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2015年9月

アフィリエイトにおける嫉妬問題について

■「アフィリエイト収入」が嫉妬の対象になる国

 世のブロガーの中には、個人の才覚なのか、努力の賜物なのか、はたまた強運の持ち主なのか、アフィリエイトで生計を立てているという人がおられる。ブロガーの収入源というのは、広告やアフィリエイトがメイン…と言うより、基本的にそれしかないわけだから、それで生活ができるだけのお金儲けができる人というのは、ある意味、商売上手な人なのだろうなと思う。

 少し前に、言いたくても言えない作家達の本音を代弁する形で、「図書館の新刊入荷時期問題」について記事を書いてみたが、今回は、言いたくても言えないブロガー達の本音を代弁する形で、「アフィリエイトの嫉妬問題」について述べてみたいと思う。今回は私自身もブロガーなので、私情が絡んだ意見だろうと誤解されそうなので、百田尚樹氏に倣って、私情は全く関係ないことを予めお断りしておきたいと思う。
 日本では、お金儲けやお金のことについて書くと卑しいと思われる風潮があるので、こういった記事を書くのは少々憚れるのだが、誤解を恐れずに書いてみたいと思う。
【関連記事】
 図書館に新刊本を置くことの意味とは?
 続・図書館に新刊本を置くことの意味とは?

 さて、早速本題に入ろう。
 先日たまたま、ネット上で以下のような意見を見かけた。

 「ブログにある画像をクリックするとブロガーにお金が入るようになっているのでクリックしないように注意しましょう

 なんともさもしい意見であり、他人のブログのコメントながらゲンナリしてしまったというのが本音だが、こういう意見に対して、真面目に反論するブロガーはあまりいないようなので、言いたくても言えないブロガーの本音を代弁してみたいと思う。

■「アフィリエイトは儲かる」という誤解

 ブログを書いていない人(アフィリエイト未経験の人)は、ブロガーがさも儲けているかのように思われているのかもしれないが、一般的なブロガー(私も含む)は毎月1000円も儲けていない。何年か前に、「毎月1000円以上儲けているブロガーは全体の1割もいない」というような統計結果を見たことがあるが、パソコンからスマホに移行している現在では、おそらくこの数字はもっと低くなっているのではないかと思われる。1ヶ月間に何回ブログ記事をアップするかでも違ってくると思うが、ブログ記事を書くという労力に対して得られる収入は決して高いものではない。数時間もかけてブログ記事を書いても、ぜいぜい数百円程度が相場であり、非アフィリエイト記事であれば、全くの0円ということもある。毎日数十万PVもあるようなブログであれば、それなりに儲かるのかもしれないが、芸能人でもない限り、毎日数十万PVというのは至難の業だろうと思う。

 よく、最低賃金は800数十円という話題が取り沙汰されることがあるが、ブログを書くことが労働であると仮定するなら、最低賃金どころか、時給100円以下ということも十分に有り得る…と言うか、実際そうなっている。
 だから、大抵のブロガーというものは、お金儲けが目的でブログを書いているわけではないと思う。私の場合も、文章を書くのが好きだから(=趣味)、社会を少しでも良くしたいから(=善意)、そんな純粋な動機でブログを書いている。これが労働であるなら、これほど割に合わない仕事もないと思うし、実際、ここまで続けてはこれなかったと思う。

 「じゃなぜ、あなたはアフィリエイトをやっているのか?」と疑問に思った人がいるかもしれないが、ブログ記事を書いたことの影響度が知りたいという意味合いが最も強い。
 例えば、たまに書評記事を書くことがあるが、その書評によってどれだけの本が売れたのか知りたいという気持ちがある。以前、『経済大国なのになぜ貧しいのか?』という本の感想を書いた時は、50数冊あったアマゾンの在庫が即日売り切れになったことがあった。こういった場合、自分の書いた記事が消費を押し上げたという意味では大きな喜びになる。お金が入ることが嬉しくないと言えば嘘になるが、微々たる収入よりも社会に役立ったという満足感の方が大きい。

 本を買って、その本を読み、読んだ感想を書くことによって、投資した書籍代が回収できるのであれば、なお理想的だ。
 「本を買う→本を読む→感想を書く→収入が入る→そのお金で次の本を買う」というような誰も損をしない好循環サイクルがずっと続くようなら、ブロガー冥利に尽きるというものだろうけれど、なかなかそうはいかない。これまで、投資した書籍代をアフィリエイトで回収できたのは2度しかない。

■「アフィリエイトシステム」に見る理想の社会

 アマゾンのアフィリエイトの場合、商品画像をクリックしたからといって報酬が発生するわけではないので、「クリックしないように注意しましょう」などというのは全くの誤解に基づいた意見だと言える。それに、報酬が発生したとしても、その報酬はクリックした本人が支払うわけではない。報酬はアマゾン側が支払うわけで、クリックした人や商品を購入した人が追加費用を支払うわけでもないのに、一体何を注意するというのだろうか?
 もしかして、「他人が儲けることは悪なので、注意しましょう」ということなのだろうか?

 私の場合、他人の書いた良いブログ記事を読ませてもらった場合は、お礼に広告をクリックするようにしている。
 ブログという媒体は、基本的にお金が動かないシステムなので、1ブロガーとして率先的にお金が動くように努めている(1クリックで動く金額は微々たるものだが)。個人的には、それがギブ&テイクというものだと思っている。

 アフィリエイトシステムというものを嫉妬の対象のように捉えている人もいるようだが、個人的にはアフィリエイトシステムというものは、実に優れた仕組みだと思う。例えば、1冊1000円の本であれば、通常の取引では、消費者が1000円を支払い、生産者が1000円を受け取るというシステムだが、アフィリエイトの場合、生産者が数パーセントの報酬を、本を紹介した人にお礼として分配するシステムだ。
 「何を今更」と言われるかもしれないが、本記事は主にアフィリエイトに理解のない人を対象に書いているので、ご容赦願いたい。

 消費者が紹介料を支払うのではなく、生産者が紹介料を支払うシステムというところは非常に重要だ。それは、消費者は無料で商品の紹介記事が読める(=情報を無料で手に入れることができる)ということであり、紹介料は消費者でなく、生産者が支払っている。これは当たり前のようで実は当たり前ではない画期的なシステムだ。何が画期的なのかと言うと、「消費意欲を減退させることなく消費を促すことができる好循環システム」だということ。
 アフィリエイトのようなシステムは、お金が動かなくなった21世紀にこそ必要な経済システムだと思われるのだが、そのシステムを嫉妬の対象にしか考えられない人がいることが残念だ。

 欧米では、他人の努力というものを正当に評価する向きが強く、かつ同一言語(英語)のユーザーが多いせいもあるのか、アフィリエイトで成功するブロガーも多いそうだが、日本のように他人の努力や成功は妬ましいとする感情が渦まいている国では、アフィリエイトで成功するブロガーもなかなか生まれないのかもしれない。好循環を嫉妬し、悪循環を愛する、なんともさもしい…いや、寂しい社会だ。「好循環を愛し、悪循環を憎む」という当たり前の社会になってくれないものだろうか。
 他人の努力を妬むという嫉妬社会ではなくて、個人の努力が素直に報われる社会の到来こそが多くのブロガーが理想とする社会なのだろうと思う。

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「安保法案成立」と「利上げ見送り」が齎す光明

■「防衛できない国」を回避した日本

 大きく騒がれていた「安保法案」がようやく成立した。
 こんな当たり前の法案の可決・成立までに、よくもまあこれだけ無駄な時間を費やせたものだと感心してしまう。(無論、野党に対しての言葉)

 正しい選択だということが半分解っていながらも、なんでもかんでも「反対」「反対」と言わなければならなくなっている(一部の)野党政治家達にも同情してしまうが、本心と言葉が裏腹なためか、彼らの表情には柔和さがなく、どこか険しくも感じられる。

 野党政治家達がこれだけ無駄なことに時間がさけるということ自体、この国が、いかに平和な国だったのかを如実に物語っている。
 国会前に数万人が集まったとされる「安保法案反対デモ」というものも、「防衛を拒絶している」という意味では、「自虐デモ」にしか見えなかった。
 かつての安保闘争同様に、今回のデモ騒ぎも数十年後には、「平和ぼけデモだった」と認識される日が来るのだろうと思う。

 ほとんど可能性は0だったとはいえ、万が一、「安全保障関連法案」が否決・不成立となっていれば、日本は文字通り「安全」を放棄したことを意味し、他国から攻められても「防衛できない国」に成り下がっていたことだろう。

 今回の安保法案成立によって「日本は独裁国家だ」と叫んでいる人もいたが、本当の独裁国家であれば、そんな言葉が公共の電波にのった時点で逮捕され、場合によっては国家反逆罪で死刑になる。それが真の独裁国家というものだ。
 日本のような政治家の悪口を言いたい放題の国が、独裁国家であるわけがない。少なくとも、日本の政治家には独裁者を演じるような権限はない。日本の第一権力は官僚やマスコミの方であり、政治家なんて悪口を言われ放題で可哀想なものだ。マスコミの言葉狩りを見れば、どちらの権力が上かは分かりそうなものだろう。

■中国絡みの2つのリスクの後退

 時を同じくして、アメリカでは大きく騒がれていた「利上げ」がイエレン氏の鶴の一声で見送られた。
 こちらもほとんど可能性は0だったとはいえ、もし「利上げ」が決定されていれば、市場には大きな動揺が生まれていたことだろう。

 アメリカ人は日本人と違い、銀行にばかり貯金しているわけではないので、低金利でもそれほど困らないという裏事情がある。低金利で企業活動が活発になることで、企業に直接投資している国民も利益を享受できるというWin-Winの関係にある。間接投資(銀行貯金)ばかりしている日本では低金利は国民にプラスに働かないが、アメリカの場合は低金利であってもそれほど困らない(文句も出ない)という事情がある。
 ゆえに、アメリカにとっては中国で発生した上海市場の暴落劇は「渡りに船」に映ったに違いない。「これで(当分は)金利を上げずに済む…」と。

 米国の利上げ見送りの原因が中国の株式市場なら、安保法案の成立も元はと言えば原因は中国の軍拡化にあるので、現代の世界経済リスクというものは全て中国絡みだとも言える。

 マスコミ発表では、日本の株式市場は米国の「利上げ」見送りで下がったことになっているが、「利上げ」決定でも下がっていただろうから、どちらに転んでも一時的には下がる運命にあったと言える。ちょうど連休(シルバーウィーク)前だったということもあり、リスク回避で売られたのかもしれないが。
 しかし、世界経済にとって、米国の「利上げ」見送りは「利上げ」決定よりも好材料のはずであり、今回の「利上げ」見送りにより、新興国通貨の下落懸念は、ひとまず遠退いた。

 日本の場合は、株式市場自体も自虐的な傾向にある(マスコミも株価が下がれば喜ぶ傾向にある)ので、悪いニュースが出る度に「空売り天国」の様相を呈する。今回の暴落劇では、通常30%を超えればボトムアウト(底入れ)とされる空売り比率が史上初の40%を超えたことからも、その自虐ぶりが窺える。

 「利上げ」見送りにより市場リスクが遠退き、安保法案成立によって、外交リスクも少し遠退いたとも言えるので、現在の異常な空売り状態は是正に向かうことが予想される。自虐的な外交問題に光明が差したのと同様に、自虐的な日本の株式市場にも光明が差すことを願いたい。

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続・図書館に新刊本を置くことの意味とは?

■本作りは「経済活動」であってボランティアではない

 前回の記事で、書評まじりに「図書館に新刊は置かない方がよい」ということを書いてみると、賛否両論があったとはいえ、否定派の方も結構見受けられたので、再度、この問題に触れておこうと思う。
 個人的には「図書館に新刊は置かない方がよい」というのは、ごく当たり前のことだと思われるので、「認められない」と言う人がいることの方が驚きだったが、なぜ、このような見解の相違が生まれるのかを考えてみたい。

 まず、以下のような意見があった。

>「貧乏人は新刊本を読んではいけないのか?

 その「貧乏人」という範疇に、一体どこからどこまでの人が入るのか定かではないが、「お金を支払って読む人」と「お金を支払わずに読む人」がいた場合、販売者サイドから見れば、どちらが有り難いお客だと言えるだろうか? 普通に考えれば、誰が考えてもきちんと対価を支払ってくれる「前者」の方だろう。
 「前者」が存在することによって販売者側は本を作るという仕事ができ、「前者」がいてこそ、「後者」の存在も許される。もし「後者」だけで「前者」がいなければ、作家は無報酬となり、ただのボランティアと化してしまうので、「後者」が新刊を読む機会は本当に失われてしまうかもしれない。

 本を発刊するためには、実に様々なコストがかかっている。作家だけでなく、出版会社の企画編集者、コピーライターやカメラマン、印刷会社のデザイナー、DTPオペレーター、印刷機の職人さん、製版会社や製本会社のオペレーターなど様々な業者が各工程を経て、1つの本が出来上がっている。
 その本を市場で販売することは、その他多くの商売と同様、かかったコスト以上の利潤を得るための経済活動であり投資活動でもあることを意味している。製作サイドがリスクを背負って、それぞれの業者がコストを支払い、利潤(給料)を得るために知恵を絞り、汗水たらし、時には涙や血も流し、1つの商品を作り出している。
 その本が市場に出回ったら、「すぐに無料で読みたい」、「対価など支払う必要がない」と言う人がいることに不自然さを感じることが、なぜ可笑しいことなのだろうか?

 そのこと(無料で新刊本を読むこと)に不自然さを感じないという人は、「本を作っている人間に給料など支払う必要はない、そういった連中はブラック企業で奴隷のように働けばいいのだ。」とでも言うのだろうか?

■図書館は「税金」で成り立っている

 また、BLOGOS内には、それぞれ次のような意見もあった。BLOGOSのコメント欄に直接書いてもいいのだが、全部の意見に対して書くわけにもいかないし、収拾がつかなくなると困るので、ブログ記事としてまとめて応えておこうと思う。

>「貧しい人が知識を得る権利を守る事は大切だ

 それはその通りかもしれないが、なぜそこまで新刊本に拘らなければいけないのかが解らない。図書館には新刊を除いても知識を得るに困らないだけの膨大な書物がある。一生かかっても読めないほどの知識の山が目の前に有るのに、出て間もない新刊に拘る必要がどこにあるのかが解らない。
 個人的には、自分の人生に良い影響を与えるような本というのは、新刊よりも評価の定まった古典の方が良いのではないかと思う。

>「ただで読める環境が子供には必要だ

 これも同じ。別に新刊本に拘る必要性が感じられない。百田氏も私も「図書館が必要ない」と言っているわけではなくて、単純に「図書館には新刊本を一定期間置かない方がよい」と言っているだけなので、勝手に拡大解釈されても困ってしまう。

>「図書館問題を論ずる時は「経済」ではなく「福祉・貧困」の視点で考えるべきだ

 先に述べた通り、日本では本作りというもの自体が経済活動となっているので、経済を抜きには語れないと思う。「福祉・貧困」問題として考えるのは「本を買うお金が本当に無い人」を対象とすべきであり、単に「本を買うのが勿体ない」というだけの人まで対象にする必要はないと思う。
「お金が無い」と「お金が勿体ない」は全く違う。

>「税金の話はお門違いだ

 その通り。私は「税金」のことを持ち出すお門違いな人がいることを事前に戒めるために税金の話を絡めた(皮肉った)だけで、「税金を支払っていない人は図書館を利用する権利が無い」などとは書いていない。
 問題は、利用者の方ではなくて、「税金」で成り立っている図書館が「税金」を納めている民間企業の経済活動を邪魔するのは可笑しいのではないか?ということ。

 本来、税収が増えれば、いくらでも図書館に並べられる本も増え、無料で読める本も増えるという好循環が生まれるが、税金を納めるはずの民間企業や民間人の経済活動を邪魔すれば税収が減少し、図書館も減少、図書館の本も減少という悪循環に陥ることになる。
 そういう本末転倒な事態に陥るのを避けるために、図書館に新刊本を置くのは控えた方がよいのでないか?ということ。(実際は、税収減でも図書館は増えているが)

■「無料図書館」という実現不可能なユートピア

 誰も彼もが本を無料で読める社会、それは確かに理想的な社会かもしれないが、そんな社会を構築するとなると、国は国民に対し、働かなくても(生産活動を行わなくても)生活資金が自動的に入ってくるというような制度を設けなければいけなくなる。そのような社会であるなら、誰も彼もが本を無料で読める社会の実現は可能かもしれないが、それはあくまでも理想論であり、この世では実現不可能な理想郷でしかない。

 「図書館に新刊を置かなければ日本文化の衰退をもたらす」と書かれている人もおられたが、その図書館に置く本そのものが無くなるという意味での文化の衰退も有り得る。
 「図書館に新刊を置けば日本文化の衰退をもたらす」 どちらも極論ではあるが、まだこちらの方が現実味があると思う。
 苦労して書いた本が全て無料で配布されるような社会であれば、作家に成ろうと思う人もいなくなるかもしれない。本を書く作家がいなければ本自体が無くなる。置く本が無ければ、図書館自体も衰退することになる。これこそが、本当の意味での日本文化の衰退であり、図書館に新刊本を置くことが意味するものである。

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図書館に新刊本を置くことの意味とは?

■図書館に新刊本を置くことで不利益を被る人々

 舌鋒鋭い論者として有名な百田尚樹氏の話題の新刊『大放言』を読んでみた。新書の帯に「炎上覚悟。」と謳うだけあって、言いたい放題の痛快な本だった。全て納得できたというわけではないものの、図書館についての考察は私が以前に書いた記事(→図書館は「フリービジネス」と成り得るか?)と同じようなことが書かれていた。

 百田氏いわく「図書館は無料の貸本業者と化している」「図書館には新刊本は置くな」ということだが、私もこれには同感だ。百田氏の場合、自身が物書きでもあるので本が売れなくなると困るという私情が入っていると誤解されがちだが、そういった疑念はお門違い(的外れ)であり、私情は一切関係が無いとお断りされている。

 では、物書きでもない(本を出してお金儲けはしていないという意味)1消費者の私がなぜ図書館に新刊を置くことに反対なのかというと、それが経済を衰退させる一因になっていると思われるからだ。百田氏もそのことには少し触れておられたが、どう考えてもこれは民業圧迫以外のなにものでもない。本作りに携わっている人々(作家、出版社、印刷会社、製本会社、書店)の仕事(と利益)を間接的に奪っていることに他ならず、経済の衰退にも一役買っているものと思われる。

 経済というものは生き物であり、ある一部の業界でボトルネックが生まれ、お金の巡りが悪くなると、その影響は全ての業種に波及していくことになる。人間の身体に喩えると、身体の一部、例えば右足の血管に血栓ができるだけで身体全体に支障をきたすことになるのと同じだ。
 つまり、「図書館に新刊本を置くことで不利益を被る人々」とは、「国民全員」を意味することになる。

■新刊本予約が数千人待ちという異常事態

 本書にも書かれていたが、人気の新刊本ともなると図書館での予約待ち人数が数千人にも登るらしい。新刊本の初版が3000部とか6000部と言われている時代にあって、それ以上の数の予約待ちが入る本が存在しているという事実、これが如何に異常な状況であるかを考える必要があると思う。
【関連記事】「本を読まなくなった」というけれど

 例えば、人気漫画コミック(例:ONE PIECE)が発売されて直ぐに図書館で無料で貸し出された場合を考えてみよう。あるいは、人気アーティスト(例:Mr.Children)の新譜CDが発売されて直ぐに図書館で無料で貸し出されていればどうなるか? 人気のハリウッド映画(例:ジュラシック・ワールド)がDVD発売と同時に図書館で無料で貸し出された場合は? etc.
 そう考えていくと、漫画家もアーティストも俳優も、そして彼らをプロデュースしている関係者全てが割りを食う…と言うより、仕事が成り立たなくなる可能性すらある。
 一応、著作権料を支払っているレンタル業者でさえ、新譜CDのレンタル開始は少し間をおいて貸し出しているのだから、著作権料を支払っていない図書館が新刊本をレンタルする場合は、ある程度の日数が経過してから入荷するべきだ。
 百田氏は最低1年間はブランクを開けるべきと書かれていたが、大体その程度が妥当なところだと思う。本当に読みたい人は1年間も待とうとは思わないだろうから、新刊は需要が去った頃合いに図書館に置くようにすることが望ましい。もっとも、著作権に厳しい国では、それすら許さないというところもある。
 そもそも、何かを調べる目的で本の一部を読むだけというなら図書館で本を借りるのは合理的な発想だと思うが、丸ごと1冊読む本を図書館で借りようという発想自体が可笑しいのではないか?と疑ってみる必要があると思える。

 「税金を支払っているのだから、図書館を利用する権利がある」と言う人がいるかもしれないが、世の中には納税していても図書館を利用していない人は大勢いる。そういった人々には、税金の還付が有るわけでもない。私も税金は真面目に支払っているが、図書館は一切利用せず、読みたい本は全て自腹で購入している。

 「不景気でお金が勿体ないから図書館を利用する」という人もいるかもしれない。しかしながら、経済的な因果論で考えるならば、不景気だからこそ図書館で新刊を借りずに、きちんとお金を支払って購入するというのが正解だ。そうでなければ、いつまでも不景気のままということになってしまう。
 「不景気でお金が勿体ないから図書館を利用する」というような人々が増えることが、景気が悪くなる原因になっているという単純な事実にも目を向けなければならない。

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「長財布を持てば、お金持ちになる」の“真”と“偽”

■「英雄色を好む」と「長財布を持てば、お金持ちになる」

 最近はあまり聞かれなくなったものの、「長財布を持てば、お金持ちになる」という有名な言葉がある。お金持ちを研究した多くの人が、「私が出会ったお金持ちは必ずと言っていいほど長財布を使用していた」と言っているが、はたして「長財布を持てば、お金持ちになる」というのは本当のことなのだろうか?

 おそらく大抵の人は「嘘だ」と即答するのではないかと思われるが、この言葉の虚実を、少し冷静になって再考してみよう。

 例えば、「英雄色を好む」という諺があるが、この言葉の意味するところは次の2つになる。

 1、英雄(有名)になったから色を好む(女好き)ようになった。

 2、色を好むようなエネルギッシュな人だからこそ英雄になれた。

 さて、この場合、どちらが正解だろうか?

 「英雄色を好む」を字義通りに解釈すれば「」を表現したものなのだろう。しかし、よくよく考えると、英雄(有名)になったからといって誰もが好色になるわけではない。英雄になれば女性にモテるかもしれないが、必ずしも好色になるかと言えば、少し疑わしい。
 「英雄色を寄せる」(英雄になれば女性にモテる)なら正解かもしれないが、「英雄色を好む」(英雄になれば女好きになる)では無理がある。英雄にならなくても色を好む人は大勢いる。

 では、「」はどうだろうか? 「エネルギッシュな人だから英雄になれた」 もう少し具体的な言い方をすれば、「精力(性欲)が強い人だから英雄になれた」 これなら、なんとなく理解できる。「人一倍、欲が強い人であったからこそ英雄になれた」 これなら、誰も否定できないと思う。
 要するに、「英雄色を好む」という言葉は、「英雄」と「色」を置き換えることで、納得できる言葉に変化するわけだ。

 「長財布を持てば、お金持ちになる」というのもこれと一緒で、前後の言葉を入れ換えて「お金持ちであれば長財布を持つ」とすれば違和感なく聞こえる。もっとも現代のようなカード社会を通り越したキャッシュレス社会では、お札を入れる財布自体を持たない人も少なからず存在しているので、違う意味での違和感を感じる人がいるかもしれないが…。

 …と、ここで終わると面白くもなんともない。上記で述べたことはあくまでも常識的な一般論なので、どこか物足りなさを感じる。「偽」の部分の考察だけではアンフェアなので、以下で「真」の部分にも光を当ててみよう。

■「長財布を持てば、お金持ちになる」の本当の意味

 「お金持ちだから長財布を使うのだ」 これは結果論としてはその通りだろう。では、この言葉が本当だとするなら、彼らはお金持ちになったから長財布を使うようになったのだろうか? お金持ちになる以前は長財布を使っていなかったのだろうか?
 答えは、案外、どちらも「ノー」かもしれない。

 世の中には、「長財布を持てば、お金持ちになる」という言葉を聞いて長財布を買う人がいる一方で、そんな言葉を聞くまでもなく、自らの意思で長財布を使用している人がいる。この両者の違いとは何だろうか? それは一言で言うなら、メンタリティー(心の傾向性)の違いだと思う。この部分を考えずに「長財布を持てば、お金持ちになるというのはデタラメだ」と言うだけでは、あまりにも短絡的な意見だと言わざるを得ない。
 個々の人間のメンタリティーの違いにおける因果論の考察、少なくともこの部分にまで言及しないことには、この言葉の本質は理解できないのではないかと思う。

 私が思うに、お金持ちになる人の多くは、誰に勧められるのでもなく、誰に影響されるのでもなく、自ら長財布を選ぶというメンタリティーを有した人なのだろうと思う。(注意:全員が全員そうだというわけではない)

 「長財布を持てば、お金持ちになりますよ」と言われて、ホイホイと長財布を買うようでは既にメンタリティー的にお金持ちでは有り得ないし、そのようなアイテムを手に入れさえすれば運勢が変わるというような占いレベルの認識では、長財布を持ってもお金持ちになるはずがないので、トンデモ論だということになってしまう。その挙げ句、「長財布を持てば、お金持ちになる」という言葉は「お金持ちだから長財布を使う」という無難な結果論に翻訳されてしまうことになる。

 「長財布を持てば、お金持ちになる」 これは“偽”だ。
 しかしながら、「お金持ちだから長財布を使う」 これもただの結果論であり、因果論を無視しているという意味では“真”ではない。

 現代では必ずしも当て嵌まらないが、本当のところは、次のようなものではないかと思う。

 「現在、お金持ちであるないに拘らず、将来的にお金持ちになる人の多くは、自らの意思のみで自然と長財布を使うようになる

 「長財布」は、お金持ちになる手段でもなければ、お金持ちが目指す目的でもない。お金持ちになる原因は「長財布」という物体にあるのではなく、「人間の心」の傾向性にある。これなら、少しは納得できるという人もいるのではないだろうか?

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