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2016年10月

「ピロリ菌除去」におけるリスクを考える

■ピロリ菌除去の副作用

 ホリエモンが2016年3月に開始した『「ピ」プロジェクト』なるものが再び脚光を浴びているようなので、少し思うところを書いておきたいと思う。
 先月、書店の医療本コーナーを覗いてみると、たまたま堀江氏の『むだ死にしない技術』という本を見かけたので、興味を抱き少しだけパラパラと立ち読みしてみた。(残念ながら購入には至らなかった)
 その本には、よく知られている「ピロリ菌」についてのことも書かれてあったので、また近い内に話題になりそうだなと思っていたのだが、案の定といったところだろうか。

 昨年に読んだ別の本にも書かれてあったことだが、本書でも「胃がんの99%はピロリ菌が原因」と書かれてあった。
 しかしながら、ピロリ菌が関係しているのは胃の表面にできる胃炎、胃潰瘍、胃がん等であり、スキルス胃がんとの因果関係は未だハッキリと判っていないらしい。胃というのは精神的なストレスと密接に関係している臓器なので、感覚的には、ストレスによる影響が全く無関係だとは思えないのだが。

 ピロリ菌の存在が胃に悪い影響を与えることは、ずいぶんと前から囁かれていたことだが、実はもう1つ、あまり知られていないことがある。それは、ピロリ菌を除去すると胃腸環境が急激に変化するため、副作用として逆流性食道炎を発症する可能性が高くなるというもの。
 私も昔、井戸水を飲んだことがあるので、多分、ピロリ菌には感染していると思うが、副作用があるがゆえにピロリ菌検査も除去も敢えて受けていない。どんな治療にも副作用というものがあるという点は知っておいた方が良いと思う。

■「予防医療」と「予防生活」

 「医学の父」として知られるヒポクラテスは「人間は生まれながらにして100人の名医を持つ」という名言を残している。人間は生まれながらに現代医学でも解らないことを知る最高の名医を身体の内に宿している。その名医のまたの名を「自己治癒力」と言う。

 「予防医療」というのも確かに大事な視点かもしれないが、もっと大事なことは、極力、医療にかかる必要のない生活を心がけることだと思う。言わば「予防生活」だ。
 「予防医療」と「予防生活」の違いは、他者に依存しているか、依存していないかの差だとも言えるだろうか。先のヒポクラテスの言葉で言うところの「100人の名医」とは、「予防生活」の中でこそ活躍してくれる医者のことでもある。

 健康診断や人間ドックというものは基本的に、「病気になった結果」を調べるためのものであり、「病気の原因」を調べるものではない。しかし、最も重要なことは、結果が生じる前の段階で、原因となるものを追求することであり、病気予防になる健康的な生活を意識し実践することだと思う。
 例えば、血液検査で少し異常な数値が出れば、その数値が出た原因は何なのか?ということを自分なりに追求し、生活習慣を改める。それが「予防生活」の基本だが、「予防医療」というのは、言葉の定義から考えても、予め病気になる原因が判っているものを、医療行為によって事前に取り除くという意味合いになる。当然、そこにはなんらかの副作用のリスクが付いてまわる。

 肺がんを例に挙げれば、ヘビースモーカーの人が肺がん検診を受診することが重要なのではなく、肺がんにならないように、健康に悪いとされるタバコを極力吸わないように努めること。それが、健康な生活をおくるために必要なことであって、病気になる原因を改めずに、検査ばかりしていたのでは、本末転倒というものだろう。
 ちなみに、タバコを吸ったからといって必ずしも肺がんになるわけではなく、タバコを吸わないからといって必ず肺がんにならないわけでもないが、タバコを吸えば、血流が悪くなることだけは間違いのない事実なので、どう考えても健康に良いとは言えない。「血流が悪くなること」=「万病の原因」ということは誰もが認めているところなので、その部分を改めずに検診の結果だけに意識が向くというのでは可笑しいと思う。

 少し前に話題になった鳥越俊太郎氏の「がん検診100%」のように、「ピロリ菌除去100%」を強制的に行うというようなことは控えていただきたい。知識を伝えて啓蒙することは良いことだと思うが、人の命に関わるようなことは、あくまでも個人の意思を尊重していただきたいと思う。

【追記】2016.10.23
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>そういう素人考えが一番良くないと思うのですが。副作用が嫌だから治療しないなどと言っていたら、どんな治療もできなくなりますよ。

 副作用が嫌と言うより、単純なトレードオフの問題と言った方が近いと思います。
 現在、全くの健康体であるのに、なぜ副作用のリスクを背負ってまでピロリ菌を除去する必要があるのか?ということです。
 本来、ピロリ菌の除去は、胃散過多等による胃炎や胃潰瘍を患っている人が、その苦しみを緩和するために行っていた治療です。ピロリ菌を除去することによる副作用を考慮しても、胃の症状を治したいという人のための治療ということです。

 ピロリ菌が胃がんの直接的原因になっているというよりは、慢性的な胃炎や胃潰瘍を患っている人の胃にピロリ菌がいることで、その症状が悪化するため、それが胃がんに進行する可能性があるということだと思います。記事にも書きましたが、その証拠にスキルス胃がんとピロリ菌の因果関係は証明されていません。

>勇気のない男だな。大丈夫、ガンの告知じゃないんだから。ガンの可能性は少しでも減らしておくべきでしょう。

 ピロリ菌の除去は、あくまでも胃がんのリスクを下げるだけであり、その他のがんになるリスクまで下がるわけではありません。ピロリ菌を除去することで胃がんになる可能性は減少しても、食道がんになる可能性は逆に増加することになります。そんなリスクが現実に有るわけですから、勇気が有る無いの問題ではありません。リスクを背負うか背負わないかを決めるのは個人の自由です。私は誰にもピロリ菌除去を受けるなとは言っていません。受けるか受けないかを決めるのは、個人の自由だからです。もちろん、その選択には責任が伴います。だからこそ、リスクが有ることを知ってもらうために勇気を出して記事を書いたのです。

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映画『あまくない砂糖の話』を観て。

■スプーン40杯分の砂糖が人間に与える影響

 自身が糖質制限実践者でもあるオーストラリアの俳優デイモン・ガモーが監督・主演したドキュメンタリー映画『あまくない砂糖の話』を観てみた。昔、話題になったドキュメンタリー映画『スーパーサイズ・ミー』を彷彿とさせる映画だが、オーストラリア出身のメジャー俳優なども起用しており、なかなか面白い映画だった。

 普段、全くと言ってよいほど糖分を摂取していないガモー監督が毎日スプーン40杯分の砂糖を60日間摂取するとどうなるか?という興味深い実験を追ったドキュメンタリーになっている。

 私も(超ゆるめの)糖質制限実践者なので言えることだが、1度、糖質制限を経験した人が、糖分摂取過剰な生活に戻るというのは、かなり勇気のいることだと思う。ある意味、糖質制限を始めるよりも勇気のいることだと思われるが、自身の身体を実験台にして真実を追求する姿勢には好感が持てる。

 内容的には、糖質制限の知識がある人であれば、ほぼ既知の事実しか描かれていないのだが、それでも実際にこのような実験を映像化するという試みは新鮮であり、多くの人々の蒙を啓くという意味では、意義のある映画だと思う。
 字幕では「腎臓」となっているのに吹替では「肝臓」と言っているような箇所も見受けられたが、そこは御愛嬌と言ったところだろうか。

 スプーン40杯分の砂糖というのは、普通に食生活している現代人の一般的なレベルでもあるので、特に過剰に糖分を摂取しているわけでもないのだが、それでもそのような食生活を続けると身体に大きな変化が生じる。具体的に言えば、内臓脂肪が増えて、中性脂肪値が上昇し、脂肪肝になる。この辺は、私も体験済みなので否定のしようがない。

 良いか悪いはともかくとして、最近では寿司屋でも、にぎり寿司の「シャリ(米)の量を減らしてほしい」というような注文も多いらしく、数年前までは、それほど知られていなかった糖質制限食も、現在では多くの人々に認知され、既に市民権を得ている。現在では、糖質制限を行うことの是非(which)よりも、どこまでの糖質制限を行うことがベターで安全(how)なのか?という次世代の議論に移りつつある。

■知的好奇心が旺盛な人ほど健康にも敏感
 
 世間を観察していると、知的好奇心が旺盛な人ほど、健康にも敏感な人が多いように思える。
 一例を挙げると、著名人の成毛 眞氏も『このムダな努力をやめなさい』という本の中で糖質制限を行った成功談を書かれている。

 ネット社会では、多くの情報が無料で氾濫している。その情報の中には、真の情報もあれば、偽の情報もあり、まさに玉石混淆な百花繚乱状態だが、そこで最も重要なことは、入手する情報の質や量ではなく、情報を精査する能力だと思う。情報の質は、そもそも判断する能力がなければ高いか低いか分からないし、知り得た情報の量が多いからといって、それが正しい情報とは限らない。何万巻の書物を読んだ人であったとしても、その人物が正しい判断ができるかどうかは分からないし、正しい情報を得ているとも限らない。

 正しい情報を嗅ぎ分ける能力と、間違った情報に惑わされない判断力こそが重要だと思う。その能力の如何によっては、寿命を延ばすことも、寿命を縮めることも有り得る。自らの情報識別能力が健康を左右する。そんな社会の中に我々現代人は生きているが、多くの賢い人は、お節介にも、何が正しくて何が間違っているのかを語ろうとはしない。リスクを冒してまで、お節介を焼いても、何の得にもならないと思っている人は、黙って正しいと思うことを実践している。なぜなら、結局、全ては自己責任だと認識しているから。
 
 そういう意味で言うなら、この映画の監督はお節介にも、「これが正しい情報ですよ!」と語っている。そこにはもちろん、映画作りという意味でのコマーシャル活動も含まれているが、この映画で伝えているメッセージが本物であるのか、偽物であるのかを判断するのは、あくまでも、あなた自身だ。あなたが、知的好奇心旺盛(健康に敏感)な人であれば、観ることをオススメしたい。

【追記】2016.10.19
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>そもそも、砂糖をそのまま食べるのと炭水化物として食べるのとでは吸収の速度も違うし、こんな雑な『実験』で「糖質制限は正しいンダー」とか言われてもねぇ。

 誤解する人がいるといけないのでお断りしておきますが、本映画の実験は、砂糖をそのまま食べる実験ではなくて、加工食品(炭水化物)を食べる実験です。

>燃費の悪い脳のエネルギー源は糖しかないのにバカじゃね?
結局その必要な糖を、脂肪分解したりタンパク質(まず筋肉)を分解して作ってるんだから効率が悪い事この上ない。

 あなたが、糖新生によるケトン体のことを書かれているのだとすれば、「エネルギー源は糖しかない」というのは矛盾して聞こえます。本記事で話していることは、効率が悪い云々の話ではなくて、許容量を超えた糖分の接種は身体に悪いというだけの話です。

>極端な例を一般化するのは可怪しい。
多くの食物が、量によって栄養にも薬にも毒にもなる。それぞれの体調や作業量に応じてバランスよく適度に食べるのが良いんだよ。糖質制限も過剰摂取もどっちもどっち。

 糖質制限というのは「糖質0」のことではありません。少しだけ糖分摂取を減らすだけでも立派な「糖質制限」です。
 「バランスよく適度に食べるのが良い」とのことですが、その通り、現代人は糖質過多に偏り過ぎているのでバランスが悪いと言っているのです。場合によってはスプーン100杯分以上の砂糖を毎日接種している人は大勢いると思われますが、常識的にも科学的にも、そんな偏った食事がバランスの良い食事であるはずがありません。

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過労自殺の根本原因は「1度の失敗も許さない社会」

■過労自殺の争点は「辞めるに辞めれない」こと

 大手広告代理店の電通に勤めていた女性の新人社員が過労自殺したことで大きな騒ぎになっている。中には「過労死」と「過労自殺」を混同しているような意見も見かけるが、総じて日本の長時間労働を問題視した意見が多いようだ。
 月100時間の時間外労働を行っていたということは、月20日勤務として考えれば、平均すると1日5時間の残業ということになる。17時が定時の会社なら毎晩22時まで仕事をしているという感じだろうか。休日出勤もしている場合は少し違ってくるが、確かに「働き過ぎ(拘束され過ぎ)」のレベルだとは言える。
 もともと広告代理店というのは、仕事柄、時間に不規則な業界でもあるので、そんなに早く帰れるような業種ではないとは思うが、入社早々、月100時間の時間外労働がずっと続くというようなことが判明すれば、鬱状態に陥っても仕方がないとは言える。

 先程、「過労死」と「過労自殺」と述べたが、この女性の場合、後者の「過労自殺」であったため、避けようと思えば避けられたはずだが、「なぜ避けられなかったのか?」、これがこの事件の最大の論争ポイントだと言える。そのポイントとは、「辞めるに辞めれない」ことだが、この部分をクリアしない限り、このような問題はいつまでも無くならないと思う。

■「いじめ自殺」の構造と似ている「過労自殺」

 この「辞めるに辞めれない」感情というのは、「いじめ」の構造と実によく似ている。学校でいじめに遭っている生徒が、いじめ自殺から解放される最も有効な手段は「学校を辞めること」だが、これがなかなかできない。なぜできないのか?と言えば、“やり直しがきかない”という不安感が邪魔をするからだ。“失敗を許さない社会”という認識が社会通念として常識化してしまっていることに、その原因を求めることができる。
 具体的に言えば、企業ではなく、社会そのものが「1度の失敗も許さない」という不自由で窮屈な社会に成り果てているということになるだろうか。

 日本には「」の文化というものもあり、学校を辞めることや会社を辞めることは「恥」と思う人が多い。「学校を辞めること」や「会社を辞めること」は「失敗」とイコールの関係になっているため、最悪、自殺にまで追い込まれることになってしまう。
 「1度の失敗も許されない社会」が絶望感を増幅する手伝いをすることになり自殺を余儀無くされるという悲劇に至ってしまうのである。

 その失敗の許されない社会で苦労して入社した有名企業であれば尚更で、1度辞めると二度と同じ立場にはなれない(実際はなれると思うが)というような袋小路思考に陥ってしまうのかもしれない。言わば、1度きりのオリンピックに背水の陣で挑んでいるという感じだろうか。

 学校や会社を辞めてもどうにかなる。それは社会人を辞めるという意味ではなくて、もう1度、同じ社会人としてやり直しがきくということ。そういう当たり前のことが常識として認識される社会、言い換えれば、失敗が許される社会になれば、過労による自殺も無くなる。そのためには、年齢や学歴に拘り過ぎる現在の社会通念を変えていく必要がある。何度、失敗しても個人の能力とやる気と努力で這い上がれる社会であれば、失敗(=会社を辞めること)を気にする必要もない。自分に合わないと思う会社であれば、さっさと辞めてやり直せばいい。そんな当たり前のことができなくなっている窮屈で融通の利かない社会こそが根本的な問題なのである。

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100周年を迎える「1日8時間労働」

■二兎を追う「働き方改革」の矛盾

 衆院予算委員会において、安倍総理は「働き方改革」における同一労働同一賃金の実現と、長時間労働の是正を訴え、「今年度内に具体的な実行計画をとりまとめたうえでスピード感をもって国会に関連法案を提出する」と述べた。

 安倍総理が口にしたことは不思議と実現してしまうことが多いようなので半分は期待したいところだが、「同一労働同一賃金の実現」と「長時間労働の是正」という2つの目的をどのように両立するのかは謎であり疑問でもある。
 普通に考えれば、正社員の労働時間(残業時間)を減らし、給料も減額する方向での調整を行わない限り不可能だと思えるのだが、何か奇策でもあるのだろうか?

 「同一労働同一賃金」についてはこれまでにもいくつかの記事で触れてきたが、冷静に考えれば考えるほど、あまりにも現実離れした夢物語のような課題だと思えてしまう。スローガンを掲げることは大事なことだと思うが、日本で「同一労働同一賃金」を実現するには少なく見積もっても数十年はかかるのではないだろうか。
 欧米では既にある程度実現していることだとはいえ、日本で同じようなことが本当に(しかも短期間で)実現できるのかは甚だ疑わしいと言わざるを得ないと思う。

 その証拠に、自民党の「一億総活躍プラン」の中には次のような文章がある。

>「同一労働同一賃金の実現に向けて、我が国の雇用慣行には十分に留意しつつ、躊躇なく法改正の準備を進める。

 現状の正社員待遇を十分に維持したまま、同一労働同一賃金を目指すとなると、非正規待遇を大幅に上げるしか方法が無い。つまりは非正規社員の正社員化しか方法が無いことになるが、全国全社的にこれを行うのはどう考えても現実味のない禁じ手であり、日本経済の崩壊に繋がりかねない悪手だと言える。

■耐用年数を迎えた「仕事に8時間」というスローガン

 そもそも「同一労働同一賃金」とは何か?と言えば、「能力給」のことである。なるほど、確かに「能力給」であれば、年齢も学歴も性別も縁故も関係がない。個人が行う仕事の質と量のみで給料が決まる、それが本来の「同一労働同一賃金」の理想形態であると思われるのだが、どういうわけか、この国では右も左も関係なく、「同一労働同一賃金の実現を!」と訴えている。
 全政党が「能力給の実現を!」と訴えている姿を想像してみよう。それが如何に滑稽な光景かが分かると思う。

 先に「半分は期待している」と書いた通り、「同一労働同一賃金の実現」はあまり期待できないが、「長時間労働の是正」だけは実現してほしい。

 「仕事に8時間を、休息に8時間を、やりたいことに8時間を」というスローガンが発表されたのが1817年のイギリス、その後、1848年にフランスで12時間労働が実現し、1886年にアメリカで8時間労働のストライキが起こり、1917年にソ連で8時間労働が確立した。(参考:ウィキペディア)

 なにやら社会主義的な感じがして違和感もあるのだが、「1日8時間労働」が確立されてから、来年で100年を迎える。時代は大きく変わり、人間の代わりに人工知能ロボットが仕事をするという時代に突入しようとしている現代において、いつまでも「8時間労働」に縛られるのは不自然だとも思える。

 1817年 「8時間労働」のスローガン
 1917年 「8時間労働」の実現
 2017年 「8時間労働」からの脱却 ←目標

 現代は、人間の仕事が無くなっていく時代の経済システムの再構築とともに、労働時間というものもゼロクリアでリブートする(考え直す)時代なのかもしれない。そういうマクロ的な意味合いでの「働き方改革(長時間労働の是正)」なら応援したいと思う。

【関連記事】「同一労働同一賃金」という言葉を都合よく利用する人々


【追記】2016.10.04
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>なぜ非正規社員を正社員化すると日本経済の崩壊に繋がるのか、私にはよくわからないので、詳しくご説明頂きたいです。

 正規社員の収入を大幅に下げた上で、非正規社員を正規社員にすることは可能かもしれませんが、正規社員の収入をそのままの状態で非正規社員を正規社員にするのは無理が有り過ぎるということです。
 現状、既に4割を超えている非正規社員をいきなり正規社員にすれば、経営破綻に陥る企業が数多く出てくると思います。実際に現場で働いている人であれば、ほぼ同じ感覚を抱かれると思います。
 詳しくは上記の【関連記事】を参照してください。

>この記事は、「能力給」をすべて「職務給」と読み替えるべきでしょう。 「能力給」というと、もう少し曖昧で範囲が広い概念のようです。年功序列の体制であっても、「勤続年数が長くなれば能力があがる」等の言い方で、能力給と年功序列の組み合わせが正当化される場合があると思われます。

 「職務給」と言うよりは「職給」でしょうね。
 個人的に思うことですが、「職務給」というのは「ある仕事に従事している人はこれだけの給料」という具合になりますので、個人の能力による差というものがあまり考慮されていない給料制度というイメージを受けます。勤続年数だけで給料が無条件に上がっていくのは可笑しいと思いますが、経験や実力が向上することによって給料が上がっていくシステムでなければ、一生、給料額が変わらないということになってしまいます。
 「同一労働同一賃金」で重要なことは「公平性」であって「平等性」ではありません。同じ職種の人は全て同じ給料というような悪平等な賃金制度では労働における公平性は担保されません。「年功序列」を認める必要はありませんが「個人の能力」を考慮してこその「同一労働同一賃金」です。

>1817年に主張された「1日8時間労働」というのは、「1日8時間(以上)は働け」という意味ではなく、それまで際限なく働かされていた工場労働者の健康を守るために、「働かせるのは(原則)1日8時間までにせよ」と提唱したものです。「1日8時間は働かなければダメだ」などという主張が100年間なされて法制度になってきたという意味ではないので、誤解なきように。

 「ウィキペディア参照」と書いた通り、1817年以前は、1日12時間〜16時間労働もあったと書かれていますので、別に誤解はしていません。
 付け加えると、本記事は「1日8時間」に縛られるのは不自然と書きましたが、必ずしも「8時間以下」にせよと言っているわけではなく、「時間に縛られる」こと自体を見直した方がよいという意味です。

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