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2016年8月

警察官の「破廉恥行為」は無くせるか?

■「警察官としてあるまじき行為」とは?

 今週は、俳優の高畑裕太氏が群馬県前橋市のビジネスホテルで強姦事件を起こし大きな騒ぎになったが、同日未明に、大阪府枚方市の路上でも、泥酔した警官が歩いていた20代の女性に背後から抱きつき、破廉恥な猥褻行為を行うという前代未聞の事件が発生した。(被害女性の夫が見ている前で堂々と破廉恥な猥褻行為を行ったことが前代未聞という意味)

 この事件について大阪府警は次のような謝罪コメントを発表している。

>「警察官としてあるまじき行為。被害者にお詫び申し上げ、捜査結果を踏まえ、厳正に対処する」

 一見すると、ごく普通の謝罪コメントに見えるが、この場合の「あるまじき行為」とは一体何を意味しているのだろうか?

 警察官が勤務時間外でお酒を飲むことも泥酔することも罪ではないので、この謝罪コメントが意味しているものは、おそらく「破廉恥行為」なのだろうと思われる。しかし、残念ながら「破廉恥行為」を禁じたところで、今後の再発防止策にはならない。
 もし本当に、この泥酔巡査の犯した破廉恥行為のみが「警官としてのあるまじき行為」だと認識されているのであれば、大阪府警は大きな誤解をしていることになる。

 誰が考えても解ることだと思うのだが、この事件の場合、「破廉恥行為」は結果であり、原因ではない。事件が発生した原因は「飲酒行為」にあるので、「泥酔するまで飲んではいけない」と戒めない限り、「警官の破廉恥行為」を無くすことはできないはずだ。

 「警察官としてあるまじき破廉恥行為。被害者にお詫び申し上げ、捜査結果を踏まえ、厳正に対処する」と言うのでは、ただの結果論である。今後の再発防止策について触れられていないのであれば、それは謝罪文ではなく反省文である。

■あるまじき行為とは「破廉恥行為」ではなく「飲酒による泥酔」

 以前、「飲んだら乗るな」という言葉の矛盾をブログ記事で指摘させていただいたが、今回の問題にも全く同じ理屈が適用できる。
【該当記事】飲酒運転(酔っぱらい)を法律で縛ろうとする愚かさ

 破廉恥行為を行った警官は、泥酔している時点で、既に理性を失っており、自らが警官であることはもとより、自らが良識ある大人であることさえ見失っているような状態だ。泥酔者というのは、ある意味、催眠術にかかった夢遊病者のようなものである。

 泥酔して「破廉恥行為」というものがどんな行為なのかすら認識できなくなってしまうことは、警察官であるないに拘らず、人間として恥ずべき状態だと言える。自らの肉体の許容限度を超えたアルコール摂取は、危険ドラッグと同じであり、「酒に飲まれること」は「法律を忘れること」とイコールの関係だ。だからこそ、法律違反を取り締まるべき警察官の「あるまじき行為」と成り得る。

 「警察官としてあるまじき行為」というのは、「泥酔するまで飲むこと」であるべきであり、この部分を禁じない限り、理性を失った警官の犯罪を未然に防止することはできない。無論、「破廉恥な猥褻行為」も「あるまじき行為」であることに違いはないが、それはあくまでも、副次的に起こった事件に過ぎない。

 警察の謝罪コメントも言葉足らずだと誤解を招くことになるので、もっと具体的なものにした方が良いと思う。
 今回の警察の謝罪コメントを少し具体的に言葉付けすると以下のような感じになるだろうか。

 「節度のない飲酒を行い泥酔してしまったことは警察官としてあるまじき行為。そのあるまじき行為によって破廉恥な猥褻行為に至ったことは警察官として恥ずべき失態であり、被害者および納税者である国民の皆様に深くお詫び申し上げるともに、今後の再発防止のために節度ある飲酒行為を守ることを戒め、厳正に対処いたします」

 如何なる責任ある立場にある人間であっても、泥酔者に法律を守らせることは不可能な無理ゲーなのだということを正しく理解した上で具体的な策を講じることが望まれる。

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マスコミのマスコミによるマスコミのためのテレビ報道

■オリンピック報道とSMAP報道の共通点

 4年に1度のオリンピックが始まると日本のテレビ局は挙ってオリンピック番組ばかり放送するようになる。まるで全ての国民がオリンピックを観たいと思っている…いや、観なければいけないと言わんばかりに。
 私のように元々テレビをほとんど観ない人間は、オリンピック時には逆にテレビを観る時間が少しだけ増えるだけなので、特に違和感は感じないのだが、年がら年中、民放テレビ番組に依存しているような人は、かなりの違和感を感じるのだろうと思う。

 しかし、4年後に自国で行われる東京オリンピックでフィーバー(過熱報道)するならまだ理解できるのだが、他国で行われているオリンピックに全テレビ局がこれほどまでに執着するのは確かに少々行き過ぎの感は否めない。いくらオリンピックに国威発揚効果があるとはいえ、日頃からスポーツにそれほど興味の無い人にとっては大きなお世話(有り難迷惑)かもしれない。

 ところで、今回のオリンピック放送では、意外なアクシデントが発生した。それは、SMAPの解散報道がオリンピックの真っ最中に入ったことだが、ここでも日本のテレビ局は、SMAP解散報道を緊急速報テロップで流し、報道番組のトップニュースがオリンピックからSMAPに入れ替わってしまった。まるで全ての国民がSMAPに興味がある…いや、興味を抱かなければいけないと言わんばかりに。

 多くの国民生活に直接的に影響のある喫緊の課題(尖閣問題や皇室問題)を過熱報道するならまだ理解できるのだが、一部のファンにしか影響のないことを全テレビ局がここまで執着するのも少々行き過ぎの感は否めない。SMAPやアイドルにそれほど興味の無い人にとっては大きなお世話(有り難迷惑)かもしれない。

■マスコミ全体主義の問題点

 先の東京都知事選でも、全テレビ局が、知名度の高い3候補者の活動だけを集中的に報道したことは記憶に新しい。まるで、国民はこの3候補者の中から東京都知事を選ぶだろう…いや、選ばなければいけないと言わんばかりに。
 現実的には、この3候補者のうちの誰かが都知事に選ばれるだろうことは誰もが事前に予想していたことだとはいえ、全てのテレビ局が挙ってお節介を焼くという姿勢も、不自然だと言わざるを得ないと思う。

 よく、「テレビ局は偏ったイデオロギー色を出さずに中立の姿勢で報道するべき」という意見を耳にするが、私は別に各テレビ局(NHKは除く)がイデオロギー色を出すのは構わないと思っている。問題は、イデオロギー色が無いが如く振る舞い、全てのテレビ局の報道が同じ方向に偏ってしまうことであり、国民に違った意見が有るということを報道しない姿勢こそが問題なのだと思う。その偏った姿勢こそが見えないイデオロギーになっているのだが、透明を装っているがために、多くの人が、そのイデオロギーに気が付かないことが問題なのである。

 あるテレビ局は保守政党(例:自民党)を応援し、あるテレビ局は革新政党(例:共産党)を応援しても構わない。それらの違った意見を国民が聞いた上で、どちらが正しいことを言っているのか、誰が信用できる人物なのかを判断する材料を国民に提供することがテレビ局の仕事だと思う。「様々な意見を公平に報道する」というのは、そういうことだろう。

 ネットで、あれだけ批判されていた鳥越氏が130万票以上も得票したことは、ネット社会とリアル社会に温度差があることの証明であり、如何にテレビや新聞の報道が偏向しているかを物語っていると言える。

 オリンピックの最中に、「オリンピックなんて興味がない」という人の意見や、SMAP解散ニュースで、「SMAPなんて興味がない」という人の意見も公平に報道する。事の善悪はともかく、そういう違った意見があることを国民が正しく知ることで、何が正しくて何が間違っているのかを判断することができるようになる。情報の違いを吟味し取捨選択していくことによって、社会はより良くなっていく。

 逆に「正しいことはこれだ」と言わんばかりに、テレビ局がお節介にも恣意的に情報をコントロールしていたのでは、社会はより良く成りようがない。

 この全体主義的な姿勢こそが、現在のテレビ局およびマスコミが抱える最大の問題点なのだろうと思う。そのお節介なシステムこそが、民主主義の発展を阻害するシステムに他ならない。


【追記】2016.08.15
(BLOGOS転載記事のコメントに対する反論になります)

>流れている情報を取捨選択することは当然で、足りないと思った情報に自分からアクセスすることがさらに大事だ。テレビを見て、新聞を読んで疑問に思えば、Webで情報を収集する。現代社会はそれを可能にしている。

 私自身、「テレビはほとんど観ない」と前置きした上で書いた通り、本記事は主にテレビや新聞からしか情報を入手していない人を対象として書いています。

>テレビにおんぶにだっこに肩車してもらって、どこまでも他律的に提供される情報で、民主主義を発展させてもらおうとか、時代遅れの化石の発想でしかない。

 これも「テレビや新聞からしか情報を入手していない人」に対しての批判にしかなっていません。民主主義というのは、国民の情報認識力を底上げすることによってしか精度を高めることはできないということであって、誰か(マスコミ?)に完全依存するという意味ではありません。

>それこそ「嫌なら見るな」でしょう。
これだけメディアが増えているのに、なぜ、テレビにこだわるのか。
テレビが絶対的なものといて崇め奉るのか。

 ネットで反論できる人にはピンと来ないかもしれませんが、現に、テレビしか観ない人は大勢存在しています。そういう人達に、「テレビを観るな」と言っても現実味がないでしょう。そういう人達が情報を得る手段は、これまでもこれからもテレビが中心にならざるを得ないわけです。ゆえに、そのテレビ報道自体が変わらない限り、何も変わらないということです。

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BOOK『99%の会社はいらない』を読んで。

■99%の人は、自分の時間を生きていない

 ホリエモンこと堀江貴文氏の新刊『99%の会社はいらない』を読んでみた。

 「99%の会社はいらない」などという過激なタイトルを付けると、また多くの人(本を読まない人)からバッシングされそうだが、この数字には意味があって、本書曰く、「会社勤めをしながら、自分の時間を生きている人は100人中1人位しかいないので、99%の会社はいらない」ということらしい。
 本書の要諦は前書きにも書かれてある通り「自分の時間を生きる」ということになるのだろうか。“他人の時間を生きて苦しむ”のでなく、“自分の時間を生きて楽しむ”ことが、これからの仕事のテーマになっていくと書かれている。

 「ホリエモン曰く」ではなく、「本書曰く」としたのにも理由があって、本書は堀江氏が1人で書いたわけではなく、別の人の協力を得て書かれているらしい。文体を見る限り1冊丸ごと同じ個性で書かれてあるので、章ごとに分担して書かれたわけではなさそうだ。ある事柄についてインタビュー取材した内容を編集し、ゴーストライター的な役割を持った人が1人で書かれたのかもしれない。しかし、内容的にはホリエモン個人の体験談が多かったので、それを別人が書いているというのは驚きだった。

■「クール・ビズ」が唯一の成功例

 私は堀江氏の本は『稼ぐが勝ち』から、ほとんど全て目を通している。以前、同書内の「人の心は金で買える」という過激な発言が話題になりバッシングされたことがあったが、あの言葉も実は編集者の案だったというようなことが別の本に書かれてあったと記憶している。しかし当時のマスコミや評論家は、彼の本を読んでいなかったのか、そういったバックグラウンドを無視して好き勝手に「拝金主義者だ」とホリエモンバッシングを行っていたので、少し気の毒に思っていた。冒頭でも触れたが、本(資料)も読まずにイメージだけで批判する人は一般人だけでないということがよく判ったエピソードだった。

 本書の冒頭では、日本の会社の矛盾点がいくつか書かれてあったが、無意味化している日本企業の古くからの習わしを崩すことに成功した、たった1人の人物として小池百合子氏のことが紹介されていた。無論、「クール・ビズ」のことだが、これだけが唯一、融通の利かない日本企業で変革(と言うより改善)されたことであるらしい。

 そう言えば、先の東京都知事選で、堀江氏は舛添氏の続投を望む発言をされていたが、小池百合子氏が新都知事になったことは、どう思われているのだろうか? 案外、結果オーライだったのかもしれないが…。

■エンターテインメント業界のビジネスモデル

 これからは仕事が遊びになる時代が来るということで、そこで真っ先に注目を浴びるエンターテインメント業界のビジネスモデルが書かれていた。

 そのビジネスモデルというのは、以下の4つに分類されるらしい。

 1、[メジャー&高収入]/超有名人型
 2、[マイナー&高収入]/ネット著名人型
 3、[メジャー&低収入]/売れない芸人型
 4、[マイナー&低収入]/一般ブロガー型

 私などはブロガーが本業ではない一般人なので、どれにも該当しないが、強いて選ぶなら「4」に分類されるのだろうか。しかし、一般ブロガーがブログで商売していけるようになるのは、正直、かなりハードルが高いような気がする。あまり後ろ向きなことは書きたくないのだが、世間一般のブロガーがブログを書くという遊びを仕事として認識できるようになるためには、ブログというシステム自体も、大きく変わっていく必要が有るのではないかと思う。それを具体的に説明しろと言われてもできないが、もし、ブログを書くという遊びが仕事に変化する未来が訪れるのであれば、その時は現在とは違ったシステムが構築されているような気がする。

 本書は全体を通して、ひたすら前向きなホリエモン流のリアルな行動哲学という趣きの本だった。簡単なようでも一般人にはなかなか真似の出来ないことが多そうだが、行動派ホリエモンの現在を知るには最適な本だと思う。

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たとえ話で解るマクロ経済学

■抽象的に成り過ぎている経済用語

 「マクロ経済」と「ミクロ経済」というものの定義は、専門書を読んでも具体的に述べられているようで述べられておらず、「国家」や「個人」、「市場」や「企業」といった言葉で説明されている場合がほとんどであり、どこか抽象的に成り過ぎて、その線引きがややこしいと感じることがある。

 ケインズ経済学の「有効需要」や古典派経済学の「セイの法則」などという言葉で語られても、経済用語に明るくない世間一般の人々は、そういう専門的な言葉を聞いただけで耳を塞いでしまい、結局なにも解らないということになってしまう。
 専門家というものは得てして、簡単なことを難しく説明することで成り立っているものなので、端から万人に理解してもらうことを目的としていないのかもしれないが、経済理論というものは、本来はもっと簡単に説明できるものだと思う。

 ケンブリッジ大学の経済学者も次のように述べている。

配管工事であれ薬学であれ少しでも技能を要する業界の用語は、部外者を怖じ気づかせる。さらに皮肉を言うなら、どんな専門職も実態以上に複雑に見せかけ、高い料金を正当化したいものだ。そのうえで言うが、経済学ほど一般人をうまく敬遠させているものはない。」【『経済学の95%はただの常識に過ぎない』より】

 「木を見て森を見ず」という有名な言葉の通り、マクロ経済は「森」を見て、ミクロ経済は「木」を見る…と言っても、具体性に欠ける。ゆえに、ここではもっと具体的な例を用いて、説明してみたいと思う。

■あなたはマクロ経済派 or ミクロ経済派?

 例えば、あなたが昼食のパンを買うためにコンビニに立ち寄ったとしよう。どこのコンビニでも、パンを陳列している棚があると思うが、その棚には同じパンが複数個重ねて並べられている。あなたは買いたい(食べたい)と思うパンを見つけるが、そのパンが3つ並んでいたとしよう。
 急いでいる時は何も考えずに一番手前のパンを手にすると思うが、その日のあなたは時間に余裕があったので、その3つのパンを手に取りじっくり見比べてみた。すると、あなたはそのパンの製造日付(消費期限)が違っていることに気が付いた。手前から奥に行くに連れ、製造日付が1日ずつ違っていた(無論、奥に行くほど新しい)。

 さて、この時、あなたは、どのパンを選択するだろうか?

 この質問に対し、「1番奥のパンを選択する」という人は、ミクロ経済派だと言える。

 こう言うと、「1番消費期限が長い商品を買うのは消費者として当然の行為だろう」という反論があるかもしれない。
 確かに出来立てのパンの方が新鮮な感じがして味も良いかもしれない。新しいパンの方が価値は高いかもしれないが、タイムサービス品のように売価に差があるわけではないので、ここでは消費期限が切れるまで(食えなくなるまで)は同じ価値を有したパンだと仮定する。

 逆に「(意識的に)1番手前のパンを選択する」という人は、マクロ経済派だと言える。なぜそう言えるのか? それは、生産者側のことも考えて消費活動を行っているという点にある。

 どこのコンビニでも陳列されているパンが全て残らず売れることを目的として製造日付の新しいパンを奥に並べるという商行為を行っている。消費者からすれば、より新しいパンを買いたい(食べたい)と思うのは当然かもしれないが、全ての消費者が奥に並べられているパンばかりを購入するようになると、パンが売れ残り廃棄になる可能性が高くなる。そうなると、コンビニ経営にマイナスの影響を及ぼすことは言うまでもないところだが、もっと視点を大きくすると、コンビニの親会社やパンの製造会社や諸々の関連会社の経営にも打撃を与えることになり、延いては日本経済全体の景気にも悪影響を及ぼす結果になるかもしれない…否、実際にそうなるだろう。

 コンビニでのパンの購入(選択)の仕方だけで、最終的には日本経済自体に悪影響を及ぼし、その悪影響は、パンの値上がり等による負の悪循環によって、そのパンを購入した個人にも及んでしまう可能性がある。
 仮にそこまで考えている人がいたとしても、実際には1番奥のパンを購入するかもしれないが、少なくとも、自らの消費行動自体が自分自身にブーメランの如く跳ね返ってくるかもしれないという考えに至ることのできる人が、マクロ経済派だと言える。

■ミクロ経済だけでは経済は成り立たない

 ミクロ経済学とは、先の例で言うなら、「価値の高いパンをいかに安く手にいれるか」を学ぶ学問であり、マクロ経済学とは、「どのようにパンを売れば、市場が効率化するか(景気が良くなるか)」を学ぶ学問でもある。

 消費者に任せると、手前のパンは売れ残り(前者)、生産者に任せると、手前のパンしか取れなくなる(後者)。

 ケーキ屋などは、ガラスのショーケース内にケーキが置かれているので後者を採用していることになるが、これも古い商品から順番に販売するという知恵なのかもしれない(この場合は新しいケーキが前面に置かれている)。
 高価で消費期限の短い食品ほど、消費者には任せられないということなのだろう。この1点だけでも、ミクロ経済の未熟さとマクロ経済の必要性がよく解る。このことは、マクロ経済を理解しない個人の合理性(あるいは欲望)だけに任せると、経済は悪化する可能性があることを意味している。

 ここで専門用語に切り換えて説明すると、経済用語で言うところの「神の手」は大部分の人々がマクロ経済を理解しているという条件下でしか上手く機能し得ないということであり、このことは民主主義についても当て嵌まる。大部分の人々が個人主義を超えたマクロな倫理観を有しているという条件下でしか民主主義も正しく機能しない。

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