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「8時間労働教」という宗教

■固定されたままの「8時間労働」

 政府の「働き方改革」の影響もあってか、最近では残業時間云々の話をよく見かけるようになった。政府からは「残業時間の上限」を設定するとかいう話も出ており、賛否が分かれているようだが、どうもシックリとこない。この違和感の正体は何なのか?とよくよく考えてみると、残業の有無に拘らず、8時間は絶対的な労働時間として固定されているところにあるのだと思う。
 現在の政府の「働き方改革」の問題点は、結局のところ“時間に囚われたまま”であるという意味においては、改革になっていないところにあると言える。残業時間の上限の設定が議論になる程度では、せいぜい「改善」であって「改革」には程遠いと言える。

 「KAROSHI」という言葉が世界中の辞書に記載されるほどの世界に冠たる長時間労働国である現代の日本で、なぜ労働生産性が低いのかと言えば、その答えは「時間に囚われ過ぎ」な点にあると思う。もちろん、それだけが原因ではないが、大きなウエイトを占めていることは間違いない。

 現代のように、人的な仕事の効率化、機械的な仕事の自動化、ITによる仕事の合理化が進んだ国では、仕事自体がダウンサイジングされており、数十年前の労働者が8時間かかっていた仕事を4時間もあれば充分にできるようになっている(場合によってはもっと短い)。
 仕事が有り余っていた高度成長時代であれば、どれだけ仕事を効率化しても8時間分、働くだけの仕事が有ったかもしれない。そんな時代であれば、仕事を合理化すればするほど給料も上がるという好循環が生まれたかもしれない。
 しかし現代では、仕事をいくら効率化しても後に続く仕事が有るかどうか分からない。オートメーション化により、人間が行う仕事量は昔よりも減少している企業が大半だろうから、本来であれば、労働時間も短くならなければいけないはずが、昔と変わらず「8時間」という労働時間は全く変化せず固定されたままになっている。

■矛盾だらけになった「8時間労働」

 企業には仕事の速い人もいれば、仕事が遅い人もいる。仕事が遅い人が8時間かかってする仕事を、仕事の速い人であれば4時間でできる場合も多々ある。

 この「仕事量が減少している」ことと「仕事の速さの違い」という2つが合わさることによって、「8時間労働」というものに実に様々な矛盾が発生することになる。
 8時間の仕事を4時間でできる人は、4時間で仕事が完了しても帰ることができない。8時間分(通常の2倍)の仕事をやろうにも、そこまでの仕事が無い。加えて、2倍の仕事をしても給料が2倍になるわけでもない。そうなると、4時間でできる仕事をのんびりと8時間かけて行うことになる。これが、日本の企業の労働生産性が低い理由ではないかと思う。況して、上司の目を気にした無駄な残業などがあれば尚更だ。
 
 この問題の根源にはマルクスの「労働価値説」が頑として横たわっている。「人間の行う仕事量は皆同じ」という現代では全く当て嵌まらない思想が多くの日本の企業に染み込んでいるため、仕事の質や量ではなく、時間のみに囚われることになる。1時間でも長く働いた人が偉いという具合に。

 時間のみが仕事を計る絶対的な価値などというのは、現代では普通に考えると笑い話にしかならないと思うのだが、それが笑い話ではなく本気(マジ)で信仰の対象となっているところが、日本の悲劇だとも言える。
 言うなれば、「8時間労働教」という悪平等な宗教が蔓延っているようなものであり、このカルト教の洗脳を解かない限り、日本の労働者の大半は能力や努力が正当に報われない社会に生きることになる。
 世界一の金持ち国と言われる日本で、なぜ労働者は幸福感を感じられないのか? なぜ、自殺する人が他の先進国に比べて多いのか? その理由の1つが、このカルト教の存在にある。

 「働き方改革」が本来目指すべきものは、このカルト教の洗脳を解くことにある。具体的に言うなら「時間に囚われない働き方」、つまり、「仕事の質と量を重視する働き方」を推進することであるべきだと思う。
 8時間に目を向けるのではなく、8時間に目を向ける。そうであってこそ、無駄な労働時間も減少し、労働生産性も上がることに繋がる。

 労働者が感じる最大の幸福感とは、仕事の達成による時間からの自由だと思う。どれだけ仕事を効率化しようとも時間からの解放が全く為されないのであれば、喜びを感じることができない。お金をもらって喜べるのは、お金で時間が買えるからである。

 時間の奴隷からの解放、これこそが「働き方改革」の目標とすべきものだと思う。

【追記】2016.12.8
(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>筆者が、法制度レベルの話をしているのか、各企業の考え方の話をしているのか、どちらなのかがまず問題ですが・・

 私は法律の専門家ではありませんので、無論、後者になります。尤も、各企業と言うよりも、企業全体の話ですが。

>おそらく多くの企業は、本当に8時間の仕事を4時間で完成させることができる人がいたら、残り4時間をぼんやり待機させるわけではなく、新たな仕事を与えるはずです。

 残念ながら、仕事は企業が作るのではなく、顧客が作るものなので、無い袖は振れません。残った4時間分の仕事を当の会社が作り出せるのであれば、誰も苦労はしません。民間企業の仕事には利潤が付いて回りますので公務員のようにはいきませんし、学校の教師が生徒に宿題を出すような感覚で新たな仕事を与えることはできません。

>残り4時間、さらにもっと多くの仕事をさせることができるのに、暇にさせたまま、手をこまねいて見ている企業経営者などいないでしょう。よほど無能出ない限りは。

 民間企業であれば、空いた時間は自分でやることを探すのが普通です。営業職なら新規開拓をする、商品開発職や製造職なら能力や技術向上のために自己学習でもするのが一般的です。経営者が無能で有る無いに拘らず経営者が言わなければ何もしないような社員なら雇用を維持できません。大企業なら維持されるのかもしれませんが。

>チームで仕事をしていて、仕事が早いからといってさっさと帰られたら生産ラインとして機能しなくなりますけどね。まったく馬鹿げた妄想としかいいようがない。

 世の中にはチームを必要としない仕事は多々ありますし、全員が全員、生産ラインで仕事を行っているわけではありません。

>30年遅れた議論。

 30年前にこんな話があったとは知りませんでしたが、30年経っても何も変わっていないのであれば、それは議論する価値が有るということでしょう。

>どうして8時間って数字が出てきたか、歴史を知らずに終わった話を蒸し返してるだけの無知な話でしかない。

 8時間労働が生まれた背景は知っていますし、記事にも少し書いたこともあります。無知な話と言うのであれば、その理由(8時間労働の歴史)を納得のいくように書いてください。

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コメント

初めまして、労働者の幸福感は「仕事の質と量を重視する働き方」では難しいでしょう。使用者と労働者の関係では当然です。その為に労力を賃金という形で譲り渡しています。それは契約という形をとりますが、日本では契約が使用者側に有利な形が多く、内容が大雑把で、それが現在の労働問題の大きな部分を占めていると思います。40年近く民間企業で働き、60歳で起業しましたが、労働時間は週1~2日で、収入は定年前と同じくらいです(年金を含めて)。勤務時代は営業で半年間休み無し1日拘束時間17時間と言う時もありました。一時期公営企業に勤務しましたが、民間企業の1/5位の仕事量に驚いたこともあります。8時間労働は8時間の労働、8時間の祈り、8時間の睡眠と言うキリスト教の教えと聞いた気がします。

投稿: | 2016年12月 7日 (水) 18時21分

宗教とは思いませんが、忙しいことは良いこと、と信じ込んでいるところはあるでしょう。
長時間働いていることを、一生懸命と思っている人もいるようです。
それ以上に、残業代を見越して生計を立てている人が大多数でしょう。
経営者側は時間で処遇するのではなく、成果による処遇をしたいため、ホワイトカラーエグゼンプションを導入したいのですが、厚労省は労働側の立場から反対しています。
ホワイトカラーの比率が高くなった現在、現在の労働法の、体系は時代と合わなくなっているのは事実ですね。

筆者の言われる、オートメーション化によって労働時間が減るはず、というのは短絡的ですね。
効率化されれば一人の担当する業務を増やすのは当たり前でしょう。
だからこそ雇用者数は減っているんですよね。
まあ、本当はソロバンが電卓になり、PCになっても労働時間は極端に減っているわけではありませんが。
オートメーション化によって仕事量が減ったのは家庭の主婦くらいでしょう。

投稿: | 2016年12月 7日 (水) 19時58分

生活費が足りない、とか、
早く仕事が終わってもやることがない、とか、
家に帰っても居場所がない、
そんな奴が、ダラダラ仕事しているだけだよ

投稿: | 2016年12月 7日 (水) 21時16分

追記しました。

投稿: 管理人 | 2016年12月 8日 (木) 20時40分

二つのことが、ごっちゃになってますね。

ひとつは、様々な技術の進歩があるのだから、旧来の八時間労働に囚われる必要はない、という考え。
もうひとつは、ヒトの能力には違いがあるので、一律8時間に縛る必要がない。

一つ目に関しては、進歩に応じて、さらに新たな価値を生み出していかないと経済は小さくなりますし、国内だけではなく海外との競争に負けますね。

二つ目は賛成ですが、該当する職種は限られます。今でも裁量労働が法的に認められている職種は限定的です。経営者側は広げたいのでしょうが、厚労省は反対しています。ホワイトカラーエグゼンプションもどうなるのでしょう。
40年も前の大前研一さんの本で、新卒で入った日立製作所で、自分の仕事を効率的に終わらせて帰ったら上司に怒られた、というようなことが書いてありました。
まぁ、その頃から、何も変わっていないということですね。

投稿: | 2016年12月 9日 (金) 09時01分

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