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2015年6月

「スマホ老眼」の正体【スマホという老眼鏡】

2015062701■「散髪しながらスマホ」という新手のコミュニケーション

 昨今のMVMO(仮想移動体通信事業者)の流行りもあり、私自身も遅ればせながら、今年からスマホ(iphone)を使用している。現在はガラケーとスマホを2台併用しているという感じだが、いずれはスマホオンリーになるかもしれない。スマホは電池持ちが悪いので、なかなかガラケーからは卒業できないかもしれないが…。

 私の場合、仕事でパソコンが必要だし、趣味でブログを書いている身でもあるので、特にスマホをパソコン代わりに使用しようなどとは全く思っていないので、今後もスマホがメインになることは有り得ないと思うが、それでも使用していると便利だなと思うことがある。
 書店やレンタルショップで、面白そうな本や映画を見つけると、その場でネット上での書評やレビューを調べることができるので、非常に助かっている。以前はipodで聴いていた音楽もiphoneで聴くようになった(主にBluetoothで車内で聴いている)ので、ipodもいらなくなってしまった。

 飲みに出かける時、たまに電車に乗ると、ほとんどの人がうつむいて小さなスマホの画面を覗き込んでいる光景を目にする。数年前、電車通勤(現在は車通勤)をしていた頃に観ていた光景とは全く様変わりしてしまい、同じ車両で本を読んでいるのは私だけということもある。

 「ながらスマホ」という言葉をよく耳にするようになったが、世の中には、散髪中でもスマホをいじっていないと気が済まないという人もいるらしく、店員とのコミュニケーションはそっちのけでスマホに夢中になっている人もいるらしい。

 私が思うに、タバコは対人関係が苦手な人の誤摩化しアイテム(話の間を繋ぐアイテムという意味)という側面もあるので、散髪屋での誤摩化しアイテムとしてスマホを使用しているという人もいるのかもしれない。

■「スマホ老眼」と「スマホ疲労眼」

 世の中には「良い習慣」と「悪い習慣」というものがあるが、後者の「悪い習慣」というものは、得てして「依存症」に陥る傾向にある。
 ニコチン、アルコール、ドラッグ、ギャンブル等、中毒性の強いものが依存症に陥る対象となるが、スマホの場合、単独の依存症というわけではなく、オンラインゲーム中毒、ネット閲覧中毒、SNS中毒、ネット活字中毒、ネット株中毒、ネット漫画中毒、ネット動画中毒など、様々な依存症が絡み合っている。
 そのどれもが、特に致命的な依存症だとは思えないのだが、最近では「スマホ老眼」という言葉も聞かれるようになり、視力に悪影響を及ぼすということだけは無視できそうにない。

 「スマホ老眼」というのは、近くのものばかり見ていると、目の筋肉を酷使することになるので、スマホばかり見ていると老眼と同じような症状が短期的に現れるということなのだろうけれど、老眼のように治らないというわけではない。スマホによる老眼症状は、ピントの調整機能が衰えることによって生じる老化現象ではなく、目の筋肉を酷使したことによる一時的な疲労現象なので、老眼とまでは言えないと思う。
 今後、10代からスマホで目を酷使し続けた結果、30歳で老眼を発症するというような人は出てくるかもしれないが、現状ではそこまでは証明できないので、単なるスマホ疲労眼に過ぎないと思う。

 「近視眼的」という言葉は、あまり良い意味合いでは使用されない言葉だが、「大局を見通せず、目先の事だけにとらわれているさま」という意味になる。
 スマホの見過ぎというのは、スマホの奥にある仮想空間の中にある価値に夢中になっているという意味では、必ずしも近視眼的になっているとは言えないのだが、物理的には近視眼的になっている。夢中になっているのはスマホの奥にある世界なのだが、物理的な焦点はスマホの小さな画面となる。
 スマホを見ている間はなんともないのに、スマホから離れると老眼状態になる。この状態は、見方を変えると、スマホの画面自体が人間と仮想空間を繋ぐ老眼鏡になっていることを意味していると言える。
 スマホの使い過ぎで、目が疲れるだけなら、スマホの使用時間を減らすことで回復できるが、一日中、スマホがないと生きれないというような依存症に陥ってしまうと、スマホという老眼鏡をずっとかけている状態となるので、実質的には本当の老眼と変わらないことになってしまう。この状態を「スマホ老眼」と言うのであれば、治る見込みが無いという意味では正解かもしれない。
 
■「すごい経済ニュース」という無料アプリ

 話を戻そう。スマホは便利なツールだが、ブログを書く上で、スマホはあまり役に立たない。あんな小さな画面で文章を書く気力も忍耐力も無いし、画像の加工もできそうにない。仮に書けたとしても、書いた文章を推敲する手間を考えると遠慮せざるを得なくなる。
 ツイッターの文字数ならスマホに軍配が上がると思うが、どう考えてもスマホはブロガー向きではない。
 しかし、読むだけなら、スマホの方が便利だと思う時がある。個人的には読む場合もパソコンの大画面で読んでいるが、いつでもどこでも読めるという意味では、スマホに軍配が上がる。

 当ブログも、パソコンで読まれる人とスマホで読まれる人の割合は、現在ではスマホの方が多くなってきている。
 BLOGOSに記事を転載していただいた場合の閲覧者の割合は判らないが、おそらくスマホで閲覧されている人の方が多いのだろうと思う。

 スマホを始めたことによって最近、知ったのだが、「すごい経済ニュース」という無料のスマホアプリでも当ブログが読める(と言うかリンクされている)ようになっている。2013年頃から始まっているようなので、既に2年以上経過しているのだが、今まで気が付かなかった。
 本アプリの作者である「Shumpei Hayashi」氏には、遅ればせながら、この場を借りてお礼申し上げたいと思う。紹介していただき有り難うございます。

 下記のテクジョサイトでも紹介されています(2年前に)。

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図書館は「フリービジネス」と成り得るか?

2015061301■リアル書店でしか味わえない“ガリンペイロ感覚”

 前回、街の書店の減少と読書ばなれの実体についての感想を書評を混じえて書いてみた。アクセス解析を調べてみると、出版社からのアクセスも見られた。
 反論と呼べるような意見は無かったものの、一部、疑問を抱いた方もおられたようなので、少し補足しておきたいと思う。

 まず、次のような疑問を抱いている人がおられた。

 「書店がなぜ無くなってはいけないのか、その理由が書かれていない。

 この理由は、主として2つある。1つは「」的なもので、言わば「愛着がある」という単純な理由。昔から通っていた書店が無くなることに一抹の寂しさが伴うのは人情というものだろうし、たとえ書店の目的が商売(金儲け)であったとしても、長年にわたって本との出会いの場を提供してくれたという意味では、少なからずお世話になっていたわけだから、潰れてほしくないと思うのも人情というものだろう。

 そしてもう1つの理由は、「」的なもので、読書が好きな人にとって、書店という場所は一種の「宝探し」にも似た空間であるということ。書店に入った時の、あの「宝探し」にも似たワクワク感は、解る人には解っていただけるのではないかと思う。

 書店に置かれている数ある書籍というものは、まさに知識や情報の山であり、その中には「お宝」が眠っている。「お宝」と書くと、何かいかがわしいものを想像した人もいるかもしれないが、そういった「お宝」ではなくて、観念的な「智慧」としての「お宝」だ。
 私自身は本を出したことはないので、経験論としては語れないが、1冊の本を上梓するためには物凄いエネルギーがいる(と思う)。1冊の本の中には、その本を書いた人が、時間と努力(労力)をかけて辿り着いた結晶とも言うべき「智慧」が入っている。無論、全ての本、全てのページに智慧が入っているわけではなくて、それは、1冊の本にいくつも入っている場合もあれば、全く入っていない場合もある。全体的な比率で考えれば、砂山の中で砂金を探すようなものかもしれないが、その砂金は、人が経験と思考を通して結晶化した「智慧」そのものとも言える。

 自分自身が一生かかっても辿り着けないかもしれない智慧とも呼べるべきものが1つでも入っているなら、その本はお金を出して買う価値のある「お宝」になる。その「お宝」を探すことが、読書の大きな目的の1つでもあると思う。人間1人が自らの人生経験によって得られる智慧などはたかがしれているので、別の人生を生きている人の智慧を読書によって入手するということは、ある意味で物凄く合理的な学習方法でもあるわけだ。

 だから、書店が無くなってほしくない理由は、「宝探しの場が失われてしまうから」ということになる。読書家は皆、「智慧」という名の金鉱を掘り起こすことにロマンを感じるガリンペイロ(金鉱採掘人)なのである。

 「それなら、ネット書店でも一緒でしょ。」と言う人がいるのかもしれないが、ネット書店の場合、本の厚み(目で見た厚みのことではない)が伝わらない。本を手に取って、パラパラとページをめくる度に目に入ってくる文字情報とともに伝わってくる観念的な要素を味わえない。
 このパラパラとページをめくる行為は、宝探しの醍醐味として重要なファクターであり、無料で全ページの情報(内容のことではない)を確認できることは、リアル書店ならではの利点でもある。
 これに対し、ネット書店の場合は、せいぜい十数ページしか確認することができない。ネット書店で全ページを見れるようなことになると、本を買う必要性が無くなってしまうので、この先もこの販売スタイルは変わらないだろう。ここに、ネット書店では真似したくともできないリアル書店ならではの利点が有る。その利点が無くなることが残念だと言えば、ご理解して頂けるだろうか。

■「フリービジネス」の強要は統制経済に通じる。

 では、次の疑問。

 「図書館で本を借りることが、なぜ好ましくないのか?

 好ましくないというのは、程度にもよる。普通に図書館を利用するだけなら、何の問題もない。しかし、図書館というのは基本的に国民の税金で運営されているわけだから、誰も彼もがあまりにも利用し過ぎると、どこから運営資金を捻出するんですか?ということになってしまう。
 お金が動かなければ景気は良くならないのだから、無料であることをよいことに、なんでもかんでも図書館で借りればいいというのも考えものだ。これは老人の医療問題と同じで、無料をよいことに病院にばかり行っていると、膨大な医療費のために税金が足りなくなってしまうという構図とよく似ている。

 どなたかも書いておられたが図書館サービスも行き過ぎると「民業圧迫」になってしまう。市場で売れる本の数よりも、市場外で貸し出される本の数の方が多いという現状は、やはり行き過ぎ感は否めず、見直す余地はあるのではないかと思う。

 「民業圧迫」という言葉に疑問を感じた人がいるかもしれないが、もし、全国の書店が“本が売れない”という理由で、一斉に貸本業に転業した場合を考えてみよう。その場合、図書館と書店は真っ向から対立することになる。現在の書店は販売業のみで貸本業を行っていないのでバッティングせずに済んでいるが、全く同じ業態に変化した場合、それは「民業圧迫」そのものになってしまう。

 昔の絶版になったような本や、あまりにも高価な本や専門書、少しだけ資料的に読みたい本などは、図書館を利用するべきだと思うが、趣味で読む本まで、全く身銭を切らずに全て図書館で借りることが当たり前となると、本屋どころか、出版社も著作者も商売が成り立たなくなってしまいかねない。

 こう書くと、「フリービジネス」という言葉を持ち出す人がいる。曰く、「商品を無料で提供しても、人気が出れば、違った形でお金が入ってくる。」と。これは、一面では真理だが、あまりにも都合のよい話だと思う。

 例えば、書籍を例にしても、著作者も出版社も印刷会社も製本会社も書店もオール無料で仕事をした(もちろん本も無料でバラまく)として、それでその仕事に関わった人全てにお金(生活費)が入るようになるんですか?と問うた場合、「イエス」と答えられるだろうか?
 「フリービジネス」が成り立つのは、せいぜい著作者のみであって、その著作者にしても、成功するか失敗するか判らないというリスクを背負わなければならない。
 リスクを背負うか背負わないかを決めるのは、あくまでも著作者本人であって、消費者ではないということ忘れてはいけない。
 作品が面白いか面白くないかを判断する(=商品の価値を決める)のは著作者ではなく消費者だが、リスクを背負うかどうかを決めるのは消費者ではなく著作者の方である。
 選択の自由を与えることなく、「全て無料にしてリスクを背負わなければならない」ということであれば、それは自由競争とは言えない。「無料にせよ」と命令している時点で、既に統制経済である。

■「フリービジネス」が「ただ働き」にならないためには?

 よくよく考えてみると、現在の図書館自体が皮肉なことに「フリービジネス」の片棒を担いでいるようなものなのかもしれないが、図書館で素晴らしい本に出会えたのであれば、その著者の次の本は有料で本屋で買ってあげようと思うような人が大勢いるのなら、図書館も「フリービジネス」に貢献できるのかもしれない。しかし、「無料で読めるのだから、借りれるだけ借りて全部無料で読んでやれ」というような心のさもしい人ばかりでは、出版業界全体が益々ジリ貧になっていくことになるかもしれない。

 先に述べた「宝探し」の話ではないが、無料で借りた本に「お宝」を発見できたのであれば、その著者に対して、報酬を支払うというような考えは必要だと思う。ブックオフで無料で立ち読みしたマンガの中に人生にプラスになるものを発見できたのであれば、次は、本屋で新刊を買うとか、そういう考えや行動が存在してこその「フリービジネス」だと思う。(その場合、ブックオフにおけるフリービジネスにはならないが)
 「なんでもかんでも無料だから、他人が得た“智慧”も無料でパクってやれ」というような思考が蔓延しているような社会であるなら、「フリービジネス」は、「ただ働き」になるだけであり、経済はシュリンクしていくことになる。

 前回の記事でも「印税」について少し触れたが、本は売れ続けない限り、著作者に対する追加報酬は発生しない。3000冊出版すれば、3000冊分の印税が先に著者に支払われるそうだが、本が売れて増刷にならない限り、追加の印税が支払われることはない。1冊1000円の本の初版3000冊分の印税は30万円に過ぎない。これで増刷が出ないようなら、かなり割りの合わない商売ということになる。こんなお寒い状況では、余程の人気作家か、パトロンでも付かない限り、作家のモチベーションは下がる一方だろうし、今後、作家を目指す人も減少していく(=文化が廃れていく)のではないかと心配になる。

 この問題を突き詰めると、最終的には「著作権」というものに行き着いてしまう。公共図書館で本を無料で借りるということは、本来、著作権者や出版社等が得られたかもしれない利益を図書館が奪っていることにもなるので、海外(欧州や豪州など)では著作権者に対して代償金(補償金)を支払うという「公共貸与権」なるものが存在するらしい。しかし、日本の場合は、「映像」にのみ「公共貸与権」が認められているのみで、書籍については未だ認められていない状況にある。
 この先、どう転んでも本を買う人が増えないということであれば、少なくとも発売後数年間は書籍にも「公共貸与権」なるものを適用するべきなのかもしれない。

 「フリービジネス」も結構だが、そもそも論として言えば、他人が膨大な時間と労力をかけて上肢した本を読んでも、1銭の報酬も支払わないことを当然とする社会というものが、本当に健全な社会と言えるのだろうか? この問題を解決する糸口は、もしかすると「己の欲せざる所は人に施すこと勿れ」という論語の言葉にあるのかもしれない。換言すると以下のようになる。

自分の努力が認められる社会にしたいのであれば、他人の努力も認めるべき社会にしなければならない

【関連記事】「本を読まなくなった」というけれど

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「本を読まなくなった」というけれど

2015060601■全国13900店舗まで減少したリアル書店

 最近、また1つ、馴染みの郊外型書店が閉店した。自宅から車で通っている郊外型の単独書店は3店舗まで減少していたが、ついに残り2店舗となってしまい、時代の移り変わりの激しさを改めて感じさせられた。
 私の場合、リアル書店の応援のためにも、なるべく本はリアル書店で購入するように努めているのだが、残念ながら、1個人の微々たる努力など、なんの助けにもならなかったということを思い知らされる格好となってしまった。

 現代の日本で増え続けているものとしては、歯科医院・薬局・コンビニの3つが有名だが、逆に書店の数は減少する一方で、2014年の統計データでまとめてみると、それぞれ次のようになっている。(大凡の数字)

 歯科医院 68000
 薬  局 55000
 コンビニ 51000
 書  店 13900

 実際に身の周りで起こっている書店の減少ぶりについて自分なりの考えをブログ記事として書こうと思ったが、その前に何か参考になる本はないかと物色し、ちょうどピッタリの本があったので購入して読んでみた。

 『「本が売れない」というけれど』(永江 朗著)

 著者の永江氏は書店員経験のあるフリーライターとのことで、一般の人があまり知らない業界通の意見もいろいろと書かれてあり、興味深く読むことができた。

 本書にも、2000年には21000店舗以上あった全国の書店が、現在では14000店舗まで減少したと書かれていた。最近は、本の初版部数も減り、大抵の本は3000部から6000部しか発行されないとのことで、多い場合でも1万部しか発行されないらしい(それでも4割は返品される)。
 1万部発行した本ですら、1冊ずつ配本しても14000店舗の書店全てには行き渡らない。確かにこれは言われてみれば、その通りであり、目からウロコだった。
 よく、「小さな本屋は市場調査ができていない」とか「売れ筋の本がわかっていない」などと言われることがあるが、小さな本屋には、仕入れようにも仕入れられない物理的な事情もあったというわけだ。

■「読書ばなれ」は本当か?

 ここ数年、毎年7万点以上も出版されている書籍だが、書籍の売上はこの17年間で4割も減少しているらしい。しかしその代わりと言うべきか、発行点数は2倍に増えている。1980年代なかばの年間発行点数は3万5000点程度だったが、2013年の年間発行点数は7万8000点を超えており、実際に2倍以上に増えている。
 売上は4割減っているが発行点数は2倍以上になっている。そのため、作家も編集者も2倍の仕事量をこなさなければいけなくなった。1年に1冊書いていた作家は、1年に2冊書かなければならなくなり、1ヶ月に1冊のペースで本を出版していた編集者は1ヶ月に2冊の本を出版しなければいけなくなった。

 なぜそのような状況になってしまったのか? その答えになる様々な原因が本書では述べられているが、著者曰く、「読書ばなれは起こっていない」「読書ばなれの実態は出版不況であり、出版不況のおおもとは雑誌不況だ」とのこと。
 雑誌の広告収入が出版界を支えてきた。その雑誌(漫画雑誌やコミックも含まれる)が売れなくなったことが、出版不況の最たる原因であるということらしい。
 では、雑誌を含めて、新刊が売れなくなったのはなぜか? 「読書ばなれ」は起こっていないのに、なぜ新刊が売れないのか? そこに1990年に誕生したブックオフ、1999年に始まったヤフオク!、2000年に登場したアマゾンなどの存在が絡んでくる。

 確かに、ブックオフやヤフオク!やアマゾンの存在が書店で本が売れなくなった大きな理由ではあるのだろうと思う。しかし、数え挙げると他にもいろいろと原因があることは素人目にも分かる。
 例えば、大抵のネット喫茶では時間制でコミックや雑誌は読み放題だし、レンタルDVD店でもコミックレンタルがある。そのどちらも、商品を手に入れることはできないが、購入するよりは安価な料金で利用できる。単に読むという目的を果たすだけなら、商品を購入せずともよい時代になってしまったとも言える。
 お金を支払って読むならまだしも、ブックオフなどの古本屋にいたっては、客寄せのためか、事実上、中古コミックは無料で立ち読みし放題になっている状態だ。(個人的には、この状態はあまり好ましいものだとは思わないが)

 そして忘れてはならないのが図書館だ。これも本書に書かれていたが、公立図書館は書店とは裏腹に増加している。2000年に2639館だったものが2013年には3248館となり、実に23%も増加している。そして、現在の図書館の年間貸し出し冊数は、驚くなかれ、書店の推定販売部数を超えているらしい。書店の年間販売部数は7億冊に満たないが、図書館のそれは7億冊を超えている。(個人的には、この状態もあまり好ましいものだとは思わないが)

 付け加えると、上記で述べた表向きの理由だけではなく、商品をコピーして読むという違法性のある手段で本(デジタルデータ)を読んでいる人もいる。昔は少年ジャンプを回し読みするという学生が多くいたが、現代では自炊したコミックを回し読みしているというような人もいることだろう。(個人的には、この状態は絶対に好ましいものだとは思わないが)

 現代ではよほどのマニアかファンでもない限り、買ったコミックをコレクションし続けるということは少なくなった。大抵の漫画や雑誌は1度読めば、もう読まない。昔なら、いらなくなった本は廃品回収に出す場合が多かったが、現代では、古本屋に売ることもできれば、オークションで売ることもできる。逆に言えば、いつでも買い直すことができる。著者も述べられていたが、本は“所有するもの”ではなく“体験・消費するもの”に変わってしまったので、必ずしも買う必要がなくなった、この変化が大きい。

 昔は書店で買うという手段しかなかったものが、現代では、様々な方法で入手、または利用できるようになってしまったので、「買う」という選択肢そのものが自ずと縮小してしまった。「買う」という選択肢が選択されない限り、統計上「本は読んでいない」となってしまうので、「本を読まなくなった」というような摩訶不思議な情報が流布されることになる。

■現代の本屋は「薄利多売」ならぬ「薄利少売」

 著者は、もともと本屋は薄利多売のビジネスモデルだが、現在は薄利多売の「多売」の部分の手間が倍になったので、本屋の粗利を上げるべきだと提唱されている。現在の本屋の粗利(マージン)は22%なので、これを35%まで引き上げるのが好ましいとのこと。これは著者の意見というよりは、本屋さんの意見でもあるらしい。

 実際に、本の値段を2倍以上にして成功した出版社もあるらしい。例えば、筑摩書房のちくま学芸文庫は、高額な設定で有名らしいが、私もたまたま数ヶ月前にちくま学芸文庫の『入門経済思想史 世俗の思想家達』(ロバート・L・ハイルブローナー著)という本を購入した(もちろんリアル書店で購入)。500ページを超える文庫本とはいえ、値段は1500円。この本の場合、結果的に内容が良かったので高いとは思わなかったが、普通の文庫本で1500円は高く感じるだろうと思う。

 定価1000円の本の場合、本屋の粗利が220円、取次が80円、出版社が700円(印税100円、紙代、印刷代、製本代、出版会社の編集者や社員の給料、光熱費etc.)が現在の内訳であるらしいので、粗利を35%にするということは、本の値段を1割以上げなければならなくなる。しかし、1割程度上げるだけで、街の本屋の減少に歯止めをかけることができるのであれば、別に上げてもいいのではないかと思う。正直なところ、1割だけで済むとは思えないが…。

■現代人は「情報を読むようになった」

 「本を読まなくなった」というけれど、実際に多くの人が「文字」に触れる機会は増えている。本という紙でできた媒体や、提供するサービスも手に入れる手段も分散化したために「本を読まなくなった」というだけであり、現代人のインプットする情報量は確実に増えている。マンガを例にしても、漫画を提供する漫画家(アマチュアも含む)の数も増加している。昔のような同人誌だけでなく、現代ではデジタルデータで配本することもできるので、無名の漫画家予備軍(志望者)は昔とは比べ物にならないほど増えていると思う。最も増えているのは商業誌(いわゆるエロ本)系の漫画家かもしれないが…。

 毎年8万冊という膨大な数の書籍(漫画等も含む)が販売されるが、その多くは短期間で店頭から姿を消していく。そういった人目に触れることなく返品されるような多くの書籍も、現代では幸か不幸か、再度、人目に触れて脚光を浴びる可能性が出てきたとも言える。書店で販売されている新刊本よりも、ブックオフで販売されている中古本の方が品数は圧倒的に豊富であり、書店では出会えなかった魅力的な本に出会えることもある。

 結局、失敗すると言われていたアマゾンが大成功した理由は、圧倒的に豊富な本との出会いを読者に提供できたことにあると言える。
 吉野家のキャッチフレーズ「早い・安い・うまい」を書店に準えると、「早い・安い・豊富」になる。この「早い・安い・豊富」を消費者が求める優先順位で並べかえると「豊富・安い・早い」となるだろうか。リアル書店は「早い」のみしか満たせなかったが、ブックオフは「安い」を満たし、アマゾンは「豊富」を満たしたと考えれば分かり易いかもしれない。

 品数豊富な新刊も古本も扱ったマンモス書店の存在は、情報化社会に多くの人々が希求するべきサービスだった。その「豊富・安い・早い」のサービスを既存書店に先んじて提供することができたことがアマゾンが成功した単純な理由なのだろう。

 「情報を制する者は世界を制す」という言葉があるが、本は情報を提供する1媒体に過ぎなかった。現代人は「本を読まなくなった」かもしれないが、それは「情報を読まなくなった」ことを意味しなかった。日々、洪水の如き情報が飛び交っている情報化社会において、情報をインプットしたいという需要は増えることがあっても減ることはない。「本を読まなくなった」という事実は、単に情報を得るツールが増えたことを証明しているに過ぎない。

 最後に、リアル書店が今後も情報を提供する1媒体(ニッチな産業)として生き続けることを願わずにはいられない。できれば、複数の書店が共同して、超大型リアル書店を1地域(市)に1つ作ってくれれば有り難いのだが…。

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