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「教育の自由」を認めれば、いじめ自殺は無くなる。

■再三繰り返される「いじめ自殺」という悲劇

 7月5日、岩手県矢巾町に住む中学2年生の生徒が電車にひかれて死亡するという痛ましい事故が発生した。現状では、いじめを苦にした自殺という線が極めて濃厚だが、毎度のように学校側は「現段階でいじめと断定できない」と話しているという。

 少年が通っていた学校には「生活記録ノート」というものがあり、そのノートには、担任の先生に向けて、いじめの相談が何度も繰り返しなされていたが、体よく無視されていたと伝えられている。当の担任の女教師は生徒の自殺後、病気を理由に休んでいるそうだが、校長いわく「担任から(ノートのことは)聞いていない」とのことらしい。

 3年前に書いた、滋賀県大津市のいじめ自殺の記事も確か被害者は中学2年生だったと記憶しているが、今回の報道を見る限り、当時から、いじめにおける学校側の対応は何も変化していないように感じられる。今回もまた、その場限りの対症療法を講ずるだけで有耶無耶にしようとしているのではないかと勘ぐりたくもなる。

 いじめが有ることを、校長だけでなく生徒の親にも伝えなかった担任教師の責任は重大だと思われるが、なぜ、担任教師は報告も密告もしなかったのだろうか? 校長は「聞いていない」と言うが、もし、いじめが有った場合、早急に報告するような決まりになっていたのだろうか? 体罰は絶対禁止というような現在の教育現場では、いじめが有っても口頭で注意するしかないわけだから、もし、この担任教師が真面目に報告していても、いじめを無くせていたのかどうかは疑わしいとも思える。

 この事件における一部のマスコミ報道では、「スマホ社会がどうだの…」という声も聞かれたが、そのような表面的な筋違い報道ばかりでは、いじめを苦に自殺に追い込まれた生徒が浮かばれない。なぜ、もっと本質的な解決策を話し合おうとしないのか。

■倫理観や道徳観の晩熟化が齎す悲劇

 学校で、いじめという行為が有ることは決して珍しいことではなく、むしろ当たり前のことである。特に中学生時代というのは、思春期であることも禍いしてか、最もいじめが多い年代(ジェネレーション)だと言っても過言ではない。

 現代の中学生は昔の人よりも「早熟」だとか「マセている」とか言われることがあるが、それは肉体的に成長が早いことと、恋愛経験が早いというだけの話であって、倫理観や道徳観まで早熟になったわけではなく、むしろ、そういった精神的な部分は昔の人よりも晩熟化しているとも考えられる。寿命が延びている分、精神年齢が成人を迎える年齢も後退してしまったのかもしれない。

 見かけは大人でも、ある一面では無邪気な子供のような部分があり、ちょうど幼児が昆虫を情け容赦なくバラバラにするような残虐性を、中学生になっても未だ持ち併せているような人もいるのかもしれない。幼児が昆虫を殺しても罪悪感を感じないように、精神的に奥手で幼児のままの一部の中学生は、いじめで人(の心)を傷付けても何とも思わないという人も中には存在しているのではないだろうか。無論、そういった人だけでなく、本当に狡猾で悪知恵の働く性質の悪いいじめっ子もいるだろうけれど。

 そんな社会で、「いじめ0」を目指すのであれば、「いじめを無くそう」というような性善説的な建前教育ではなく、いじめが有ることを前提に「いじめを回避しよう」というような性悪説的な本音教育の方が有効だろうと思う。具体的に言えば、いじめを回避するための一時休学制度や、自宅教育制度の拡充こそが望ましい。

 例えば、クラス替えをして嫌な人(やグループ)に遭遇してしまった場合、半年や1年間、休学申請をして、代わりに自宅で学習するというような制度を設けてもいい。休学だけで済まないなら、学校は退学して、自宅学習に切り替えるという手段が有ってもいい。その場合、学力の獲得は自己責任となるが、自宅教育でも学力さえあれば難なく進学ができるような制度があれば、いじめられることが判っていながら無理して学校に通うというようなことも避けられる。

■教育の不自由が「いじめ自殺」の遠因

 「そんな制度を設けたら、誰も学校に来なくなるではないか」という反論もあるかもしれないが、それは逆ギレというものだろう。そうなったらなったで仕方がない。いじめを見て見ぬふりをするような劣悪な地獄のような環境で勉強するよりも、自宅で勉強した方が安全で捗るということなら、その方が良いに決まっている。
 教師の方も、生徒が学校に来なくなれば困る(=自分達の仕事が無くなる)というような危機感が無いために、本気でいじめを無くそうというモチベーションも生まれない。いじめが有ろうが無かろうが「登校拒否児」というレッテルを貼り、生徒に見えない首輪を付けて無理矢理に学校に引っ張り出せばいいというような戦後の教育体制が、いじめを育む温床となっていることは否定できない。

 もし、学校に行く生徒が激減するような状況になれば、学校側もいじめを無くすために必死になるかもしれない。「いじめを無くすためには、時には体罰という名のスキンシップも必要です」と涙を浮かべて訴える教師も大勢出てくることだろう。そのようなまともな学校に変わってくれれば、生徒は安心して学校に通って学ぶことができる。いじめっ子を正しく叱ってくれる正義を体現した教師がいてこそ、理想の学校と言える。いじめ自殺などというものが繰り返し発生し、そういった悲劇を無くすことができないということ自体が、現在の教育制度に問題が有るということの証左だろう。

 結局のところ、現代の教育現場があまりにも不自由になっていることが、いじめによる自殺事件が起こる最たる原因なのだろうと思う。もっと自由に教育制度というものを考えることができれば、いじめを苦に自殺するというような悲劇的なニュースを観ることも聞くことも無くなるに違いない。

 教育の場に必要なことは、いじめを0にすることではなく、いじめ相談窓口を設けることでもなく、教育現場に自由な制度(教育の自由)を導入するだけで事足りる。そうすれば、いじめを無くすことはできなくとも、いじめから逃げる道は与えられる。自殺を防止するためには、この安心感こそが必要なのであり、その安心感を得た生徒が、いじめを苦に自殺を選択することは、もはや起こり得ないのである。

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コメント

これは教育の自由ではなく、
教育を受けても、受けなくても良いという自由ですね。
これで仮にイジメがなくなっても、もっといろいろなことが失われるのではないでしょうか?

投稿: | 2015年7月10日 (金) 11時23分

もう少しロジカルに考えることはできなかったのでしょうか!

投稿: | 2015年7月10日 (金) 12時38分

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