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2015年8月

世界同時株安で考える「株価」の重要性

■「株価」と「景気」のパラドックス

 かつての小泉政権時代でもよく聞かれた台詞だが、現在の安倍政権時であっても、よく聞かれる台詞に次のようなものがある。

 「株価は騰がっているが、景気が良くなっているように感じられない

 私自身もこの意見には同感だったが、最近、この言葉には大きな誤解があるのではないか?と思うようになった。

 まず、「株価が騰がる」というのはどういうことかというと、投資家達が、上場している数千社(日経平均株価の場合は225社)の企業の株式を買いたいか買いたくないか、言葉を変えれば、この先、その厳選された上場企業の株式が騰がると思うか下がると思うかの評価において、騰がると思う人が過半数を占めることが数値として現れたものだと言える。
 そう考えると、上場企業の株価が如何に上下に騰落したとしても、それは日本全国の一般企業の業績とはほとんど関係がないのは、むしろ当たり前の話ではないだろうか。日本全国には株式会社が100万社以上あることを考えれば、これは自明の理だとも言える。

 喩えて言うならば、全国から有能な競走馬を東京市場というレース場に集めて、どの競走馬が優秀な成績を修めるか(あるいは人気を集めるか)をめぐって賭け事を行っているようなものだとも言えるだろうか。その市場で行われている優劣合戦は、世間一般の小さなレース場における競走馬の成績とはほぼ無関係だ。

 別の喩えで言えば、甲子園で行われる全国から選抜された高校野球チームの勝ち負けがどんな結果であろうと、世間一般で行われている草野球チームや少年野球チームの実力や成果とは何の関係もない。

 極論するなら、その選ばれた少数の競走馬や高校野球チームの成績がどれだけ良かろうと悪かろうと、世間一般の競走馬や野球チームにはほとんど何の影響もないと言うことができると思う。
 ゆえに、東京市場、ニューヨーク市場、上海市場でどんな事件が起きていようとも、株式市場が、現在のその国全体の経済が良いか悪いかを占う判断材料には必ずしも成り得ないということである。

 曲解されると困るので一応、お断りしておくと、私は中国経済がバブルではないと言っているわけではない。中国経済は今回の上海市場が暴落するずっと以前からバブルのままだ。その中国経済のバブルと現在の上海市場のバブルは必ずしもリンクしているわけではないということ。現在の上海市場は騰がり過ぎた株式を誰もが挙って売ろうとしているので、パニックとなって売れなくなっているだけの話である。株式の価格は需給によって決まるので、売りばかりが殺到すれば値が付かずにストップ安(中国の場合は前日比10%下がればストップ安)となり、際限の無い負のループに陥る。その状態をもって、世界同時不況と言うのは無理がある。もし、現在の株価が真の実体経済を現すのであれば、中国の株価などははるか昔に暴落していなければおかしいことになる。

 こんなことを書くと、身も蓋もないかもしれないが、「一国の市場」=「一国の経済」と考えるのは、あまりにもオーバー(過剰)な思考なのではないかと思う。一国の市場の株価が暴落したからといって、それで一国の経済が破綻するなどと考えるのは、あまりにも過剰反応が過ぎるのではないかと思う。数百社の企業成績…と言うか、優劣合戦から、数百社の企業業績が正確に判断できるわけがないではないか。

■「株価」は「実体経済」を現すか?

 昔から「株式相場は半年先を行く」とも言われることがあり、この言葉は既に定説となっているが、よくよく考えてみると(世間一般ではどう受け取られているのか知らないが)、これも意味深な言葉だ。
 私の場合、かつてのバブル時代は株式投資とは全く縁が無かったので、持ち株がスルスルと騰がるというような経験はしたことがない。だから、「株式相場は半年先を行く」という言葉についてはそれほど深く考えたことがなかった。しかし、アベノミクスで持ち株が騰がる(含み損株が元値まで戻るという意味での騰がる)という経験をしてから、この言葉の意味を少し考えるようになった。

 多くの人々は、半年先の景気が良くなると思うから株式を購入するのではなく、現在の株価が騰がっているから半年後の景気が良くなると思うのではないだろうか?
 景気が良くなったという結果から株価が騰がるのではなく、株価が騰がるがゆえに景気が良くなっていくのではないか?ということである。
 となると、景気を良くするためには、まず株価を騰げる効果を持つ政策を発表するだけでよいのではないか? 「これから景気が良くなるかもしれない」という期待を国民に抱かせることができるのであれば、それが無から有を生み出すのではないか? 実際、アベノミクスでは、そうなったのではなかっただろうか?

 もちろん、先に述べた「株価は騰がっているが、景気が良くなっているように感じられない」という台詞の通り、株価は直ぐさま実体経済に影響を及ぼすものではない。しかしながら、株価というものが、未来の景気に影響を与えるだけの力を少なからず有しているのであれば、株価対策というものは極めて重要な政策と成り得る。

 実体経済と直接的には無関係(必ずしも企業業績を反映しないという意味)であるはずの株式市場での株価の下落に各国政府が躍起になるのは、その甚大な影響力を理解しているからではないだろうか? それゆえに株価対策ができない政府は経済音痴で無能だと言われるのではないだろうか?
 現在の株安を、ここぞとばかりにアベノミクスと強引に結び付けようとする人々も、ちらほらと出てきたようだが、はっきり言って、現在の株安はアベノミクスとは何の関係もない。

■「株価」とは未来を占う水晶に現れた「数字」のようなもの

 1990年代のバブル(繰り返すが私は経験していない)では、大蔵省の通達(=総量規制)によって株式市場がハードランディングし、国民の資産が1000兆円から2000兆円吹っ飛んだと言われる。この失策が「失われた20年」を生んだ元凶だとも言われることがあるが、未来の景気に影響を与える現在ただいまの株価を人為的に破壊した罪は重いと言わざるを得ない。(前回の記事では、さすがの中国でも、そこまでのことはしないという意味で皮肉を書いた)

 一見、実体経済とは無関係に見える株価だが、実際のところは、一国の経済の将来を左右するという意味においては物凄く重要な指標となっている。株価とは、ある意味、占い師が持つ未来を映す水晶の中に現れた数字のようなものだと言えるのかもしれない。そして、幸か不幸か、世界には、この占いが当たると信じ込んでいる人々が圧倒的多数を占めており、それが「信用」となり株式市場は成り立っている。

 占いを信じる信じないは別として、「株価は騰がっているが、景気が良くなっているように感じられない」という理由から、「株価なんて我々の生活とは関係がない」と言っている人々は、実は大きな誤解をしているかもしれないのである。

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前代未聞の「人為的バブル維持」に挑む中国

■中国の異次元処罰

 昨年(2014年)の夏頃から1年も経たないうちに2.5倍にまで急騰していた中国(上海総合)株価は6月に5000元辺りで天井を付けた後、あれよあれよという間に3割急落した。長期的なチャートで見れば、未だに高値圏(半値戻しの調整局面)にあるとも言えるのだが、その状態を維持できているのは上海市場が当局(中国証券監督管理委員会)の管理下に置かれているからであり、まともな株式市場であれば、全値戻し(所謂「往って来い」)になっていてもおかしくない。

 8月8日に発表された「持ち株5%の大量保有株主(大株主)の株式売却を6ヶ月間禁止する」という措置にも驚かされたが、8月21日には再度「規則(?)に違反して上場企業株式の保有量を減らした株主を厳格に処分する」と伝えられた。
 ここでいう「規則」というのは、先に決められた大株主の6ヶ月間以内の株式売却禁止措置のことだと思われるが、もしこの措置の適用範囲が海外投資家にまで拡大するということであれば、無茶苦茶もいいところだ。

 株式市場の「規則」に違反しているのは、自国オリジナルの株式売買における処罰ルールを後出しジャンケンで作っている中国当局の方だと言える。
 この処罰ルールを喩えて言うなら、カジノで大儲けした常連さんをカジノ内に閉じ込めるという「規則」を設けたようなものだから、この先、上海市場にはまともな上客(大口投資家)は誰も寄りつかなくなる可能性が高い。

■バブルを破壊した日本とバブルを維持する中国

 この1年間の上海市場は、どう贔屓目に見ても明らかにミニバブルであったので、そのミニバブルが弾けるのは仕方がない。しかし、バブルでもない日本の株式市場にまで悪影響を与えるのは勘弁していただきたいものだ。
 一説では中国の個人投資家は2億人(注)も存在するということなので、それだけの投資家(実質は投機家)が一斉に売りに回れば、短期間でミニバブル崩壊ということも有り得た。しかし世界一般の常識の蚊帳の外にある中国の統制株式市場では、人為的にバブルが維持される。

(注)中国の公称なので、正しい数字という保証はない

 そう考えると、ある意味、日本とは対称的だなと思える。かつて(1990年代)、バブルを人為的に破壊した日本と、バブルを人為的に維持する中国、日本の株式市場はハードランディングしたが、中国の株式市場はハードランディングせずにソフトランディングで済んでいる。中国の場合、バブル相場を人為的に創造することと維持することは有り得ても、人為的に破壊することはない。
 中国当局は、個人投資家のことなど全く考えてはいないだろうけれど、結果的に個人投資家には売り逃げるチャンスを与えているようには見える。大株主の利益を個人投資家に強制的に分配していると考えれば如何にも中国共産党らしい株価政策だ。無論、皮肉だが。

 通常、バブルというものは市場原理によって崩壊するものだが、中国市場は市場原理が通用しない特殊な官製市場なので、バブルの崩壊すら食い止めようとする。
 日本の場合、市場原理に任せればバブルはソフトランディング的に崩壊したはずだが、市場原理を無視して、お役人の規制によって強制的にバブルをハードランディングさせた。

 バブルを破壊した日本と、バブルを維持する中国、不謹慎ながら、株式市場に限って言うなら、どちらが庶民の味方か分からない気もする。

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マスコミはなぜ「保守化」できないのか?

2015080501■保守がいなくなった国

 「日本の常識は世界の非常識」という竹村健一氏の言葉を持ち出すまでもなく、「この国はどこかおかしい…」、そんな漠然とした違和感を感じたことがある人は結構多いのではないかと思う。
 昨今の安保法制問題にしても、奥歯に物が挟まったような建前論議ばかりで、なぜか本音論はほとんど聞かれない。ネットの世界ではたまに保守的な意見も聞かれるのだが、テレビともなると、保守的な意見など全く無いが如しだ。
 言論を統制する独裁者がいるわけでもない日本という国で、多くの人々がまるで、目に見えない独裁者に縛られて(操られて)でもいるかのようですらある。この目には見えないが直観的に感じられる違和感の正体こそが、戦後レジームというものが生み出した「日本の常識」という名の名も無き宗教の幻影である。

 戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が「レッドパージ」(通称:赤狩り)を行ったことは有名な話だが、その前に「保守パージ」(公職追放)が行われたことにより、日本には基本的に保守的な(右寄りの)言論人がいなくなった(正確に言えば、表に出ることができなくなった)。
 右翼と保守がパージ※された後、左翼(主に極左)もパージされ、残ったのは、リベラル(自分勝手な個人主義者)と中途半端な左翼だけとなり、終戦後間もない時点で、国家観を有した論客は誰もいないという歪な言論空間が出来上がることになった。GHQの目的が「日本人の愛国心」のパージだったことを考えると、これはある意味で当然の帰結だった。

 戦後70年が経過し、本来であれば既に形骸化しているはずのこの体制は現代でも未だに生き続けており、比較的まともなことを言う保守論客は陰に追いやられ、右翼と極左は今でもパージされている。極左(言論人)を嫌う左翼(マスコミ)という構図は、つい最近も我々の目に映ったことは記憶に新しい。

※コンピューター用語で「削除・消去」を意味する。

■「思想は丸かった」

 思想というものは、平面的に見れば左右一直線に広がっていくかに見えるが、立体的に見れば丸いものでもある。極右思想と極左思想というものは、左右にどこまでも離れていくわけではなく、円弧を描いて離れていき、最終的には交差する。
 「地球は青かった」という宇宙飛行士ガガーリンの言葉に準えて言うと「思想は丸かった」ということになるだろうか。「思想は丸かった」というのは私の造語だが、思想というものは地球を1周するが如く丸いものだと言っている識者もおられる。

 話を解り易くするために、地球を正面から見た場合、左側を左翼、右側を右翼と考えると、真ん中にあるのが保守になる。しかし、戦後の日本では、このセンターに位置するはずの保守が30°から45°右側に寄っており、中心がリベラルになっている。(本ブログ記事右上の図参照)
 太陽の光は地球の半分(180°)を照らすことになっているが、日本の場合、思想的には右側には光が当たらず、左半分のみ(リベラルから左翼まで)しか光が当たっていない。つまり、90°という限られた思想空間の中で、言論が論じられていることになる。地球の裏側に当たる極右と極左に光が当たらないのは良いとしても、右側に全く光が当たらない状態というのは日本の常識であっても世界的には非常識なのである。

■GHQ教の信者の誕生

 敗戦後の占領政策(W・G・I・P)により日本のマスコミは戦犯と目され、罪滅ぼし(死刑回避の交換条件)として、「日本は悪い国だった」という自虐思想を伝播することに奔走した。
 当時のマスコミ人のことを考えると、これは同情の余地もある苦渋の選択だったに違いない。誰しも死刑にはなりたくないので、当初は、ほとぼりが冷めるまでは仕方がないというような感覚でGHQに指示されるがままに「日本は悪」という洗脳報道を行わざるを得なかったのかもしれない。
 しかしながら、この洗脳報道は、GHQの狙い通り…いや、予想を遥かに超えて多くの人々の心の奥深くに刷り込まれていった。特に、元々、反国家を信条とする左翼には、これらの言葉は言霊となり、彼らがGHQ教の信者に成り果てるのにさほどの時間を要しなかった。付け加えて言うならば、GHQの占領政策に便乗する形で自らの反国家思想を流布した人々もいたはずだ。

 「GHQ教の信者なんていない」という人もいるかもしれない。しかし、世の中を見渡すと、そこかしこにGHQ教の信者は存在しているかに見える。例えば、反米でありながら、憲法は礼賛するという論理的に説明不可能な行動様式を持つ人々も、GHQ教の信者であることを無言のうちに語っている。彼らのもう1つの特徴は、自らがGHQ教の信者に成り果てているなどとは夢想だにしていない(あるいはGHQの存在すら知らない)ところにある。まるで映画『マトリックス』の世界の住人のようだが、こういった例からも、この洗脳の根深さが観てとれる。

■マスコミを変える「鍵」は国民が持っている

 左翼ばかりになったかに見える現在のマスコミが、かつて(戦中ではなく戦前)のような保守的な報道機関に原点回帰できるか?
 結論を先に言えば、その成否は国民次第だと思う。

 マスコミが、敗戦を契機としてGHQの走狗と化し、真実を報道するというマスコミ本来の使命を失ったことは、別の意味での自殺行為でもあったのだろうけれど、当時のことを考えると、処世術としては仕方のない一面もあったのではないかと思う。しかしながら、その洗脳報道があまりにも上手く行き過ぎたために、GHQが解散した後も取り消しが極めて困難な状況となってしまったことは想像に難くない。

 想像してみよう。現代になって、彼らマスコミが、「70年前は嘘をつくしか仕方がなかったのです」と言った場合、国民はどういう言動に出るだろうか?
 おそらく、「マスコミは嘘をついていた。我々はずっと騙されていた。マスコミを潰せ! 脱マスコミだ!!」という、どこかで聞いたようなフレーズの金切り声が日本中で鳴り響くことになるはずだが、事勿れ主義を貫いているマスコミにとっては、自らの謝罪からオウンゴールを招くことは有ってはならないことだろう。
 しかし、多くの国民が当時の事情を理解し、彼らの罪を許すことができたのならば、マスコミはこぞって保守的な報道機関に原点回帰(思想的にポールシフト)するかもしれない。

 あくまでも希望的観測ではあるが、マスコミの中にも真実を報道したいという正義感を持った人は大勢いるはずだ。しかし、そういった人々が表立って発言できなくなっている現状を国民の側が正しく理解しなければ、政治家と同様に、彼らマスコミもポピュリズムに陥るしかなくなる。左翼ばかりの言論空間にあっては、多数決の原理で左寄りの報道をせざるを得なくなる。まともなことを言えば社会的に干されるという空気を作り出しているのは、マスコミだけでなく我々国民の側にも責任があるのではないだろうか? この自縄自縛とも呼ぶべき窮屈な日本の言論空間を、本来の健全な姿に変える力を持っているのは、マスコミではなく、実は我々国民の方だとは言えないだろうか?

 いつになるか判らないマスコミからの謝罪を待つのではなく、国民の過半数が真実を知るようになれば、ポピュリズムの原理が逆に機能し、この現状を変える力になるかもしれない。マスコミの保守化、ひいては、この国がまともな国に戻れるかどうかを決する鍵は、我々国民の手の中に握られている。

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