機能だけに原因があるというわけではなくて、運動不足などによって消費される糖質量が少なくなることとも関係がある。
 「少し下腹が出てきたな…」というような人は、試しに糖質制限してみると、その効果を実感できる人は多いと思う。もっとも、糖質制限だけでは脂肪が取れるのみで、「ライザップ」のようなトレーニングをしない限り、筋肉は付かないが…。

 以前の記事に書いたことと少し重複するが、糖質制限を続けていると、ある時期、便が全く出なくなるという体験をする。私も1週間便が出ないという、いわゆる便秘の状態を体験した。糖質制限を行っている人のブログなどを読んでみると、糖質制限による便秘には「こんにゃくゼリーが良い」と書かれてあったので、試しに食べてみると、徐々に便秘は治っていった。しかしながら、それが本当に「こんにゃくゼリー」の影響であったのどうかは判らない。糖質制限によって腸内環境が変わるということはよく言われていることなので、腸内環境が変わる過渡期だけ便秘になったということも考えられる。

 ただ現在でも便は少し固い。以前はどちらかと言うと軟便気味だったので、全く体質が変わってしまった。以前なら、毎年5回程度は下痢の差し込みで脂汗(冷汗?)を流すことがあったが、現在では全く無くなった。この1年間、差し込み回数0。あの地獄のような痛みから完全に解放されただけでも糖質制限を試して良かったと思っている。少なくとも、糖質摂取量をコントロールすることによって、体重もコントロールできる自信は付いたと思う。

 ということで、まとめ。
 現在の私は必要な食事以外は極力しない(食べない)というごく当たり前の食事に戻ったというだけで、特に目立った糖質制限は行っておりませんが、また新たに気付いたことがあれば、必要に応じてご報告させていただきたいと思っております。ご参考までに。

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BOOK『なぜ日本人は、こんなに働いているのにお金持ちになれないのか?』を読んで。

2015052901■「日本人は、世界一、お金のことを知らない」

 本書は一見すると分厚いハードカバー本なので、読むのに少し時間がかかりそうだな…と思ったものの、実際に読んでみると文字数は少なく、実感的には新書よりも早く読み終えることができた。
 内容的には非常にシンプルな本であり、著者が旅行した十数ヵ国の備忘録的な簡単な紹介(体感的な物価など)と、お金の歴史と仕組みを上手くミックスして書かれている。著者の言う「つながりキャピタリズム」という概念は、私の認識不足のせいか、あまりピンと来なかったが、お金というものを考えるという意味では、参考になるところが多かった。

 この本のタイトル、「なぜ日本人は、こんなに働いているのにお金持ちになれないのか?」と聞かれると、思わず考え込んでしまう人も多いかもしれない。著者はその答えを求めて、世界一周の旅に出かけるのだが、バックパッカーとして2年間、世界40ヵ国を旅して気付いたことは、「日本人は、世界一、お金のことを知らない」という事実であった…そんな興味深いプロローグで本書は始まる。

 では、日本人はなぜ、お金のことを知らないのか? それは、「お金=汚いもの」という無意識の誤解のもと、お金のことを話すこと自体がタブー視され、お金の教育を受けてこなかったからだと述べられている。

 日本の義務教育課程でお金の教育が行われていないのは当然としても、著者は高校・大学でも「お金とは何か?」という本質的な問題を学ぶ機会はなかったと書かれている。

 言われてみれば、実際にその通りであり、私自身もせいぜい大学で簿記を勉強した程度であり、「お金とは何か?」という基本を学校で教えられた記憶がない。社会に出てからは、誰から教えられるまでもなく必然的にお金のことを考えるようにはなったものの、社会経験から得た知識よりも、そのての書籍から得た知識の方が多いかもしれない。

■ネガティブなお金観を持った人々

 個人的に本書で最も興味深かったのは、お金持ちの中にも「ネガティブなお金観」と「ポジティブなお金観」というものがあるという部分だった。

「ネガティブお金観を持つお金持ちは、根本的にお金の持つパワーそのものにとらわれています。まるで、お金は他者を支配するための「力」であるかのように。お金があれば他者を自由にできるし、逆にお金がなければ他者に自由に使われてしまう。そんな、もはやお金のあるなしに人生を支配された価値観を根底に持っているので、お金集めに必死になるし、そのお金を他者への暴力的な支配の道具として行使します。」
【引用文献】渡邉賢太郎『なぜ日本人は、こんなに働いているのにお金持ちになれないのか?』いろは出版株式会社(2015).

 なるほど、確かにこういう思想を持った人は実際にいる。本書ではお金持ちに限定して書かれているが、お金持ちでない人の中にも、このようなネガティブなお金観を持っている人は大勢いるように思う。
 “お金は他者を支配するための「力」”などというさもしい考えを持っている人は、結局、その自分自身の囚われた考えの通りに、自らも他者に支配される立場に置かれることになってしまう。(注:必ずしも実際に支配されるというわけではなくて、“支配されている”という思い込み(妄想)を抱いてしまう)
 それゆえに、ますますお金に執着するという悪循環に陥ることになるのだが、なぜそうなるのかが自分では解らないという悩ましさを抱えている。

■「景気が悪い…」という言葉の意味するところ

 日本人の多くが、お金のことを詳しく教えられたわけでも、深く考えたこともない証拠として無意識的に発される言葉(口癖)に以下のようなものがある。

 「景気が悪い…

 この「景気が悪い」というのは、どういう経済状態なのかというと、一言で言えば、「お金が循環していない」ということだろう。
 では、「景気が悪い」と嘆いている人々は、なにか景気が良くなる努力をしているのか?と問えば、答えに窮する人がほとんどだろうと思う。
 
 「景気が悪い」を「景気が良い」にするために必要なことは、マクロ的には「お金を使う」ことになるはずだが、「景気が悪い…」と言うばかりで、自分からは率先的にお金を使おうとせずに、誰かが大々的にお金を使ってくれるのを待っている状態、それがこの言葉が持つ意味とも言える。

 つまり、「景気が悪い、誰かお金を使ってくれないかなあ…

 これが、「景気が悪い…」という言葉の本当の意味であり、その言葉には他力への依存心というのものが多分に含まれている。

 一般的に、景気が悪い時には、どんな状況でも効率的に仕事ができるように(または仕事に就ける能力を身に付ける)努力をすることが大事だと言われることがあるが、実はもう1つ、全く別の努力が存在する。それは、“気前よくお金を使う”という努力である。

 前者の自分の能力を磨くという努力は、景気が悪いという状況は変えられないという意味では、少々、受動的な努力とも言える。しかし、後者のお金を使うという努力は、景気そのものに直接影響を与えるという意味では、能動的な努力であるとも言える。

 国の景気が悪い時に必要なことは、お金を使う(循環させる)ことだという最も基本的なお金の常識を教育で教えられていないため、日本では、不況下では節約するとか、貯金をするとか、安値競争をするとか、全く正反対のことを勧める向きがある。これなどは、自分さえ良ければよいというミクロ経済論者の典型だとも言えるが、ミクロ経済学者にはリベラル寄りの人が多いことと無関係ではないと思う。

 「景気が悪い…」「景気が悪い…」と言うだけで、ほとんどの人は自分から進んでお金を使おうとしないので、結局、国が代わりにお金を刷ってバラまかなければいけなくなる。
 「規制を無くせば…」「魅力的な商品が出れば…」需要は満たされるというような意見もよく聞かれるが、別にそんなことをせずとも、誰もが気前よくお金を使うようになれば、景気はすぐさま良くなる。
 しかし、そうは言っても、将来的な不安があれば、人情的にはなかなかお金は使えない。でも、お金を使わなければ景気は良くならない。

■「お金=汚いもの」という刷り込み教育の悪弊

 例えば、安倍総理が「もっとお金を使ってください」とお願いしても、ほとんどの人は言うことを聞かないだろう。「もっとお金を使ってくれなければ消費税率を上げますよ」と脅しても無駄かもしれない。
 そんなことを言えば、「安倍総理は独裁者だ!」とか、「国民のお金を奪うペテン師だ!」という人も出てくるかもしれない。
 なぜ、そのような経済音痴丸出しの人々が現れることになるのかと言えば、理由は簡単、まともなお金の教育を行ってこなかったからだろう。

 「国民の前に出現した不況という怪物を退治するためには、皆が率先してお金という武器を使わなければいけない」そのような幼稚園児にも解るような簡単な譬え話すら教えられてこなかったからだろう。不況を退治する武器は有り余るほど蓄えているにも拘わらず、それが武器になることを知らない。
 お金は捉え方によっては善にも悪にもなる代物だが、「お金=汚いもの」という一面的な刷り込み教育だけが行われてきたことにより、この不況という怪物を退治できない国になってしまった。

 現代の総理大臣が言っても耳を傾けない国民でも、昔の(人間宣言する前の)天皇陛下が「日本を救うためにお金を使ってください」と言えばどうだろう? おそらく、当時の国民なら本当にどんどんお金を使うようになり、景気は良くなるだろう。(あくまでも過去の仮定話)

 良い悪いはともかくとして、「お国のため」というマクロ的な発想(=国家観)が希薄になり、自分さえよければそれでよいとする個人主義(日本ではリベラル思想とも言う)が蔓延したことによって、人々の連帯感が薄れ、誰もが必要以上にお金を使わなくなった(=守銭奴になった)と言えば言い過ぎだろうか。

 現代では、「お金」は時に「信用」とも訳されるが、お金が動かない社会とは、信用や信頼が希薄になった社会だと言い換えることも可能かもしれない。著者の言葉を借りて言うなら、「ネガティブお金観」を持った人々があまりにも増え過ぎたことが日本人が貧乏になった本当の理由なのかもしれない。

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情報化社会における「ネット警察」の存在意義

2015051501■株式市場は「狐と狸の化かし合い」

 ブログを休止している間に、いつの間にか日経平均株価も一時2万円を超え、株式市場はかつてのITバブル期のような盛り上がりを見せつつあったが、案の定と言うべきか、お約束と言うべきか、一旦、調整が入ったらしい。
 昨年は、日経平均は9000円まで暴落するとか、逆に4万円まで爆騰するとかいう両極端な意見も聞かれたが、株価なんていうものは、予測しようと思って予測できる代物ではないので、そういった情報の真偽のほどは誰にも分からない。

 株式投資の世界は、狡賢い者通しが騙し騙されを繰り返しているという意味で「狐と狸の化かし合い」とも言われる。日夜、様々な相場情報が飛び交っているが、何が正しい情報で何が間違った情報なのかを他人の意見に振り回されることなく冷静に見極めれる者が優位に立てる世界でもある。
 しかしながら、他人よりも知識が有るからといって必ず勝てるような世界ではなく、基本的にはプロもアマも素人も関係がない。プロであっても大損することがあるし、素人であっても大儲けする人もいる。そういう意味では、知識よりも直感がものを言う世界だと言えるのかもしれない。

 それにしても、リーマンショック後の民主党時代に比べれば、株価予測も、ずいぶんとし易くなったものだなと思う。私自身も株式投資を始めた頃は少々無茶なことをしてしまったので、この10数年間の投資成績をトータルすれば未だにマイナス収支だが、上手くいけば逆転も可能かもしれないという希望が持てる相場にはなったと思う。この違いは小さいようで実に大きい。
 多少のリスクを受け入れる(管理する)ことができる人であれば、現在の株式市場は非常に面白い相場だと思う。「リスクは有ってはならない」という人々は、当然、「株式投資なんてもってのほか」だろうから、あまりオススメはしませんが。

■ネット社会は「真実」と「嘘」でまみれている

 以上のことは経済の先読みについても言えることで、プロを名乗るエコノミストよりも、八百屋の店主の方が生の経済に接している分だけ、経済に明るいと言われることがある。
 有名なエコノミストの言うことよりも、実際に現場で働いている企業人の言うことの方が正しいという場合も多々ある。(私のことではありません)
 どれだけ理論的には正しいことを言っているエコノミストでも、経済の先読みが当たるかどうかは分からない。その理由は、「経済も株価と同じように、理屈だけで動くものではないから。」この一言に尽きる。

 「情報化社会」と言われて久しいが、情報量が多くなったからといって、必ずしも万人が正しい判断ができる社会になったというわけではなくて、情報量が多くなったからこそ、「偽」の情報に騙される人も多くなったとも言える。「情報化社会」で最も大事なことは情報量ではなく、情報の真贋を見抜く情報識別能力(直感や洞察力)の方であり、そういった能力はこれまで以上に重要になってきたとも言える。

 非常に卑近な例で恐縮だが、前回のブログ記事のコメントに以下のようなリンクが付いていた。

http://anond.hatelabo.jp/20150329171654

 リンク先を覗いてみると、なにやら私の同僚と名乗る人物が暴露文を装って、私がブログの炎上がショックで会社を休みがちだったというようなことが書かれている。

 これを書いた人は、面白半分、嫌がらせ半分で書いているのだろうと思う。これが冗談というなら笑えるが、読む人によっては本気にする人がいるかもしれない。そういう意味では、少し冗談が過ぎるのではないかとも思える。最近、ネット上では「なりすまし」というものが問題になることがあるが、これも形を変えた「なりすまし」であり、立派な犯罪行為だ。

 芸能人でも、時々、ストーカーの嫌がらせが過ぎると、警察沙汰になるというケースがある。匿名でコメントしたとしても、投稿者のIPアドレスを調べれば、すぐに居場所が判ってしまうので逮捕されたというニュースもたまに見かける。

 当ブログにも名無しでコメントを残す人がいるが、コメントだけでなくIPアドレスも通知されることになっているので、あまりにも悪質な捏造コメントはその気になれば(=警察に相談すればという意味)、どこの誰かは調査することができる。
 IPアドレスがなければ、ブログのコメント欄なんて、便所の落書きと一緒になってしまうので、この部分が唯一のブログメディアの良心と言うべきか、犯罪行為を塞き止めるストッパーになっている。今回のコメントを残した人と、当のなりすまし犯が同一人物ということはないと思うが。

■情報化社会でも「人は信じたいと思うものを信じる」

 私の場合、匿名ブロガーなので、私がブログを書いていることを知っている人はいるが、ブログ名を知っている人は誰もいないし、家族ですら知らないのだから、会社の人間が知るはずがない。大体、会社の人に言うぐらいなら、匿名にする理由がなくなってしまう。
 私は20代の時に1度、転職を経験しているので、現在の会社では先輩や後輩はいても、同期生はいない。同じ部署には現在、後輩が1人しかいないので、こんな書き込みをすれば「自分が書きました」と言っているようなものなので、笑い話だ。
 会社の名誉のために付け加えておくと、私の会社には、こんな真似事をするような姑息な輩はいないし、私が休んでも代わりに仕事をしてくれる人もいないので、理由もなしに休めない。
 そもそも、ブログの炎上がショックで会社を休むとか、休めるような民間企業が本当にあるとでも思っているのだろうか? まあ事情を偽って休むことができる会社はあるだろうけれど、もしこの同僚という人が存在しているなら、そんなロジックはアッサリと崩れてしまうことになる(=事情を知っている人がいて休めるはずがない)。

 「人は信じたいと思うものを信じる」とはよく言ったものだが、こんな、なりすましのデッチ上げ捏造文を読んでも、信じてしまう人がいるのだから恐ろしい社会だ。
 現代人がいくら情報化社会にどっぷりと漬かっていても、情報の真贋を見抜けるかどうかは別問題だということがよく分かる。
 実際、ここまで書いてもまだ疑いを持っている人がいるかもしれない。映画『それでもボクはやってない』の台詞ではないが、「真実を知っているのは、私とこのなりすまし犯だけ」なのだから疑いを払拭できない人は少なからずいることだろう。

 では、こうしよう。
 もしこの同僚という人が実在するなら、会社で私に名乗り出てください。私は笑顔で1億円お支払いします。これで文句はないでしょう。もちろん、1億円も持っていないが、この記事で書いていることは100%真実なので、1億円だろうが1兆円だろうが何の問題もない。

■情報がオープン過ぎるがゆえの新たな危険性

 匿名掲示板には、芸能人などの噂も有ること無いこと、好き勝手なことを書いている人がいるが、単なる憶測での名誉毀損や嫌がらせ目的の誹謗中傷などをされている芸能人が気の毒に思うことがある。
 こういった人権侵害を取り締まるネットパトロール業ネット警察も存在するらしいが、どこまで対応してくれるのだろうか?

 人心を荒廃させ惑わせる毒のある情報、市場を破壊する著作権無視の違法コピーデータの氾濫、情報虚偽に情報詐欺、ネット社会は便利になっていく反面、水面下では取り締まるべきものは増加の一途を辿っている。そういった無法行為や犯罪行為を取り締まるべき法律や対応策が全く追い付いていないというのが現状だろうから、官・民を問わず、今後は大きな需要が見込める花形業種になるかもしれない。

 ネット社会に溢れる情報には「真実」と「嘘」がごちゃまぜになっており、「嘘」を「真実」と錯覚してしまう人々が多数出てくるというメカニズムは、カルト教が隆盛するメカニズムと軌を一にしている。

 かつての本(活字)が中心だった時代、本を読まない人は、幸か不幸か、カルトにハマるということもあまりなかった。しかし、本を読む人の一部は、たまたまカルト思想に触れて、人生を狂わせてしまう場合があった。インテリと呼ばれる人ほど、カルト教(極左テロ教団)にハマるという不可思議な現象が発生した理由も、まさにそこにあったのだろう。
 なまじ知的好奇心が旺盛であったがために、運悪く間違った思想に触れ、その真贋が判別できずに共感してしまい、悲劇的な結末を齎すという事件が実際に発生した。
 前世紀に現実に発生したこの悪しき社会現象こそが、情報化社会で最も重要なことが何であるかを暗黙の内に語っている。

 しかし現代のように、わざわざ本を買って読まなくても、様々な情報を誰もが入手できる時代は、かつてのような本(活字)が中心だった時代以上に危険性のある時代だとも言える。
 情報というものはリスクを抱えた諸刃の剣であって、情報がオープンに成り過ぎることによって、逆に騙される人も増加するという逆転現象が生じることになる。真実の情報に触れて蒙が啓かれる人がいる反面、偽の情報に触れて奈落へと転落する人もいる。

 かつての能動的に情報を得る時代の中にも思わぬ危険性が隠れていたが、現代のような受動的であっても情報が得られる時代には、その時代特有の更なる危険性が潜んでいる。
 情報量が多くなったからといって、「誰もが正しい判断ができるようになる」というのは迷信に過ぎない。「真実」は「真実」、「嘘」は「嘘」という判断が正確にできない情報化社会には、人心を狂わす危険性が内包(セット)されているのだということが、もっと重要視されてもよい時代だと思う。

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「ブログ記事の噂も75日」

■「人の噂も75日」と「罪を憎んで人を憎まず」

 前回のブログ記事を書いてから、明日で75日が経過することになる。「人の噂も75日」という諺はブログの世界でも通用するらしく、騒ぎは完全に収まったようだ。
 この間に世間では実に様々なニュースがあり、ブログ記事を書きたいという衝動を覚えたことも何度かあったものの、自分自身でペナルティを課した手前、ブログには全く手を付けなかった。
 定期発行が原則のメルマガや有料ブログを書いていようものなら、こんな自由はきかなかっただろうから、ものは考えようだなと思った。

 ところで、自分自身が書いた当時の文章を読んでみて、1つ気付いたことがある。
 それは、昔からよく言われる「文章は人を表す」という言葉は少し言葉足らずだということだった。正確に言うならば、「文章は(その時の)人(の心境)を表す」が正解だと思う。文章というものは、書いた人の人物像そのものを表すのではなく、その時点の(その人物の)心象風景を表すということが我ながらよく解ったような気がする。

 「罪を憎んで人を憎まず」という言葉も、ある意味で同じようなものかもしれない。必ずしも「罪は人を表す」わけではなく、「罪は(その時の)人(の心境から生まれた誤った行為)を表す」。それゆえに「人を憎まず」という言葉が続くのかもしれない。

■「非難」という目に見えない怪物

 いくつかの本に書かれてあったことだが、人が人生の途上で冷静さを失う場合というのは、主に次のような時であるらしい。

 「失恋」「失業」「大病」「家族の病気・死」「貧困」「非難」

 これを読まれている人も多かれ少なかれ経験がおありだと思う。

 私はこれまで最後の「非難」というものが、なぜこのカテゴリーの中に入っているのか不思議に思っていたのだが、この度の経験で、なるほどなと納得したのだった。知っている数人から非難されるのと、誰とも判らない数百、数千、場合によっては数万の人々から非難されるのとでは全く訳が違った。(注:直接的に非難している人が数万人もいたわけではない)

 数千、数万人からの非難というものは、目に見えない怪物のようなもので、どう足掻こうとも1人では対処のしようがない。数が増えれば増えるほど、時間的にも物量的にも対処は不可能に近づいていく。少し大袈裟に聞こえるかもしれないけれども、どこまで巨大化するか分からない(しかもネット上での成長スピードは物凄く速い)「非難」という名の怪物を前にした1個人などは、まるで巨大な風車の前のドン・キホーテのようなものだとも言える。
 非難する側からすればゲーム感覚でも、非難される側は実戦になってしまう。喩えて言うなら、ディスプレイ上でプレイしているシューティングゲームが本当にチクチクとした軽い痛みを伴う実戦に変化するようなものとも言える。認識としてはそれぐらいの差があると思う。

 しかしながら、「失恋」「失業」「大病」と同じように「非難」もまた人生の「試練」の1つであると考えれば、幾分か心も軽くなる。

 ブログを書くか書かないかを決めるのは、あくまでも自分自身であって、他の誰でもない。誰かから報酬を頂戴して書いているわけでもなく、押し売り的に文章を送信しているわけでもないのだから、公序良俗に反するようなことでも書かない限り、特に問題視する意味も問題視される理由もないと思う。
 書く・書かないという自由があるように、読む・読まないという自由もある。ブロガーが特定の人物に「読むな」とは言えないのと同様に、閲覧する側も特定のブロガーに「書くな」とは言えない。「書く自由」と「読む自由」は表裏一体であり、どちらかを認めて、どちらかを認めないというような都合のよい自由などあるわけがない。

■「文章は人を表す」と「文章スタイルは人を表す」

 ブログを再開するにあたり、「である調」を「ですます調」に変えようかとも考えたが、やはり今後も「である調」でいこうと思う。「である調」で文章を書くと「上から目線だ」などと言われることがあるので躊躇するブロガーも多いそうだが、個人的には「である調」の方が書きやすいので、これまでのスタイルを踏襲しようと思う。

 ついでに、「上から目線だ」という声に対して一言言わせていただくと、私は普段の会話で「である調」など一切使用しないし、したこともない。これは当たり前の話であって、別に「上から目線」にするために文章に「である調」を使用しているわけではなくて、単に書きやすいという理由で使用している。
 「ですます調」(下から目線?)で書くこともできるし、面白可笑しくギャグ風に書くこともできるのだが、私の場合、書くだけでなく、他人のブログを読む場合も「である調」の方が好みだし読みやすい。

 「である調」と「ですます調」というのは、演技の世界で言えば、「硬派」か「軟派」かの違いでしかなく、言葉のスタイルがその人物をストレートに表すわけでもない。先の「文章は人を表す」の例で言えば、「文章スタイルは人を表す」のではなく、「文章スタイルは(その文章を書く時の)人(の性格)を表す」程度のものだろうと思う。

 俳優が、役柄によって個性の違いを演じ分けるように、物書き(ブロガー)は、文章スタイルによって個性の違いを書き分ける。その演技としての個性(文章)のみをとらえて人を判断するのは間違いだと思う。
 「人を見る目がある」という言葉と同じように、本当に文章を見ることができる人というのは、どのようなスタイルの文章であろうとも、行間の隙間から、その文章を書いた人の本意が見える人のことをいうのだと思う。
 俳優がどのような役柄を演じたとしても、それはその俳優の本当の姿ではないのと同様に、ブロガーがどのような語り口で文章を書いたとしても、それがそのブロガーの本当の姿ではないということも併せてご理解いただきたいと思う。

 ということで近々、ブログを再開します。蛇足ながらブログ再開のお知らせまで。

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