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2016年12月

「働き方改革」よりも「働き方革命」を欲する時代

■一罰百戒的な行政指導の必要性

 今年、最も注目された企業と言えば、2016年度のブラック企業大賞にも選ばれた「電通」ということになるのだろうか。
 「働き方改革」の影響もあるのか、一罰百戒的な意味合いで大手企業の電通が選ばれたということなのかもしれないが、最近も「労働時間の過少申告が行われていた疑いがある」として騒がれている。

 「労働時間の過少申告」というのは、早い話、「残業の過小申告」ということだが、上司から指示されて過小申告になっていたのか、それとも本人が自己判断で過小申告していたのかは分からない。あるいは、会社自体に過小申告するのが当たり前という空気があったという可能性もある。いずれにしても、そういった常態化を改善・改革するという意味合いで、一罰百戒的に行政指導が為されているのだろう。

 国が企業に命令するという行為は、どこか社会主義的な感じがして違和感も有るとはいえ、日本企業の場合、お上が指導しないと何も変えられないという悪しき伝統主義を抱えているので、最低限の行政指導は必要悪として容認するべきなのかもしれない。
 真夏の蒸し暑い時期に背広を着てネクタイを締めて通勤しなければならないという、傍から観ればストレスにしかならないようなことが伝統として維持されてきたのが日本企業である。そういった悪しき伝統は、本来であれば民間企業が率先して変えていくのが理想だが、残念ながら日本では、政治家(この場合は小池百合子氏)がそういう空気を作り出さなければ変えることができなかった。この一事をもってしても、最低限の行政指導が必要な国であることが分かる。

■悪しき伝統主義を破る「働き方革命」が必要

 ただ、行政指導も行き過ぎると問題になるので、線引きが非常に重要だと思う。
 残業の申請というのは、不況の影響もあってか、月給で雇用されている労働者は気を遣って過小申告する場合もある。かくいう私も、余程遅くまで仕事をした場合を除き残業はほとんど申請しておらず、毎月、数十時間はサービス残業している。別に「残業を付けるな」とも「残業を過小申告しろ」とも言われておらず、逆に「残業を付けるように」と言われたことはあるが、時間だけで計れる仕事ではないので、自己判断でサービス残業している。

 電通の仕事というのも、大部分は時間で計れるような仕事ではないと思うので、時給で働いている人でもない限り、誰も彼もが無条件にキッチリ残業申請するというのは考えものだと思う。法的に決められた8時間労働内でノルマ(給料)以上の仕事ができる人とノルマを達成できない人が同じように残業を申請するというのは、普通に考えれば不公平なわけで、嫉妬という感情が渦巻く日本企業では、それゆえに過小申告になる場合もある。況して多くの株主を抱えた電通のような上場企業であれば尚更で、人件費を無視したデタラメな経営では、いつ何時、問題視されてもおかしくない。

 企業にとって、売上を伸ばすことや利益を増やすという目的は伝統として残すべきだと思うが、長時間働くことを伝統にする必要はない。長時間働かなければ売上も利益も出ないという状態を維持することが難しくなっているのであれば、その部分を改革するしかないのではないかと思う。

 耳の痛い話かもしれないが、「残業の過小申告」問題を完全に無くすためには、労働者全員を月給ではなく時給で雇用するしか方法は無いのではないかと思う。長時間働かなければ帳尻が合わないような給料制度を廃止して、労働時間も給料も下げて、その分、人員を増員すれば、すぐに解決できる問題だと思われるのだが、これができない。なぜできないのか?と言えば、先程述べたように、一度決まったことは変えることができないという悪しき伝統主義が根付いているからである。

 この悪しき伝統主義を改革することができれば、それは「革命」とも言える。時代が欲しているのは「働き方改革」ではなく「働き方革命」なのかもしれない。

【関連記事】「8時間労働教」という宗教
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      有給休暇が取りづらい日本社会のお家事情

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レジ打ち業務の不公平感を感じない社会の不思議

■セルフレジ化する社会

 少し前に、マクドナルドやジーユー等でセルフレジが試験的に導入されたと話題になったばかりだが、私が利用しているレンタルDVD店や映画館も今年から既にセルフレジが導入されている。
 始めは使用方法が解らないので店員からレクチャーを受けることになるのだが、2回目からは自分でセルフレジを使用することになり、すっかり扱いにも慣れてしまった。 
 DVDレンタルの場合、商品をバーコードリーダーにかざすだけで済む。昔のように金額をレジ打ちする必要も無いので、簡単に作業を進めることができる。セルフレジを利用したからといってレンタル料金が割引されるわけではないのだが、特に不満も感じない。

 セルフレジ化によって、今までレジ打ちしていたレンタル店員の仕事が無くなるか?というと、案外そうでもないようだ。現在のレンタルショップはレンタルだけでなく、ゲームの販売やスマホの買い取りなど多角的なサービスを行っているので、他にもやることが有るのかもしれない。
 以前までは、レジ業務が忙しくて返却されてきたDVDソフトを元の場所に戻す時間が無いのか、返却BOXが一杯になっている時があった。そのため、返却BOXに戻っているにも拘らず、新作がレンタル中になっていてレンタルできない(客を逃す)というケースも実際にあったのではないかと思う。そういった無駄が減少することは、利用客にとってもレンタルショップにとってもプラスなので、レンタルショップに限って言うなら、セルフレジ化はそれほど問題視する必要性もないのかもしれない。

 セルフレジ化によって、人間の仕事が減少するという問題についても考えなければならないが、その話はまたの機会に譲るとして、今回は、少し趣向を変えて、レジ打ちという仕事の不公平感について述べてみたいと思う。

■公平ではなく平等なレジ打ち業務

 レジ打ちの仕事というのは基本的に時給になっている。経験によって時給が上がることはあっても、能率給(歩合給)を導入しているレジ打ち業務というのは聞いたことがない。売上げ如何によってはボーナス的な支給が出る場合は有るかもしれないが、基本は時給であることに違いはない。

 しかし、考えるにレジ打ち業務というのは、実に不公平な仕事だと思う。例えば、ユニクロやドン・キホーテのような人気店ではレジも複数台あり、常時、客が並んでいるような状態だが、人気(ひとけ)の無い店のレジ打ちの場合、1時間に数人しか客が来ないというような所もある。
 1時間に100人のレジを賄う人がいる反面、1時間に数人のレジしか賄わない人がいる。しかし、レジ打ちとしての時給は同じようなものだ。客が少ない時間帯と客が多い時間帯で時給を差別化している所はあるが、それは同じショップ内での話であって、人気店と不人気店で時給が大きく違うということは無い。早い話、レジ打ち業務というのは、同一労働同一賃金ではなく、同一時間同一賃金になっていると言うことができる。

 仕事量が全然違うのに、結果(給料)は同じという意味では、どう考えても不公平だと思われるのだが、そういった疑問や苦情はあまり聞かない。
 「接客数が多い方がやり甲斐がある」とか、「仕事が暇よりも忙しい方が良い」という人もいるとは思うが、それにしても、数十倍の仕事量の差が有るのに、結果は同じということに、少し疑問を感じる人がいても不思議ではないと思うのだが…。
 これも前回の記事で書いたように、仕事における「時間の平等」が信仰になっているせいでもあるのだろうか?

 人間には誰にでも「1日24時間」という時間が与えられている。そういう意味では人間に与えられた時間は皆平等だろう。しかし、その与えられた時間をどう使うかは人によって大きく違う。その時間の使い方に差があるからこそ「時は金なり」という言葉も生まれた。それは言い換えるなら、「時間は公平なもの」ということであり、時間の使い方によっては人間には差が生まれるということでもある。

 時間は平等に与えられているが、時間の使い方によって生じた結果は公平に処遇される。それが本来の意味での時間の平等である。ところが、与えられた時間も平等なら、生じる結果も全て平等でなければならないというのが「時間の平等教」の悪しき特徴でもある。

 全国のレジ打ち業務が、セルフレジ化していくことによって、レジ打ち業務の不公平性というものにスポットライトが当たる日が来るのか、それとも完全に忘れ去られて風化していくのかもしれないが、「時間は平等なもの」ではなく「時間は公平なもの」という考えにシフトしていかない限り、日本人の働き方を変えていくことは難しいと思う。

【追記】2016.12.24
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>拘束時間に対して給料を払うのは当たり前だろう。最も価値があるのは人間の時間であって機械の稼働時間じゃあるまい。それにレジが暇なのは経営側の問題であって働く側が責任を取る事でもあるまい。

 レジ打ちの時間給というものは、基本的にお客が最も少ない水準に合わせた最大公約数的な給料制度になっています。これはレジ打ちに限った話ではなく、時間給(月給制も含む)で働く労働者が暗黙の内に受け入れ(させられ)ているリスクヘッジ給です。経営側がどんなに優秀であろうとも、景気が悪ければ、仕事の量(商品の売買数)は減少しますので、全ての責任を経営者に転嫁するのもどうかと思います。

>いずれにしても、最低賃金という制度もありますし、従業員の機会費用という観点から言っても、暇な店だからといってレジ打ちの給料を大幅に安くできるわけではありません。いかにも経済常識の乏しい人の感想という感じですね。

 無論、決められた時給や最低賃金を無視しているわけではありません。ここで述べているのは、仕事量が少ない人ではなく、仕事量が多い人を対象とした話です。どれだけ仕事をこなしても、収入の上限が変わらないのは可笑しいのではないか?ということを述べたまでです。
 仕事量の少ない人が、時間給に疑問を感じて「自分は給料をもらいすぎているので可笑しい」とは言わないでしょう。しかし、仕事量が時給に比べてあまりにも多い場合、普通なら「可笑しいのではないか?」と疑問を感じるということです。

>何が言いたいんだこの作者は。レジ打ちが不平等な仕事?

 「不平等な仕事」ではなく、「不公平(平等)な仕事」と書いています。

>時給をやめてアルバイトにも成果主義を導入せよと言いたいのか?

 成果主義を導入せよと言っているのではなくて、少しは成果も反映する方が公平だと言っているのです。(もちろん、決められた時給を下げろと言っているわけではありません)

>同じ1時間でも、Aさんは100人レジ打ちしたから給料1000円で、Bさんは10人しかレジ打ちしてないから給料100円ってこと? そんなんやったら社会が滅茶苦茶になるわ。もう少しましな文章書け。

 先にも書いた通り、最低賃金制度というものを無視しているわけではありませんし、常識的に考えてもレジ打ち業務に完全な能力給の導入は不可能です(大抵はレジ打ち以外の仕事もしているでしょうから)。
 時給100円にするなどという非現実的なことを本気で書いていると邪推されても困ります。

>与えられた時間も平等なら、生じる結果も全て平等でなければならない
今の日本で、誰がそんなことを言っている? 聞いたことない。

 仮に誰も言っていないとしても、給料制度自体が実際にそうなっているということです。同一労働同一賃金が全く実現できないことがそのことを証明しています。

>1時間に数人しかレジ打ちしない人は、レジ打ちしてないときは他の仕事をやっている。もし他の仕事が与えられてなかったらそれは経営側の問題。別にレジ打ちの人間が悪いわけではない。そんなことも分からんのか。

 解るけれど、書いていないだけです。議論(確かめ)もせずに短い文章だけで人を貶すのは御遠慮ください。

>ボクは、スーパーでレジ打ちの早い店員と遅い店員が同じ時給をもらっているのが納得できません。ただレジ打ちは早さだけではなく正確さも求められるので難しいところではあるのですが。

 1企業内におけるミクロ論ではそうなりますね。しかし私が述べているのはもっとマクロな話です。

>人間は、機械ほど純粋に「成果主義」で働くことはできません。

 それはその通りだと思います。しかし、全く成果が評価されないというのも不自然です。あなたの言葉に準えて言うなら、「人間は純粋に平等主義で働くことはできません」。一定の賃金は必要ですが、それを超えた労働を提供している場合、その超過労働に応じたプラス評価が無ければ、それこそが人間の機械(ロボット)化です。
 重要なことは機械の時間ではなく、人間の労働です。本記事で言いたいことは、現在のレジ打ち業務が、同一労働同一賃金ではなく、同一時間同一賃金になっていることを問題にしているのであって、完全な成果主義の導入など誰も望んでいません。誤解のないように願います。

【追記】2016.12.25
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>この筆者「自由人」氏の主張は、「1日8時間労働という制度にとらわれるべきではない」ということのようで、

 一応、お断りしておきますが、レジ打ち業務にそんなことは望んでいません。

>以前の別なエントリでも「早く仕事を終わらせることができる者は、8時間が過ぎるまで会社に拘束するべきではなく、早く帰ることができるようにするべきだ」と述べていました。

 「するべきだ」とは断定していません。そんなケースも有ってもよいと書いた程度です。

>それはそれで良いとしても、レジ係りも同じ発想で論じている点で、根本的に間違っています。

 間違っていると言われても、そんなことは考えていないわけですから。

>レジ係は、自分の意思や努力で“早く仕事を終わらせて帰る”ことは不可能な業種であり、さらにいえば、客が来た時にレジを打つだけではなく、客がいない時にずっと待機していることも仕事の範囲内だということが、筆者にはわかっていないようです。

 そんな当たり前のことを理解していないはずがないでしょう。勝手に決め付けられても困ります。

>レジ係は自分の時間の使い方を自分の努力や主観で決めることは一切不可能なのです。

 その通りです。そんなことは解っています。

>さらにいえば、店に来る客の人数が多いか少ないかは、レジ係の仕事の成果とは基本的には関係ないのであり、レジ係が客を増やすことも不可能です。

 当たり前ですね。ただ、評価制度があれば、モチベーションが上がり、その前向きさが客に好印象を与えれば、リピーターが増えるという場合はあるかもしれませんが。

>筆者の発想は基本的に「労働は、時間ではなく成果で報いるべきだ」という思想

 そこまで極論しているわけではありません。時間だけで仕事を計るのは無理があるということです。

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「8時間労働教」という宗教

■固定されたままの「8時間労働」

 政府の「働き方改革」の影響もあってか、最近では残業時間云々の話をよく見かけるようになった。政府からは「残業時間の上限」を設定するとかいう話も出ており、賛否が分かれているようだが、どうもシックリとこない。この違和感の正体は何なのか?とよくよく考えてみると、残業の有無に拘らず、8時間は絶対的な労働時間として固定されているところにあるのだと思う。
 現在の政府の「働き方改革」の問題点は、結局のところ“時間に囚われたまま”であるという意味においては、改革になっていないところにあると言える。残業時間の上限の設定が議論になる程度では、せいぜい「改善」であって「改革」には程遠いと言える。

 「KAROSHI」という言葉が世界中の辞書に記載されるほどの世界に冠たる長時間労働国である現代の日本で、なぜ労働生産性が低いのかと言えば、その答えは「時間に囚われ過ぎ」な点にあると思う。もちろん、それだけが原因ではないが、大きなウエイトを占めていることは間違いない。

 現代のように、人的な仕事の効率化、機械的な仕事の自動化、ITによる仕事の合理化が進んだ国では、仕事自体がダウンサイジングされており、数十年前の労働者が8時間かかっていた仕事を4時間もあれば充分にできるようになっている(場合によってはもっと短い)。
 仕事が有り余っていた高度成長時代であれば、どれだけ仕事を効率化しても8時間分、働くだけの仕事が有ったかもしれない。そんな時代であれば、仕事を合理化すればするほど給料も上がるという好循環が生まれたかもしれない。
 しかし現代では、仕事をいくら効率化しても後に続く仕事が有るかどうか分からない。オートメーション化により、人間が行う仕事量は昔よりも減少している企業が大半だろうから、本来であれば、労働時間も短くならなければいけないはずが、昔と変わらず「8時間」という労働時間は全く変化せず固定されたままになっている。

■矛盾だらけになった「8時間労働」

 企業には仕事の速い人もいれば、仕事が遅い人もいる。仕事が遅い人が8時間かかってする仕事を、仕事の速い人であれば4時間でできる場合も多々ある。

 この「仕事量が減少している」ことと「仕事の速さの違い」という2つが合わさることによって、「8時間労働」というものに実に様々な矛盾が発生することになる。
 8時間の仕事を4時間でできる人は、4時間で仕事が完了しても帰ることができない。8時間分(通常の2倍)の仕事をやろうにも、そこまでの仕事が無い。加えて、2倍の仕事をしても給料が2倍になるわけでもない。そうなると、4時間でできる仕事をのんびりと8時間かけて行うことになる。これが、日本の企業の労働生産性が低い理由ではないかと思う。況して、上司の目を気にした無駄な残業などがあれば尚更だ。
 
 この問題の根源にはマルクスの「労働価値説」が頑として横たわっている。「人間の行う仕事量は皆同じ」という現代では全く当て嵌まらない思想が多くの日本の企業に染み込んでいるため、仕事の質や量ではなく、時間のみに囚われることになる。1時間でも長く働いた人が偉いという具合に。

 時間のみが仕事を計る絶対的な価値などというのは、現代では普通に考えると笑い話にしかならないと思うのだが、それが笑い話ではなく本気(マジ)で信仰の対象となっているところが、日本の悲劇だとも言える。
 言うなれば、「8時間労働教」という悪平等な宗教が蔓延っているようなものであり、このカルト教の洗脳を解かない限り、日本の労働者の大半は能力や努力が正当に報われない社会に生きることになる。
 世界一の金持ち国と言われる日本で、なぜ労働者は幸福感を感じられないのか? なぜ、自殺する人が他の先進国に比べて多いのか? その理由の1つが、このカルト教の存在にある。

 「働き方改革」が本来目指すべきものは、このカルト教の洗脳を解くことにある。具体的に言うなら「時間に囚われない働き方」、つまり、「仕事の質と量を重視する働き方」を推進することであるべきだと思う。
 8時間に目を向けるのではなく、8時間に目を向ける。そうであってこそ、無駄な労働時間も減少し、労働生産性も上がることに繋がる。

 労働者が感じる最大の幸福感とは、仕事の達成による時間からの自由だと思う。どれだけ仕事を効率化しようとも時間からの解放が全く為されないのであれば、喜びを感じることができない。お金をもらって喜べるのは、お金で時間が買えるからである。

 時間の奴隷からの解放、これこそが「働き方改革」の目標とすべきものだと思う。

【追記】2016.12.8
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>筆者が、法制度レベルの話をしているのか、各企業の考え方の話をしているのか、どちらなのかがまず問題ですが・・

 私は法律の専門家ではありませんので、無論、後者になります。尤も、各企業と言うよりも、企業全体の話ですが。

>おそらく多くの企業は、本当に8時間の仕事を4時間で完成させることができる人がいたら、残り4時間をぼんやり待機させるわけではなく、新たな仕事を与えるはずです。

 残念ながら、仕事は企業が作るのではなく、顧客が作るものなので、無い袖は振れません。残った4時間分の仕事を当の会社が作り出せるのであれば、誰も苦労はしません。民間企業の仕事には利潤が付いて回りますので公務員のようにはいきませんし、学校の教師が生徒に宿題を出すような感覚で新たな仕事を与えることはできません。

>残り4時間、さらにもっと多くの仕事をさせることができるのに、暇にさせたまま、手をこまねいて見ている企業経営者などいないでしょう。よほど無能出ない限りは。

 民間企業であれば、空いた時間は自分でやることを探すのが普通です。営業職なら新規開拓をする、商品開発職や製造職なら能力や技術向上のために自己学習でもするのが一般的です。経営者が無能で有る無いに拘らず経営者が言わなければ何もしないような社員なら雇用を維持できません。大企業なら維持されるのかもしれませんが。

>チームで仕事をしていて、仕事が早いからといってさっさと帰られたら生産ラインとして機能しなくなりますけどね。まったく馬鹿げた妄想としかいいようがない。

 世の中にはチームを必要としない仕事は多々ありますし、全員が全員、生産ラインで仕事を行っているわけではありません。

>30年遅れた議論。

 30年前にこんな話があったとは知りませんでしたが、30年経っても何も変わっていないのであれば、それは議論する価値が有るということでしょう。

>どうして8時間って数字が出てきたか、歴史を知らずに終わった話を蒸し返してるだけの無知な話でしかない。

 8時間労働が生まれた背景は知っていますし、記事にも少し書いたこともあります。無知な話と言うのであれば、その理由(8時間労働の歴史)を納得のいくように書いてください。

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ドラマ『沈まぬ太陽』を観て。

■ホリエモンが涙した謎が解けた

 WOWOW開局25周年記念作品として製作されたドラマ『沈まぬ太陽』全20話を観てみた。
 『沈まぬ太陽』と言えば、故山崎豊子氏の「最高傑作」との呼び声も高い小説だが、何年か前にホリエモンが獄中で読んで涙した小説としても話題になった作品だ。私はこれまで小説も未読で、渡辺 謙が主演した映画の方も観ていなかったので、なぜ、ホリエモンが涙したのか謎だったのだが、本作を観て、ああなるほどな…と納得した。

 おそらく、堀江氏は、信念を貫くことで島流しの如く海外の僻地をたらい回しにされる主人公の不器用な生き方に、自らの姿をオーバーラップしたのだろうと思う。信念を貫いたことで執行猶予を蹴り、刑務所に収監されることになったホリエモンの姿は、本ドラマの主人公、恩地 元と確かにダブって見えた。間違っていたら申し訳ないが、多分そういうことなのだろうと思う。

■『沈まぬ太陽』に見る過労自殺問題の因子

 内容的には、日航機の墜落事故をモチーフに描かれたドラマなので、時代的にも昭和の空気が感じ取れる作品だった。“元アカ”の労働組合委員長が主人公という設定は、現代人の感覚からすると時代遅れな感じもするのだが、実直で正義感の強い主人公に感情移入することができたので、徐々に違和感は無くなり、面白く観ることができた。

 経営陣から危険分子として疎まれている主人公は「石の上にも3年」ならぬ「石の上にも10年」間、海外僻地への赴任辞令を何度も言い渡されるのだが、それでも辞めない。
 これも、現代人の感覚からすると、「普通、辞めるよね」とか「なぜ辞めないの?」と思ってしまうのだが、懲罰的な左遷人事に耐える主人公の姿は、どこか隷属的な感じがして妙な違和感を覚えた。
 昭和的価値観の為せる業なのか、大企業だから為せる業なのか、「辞令を断るとクビになる」という台詞が印象的だったが、本ドラマの主人公の場合、責任感と忍耐力のある硬派な人物なので、嫌でも辞めるわけにはいかないということになってしまう。
 少し毛色が違うとはいえ、責任感が有り過ぎるために過労死や過労自殺に至るビジネスマンは案外多いのかもしれない。現代の日本社会にも残存している過労自殺問題を考える意味でも参考になるドラマだった。

■小説の映像化における理想と現実

 WOWOWのオリジナルドラマは、通常5〜6話のものが多く、1冊の小説のテレビドラマ化に4〜5時間程度を費やしている。小説の分量に応じて臨機応変にじっくり製作できるため、小説の内容を端折らずに忠実に描くことができる。このメリットは実に大きい。小説を実写化した映画は、内容を端折り過ぎて、原作のイメージを損ないブーイングが出ることが多々あるが、これは物理的に仕方のないことなのだろうと思う。1冊の小説を120分(〜150分)程度の映画に収めるのは土台無理がある。渡辺 謙版の『沈まぬ太陽』は200分もある長編映画だが、それでもかなり端折られているらしい。映画版の『沈まぬ太陽』では前編のアフリカ篇があまり描かれていないらしいが、「沈まぬ太陽」という言葉の意味を実感するには、アフリカ篇を詳細に描かない限り、難しいのではないかと思う。

 長編小説の映画化(最近の例で言えば『64-ロクヨン』)となると、前編・後編に分かれたりするが、本作『沈まぬ太陽』のような3篇もある長編小説を映画化するにはハリウッドのヤングアダルト小説の映画化のように前編・中編・後編に分ける位が理想なのだろうと思う。
 しかし、SFアクション映画でもない限り、流石にそれは難しい。映画料金を考えても、2本立て、3本立てとなると、値が嵩むので観客動員数も伸びなくなる可能性がある。映画3本で鑑賞料5000円以上もかかるとなると、観る気を失くしてしまう人も出てくる。映画というのは、投資ビジネスでもあるので、そこまでのリスクを冒して投資資金が回収できなければ映画化する意味が無くなってしまう。

 今後、小説の映像化の主流は、映画ではなくテレビドラマに移っていくのではないかと思う。映画には映画の良さがあるとはいえ、物理(時間)的な制約が有るため、小説の微妙なニュアンスを伝えきれず内容自体も中途半端に成りがちだ。

 しかし、本作のような骨太なドラマは、民放のドラマ枠ではスポンサーの目を気にして製作できないだろうし、放送もできない。WOWOWのようなスポンサーに依存しない民間企業であればこそ製作できるドラマだと言える。
 昨年話題になった民放の『下町ロケット』も元々はWOWOWで製作されたドラマだし、他にも見応えのあるドラマが多くある。

 個人的に観たオススメドラマを新しい順に書いておくと、

 『誤断』(主演:玉山鉄二)
 『テミスの求刑』(主演:仲 里依紗)
 『天使のナイフ』(主演:小出恵介)
 『株価暴落』(主演:織田裕二)
 『マグマ』(主演:尾野真千子)
 『空飛ぶタイヤ』(主演:仲村トオル)
 『パンドラ』(主演:三上博史)

 最後に話を『沈まぬ太陽』に戻そう。本ドラマはWOWOWドラマの集大成的なドラマであり、WOWOWオールスターキャストとも言える豪華なドラマに仕上がっている。民放では観れない骨太で重厚な社会派ドラマであることはもとより、勇ましく荘厳なメインテーマ曲が実に素晴らしい。
 この年末年始に多くの人に観ていただきたいと思う。

 − 沈まぬ太陽 MAIN TITLEを聴きながら −

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