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2015年10月

労災認定ニュースで考える「バリウム検査」

■「年間20ミリシーベルト」という閾(しきい)値

 前回、健康診断のバリウム検査の被曝量(レントゲンとの比較)についての記事を書いてみたが、具体的な被曝量については言及しなかった。しかし、先週、ちょうど参考になるニュース(原発作業員の労災認定ニュース)が報じられたので、備忘録も兼ねて少しまとめておきたいと思う。

 まず、先週、労災認定ニュースで伝えられた福島原発作業員の被曝量だが、報道されているところによれば、年間19.8ミリシーベルトということになっている。
 現在、日本で普通の生活を行うことで受ける自然被曝量(内部被曝量+外部被曝量)は1.5〜3ミリシーベルト(日本人の平均は2ミリシーベルト程度)と言われているので、単純計算で言うと一般人の10倍程度の被曝量だったということになる。「原発作業の被曝量19.8mSv」と「自然被曝量2mSv」を足した場合でも22ミリシーベルトなので同じことが言える。

 ICRP(国際放射線防護委員会)で定められている一般人の年間被曝許容線量は1ミリシーベルトであり、原発作業員の年間被曝許容線量は20ミリシーベルト(5年間の平均が20ミリシーベルトという意味)になっている。
 自然被曝だけで2ミリシーベルトもあるのに、1ミリシーベルトが限界値に設定されているところは疑問ではあるが、一応は「年間20ミリシーベルト」が安全を保障する閾値ということなのだろう。

■「職業被曝」と「公衆被曝(自然被曝)」と「医療被曝(人工被曝)」

 上記で述べた被曝量は、原発作業員の「職業被曝量」と一般人の「自然被曝量」についての話だが、ここには医療における被曝量は入っていない。自然被曝というのは、食物や大気から受ける放射線のことであり、医療における被曝は自然被曝ではなく「人工被曝」というものになる。

 毎年、健診で受ける胸部レントゲン撮影は0.07〜0.1ミリシーベルトであるが、胃がん検診(バリウム検査)は最小で5ミリシーベルト、最大で35ミリシーベルトにもなる。検査機や検査時間によって少し変わってくるが、中間をとれば20ミリシーベルトと言ったところだろうか。

 20ミリシーベルト÷0.07ミリシーベルト=約286という計算になるので、レントゲン撮影約300枚分ということになるわけだ。

 ここで注意しなければならないのは、この数字(20mSv)は年間の数値ではなく、ごく短時間(数分間)の数値であるということである。
 原発作業員の1年間で20ミリシーベルトというのは、簡単に言えば、毎日胸部レントゲン撮影を行っている程度の被曝量である。もっと言えば、労働時間内(8時間?)にレントゲン1枚分の被曝をするということだから、瞬間的な被曝量はバリウム検査よりもかなり低い。
 医学的には長時間かけてゆっくりと受ける放射線よりも、短時間で受ける放射線の方が危険だとされているので、バリウム検査の20ミリシーベルトは、原発作業員の年間20ミリシーベルトよりもはるかに危険な値ということになる。
 それが本当に人体に悪影響を及ぼす値であるかどうかはともかくとしても、比較数値としては正しいということだけは認識しておく必要がある。バリウム検査を5年間続けて受ければ、原発作業員の5年間のリミットである100ミリシーベルトの被曝量に達するということだけは知っておく必要がある。

■恐れるべきは「放射線無知(医療無知)」

 医療の世界では、がんを治療する放射線治療(単位はグレイ)というものもあるため、年間被曝許容線量というものが曖昧になっているのか、20ミリシーベルト程度では全く騒ぎにならない。実際、「100ミリシーベルト以下なら安全」という説もある。
 しかし、もし20ミリシーベルトで発ガンする可能性が有るということであれば、毎年1000万人が受診しているバリウム検査は、労災(労働災害)ならぬ医災(医療災害)※に認定される人が出てもおかしくないということになってしまう。
 今回の労災認定は、労災基準である年間5ミリシーベルトという条件を満たしていたことで認められたケース(放射線被曝が認められたというよりも、労働における災害として認められたというもの)であるらしいので、そのような基準がない医療においては、災害として認定されることは有り得ない話だが。

 ※医災(医療災害)保障というものは有りません。(念のため)

 仮に毎年バリウム検査を受診している原発作業員がいたとすれば、その人物は年間40ミリシーベルト以上は被曝している計算になる。それで発ガンした場合、発ガン理由として真っ先に疑われるのは「原発作業」ということになってしまうのだろうけれど、可能性としては「バリウム検査」が原因だったということも考えられる。無論、どちらも因果証明は不可能であり、あくまでも可能性の話だが。

 本当に恐いのは放射線そのものではなく、放射線無知かもしれない。ほんの僅かな自然被曝にも満たない放射線量に対して闇雲に危険を煽る人々も問題だが、科学的に判明している医療の被曝数値(リスク)に無頓着で有り過ぎるのも危険だと言える。

【関連記事】健康診断の「バリウム検査」は必要か?

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健康診断の「バリウム検査」は必要か?

■リスクのある「バリウム検査」

 日本の労働者は毎年1回(主に春や秋)健康診断を受けなければならなくなっている。これは労働者の義務と言うよりも、事業主側の義務であるらしいが、法定検査ということで以下の診断項目の受診を行うことが義務づけられている。

 01.既往歴・喫煙歴・服薬歴・業務歴の調査
 02.自覚症状および他覚症状の有無の検査
 03.身長、体重、腹囲、視力、および聴力の検査
 04.胸部X線検査、喀痰検査
 05.血圧の測定
 06.尿検査
 07.貧血検査
 08.肝機能検査
 09.血中脂質検査
 10.血糖検査
 11.心電図検査

 基本的に上記11項目の受診さえすれば義務を果たしていることになるのだが、多くの企業では上記の項目に加えて、がん検診も行われている。特に胃がん検診というものを行っているケースが多い。
 この「胃がん検診」というものは別名「バリウム検査」と呼ばれ、アンケートを実施すれば、おそらく「最も苦手な検診項目」の筆頭になること間違いなしの不人気な検査であり、実際に検査を棄権する人も多いと聞く。ちなみに私も毎度、丁重にお断りしている。

 バリウムというのは銀白色の軟金属の一種であり、エックス線を透過しないという特徴を持っている。通常はレントゲンに写らない胃腸を発泡剤で人工的に膨張させ、胃の内壁にバリウム膜を作り、エックス線に写るようにするのがバリウムの役割だ。
 バリウム検査のイメージは「飲みにくい」「変な味がする」「気分が悪くなる」というようなもので、検査が終了した後には下剤でバリウムを体外に排出しなければならない。もし下剤を飲まなければ(あるいは体外に出なければ)、腸内で固体化し、重篤な症状に見舞われる危険性を抱えた厄介な代物でもある。(実際に死亡事故も発生している)
 そして、もう1つ重要なことは、バリウム検査は「被曝する」というリスクを抱えていることである。その被曝量はレントゲン撮影の100倍から300倍もあるということはあまり知られていない。

■レントゲンを300枚撮れますか?

 もしあなたが手足を捻挫したとして、骨折しているかどうかを調べるために医者から「レントゲンを300枚撮ります」と言われた場合、どんな返答をするだろうか?

 「はい、お願いします」と即答できる人はまずいないと思う。

 国民の多くは「過剰なレントゲン撮影は危険」という認識を持っている。しかし、ことバリウム検査となると、「せいぜいレントゲン撮影に毛が生えた程度のものだろう」…と認識していればまだましな方で、多くの人は「被曝する」ということさえ意識していないのではないかと思われる。実際に私の周りでも知らない人が多い。

 医者から「バリウム検査はレントゲン300枚分程度の被曝量です」などと言われると、極度に放射線を嫌う人々なら卒倒してしまうかもしれない。普通の人であっても「ちょっと考えさせてください」「様子をみてみます」、あるいは「お断りします」と応えるのが普通だろうと思う。

 バリウム検査では初期のガンの発見は難しいらしく、見落としも多くある。バリウム検査では異常なしだったが、胃カメラで見つかったという人も多い。
 健康な人がレントゲン300枚分のリスクを背負ってバリウム検査を受診することの意味をもう少し考えた方がよいのではないかと思う。

■「バリウム検査」は「任意検査」であるべき

 世の中には「適度な放射線は人体に良い影響を及ぼす」とするホルミシス※論(仮説)というものもあるので、もしこの仮説が真実であるのならば、レントゲン撮影の被曝量はもとより、バリウム検査の被曝量も全く意識する必要のないものとなる。(細かいデータ説明は敢えて控えます)
 しかしながら、現状ではホルミシス論が正しいとする確実なエビデンスが有るとは言えないので、「バリウム検査にリスクが有る」という事実だけは動かしようがない。

 ※大量に使用すれば有害性を持つものでも、少量であれば逆に有益な作用や刺激がもたらされる現象のこと

 実際、ホルミシス論を説明することでバリウム検査を行っている良心的(?)な病院も存在するのだが、多くの病院はバリウム検査にリスクが有るということすら患者に伝えておらず、その証拠(エビデンス)として、健診者はリスクを意識せずに毎年バリウム検査をホイホイと受診しているという有り様だ。

 たとえホルミシス論が正しいと仮定したとしても、いまのところ、国は「微量な放射線でも人体に悪影響を及ぼす」とする反ホルミシスを国是としているので、病院側も被曝量を公表することには抵抗(や遠慮)があるのかもしれない。医者が「バリウム検査でがんになるリスクが有る」などと説明しても冗談にしか聞こえないかもしれないが…。

 しかし、如何なる理由があろうとも、患者の命を預かる医者がリスクの説明を行わずに人体実験の如くバリウム検査を行うのは問題だと言える。
 現在は検査でがんを見落としたことを訴える人がいるそうだが、いつまでもリスクの説明をしないままでいると、終いにはバリウム検査を行ったことを訴える人が出てくるかもしれない。何十年か後に「バリウム訴訟」というような言葉が出てこないことを願うばかりだ。
 
 「バリウム検査」は幸いにも法定受診項目ではないわけだから、健診者には受診を選択する自由と権利がある。きちんとリスクを説明した上で、どうしても受診したいという人にだけ実施すればいいのではないかと思う。基本的にリスクの有る検査は「強制」ではなく「任意」であるべきだ。

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「ピロリ菌除去」におけるリスクを考える

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「もし、アベノミクスが無かったら?」を考える

■「歴史のif」としての「アベノミクス」

 「歴史にifはない」という有名な言葉がある。よくよく考えてみるとこの言葉自体が謎でもあるのだが、世の中には「歴史にifはない」と言わんばかりの御都合論を唱えている人々がいる。
 例えば、「もし、アベノミクスが無かったら日本経済はどうなっていたのか?」 これも歴史におけるごく最近のifだが、この問題はあまり論じられていないようなので、今回はこの「もしも」を考えてみたいと思う。

 安倍総理と同様、「アベノミクス」という言葉は、ある種の人々からは蛇蝎の如く忌み嫌われている言葉でもある。しかしながら、「アベノミクス」を否定している人々には、ある奇妙な共通点が見られる。それは、「歴史にifはない」という言葉を盾に取り、「アベノミクスが無かったら?」という、もしもの発想が綺麗さっぱり抜け落ちていることである。

 世間には「アベノミクス」を肯定する意見もあれば、当然、否定する意見も有る。そのことは別に構わないのだが、なぜか、多くの否定論者達は「アベノミクス」に対抗する代替案というものには言及しないという不思議な共通点を抱えている。その姿は恰も、「脱原発」と叫びながら、現実的なエネルギー代替案を示さない人々、あるいは、「反戦平和」を唱えながら、世界一危険な軍事国家である中国に対しては黙りを決め込んでいる人々と同じように見える。

■「もし、アベノミクスが無かったら?」

 「アベノミクスが無かったら?」という言葉は、「民主党政権が続いていたら?」という言葉と半分は同義語になるのかもしれないが、時計の針を当時に戻してシミュレーションしてみよう。

 時は2012年、急激な円高を背景に、大手輸出企業の経営難が伝えられていた時期だ。ソニー、パナソニック、シャープの3社が空前の赤字企業に転落し、大々的なリストラ案とともに、経営破綻の噂すら飛び交っていた時期だ。
 もしあのまま、急激な円高と株安が続いていれば日本経済は一体どうなっていただろうか? それは考えるだけでもゾッとする未来である。ひょっとすると、先に挙げた3社の企業は全て経営破綻という最悪の事態に陥っていた可能性もまんざら否定できない。
 新聞の一面記事に大手企業の倒産ニュースがデカデカと載ることのインパクトは極めて甚大であり、そのマイナスイメージも手伝って関連企業や下請け企業が連鎖倒産し続け、職を失い行き場も失った多くの失業者が街中に溢れ、日本経済の頭上には巨大な暗雲が覆い被さっていたはずだ。まさしく、日本経済は出口の見えない暗闇の中を破綻まっしぐらに突き進んでいたことだろう。
 このこと(金融緩和を行わなければ日本経済は破綻するということ)は、ジョージ・ソロス氏も述べていたことであり、世界中の有識者達が声を揃えて警告していたことでもあった。
【参考文献】世界が日本経済をうらやむ日(浜田宏一・安達誠司著)

 そんな中、暗雲を切り裂くかのように「アベノミクス」は突如出現した。全てが「アベノミクス」の恩恵ではないとはいえ、大胆な金融緩和の実施を発表することによって急激な円高と株安にストップがかかり、1ドル80円程度だった為替は120円になり、9000円台だった日経平均株価は20000円まで上昇した。さすがに、この現象が「アベノミクス」と全く無関係だったと言えるような人はいないと思う。消費税の増税という最大のミステイクや、様々な矛盾点やマイナス点も抱えていたとはいえ、総じて言えば、プラスの政策だったと言える。

 2年前にポール・クルーグマン氏が述べていたように、「アベノミクス」の金融緩和政策は、国民の「期待」に働きかけることに成功したとみるのが妥当な判断だろうと思う。「これで日本経済は良くなる」「景気がよくなるまで金融緩和は出し惜しみなく行われる」という「期待」を国民に抱かせることができるか否か、それが金融緩和政策の成否を分けるたった1つの理由だったことが証明されたとも言える。
【参考文献】そして日本経済が世界の希望になる(ポール・クルーグマン著)

■歴史に「if」はあっても、経済予測に「絶対」はない

 リフレ派と反リフレ派は相変わらず犬猿の仲のように言い争っているが、この2年間の成果を見る限りでは、ひとまずはリフレ派の勝利だったと見て間違いないと思う。ただ、リフレ派であれ、反リフレ派であれ、全くの誤解をしている人がいる。それは、「お金の量」だけに囚われている人々だ。

 アベノミクスの金融緩和政策が成功したのは、お金の量とはほとんど無関係であり、どれだけの金額なら成功して、どれだけの金額なら失敗したというような単純なものではない。金額の多寡に拘らず「期待」、つまり人間の心理的な感情を動かすことができるか否か、これが最も重要な要素であり、その要素なくして、成功も失敗もない。

 例えば、民主党時代に誰かが同じような金融緩和政策を行ったとしても、それがアベノミクスと同じような結果を齎したのかどうかは分からない。その場合は、円安にも株高にもならず本当にハイパーインフレになっていたかもしれない。
 その政策を実行に移す人物の人間性、例えば、楽観的な人物か悲観的な人物か、あるいは実行力のある人物か否か、信用のおける人物か否か、そんな小さな違いだけでも、結果は変わってくる場合がある。だからこそ、予測するのは難しい。いくら頭脳明晰で経済学に明るい人でも、人の心に疎い人には経済予測はできない。この現象は経済学と言うよりも心理学の領域だからである。

 安倍総理は、このデフレ下で「携帯電話料金は高い」などという発言(これは取り消した方が良いと思う)をするなど、経済的な意味での失言も目立つが、非常に引きの強い(=運の良い)人物であることは多くの人々が直観的に感じているところだと思う。「安倍総理ならやってくれるかもしれない…」という期待感(または信用)が経済を動かすことに繋がったのだろうと推察する。

 経済を変える力を有していたのは、お金の量ではなく人間の感情だった。そんなごく当たり前のことが証明されたというだけの話なので、こんなことでどちらが正しいかなどを言い争っても不毛なだけだと思う。

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